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9月頃、漱石は猿楽町にあった高浜虚子の家を寺田寅彦とともに訪ねました。家の近くを散歩し、途中で西洋料理店に寄って、鶏肉の料理を食べました。虚子は、ナイフやフォークを使わず、鶏の骨を手づかみで食べる漱石に驚きました。これでいいかと尋ねる虚子に、骨を外すのが難しいものは、指でつまんでいいと答えました。また、虚子は指の膏を取るためにつけるシッカロールが珍しかったようで、それを文に残しています。ある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食った。これは漱石氏が留別の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。……またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつまんで、それにしゃぶりつくのを見て、「鶏はそんな風にして食っていいのですか」と聞いたら、氏は、「鶏は手で食っていいことになっていますよ。君のようにそうナイフやフォークでかちゃかちゃやったところで鶏の肉は容易に骨から離れやしない」と言った。そこでこの日私は始めて、鶏を食うには指でつまんでいいことと、手の膏をとるのには白い粉をこすりつけることとを明かにして、この新洋行者の知識に敬意を表した。(高浜虚子著『漱石氏と私』)--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.26
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明治33年、ロンドン留学が決まった夏目漱石はロンドンへの出発に備え、7月に上京しました。7月23日に、子規庵を訪ね、午後4時頃から9時までを過ごしました。荒正人の『漱石研究年表』には「西洋料理を馳走され、9時過ぎまで話す」とあります。根岸あたりの西洋料理店から取り寄せたのでしょうか。河東碧梧桐は、明治33年の「ホトトギス」に『西洋料理屋』という文を掲載していますが、子規庵の近くにあった洋食屋のことを『西洋料理屋』という文章に記しています。この中には、正岡子規が登場してきます。「それからね……あの正岡さんてえのもよく取って下さるわ、イイエお一皿なんてえことはないの、大抵お二皿か、それとも一人前とって下さることが多いの」 正岡というのは子規君の家のことであろうと、殊更耳立って聞えた。「正岡てえのは鶯横丁の」「ハア」「毎日とって下さるのカイ」「ハアそうですよ、今日、今日はまだですけれど、昨日とって下さったわ、よくまいるんですよ」伊藤左千夫の『竹の里人』にも「根岸へ西洋料理屋が出来て、客に西洋料理を御馳走することが出来また一品でも取寄せて食うことが出来るといっては、そんなことを頻りと得意がっておられた」とあるので、漱石の来訪に備えて、根岸の西洋料理屋で出前をとったのかもしれません。再度、漱石が子規庵を訪ねたのは8月26日でした。寺田寅彦とともに子規を見舞います。寅彦の日記には「漱石師きたり、共に子規庵を訪ふ。谷中の森にひぐらし鳴いて踏切の番人寝ぼけ顔なり」と書いています。子規は、『ホトトギス』第3巻第12号(明治33年9月)に、次のように記しています。漱石氏は二年間英国留学を命ぜられ此夏熊本より上京、小生も久々にて面談致候。去る九月八日独逸船に乗込横浜出発欧州に向はれ候。小生は一作々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る毎に最早再会は出来まじくといつも心細く思ひ候ひしに其人次第次第に帰り来り再会の喜を得たることも少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、とても今度はと独り悲しく相成申候。 明治33年9月、漱石は英国留学に出発しました。子規は再び会うことはなかろうと伝え、「萩すすき来年あはむさりながら」の句を漱石に送ります。実際この日150が最後の面会となってしまいました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.25
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漱石は、洋行にあたって妻・筆子と長女の筆子を、岳父・中根重ーのもとに預けました。重一は、官舎を出て、牛込区矢来町に住んでいました。この家は、祖父の隠居所だったところで、そこに中根家は住んでいたのです。漱石には留学中の手当てとして年額1800円、月額150円の手当てが支給されました。当時のレートでは約15ポンドになります。これを現在の金額に当てはめると、30万円~50万円ほどですから、そんなに高額ではありません。留守宅の鏡子には年額300円、月額25円がもらえます。これは五高時代の給料1200円の4分の1という規定があったためで、この時代の巡査や小学校教師の初任給が10円ほどでしたから、貧しいながらもなんとか家を切り盛りしていけるはずです。ただしお嬢様育ちで贅沢な生活に慣れていた鏡子には、この金額で家の費用を切り盛りするには難しいことでした。父親の中根重ーは、政変のため辞職を余儀なくされていました。その上、相場に手を出して失敗し、多くの貯金を失っていました。そのため、娘や孫の援助をすることができません。漱石の家は、熊本で月給100円という高給取でしたから、家賃が不要とはいえ、家計の維持は困難でした。この夏、中根家は漱石たちに家をまかせて、大磯への避暑に出かけました。ところが、末娘の豊子が赤痢のために死亡。母も赤痢にかかって重体になります。まさにツキに見放された中根家でした。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.24
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明治33(1900)年5月12日、漱石は英語研究のために文部省第一回給費留学生としてロンドン留学を命じられました。明治政府は、高等学校の語学教諭の質的向上を目指すため、第五高等学校英語教授の漱石と第一高等学校ドイツ語教授の藤代禎輔を選び、それぞれをロンドンとベルリンへ留学させることになりました。他の留学生には芳賀矢一、稲垣乙丙、戸塚機知がいました。この留学制度は、明治25年(1892)年にスタートしたもので、明治政府は当初から多くの留学生を欧米先進国に派遣して、先進地の文化移植を積極的に推進してきました。以後少しずつ改訂され、漱石が留学の年なると高校教員の海外派遣が制度化され、高等学校教授の留学が決められたものでした。また、特筆すべき点として、「帰朝ノ日ヨリ其留学年数ノ二倍ニ当ル期限間ハ文部大臣ノ指定スル職務ヲ辞スルコトヲ得ス」とあり、留学年数の倍の期間、教育機関で働くことが義務付けられていたのです。『文学論』の序には「時の専門学務局長上田万年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、只帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。是に於て命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地 ある事を認め得たり」とあります。『夏目君の片鱗』によれば、出発前の夏目が「今度留学生となるに就いて腑に落ちない廉を、専門学務局長に話して来たと云った」ことを振り返り、「君が斯う云ふ際にも内に省みて深く慮る所があるのは、流石だと感じた」と述べています。 おそらく、上田万年は高等学校の授業としての「英語学」と捉え、漱石は自らの研究に値する学問としての「英文学」を捉えていたのでしょう。 漱石に命じられたのは「英語学」研究で、「英文学」研究ではありませんでした。そこで文部省の上田万年(かずとし)学務局長に委細を尋ねると「別段窮屈なる束縛を置く必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なり」との答えを得ました。 漱石は、不本意ながらも無理やり自分を納得させて、留学を決めました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.23
