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クリント・イーストウッチ-

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2010.07.16
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カテゴリ: 仏の心

遅々として進まない日本の臓器移植医療・・・。

日本人の死生観に問題、壁が立ちはだかっているとの

見方もあるが、本当は当事者が仕事を怠けているだけ

である。

日本人の死生観と言ったって、そもそも社会の体制派

によって仕向けられた観念のようなものであり、誰もが

同じ感性や感情、知性、見識を共有しているわけでは

無いので個々人によって大きく違うと考えられる。

つまりは、薄情な人間もいれば、情の深い人もいる。

個人主義の国であれば、どっちだとしてもあれこれ批

難される謂れは無いし、言う人もいない。

全体主義国家の日本だからこそ、人と違う事に殊更

非難を受けてしまうのである。

人の命を科学的に解き明かそうとしても、哲学的に論

じても人間が生命維持装置を自分以外の何者かに牛

耳られている限り、虚しい水掛け論に終始するばかり

である。

個人主義の国は、観念論で堂々巡りする議論から抜

け出して現実的に考える事にした。

命の終わりを脳死と定義付けたのである。

だからその定義に納得出来ない人は、臓器提供を了

承しないし、その自由も認められている。

それが社会システムに取り込まれているから、事が

スムースに運び、是も非も認められているから観念

論は全く別の所で戦わされ医療の現場で問題にな

る事はない。

日本では、そんな別々に論じられ、別々に討議され

無ければならない事が一緒くたにミキサーに掛けら

れるものだから、肉も骨も内臓もぐちゃぐちゃにされ

てしまい論点が見えなくなってしまう。

個人的に言えば、私は臓器移植に抵抗を感じてい

る一人である。

親族や配偶者に対しての思い入れの強さは、もしか

したら個人の自己満足、彼らに対する懺悔でしかな

いのかも知れない。

それでも、私は自らの愛する人々が生き返ってくれ

る可能性が残されているならば、それに賭けたいと

思う側の人間である。

想いは人其々(それぞれ)自由である以上、それを定

義付けて、社会のシステムに組み入れる判断をする

のが政治というものである。

皆が厭なものを誰かが手を汚してでも遣らなければ

ならない。

その誰かこそが政治家である。

日本の悲劇は、本物の政治家が存在しない事である。

本物の政治家は、殿様であり、役人は家来である。

家来の統率も取れない人間に政治など司る事など出

来はしないのである。


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Last updated  2010.07.16 19:04:01
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