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漱石は、鏡子と筆子、また次に生まれてくる2人目の子どもを鏡子の実家に託すことにして、熊本の家を引き上げることにしました。折から、熊本は豪雨のため各地で増水していました。なんとか鉄道が通った7月15日、漱石たちは上熊本駅から東京に向けて出発しました。その直後から降り続いた雨で白川に架かっていた橋はすべて流失してしまうのですが、まさに間一髪の脱出でした。国会図書館には『明治三十三年熊本洪水実記』という熊本県が発行した本が残されています。この記述から、いかに悲惨な状況であったかが、わかると思います。総説明治三十三年七月上旬よりして降りしきりたる霖雨には県下至る所多少の損害を蒙るらざるはなかりしに同十六日にの白川の大洪水の如きは今なお生存し居る当地の古老も未だかつて実観したることなき程の大出水にして市の半部以上は両川(白川、坪井川)の氾濫によりて各町村は濁流浸溢驟に急湍を形造り白川に架せる橋渠は明午、安巳、、長六の三大橋を始め悉く皆流出して市の半部なる新屋敷、迎町および対岸なる本庄元山の両村とは、交差通全く杜絶して一水の外消息を通ずるに由なく人家の流失、人畜の溺死など惨絶、痛絶、真に言語に絶する有様なりき、寛政八年の大洪水なるいわゆる辰の年の大水はその惨状口碑、旧記に伝ふる所にありて今日なおその凄惨の模様を想像するべからざるにあらざるも、それ以後、百数十年の間、殊に今日生存し居る者の目撃し記憶し居る処にしては今同の洪水の如きは寔に未曾有にしてその光景はほとんど吾人が平素意識し居る洪水なるもの以上に出で、熊本人士の胸中には、今回凄惨の光景を目撃したるによりて、確かに洪水なる観念に一大変動を来したりとい謂わざるべからず。………… 暴雨三回における雨量第一回 七月四日より八日まで 雨量三百六十ミリ一(曲尺一尺一寸八分八厘にして一坪面に六石五斗九升の水量に当たる) 降雨時間 九十四時四十分間 一日最大雨量 百三十四ミリ二 六日 一時間最大雨量 二十七ミリ 五日午後八時及九時の間第二回 七月十日より十二日まで 雨量二百四十五ミリ三(曲尺八寸九厘にして一坪面に四石四斗八升九合の水量に当たる) 降雨時間 四十七時間 一日最大雨量 百四十六ミリ 十日 一時間最大雨量 四十ミリ三 十日午後八時及九時の間第一回 七月十五日より十六日まで 雨量二百七ミリ六(曲尺六寸八分五厘にして一坪面に三石七斗九升五合の水量に当たる) 降雨時間 四十時十五分間 一日最大雨量 百二十ミリ五 十六日 一時間最大雨量 三十七ミリ五 十六日午後二時及三時の間(熊本測量所調査)漱石が熊本駅に降り立ってからすでに4年3か月の月日が経っていました。天も、漱石が熊本を離れることを悲しんでいたようですが、少しやり過ぎだったようですね。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.22
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病牀に夏橙を分ちけり 子規(明治33)明治33(1900)年6月20日、子規は漱石に熊本の夏橙を送ってきたお礼を記しました。夏橙壱函只今山川氏から受取ありがたく御礼申上候。御留学のこと新聞にて拝見。いづれ近日御上京のことと心待に待おり候。先日中は時候の勢か、からだ尋常ならず独りもがきおり候処、昨日熱退きその代わり、昼夜疲労の体にてうつらうつらと為すこともなく臥りおり候。『ホトトギス』の方は二ヶ月余全く関係せず、気の毒に存候えども、この頃は昔日の勇気なく、とてもあれもこれもなど申事は出来ず、歌よむ位が大勉強の処に御坐候。小生たとい五年十年生きのびたりとも、霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候。「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」風もらぬ釘つけ箱に入れて来し夏だいだいはくさりてありけり(みなにあらず)。とあり、密閉に近い状態で送ったため、子規のもとに届いたときには夏橙がほとんど腐っていたというのです。そのあとに「小生たとい五年十年生きのびたりとも霊魂は最早半死のさまなれば全滅も遠からずと推量被致候」とあり、自分の命があとわずかしかないことを子規は悟っていたようです。腐っていた夏橙に我身を重ねたのでしょうか。子規は漱石の手紙に「年を経て君し帰らば山陰のわがおくつきに草むしをらん」という、イギリスに留学する漱石が子規と再び巡り会えるかどうかわからないという内容の短歌を添えています。この手紙の前の6月中旬に、子規は漱石に東菊の絵を送りました。「これは萎みかけた処と思いたまえ。画がまずいのは病人だからと思いたまえ。嘘だと思わば肱ついて描いて見たまえ」と書き、「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰り来るかね」という和歌を添えました。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.21
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明治33年(1900)5月12日、漱石は文部省から英語研究のため、2年間の英国留学を命じられます。英語研究を使命とする文部省の第一回給費留学生に選ばれたため、漱石の身辺はにわかに慌ただしくなってきました。第五高等学校教授として留学することになったのです。この決定には、二人の力添えがありました。一人は、校長の中川元で、2月に上京した目的は、文部省に漱石の留学を上申するためでした。もう一人は、鏡子の父・中根重一でした。貴族院書記官長をしていた関係で、各方面に声をかけていたのかもしれません。留学生に選ばれたのにもかかわらず、漱石はクールでした。『文学論』の序文にその理由と龍角に期待していなかった様子が書かれています。余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、かつ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭はいふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命の如くせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずといふまでにて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文学にあらず。余はこの点についてその範囲及び細目を知るの必要ありしを以て時の専門学務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。ここにおいて命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途に上り、十一月目的地に着せり。(『文学論』序)藤代素人の「夏目君の片鱗」によれば、この明治33年に高等学校の教授を海外留学生として派遣する新例が決まり、選ばれたのが藤代素人と夏目漱石でした。洋行のメンバーは、文科の芳賀矢一、農科の稲垣乙丙、軍医の戸塚機知の5名で、高山樗牛も同行する予定でしたが、出発間際になって結核であることが判明し、見合せとなったようです。漱石の『処女作追懐談』には、「その中、洋行しないかということだったので、自分なんぞよりももっとどうかした人があるだろうから、そんな人を遣ったらよかろうと言うと、まアそんなに言わなくても行ってみたら可いだろうとのことだったので、そんなら行ってみても可いと思って行った」と語っています。留学中の手当ては年額1800円、家族に給される留守手当ては300円。家計のやりくりができない鏡子のために、家には貯金がなく、お金を貸していた菅虎雄に催促をし、鏡子の父からは100円を借りています。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.20
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明治31(1898)年12月の狩野亨吉の一高赴任、明治32(1899)年9月の山川信次郎の一高転出によって、漱石の身辺は次第に淋しくなっていきました。山川は明治30(1897)年4月、漱石の招きで五高に赴任し、小天旅行や阿蘇登山に一緒に出かけています。山川は、明治32年になると東京に帰ることを希望するようになり、漱石が一高校長となった狩野に交渉して、一高転任を実現させました。漱石が狩野に山川の移転を依頼する手紙を書きながら「他人が移転すると自分も移ってみたきような心持が一寸起り申候」(明32・6・20付)と書き添えています。これは、漱石が熊本に腰を落ち着ける決意をしてから久々に見せる弱音でした。一方、五高の俳句結社であった紫溟吟社は、市中の池松迂港が加わり、次第に活動が広まっていきます。迂港の尽力によって明治32年12月27日には「九州日日新聞」に初めて「紫溟吟社」の俳句が掲載されます。やがて「漱石選」の俳句も新聞紙上を賑わせるようになりました。漱石は東京の高浜虚子にも新派俳句の振興のために協力を頼みます。新聞紙上には東京の俳人たちの句も掲載されるようになりました。明治33(1900)年4月、漱石は北千反畑町78番地(現熊本市中央区北千反畑3-16)に引っ越します。引越しの際には「春の雨鍋と釜とを運びけり」と詠みました。転居してから村上霽月に「鴬も柳も青き住居哉」「菜の花の隣ありけり竹の垣」と送っています。家主の磯谷家に伝わる話では、漱石が五高への通勤の途中、2階建ての借家が建つのを見ていて、2階を書斎にしたいと言って、完成するとすぐに借りに来たのだそうです。今まで、家には無頓着だった漱石が、2階建の住居に興味を示したのでした。井川淵町の家も2階建てでしたが、手狭で鏡子の自殺未遂もあり、すぐに出ていかねばならない事情があったのでした。また、前に紹介した、漱石が犬に噛まれたのも、この家でした。「夏目の獅子犬」と呼ばれた赤毛の洋犬は、漱石が熊本を去る時に化学教師の神谷豊太郎にもらい受けてもらいました。しかしこの家に、漱石は長く住むことができませんでした。漱石が全面的な信頼を寄せていた校長・中川元が第二高等学校の校長として転出し、桜井房記が校長となります。4月24日に教頭心得を命ぜられているのですが、5月12日には英語研究のために英国留学が決まります。この家が熊本での最後の住居となりました。現在、北千反畑町の家は、熊本市のものになり、文化財としての価値を守りながら活用していくために、すでに所有している他の旧居や県内に点在する漱石ゆかりの地を連係させて、「漱石振興」を進めようしています。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.19
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子規と漱石を結ぶキンカン明治33(1900)年2月12日、子規は夏目漱石に長い手紙を出しました。熊本から送られた見事な大きさの金柑に対する礼状にかこつけ、気心の知れた漱石には怒りや愚痴、恨み言や泣き言を書き連ねた手紙を、子規は送ったのです。今回の手紙は、「例の愚痴談だからひまな時に読んで呉れたまえ、人に見せては困る、二度読まれては困る」で始まります。このことで、本音に満ちた手紙であることが漱石はわかりました。続く漱石へのお礼は、届いたキンカンへの驚きでした。内藤鳴雪は、キンカンをひねりまわして見て「これはどうしてもキンカン以外のものじゃない」、叔父の藤野漸は「これはキンカンじゃない」、子規は「このキンカンを寒いところに植えると小さくなるのであろう」といったら皆が「まさか」といったなど、周りの人々の反応を記しています。キンカンのお礼が終わると、子規の不満が爆発しはじめます。忙しくてたまらない。原稿を書こうとすると客が来る。昼間は来客のために仕事ができないので、夕方から書こうとすると、夕方から熱が出る。時候が良ければ徹夜してでも書くのだが、寒さで書くことができない。浣腸と繃帯取替をして頑張ろうとするが、風邪をひいて咳が出てきた。だから原稿が書けない。今回の手紙は腹が立って立ってたまらんのでも腹の立ち処がないので貴兄への手紙にこうした文句のあれこれをしたためることになった。以下、こまごまとした近況報告が続くきますが、ようやく子規の本音が現れてきます。『日本』は売れない、だが『ホトトギス』は売れている。『日本』新聞社長の陸羯南氏は、子規に新聞掲載記事の題材や体裁について時々いうけれど、僕に記事を書けとはいわない。『ホトトギス』を妬むこともない。子規が『ホトトギス』のために忙しくなっていることは十分知っているため…………と、子規は涙を流します。子規は、「ホトトギス」の成功を喜びながらも、「日本」新聞の売上の悪さを心配しなければならないという立ち位置の微妙さを綴って、「何か分らんことにちょっと感じたと思うとすぐ涙が出る」と涙もろくなったことを嘆くのです。しかし、子規は「この愚痴を真面目にうけて返事などくれては困るよ」と強がります。癖になってしまった涙もろさに「君がこれを見て『フン』といってくれればそれで十分」なのだといいます。手紙は「金柑の御礼をいおうと思うてこんな事になった。決して人に見せてくれ玉うな。若もし他人に見られては困ると思うて書留にしたのだから」で終ります。子規は、漱石が送ってくれたキンカンのほろ苦い甘さにつられ、自身の甘えを誰かに聞いてもらいたくなったのでしょう。しかし、その相手は、心を許した漱石にほぼ限られていたのでした。「風邪が流行るとキンカンが売れる」といわれるほど、キンカンは風邪の妙薬とされました。漱石は子規の身体を気づかってキンカンを送ったのかもしれません。金柑は、皮の部分にビタミンCやカルシウムがたくさん含まれ、動脈硬化や心筋梗塞といった生活習慣病予防や、新陳代謝の促進、冷え性の改善といった効能があります。 宮崎では大ぶりの甘いキンカンが作られていて、「たまたま」という名前がつけられています。摘果をすればするほど、いじればいじるほど、キンカン「たまたま」は大きくなるのだそうですwww。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.18
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明治32年10月17日、漱石は子規の元へ手紙を送りました。いつものように、自分の俳句を見てもらうためです。中には五高を詠んだ29句の俳句が入っていました。子規は、気に入った句に丸をつけ、「点はつけしものの此様の句は実際なるがために面白きが多ければ総て御保存の事」と評を書いています。漱石らしいユーモラスな表現で、学校、運動場、図書館、寮などの熊本高等学校風景を吟じています。熊本第五高等学校は、現在は熊本大学となり、左手を前に伸ばした漱石の銅像が昭和37年(1962)の五高開校75周年を記念して建てられました。銅像の左手に頭をなでてもらうと頭がよくなると言い伝えられているそうです。銅像の脇にある碑には、「秋はふみ吾に天下の志」の一句が刻まれています。他の句をご覧になれば分かるように、学生たちのためにと思われる句が、他になかったからでした。 学校○いかめしき門を這入れば蕎麥の花○粟みのる畠を借して敷地なり 運動場○松を出てまばゆくぞある露の原 図書館○韋編断えて夜寒の倉に束ねたる 秋はふみ吾に天下の志 習學寮○頓首して新酒門内に許されず 肌寒と申し襦袢の贈物 瑞邦館○孔孟の道貧ならず稲の花 古ぼけし油絵をかけ秋の蝶 倫理講話 赤き物少しは参れ蕃椒 かしこまる膝のあたりやそぞろ寒 教室 朝寒の顔を揃へし机かな 先生の疎髯を吹くや秋の風 植物園 本名は頓とわからず草の花 苔青く末枯るるべきものもなし 物理室○南窓に写真を焼くや赤蜻蛉 暗室や心得たりときりぎりす 化学室 化学とは花火をつくる術ならん 暗室や心得たりときりぎりす 動物室 剥製の鵙鳴かなくに昼淋し 魚も祭らず獺老いて秋の風 食堂○樊噲や闥を排して茸の飯○大食を上座に栗の飯黄なし 演説会 瓜西瓜富婁那ならぬはなかりけり 就中うましと思ふ柿と栗 撃剣会 稲妻の目に留らぬ勝負哉 容赦なく瓢を叩く糸瓜かな 柔道試合 転けし芋の鳥渡起き直る健気さよ 靡けども芒を倒し能はざる--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.17
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9月1日、ふたりは「養神亭」を出ると、あいにくの二百十日の悪天候と重なり、雨風に加えて火山灰も降る中を、道に迷ったり、穴に落ちたりしながら、二人は立野の馬車宿にたどり着きました。阿蘇の山中にて道を失意、終日あらぬ方にさまよう」との詞書で 灰に濡れて立つや薄と萩の中 行けど萩行けど薄の原廣し の二句を詠んでいます。この道は、今までの研究では仙酔峡か中岳の麓から西に向かう細道のどちらかだろうと考えられていましたが、近年の研究でJR阿蘇駅近くの麓坊中の西厳殿寺を横ぎる登山道だと推定されました。また、前年は噴火のために新たな噴火口ができており、阿蘇山の活動が非常に活発な時期のため、登山道の地形も変わっていたのではないかと考えられます。『二百十日』の記述に従うと、次のような様子です。圭さんは雲と煙の這い廻るなかへ、猛然として進んで行く。碌さんは心細くもただ一人薄のなかに立って、頼みにする友の後姿を見送っている。しばらくするうちに圭さんの影は草のなかに消えた。大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは烈しく轟となる。その折は雨も煙りも一度に揺れて、余勢が横なぐりに、悄然と立つ碌さんの体躯}へ突き当るように思われる。草は眼を走らす限りを尽くしてことごとく煙りのなかに靡く上を、さあさあと雨が走って行く。草と雨の間を大きな雲が遠慮もなく這い廻わる。碌さんは向うの草山を見つめながら、ふるえている。よなのしずくは、碌さんの下腹まで浸み透る。(二百十日4)漱石は、「阿蘇の山中にて道を失意、終日あらぬ方にさまよう」との詞書で「灰に濡れて立つや薄と萩の中」「行けど萩行けど薄の原広し」という句を詠んでいます。漱石が迷った道は、仙酔峡か中岳の麓から西に向かう細道のどちらかと考えられていましたが、近年の研究により阿蘇駅近くの麓坊中の西厳殿寺を横ぎる登山道だと推定されています。阿蘇山は、明治27年3月以降に火山活動が活発化していたため、前年の噴火の際には新たな噴火口ができていました。火口が3か所に増えたために、登山道の位置が変わっていたのかもしれません。ようやくふたりは馬車宿にたどり着きました。漱石は「立野という所にて馬車宿に泊る」の詞書で、「語り出す祭文は何宵の秋」という句を詠んでいます。2日には馬車宿を出発して馬車で、ふたりはようやく熊本に帰り着くことができました。漱石の信次郎送別の旅は散々なものでしたが、この旅はのちに小説『二百十日』として結実します。小説のラストではふたりは「二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき蒼空に吐き出している」山に登ろうとします。「ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」と決めるのですが、現実は異なっていました。ふたりは熊本へと戻ったため、阿蘇山に再び登ることはありませんでした。--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.16
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内牧温泉 囲ひあらで湯槽に逼る狭霧かな 漱石(明治32) 湯槽から四方を見るや稲の花 漱石(明治32) 遣水の昔たのもしや女郎花 漱石(明治32) 帰らんとして帰らぬ様や濡燕 漱石(明治32) 雪隠の窓から見るや秋の山 漱石(明治32) 北側は杉の木立や秋の山 漱石(明治32) 終日や尾の上離れぬ秋の雲 漱石(明治32) 蓼痩せて辛くもあらず温泉の流 漱石(明治32) 白萩の露をこぼすや温泉の流 漱石(明治32) 草刈の籃の中より野菊かな 漱石(明治32) 白露や研ぎすましたる鎌の色 漱石(明治32) 葉鶏頭団子の串を削りけり 漱石(明治32) 秋の川真白な石を拾ひけり 漱石(明治32) 秋雨や杉の枯葉をくべる昔 漱石(明治32) 秋雨や蕎麦をゆでたる湯の臭ひ 漱石(明治32)8月30日、漱石と山川信次郎は、戸下温泉から馬車で立野を経て内牧温泉の「養神館」(現ホテル山王閣)に止まります。翌日は阿蘇神社を詣でて、中岳の頂上近くまで登り、「養神館」に帰りました。『二百十日』には「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ参詣して、十二時から登るのだ」とあり、漱石らもそのコースを取ったようです。内牧温泉は、明治31(1898)年(明治30年とする本もあり)に源泉が発見され、漱石が訪ねた頃には、まだまだ新しいところだったでしょう。温泉は、地下250メートルから100本余の源泉から湧き出しているため、豊富な湯量を誇ります。泉質は戸下温泉と同様に含石膏芒硝泉で、神経痛、リウマチ、きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症などに効果があるとされています。漱石らが泊まった「養神亭」は、荒正人『漱石研究年表』によれば「当時は、一膳飯兼宿屋である。(有原末吉)温泉は、明治三十一年六月、つまり漱石たちの訪れる一年前に、掘抜井戸を掘っていた時に発見されたものだ。それ以後、各戸毎に掘井戸をして、温泉業を営む。養神亭(本当は養神館)もその一つである。極めてぬるく、夏期は入浴できるが、冬期は沸かさなければならない」と書かれています。現在、漱石らが泊まったといわれる部屋は、移築保存されて「夏目漱石記念館」となっています。2階建の独立家屋になっており、1階には漱石関係の資料展示があり、漱石が泊まったという2階の部屋には『二百十日』ゆかりの恵比寿ビ-ルが、お膳の上に置かれているそうです。半熟卵を飲むと半分は生で半分は固茹で卵、ビールとエビスは違うものをと認識した女中のいる旅館は私ですと、白状しているみたい。内牧温泉には、明治40(1907)年に与謝野鉄幹率いる北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里らの「五足の靴」が訪れ、鉄幹と晶子は幾度も訪れたのをはじめとして、種田山頭火や高浜虚子など、多くの文人が訪れています。「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にもいわずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極、流しへ突っ立ったまま、茫然として、仁王の行水を眺めている。「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽のなかから質問する。「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端を放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽の湯は一度に面喰らって、槽の底から大恐惶を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢れだす。「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかでいった。(二百十日 2)--------------------現在、僕は8コママンガのブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.15
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戸下温泉 温泉湧く谷の底より初嵐 漱石(明治32) 重ぬべき単衣も持たず肌寒し 漱石(明治32) 谷底の湯槽を出るやうそ寒み 漱石(明治32) 山里や今宵秋立つ水の昔 漱石(明治32) 鶏頭の色づかであり温泉の流 漱石(明治32) 草山に馬放ちけり秋の空 漱石(明治32) 女郎花馬糞について上りけり 漱石(明治32) 女郎花土橋を二つ渡りけり 漱石(明治32)明治32(1899)年8月29日、漱石は、同僚・山川信次郎とともに、阿蘇方面への4泊5日の旅行に出発しました。漱石が熊本に呼び寄せた山川信次郎は、東京の第一高等学校への転任が決まったため、今回の旅行は送別の意味もありました。6月20日の狩野亮吉宛の手紙には「小生も山川に別れては学校のためには相談相手を失い、閑友としては話し相手を失い、当人には何とも申さねど心裡は大に暗然たるもの有之候」と書いています。陽気な信次郎と陰鬱なところのある漱石はなぜか気が合い、信次郎の赴任当初は漱石夫妻の住む合羽町の家に同居したり、漱石の九州各地への旅の多くに同行しました。この日、漱石らは阿蘇への入口となる烏帽子岳西南の戸下温泉まできて一泊します。戸下から馬車で立野を経て内牧温泉に泊まり、翌日は阿蘇神社を詣でて、中岳の頂上を目指す旅程を組んでいました。戸下温泉の泉質は含重炭酸土類石膏芒硝泉で、黒川が白川に合流する手前の安山岩の断崖から自然に湧き出てくる温泉の湯量が豊富だと評判の温泉郷でした。『阿蘇郡誌』によると「明治15年16年の頃、赤峯氏等の尽力によりて栃木温泉の泉場を引いて浴場を創め、故長野一誠翁の努力によりて暫時発達し来たるが、大正7年より全戸下一円、長野眞一氏によりて経営する事となり、近時著しく面目を改め浴室旅館とも最新の設備を施し、年を追ふて繁栄に向かひつつあり」とあります。源泉は栃木温泉と同じようなのですが、阿蘇の原生林を眼下に眺められる風光明媚な温泉郷として知られ、徳富蘆花、徳富蘇峰、坂本繁二郎、佐藤春夫などの文人画人が訪れています。漱石らが泊まったのは、政治家の長野一誠が経営する「碧翠楼」という旅館でした。一誠は国権党の代議士で、小天温泉の前田案山子もまた国権党なので、案山子から「碧翠楼」の存在を教えてもらっていたのかもしれません。現在、戸下温泉は温泉の姿をとどめていません。一級河川白川に計画された立野ダムが昭和58(1983)年に事業着手となり、「碧水楼」はすぐに廃業しました。令和2年に工事が開始され、令和6年2月にダムは完成、4月から運用されています。「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍は癒らないぜ」「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉を掬んで、口へ入れて見る。やがて、「味も何もない」といいながら、流しへ吐き出した。「飲んでもいいんだよ」と碌さんはがぶがぶ飲む。 圭さんは臍を洗うのをやめて、湯槽の縁へ肘をかけて漫然と、硝子(ガラス)越しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬つかって、相手の臍から上を見上げた。(二百十日 2)--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.14
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安々と海鼠の如き子を生めり 漱石(明治32)上京の折に流産した鏡子でしたが、一年後の秋に妊娠がわかり、ひどい悪阻が続きましたが、正月にはやや落ち着つきます。明治32年5月31日、漱石の初めての子供が誕生しました。長女の筆子でした。漱石は、妻・鏡子の字の下手さがうつらぬよう、字が上手くなるようにとの願いを込めて「筆子」と名付けました。漱石は初めての子供を愛しました。色の黒い女中に抱かせて色が黒くならぬよう、抱かさないようにさせたこともあります。漱石は、初めて見る我が子をどうして「海鼠」と表現したのでしょうか。そこには、漱石のもつ不安が色濃く現れているようです。こうした夫婦間の苦難をのりこえて、明治32年、長女・筆子が誕生しました。「安々と」とは、出産に対する安堵です。また、暗算だったことへの安心も含まれているのかもしれません。「海鼠」は寒天のようなブヨブヨとした感触であり、漱石作品に登場するタコのように命を持って蠢く存在であり、そこに誕生への安堵が感じられます。どのようなことがあっても我が子が誕生したということが強く残ります。海鼠は天地開闢の象徴であり、海のものとも山のものとも解らぬ存在が成長して、素晴らしい人間となっていくことへの願いを詠み込んでいます。この句に対して、筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』で「結婚して三年目に、しかも以前に一度流産の経験もあって、漸くに子供を得た父にとっては、この『安々と』という感慨はひとしお深かったものと思われます。……父の驚きの心痛が並々でなかったことは、想像に難くありません。そういう性で子種に恵まれ、なまこのようであれ何であれ、ともかく易々と生れた、その瞬間父がどんなに喜んだか良く解る気がします」と書いています。鏡子の『漱石の思い出』には、次のように書かれています。長女が生まれましたのは、五月の末のことでありました。私が字がへただから、せめてこの子は少し字をじょうずにしてやりたいというので、夏目の意見に従いまして、「筆」と命名いたしました。ところが皮肉なことに私以上の悪筆になってしまったのはお笑い草です。で、いまではそんな欲張った名はつけるものではない、そんな名をつけるからこんなに字がへたになったのだなどと、当人の筆子はこの話、が出るたびにかえって私たちを恨んでいるのです。親の心子知らずか、子の心親知らずか、ともかくお笑いぐさには違いありません。最初の子供ではあり、結婚してから満三年の後にできた子ではあり、ずいぶんとかわいがりまして、自分でよく抱いたりいたしました。そうして女中のテルの色が真っ黒なので、子供は抱くものに似るというから、そんな黒いのが伝染されちゃ困るなどと申しまして、やかましく女中に抱かせるのを排斥しました。しかし私がいるうちはそれで納まってるのですが、私が買い物に出たりして子供を残しておきますと、そのうちにおとなしく眠っていた赤ん坊が眼をさまして泣きだします。そうしていくらすかしたりあやしたりしても、ますます火のついたように泣きますので、困ってしまって、テルテルと呼んで世話を頼むと、女中のほうは大いばりで、いくら顔が黒くても、私でなけりゃどうにもならんじゃありませんかと、一本参って抱きあげる。抱きあげればすぐにだまるといったぐあいに、この女中がまたたいそう赤ん坊をかわいがってくれました。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.13
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耶馬溪の旅から帰ってきてから、漱石が謡を始めます。旅の友だった奥太一郎が謡をしているのを聞き、工学部長の桜井房記から手ほどきを受け、同僚の神谷豊太郎からの指導されました。桜井房記は、加賀の出身で宝生流の謡をたしなんでおり、さらに同じ加賀出身の国文の教師・黒本植も謡が優れていたので、五高の教師間で謡が流行っていました。漱石が習った神谷豊太郎は和歌山出身で、前任地の仙台で謡を初めていました。正岡子規の友達でもあることから、漱石が気軽に声をかけやすかったのでしょう。漱石は、「稽古の歴史」という談話で「私が習い初めたのは熊本の学校にいる時分のことでした。同僚の教授連が盛んにやるので、私も半年程稽古をしましたが、その後間も無く外国へ行ってしまったので、勿論稽古も出来ず、忘れたようになっていたのですがね」と語っています。漱石が習ったのは「熊野(ゆや)」でした。神谷豊太郎は「声は好い声でした。当人期なかなか熱心で、人が笑うからというので、よく便所の中から呻っていたところから『後架宗盛』という名が付いて、一時評判でしたよ」と語っています。『吾輩は猫である』の苦沙弥の描写「後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。(1)」というのは、実話なのでした。漱石を謡に結びつけた奥太一郎はどうかというと、『漱石の思い出』には「まあ、奥のをきいてみろ、お湯の中で屁が浮いたようなひょろひょろ声を出すんだから、あれからみればといったぐあいに、なかなか敗けません。そこで奥さんは奥さん、あなたはあなた。人がどうあろうとその声は自慢になりませんよなどと憎まれ口を叩いておりますと、ある日奥さんがいらして謡が始まりました。私はちょうどお湯に入っていたのですが、さあ、始まると困ってしまいました。まったく珍妙な謡い声なのですが、それよりもすぐとさきの尾籠な批評を思い出したからたまりません。たまりかねてお湯の中で手拭を口に当ててきこえないように笑っておりますと、台所でも女中たちが笑いをこらえているのですが、これも笑いがとまらず、えらい苦しみをしたことがあります」とあり、下手の横好きだったようです。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.12
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明治32(1899)年の正月、漱石は同僚の奥太一郎とともに、冬休みを利用して宇佐神宮・耶馬渓へと旅立ちました。「耶馬溪」は『日本外史』で知られる頼山陽の命名です。山陽が耶馬渓を訪れたのは文政元(1818)年3月6日のことで、中津郊外の正行寺を訪ねる途中、もともと「山国谷」と呼ばれていた地域を訪れたのでした。漢詩『耶馬溪図巻記』を詠み「耶馬溪の風物、天下に冠たり」と絶賛したことから、奇観に富むこの地が全国に知れることになりました。漱石らは、1月1日に熊本を出発し、鉄道で鳥栖、博多を経て、その日は小倉に宿泊します。鏡子の叔父・中根与吉の家に泊まったのかもしれません。2日目は豊州鉄道終点である宇佐駅(現柳ケ浦駅)で下車してから4キロの道のりを歩いて宇佐神宮へと向かいました。初詣の後は、3キロほどの坂道を歩いて四日市に一泊しています。3日目は耶馬溪の羅漢寺に参詣し、「中屋旅館」に泊まりますが、 短くて毛布つぎ足す蒲団かな 泊まり合す旅商人の寒がるよ 寝まらんとすれど衾の薄くしてと、夜寒を嘆いています。4日目は耶馬渓で句作などしながら守実温泉に泊まりました。守実温泉の泉質は弱アルカリ性単純水で泉温は34度と低く、リウマチ・神経痛・疲労回復に効果があります。漱石たちは守実の中心地に位置する大歳祖神社隣の河野謙吾宅に宿泊します。河野家は明治7年から郵便局を開き、上下8部屋もある2階建の建物です。郵便局の傍ら、旅宿も経営していたようです。漱石は「守実温泉に泊まりて」の詞書で たまさかに据風呂焚くや冬の雨 せぐくまる布団の中や夜もすがら 薄蒲団なえし毛脛を擦りけりと詠み、さらに「家に婦人なし。これを問えば、先ず頃身まかりて翌は三十五日なりという。庭前の墓標、行客の憐をひきてカンテラの灯のいよいよ陰気なり」という詞書を添え 僧に似たるが宿り合せぬ雪今宵と詠みました。5日目は吹雪の峠を越えて日田に入り、筑後川を舟で下って吉井の天神町にある「長崎屋」に泊まりました。この日の一番の思い出は雪の大石峠で馬に蹴られたことで、「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」の詞書で 漸くに又起きあがる吹雪かなと詠み、「吉井に泊まりて」の詞書で なつかしむ衾に聞くや馬の鈴と詠んでいます。6日目は、吉井から追分峠を越えて久留米に入り、熊本に帰っています。追分峠では「追分とかいう処にて車夫どもの親方乗っていかんやというがあまり可笑し借りければ」との詞書で、 親方と呼びかけられし毛布哉と詠みました。日頃、先生と呼ばれている身が、追分峠では「親方」となったことに滑稽を感じたのでしょう。漱石は、明治32年1月14日の狩野亮吉宛の手紙に「小生例の如く元朝より鞋がけにて宇佐八幡に賽しかの羅漢寺に登り耶馬渓を経て帰宅。山陽の賞賛し過ぎたる為にや、さまでの名勝とも存ぜず通り過申候。途上、豊後と豊前の国境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位が御話しに御座候」と書き送っています。馬に蹴られ、親方と呼ばれるとは、散々な旅だったのでしょう。--------------------現在、僕はブログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.11
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五高の学生たちの間では、漱石が日本派俳人であることがよく知られていました。漱石は、松山中学の教師時代に日清戦争従軍記者として清国に出発したものの喀血して松山に帰っていた子規と同居を始めます。この52日間で鴫野博いくから刺激を受け、自らも積極的に俳句づくりに励んだのでした。漱石の俳句は、新聞『日本』や雑誌『日本人』、『新俳句』などに掲載されているため、五高生たちは、漱石を俳人と見做していたのでした。五高生のうち、寺田寅彦(寅日子)や厨川肇(千江)、蒲生栄(紫川)らが漱石の家を訪れ、俳句の話を聞きに来ていました。千江は五高の校友会雑誌『龍南会雑誌』に、月に1回俳句の運座を開くことや、参加希望者を募集する旨、生徒たちに呼びかけました。そして、明治31年10月2日には、寅日子、紫川、平川草江、石川芝峰、白仁三郎(のちの坂元雪鳥)ら11人が漱石の家に集まり、運座を開きました。この俳句の会は「紫溟(しめい)吟社」と名付けられました。社名の紫溟とは、筑紫の海、有明海のことを指します。「紫溟吟社」は、やがて五高の生徒だけでなく、市中の池松迂港、第六師団の渋川玄耳、川瀬六走らが会員となり、「九州日日新聞」「九州新聞」にもその俳句が掲載されるようになります。学校内だけではなく、熊本の地に新派俳句が育っていくのでした。漱石もまた、周囲からの刺激を受け、全俳句約2400句のうち、約9000句が熊本時代に読まれています。漱石は、この会の活動をバックアップするために、先般来、当熊本人常松迂巷なる人、当市九州日々新聞と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致し、なお東京諸先俳の俳句も時々掲載致し度趣にて、大兄へ向け一書呈上候処、その後何等の御返事もなきよしにて、小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は、先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之。実は今回の学杯も新派勢力扶植のための計画に候。さすればほととぎす発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわく、ほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも、幾分か大兄などは鼓吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また日々新聞は同人より大兄宛にて毎日御送致し居候よし、定めて御閲覧のことと存候。と高浜虚子に宛てて手紙を送っています。しかし、漱石がイギリス留学のため熊本を去り、また五高生が進学などで熊本を離れると、活動の中心は五高生外となり、次第に会の活動も停止へ向かいました。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければこちらもご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.10
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鏡子の事故があったことから、漱石は新しい家を探していました。たまたま、狩野亨吉が住んでいた家が帰郷のために空き家にするため、漱石夫婦に提供したのでした。当時は、長期休暇の際には、借家を解消するということがよくありました。亨吉は、帰郷までの期間を旅館・研屋支店で過ごしています。家賃は10円。漱石も気に入ったようで、熊本で最も長い1年8か月を暮らした家です。狭かった井川淵の家と異なり、前の持ち主が軍人のため、随分と広い家でした。5・600坪の土地には広い庭があり、桑畑もありましたが、鏡子は「家はさほどに広くはありませんでした」と語っています。現在の間取りでいえば8Kの家でした。また、馬屋を改装した別棟の広い物置がありました。寺田寅彦が書生になりたいといったときに、漱石が見せたのがこの物置のようです。鏡子は「熊本にいた間、私どもが住んだ家の中でいちばんいい家」と語っています。漱石夫妻が一番気に入り、熊本で最も長い1年8か月暮らした家です。長女・筆子が誕生した家でもあり、筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦が泊まった馬小屋などが現在も残っています。記念館として公開されている内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿のほか、和室には漱石のからくり人形もあります。この家は、昭和53年(1978)に熊本市指定の文化財指定され、漱石関係資料を展示する記念館としています。筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦ゆかりの馬小屋などが残っています。内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿などが展示されています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.09
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この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。明治31年5月下旬、鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。ヒステリーについては、鏡子は生涯語ることはありませんでした。『道草』には「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(78)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(78)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。鏡子は投網漁の船で網打ちをしていた松本直一により助け出されました。五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞でした。栄熙は、熊本見性寺の蘇山の弟子で、菅虎雄を通じて漱石と知り合っていました。熊本で育った栄熙は、熊本市議会議員で「九州日日新聞」社長・山田珠一と懇意だったため、記事にならずに済んだのでした。明治31年の秋頃になると、鏡子の二度目の妊娠がわかります。しかし、猛烈な悪阻(つわり)に悩まされました。ひどい時は食物・薬はおろか水さえも咽喉を通りません。ようやく滋養浣腸で命をつなぐ状態だったのです。『漱石の思い出』には、「この秋、私は妊娠しておりまして、猛烈な悪阻になやまされ続けました。それは九月から始まって十一月まで続き、いちばんひどかった時などには、食い物や薬はおろか水さえ咽喉に通らなかったくらいで、衰弱は日ましに加わりますし、かといっていまさら手術もできず、運を天にまかせてといったぐあいに、ようやく滋養涜腸ぐらいで命をつないでいたわけでした。『病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 漱石』などと、このころ私の病気をみとってくれてよんだ句が少しあるようでありました」と書いています。一命をとりとめた鏡子。それ以来、漱石は毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝ていたといいます。この症状は、明治32年5月に長女・筆子が誕生すると、やや落ち着いてきました。また、翌年には漱石がロンドンに行って離れるため落ち着きましたが、それ以後もヒステリー発症は、家庭の問題や諍いをきっかけとして、度々起こるようになっています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.08
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上京のための長旅で、流産してしまった鏡子が、鎌倉での静養ののち、熊本に帰ってきたのは10月下旬のことでした。しかし、鏡子の振る舞いにはどこかぎこちないところがありました。不幸せな新婚生活は、鏡子に心の病を運んできました。それはヒステリーです。また、鏡子は低血圧のための朝寝坊、料理下手など、家庭の主婦としては不適格な性向がありました。それらから現実逃避するための手段がヒステリーであったともいえなくありません。『道草』に書かれているお住の描写は、具体的でしかも迫真的です。この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。明治31年5月下旬、鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。ヒステリーについては、鏡子は生涯語ることはありませんでした。『道草』には「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(78)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(78)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。鏡子は投網漁の船で網打ちをしていた松本直一により助け出されました。五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞でした。栄熙は、熊本見性寺の蘇山の弟子で、菅虎雄を通じて漱石と知り合っていました。熊本で育った栄熙は、熊本市議会議員で「九州日日新聞」社長・山田珠一と懇意だったため、記事にならずに済んだのでした。明治31年の秋頃になると、鏡子の二度目の妊娠がわかります。しかし、猛烈な悪阻(つわり)に悩まされました。ひどい時は食物・薬はおろか水さえも咽喉を通りません。ようやく滋養浣腸で命をつなぐ状態だったのです。『漱石の思い出』には、「この秋、私は妊娠しておりまして、猛烈な悪阻になやまされ続けました。それは九月から始まって十一月まで続き、いちばんひどかった時などには、食い物や薬はおろか水さえ咽喉に通らなかったくらいで、衰弱は日ましに加わりますし、かといっていまさら手術もできず、運を天にまかせてといったぐあいに、ようやく滋養涜腸ぐらいで命をつないでいたわけでした。『病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋 漱石』などと、このころ私の病気をみとってくれてよんだ句が少しあるようでありました」と書いています。一命をとりとめた鏡子。それ以来、漱石は毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝ていたといいます。この症状は、明治32年5月に長女・筆子が誕生すると、やや落ち着いてきました。また、翌年には漱石がロンドンに行って離れるため落ち着きましたが、それ以後もヒステリー発症は、家庭の問題や諍いをきっかけとして、度々起こるようになっています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.08
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昭和31年4月1日、漱石は井川淵へ四度目の引越しをします。大江村の家は、皇太子(のちの大正天皇)の伝育官(教育係)として宮内省に出仕していた落合東郭の家でした。東郭が東京から帰ってきて、熊本に勤めることになったため、急いで家を明け渡さなければなりませんでした。漱石は、代わりの家を探すのですが、なかなか見つけることができません。家を渡してもらえない東郭は、隣にあった妻の実家に仮住まいしています。漱石はようやく井川淵に小さい家を見つけました。白川の川べりにあり、すぐ近くに明午(めいご)橋が見えます。間数も少なく手狭だったので、俣野義郎と土屋忠治には、金銭的な援助はするので五高の寮に入るように勧めた戦後史開封でしたが、2人はどんな狭いところでもいいので、置いて欲しいと頼みます。そこで7月の卒業式までの期間、書生として置くことになりました。『漱石の思い出』には、「井川淵というところに小さい家をみつけまして、一時凌ぎにそこへ移りました。そこは川べりでして、すぐ近くに明午橋が見えます。なんでも部屋数の少ない家でして、間に合わせの転居ではしたが、不便たらありません」という家だったと書かれています。この家は、間数が少ないものの、川に面した位置に立っていました。しかし、この川沿いで明午橋の近くということが大きな事件を引き起こします。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.06
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狩野亨吉は、漱石や山川信次郎の先輩で、金沢にあった旧制第四高等学校の教授をつとめていました。第四高等学校の校長をつとめていたのが漱石のつとめている第五高等学校の中川元です。当時の四高では、教員の能力不足によって生徒たちの不満が溜まっており、問題のある教師たちの排斥運動が起こっていました。元は改革を断行。亨吉は改革を補佐するために呼ばれたのでした。元は第五高等学校校長として移り、校長がいなくなって宙ぶらりんの状態になった亨吉は、改革の後始末を果たしたのち、第四高等学校の教授を退任しました。 漱石が卒業した折には、まだ在職中だった亨吉は、漱石を第四高等学校に誘いますが、漱石は断りました。五高校長となった元は、退職した亨吉を五高に誘いますが、亨吉は断ります。亨吉の能力を認めていた元は、教頭になるように誘い続けました。漱石は、校長の気持ちを汲んで、亨吉を第五高等学校に誘います。校長の元は、漱石が誘っても亨吉は第五高等学校に来ないだろうと思っていたのですが、意に反して亨吉は、五高等学校赴任を受け入れます。これには、亨吉が第五高等学校に紹介した教師が途中で辞めてしまったことへの責任を取るという気持ちが強いのですが、気心のしれた漱石や信次郎が在籍しているということも復職の大きな要因となりました。明治30年12月7日、漱石が亨吉に宛てた手紙には後任者選定の一条につき、小生は第一に大兄を挙げ候ところ、校長の考えにては大兄は到底相談に応じてくれまじと被申候。その時小生答えて、無論単に論理の教師として招くとも無益のこと、小生らより遥かに先輩なる狩野氏のことなれば、相応の待遇をせずばなるまじと申し候こと有之。その時以来小生は学校のため、ぜひとも大兄に御無理を願いたいとひそかに希望しおり。一方にては校長は桜井氏と協議の上、同氏の大賛成を得て今日に至り候折柄、今回のことにつき自然大兄を無理にも引き起さんとの念を生じ候。因て甚だ突然の至とは存じ候えども、左の条件にて再び教育界に御出現の上、当校のため学生等のため、御来任被下候や。一、大学予科教頭の地位に立つ事(桜井氏は工学部主事に任ぜられ到底現今の教頭を兼任し難きことと御承知被下度候)一、教頭事務の外論理学の授業を担任する事(九時間)別に五六時の英語でも補助を願えば尚更結構のことに御座候。しかし目下の処は生等にて繰合せる積ゆえ、それも不必要かも知れず。とにかく授業時間は十五時を超過せぬこと。一、待遇は年俸千六百円の事。官らは大兄従前の官等六等なれば不得己六等。しかし最近の好機(校長の話しにては四五日にてもよし)をもって五等に上す事。右は校長桜井両氏とも異議なきのみならず、非常の希望に御座候。小生は無論仲間に立つ位ゆえ、もとより願う所。また山川も同感ならんと存候。……略……また生徒の方面に関しても、無論御掛念なきは保証する処に御座候。また学校現時の模様を申せば至極卒穏にて別段御配慮を要することも見えずと存候。校長は御存じの通りの長者にて、その弊なきにあらねど輔佐の為し様にては、随分見込のある学校と存じ候。右篤と御考慮の上何分の御返辞待上候。最後に一言申し加え候。今回のことは御相談と申すよりも御願いに御座候。と書かれています。亨吉は、明治30年(1897)12月19日に赴任を承諾する電報を送り、翌年1月7日に熊本に到着しました。しかし、その年の11月、文部省から亨吉を第一高等学校校長に迎える辞令がおります。これは、能力を認めながら、なかなか教職につかなかった亨吉の就職に際して、中央に戻そうという亨吉の友人で第一高等学校校長だった柳澤政太郎の後任に吸えるようにしたのでした。イギリス留学から帰った漱石は、熊本五高に帰る気はなくなっていました。そんな漱石に第一高等学校と帝国大学で教鞭をとることを斡旋したのは、第一高等学校校長だった亨吉のでした。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.05
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「猫」が漱石を有名にしてくれましたが、漱石は犬の方が好きだったようです。 漱石は熊本時代に、犬を飼っていました。よそからもらった大きな犬で、やたらに人に吠えつきます。しかし、漱石と女中のテルは犬好きで、その犬を可愛がっていました。大江村の家時代の家族写真に、犬が写っていますが、テリア系の小型犬のようです。これが大きく育ったものなのかもしれません。ある日のこと、犬が通行人に噛み付いてしまい、巡査から厳重注意を受けました。漱石は、「犬なんてものはりこうなもので、怪しいとみるからこそ吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者で、犬ばかりを責めるわけには行かない」と反撃しました。その日、犬は警察に引かれてしまいます。翌日、狂犬病の検査で異状がなかったことから、こんど噛みついたら撲殺するとおどかされ、犬は帰ってきました。家が内坪井町から北千反畑に引っ越ししても、漱石は犬を連れて行きました。ところが、女中のテルが目を離したすきに犬が家を飛び出し、よそのおかみさんに噛みついてしまいました。噛み付いたのは、すぐ近所にすむ巡査の奥さんでした。巡査がどなり込んで来ましたが、漱石は女中から門前の空地にゴミを捨てに来るのがその奥さんと聞いていたので、犬も怪しいと睨んで噛みついたと理屈をこねました。犬は今度も何事もなく帰されました。 ある晩のこと、夜おそくなって帰ってきた漱石に、犬が吠えました。玄関が開くと、漱石の袂と袴とがひどく破けています。家の犬に噛まれたようです。犬は、漱石が「よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者」とみなしたのです。「飼い犬に手をかまれた」漱石では、苦笑いをするしかありませんでした。漱石一家が熊本を引き上げる時、よく吠えていいというので犬をもらった方がいましたが、その顛末ははっきりしません。鏡子は、「世の中にはよくよく物好きな方もあったものです」と語っています。--------------------現在、僕はプログを毎日3つあげています。よろしければご覧ください。土井中家の訳ありワンコhttps://akiradoinaka.blog.jp愛媛の雑学https://annonsha.com/ehime_doinaka土井中照の電子書籍は安穏社から発行され、アマゾンで購入できます。https://annonsha.com
2024.11.04
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当時の前田温泉を差配していたのは、案山子の次女である卓子(つなこ)でした。民権運動家の植田耕太郎と結婚したのですが1年で離婚。その後もやはり民権運動家の永塩亥太郎と事実婚をしたものの別れてしまいました。そのために、卓子は明治28年(1895)頃から小天村の実家に帰っていたのです。昭和10(1935)年、「漱石全集」月報1号で行った森田草平によるインタビュー『「草枕」の女主人公』で『草枕』での印象的な那美の入浴を垣間見るシーンは、実際の出来事だったと卓子本人が語っています。最後にあの湯殿の湯――わたくしが夜おそく女湯へ入ろうといたしますと、微温(ぬるま)っていましたので、何人もいないと思って、男湯の方へ平気で這入って行きました。すると、水蒸気の濛々と立ち籠めた奥の方で、おふたりがくすくす笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。わたくしはもう吃驚(びっくり)して、そのまま飛び出してしまいました。ただ、『草枕』の那美のモデルであることには少し不満げです。こんな女でございますから『草枕』の中でわたくしが『き印』だとされるのは仕方もありませんが、母までが狂人扱いされているのはどうも残念でなりません。わたくしの口から申しては何ですが、母は昔気質のまことに優しい、典型的な日本の女でございまして、これだけはどこまでも弁護してやりとうございます。それからわたくしの家が代々狂人筋だったぞということも、全く事実無根でございます。案山子が死去すると、卓子は明治38年(1905)に上京し、孫文や黄興の加入していた「中国同盟会」の機関紙『民報』を発行する民報社で住み込みとして働きました。卓子の妹・槌子が、孫文らを支援する宮崎滔天(とうてん)と結婚していたためです。彼らは、民報社に集まってくる革命家や中国人留学生を世話し、密航の手助けもしました。こうした卓子らの支援は、明治44年(1911)に孫文らが起こす辛亥革命として結実するのですが、その結果は卓子らの望んだものではありませんでした。天水町から出版された中村青史・上村希美雄共著『「草枕の里」を彩った人々』には、「一生のあいだ、ロクな男には出会わんかったが、夏目さんだけは大好きだったよ。奥さんさえいなきゃ、いんにゃ、二号さんでもいいと思った時もあったよ」と近親者に晩年の卓子が語っていたと記されています。別の近親者は、東京が大雪の日、卓子はお握りをつくって漱石を迎えに行き、帝国ホテルで一夜を明かしたと語っているのです。「雪のため鎌倉へ行く汽車が不通で、こんなに嬉しいことはなかったと、あの気丈な人が泣いて喜んどったもんね」という親族の言葉も記されています。門人に「先生は、奥様以外知らないって本当ですか?」と聞かれ、「雲煙模糊たり」と答えたという逸話で知られる漱石ですが、卓子の言葉は、果たして本当だったのでしょうか。
2024.11.03
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温泉や水滑らかに去年の垢 漱石(明治31) 明治30年12月27日頃から翌年の1月4日頃まで、漱石は大学予備門の同級で熊本の第五高等学校に招いた山川信治郎とともに小天温泉へ出かけました。信治郎はこの年の11月に同僚の久我某とともに熊本市からほど遠からぬ小天温泉に一泊したのでした。この年の正月、熊本での鏡子とともに迎えた新所帯の新年には、同居していた長谷川貞一郎を慕う学生たちがわんさか押しかけました。おせちづくりと学生たちの世話にてんやわんやとなった鏡子との間で一悶着あったため、漱石は正月の期間、熊本を抜け出そうと考えていました。信次郎から小天温泉で正月を過ごそうという誘いがあり、漱石は渡りに船と快諾したのです。当時の小天には、当時二つの温泉がありました。一つは「前田温泉」で、明治11年頃に土地の名家・前田案山子の別邸として建てられましたが、案山子が政治家のために多くの政客が訪れてきます。そこで、邸の一部を宿屋として開放したのでした。明治37年に案山子が亡くなった後は、水本正澄が『漱石館』と名付けて当分営業を続けてますが、大正7年には廃業しました。もう一つは「田尻温泉」で、田尻貞喜という人が経営していましたが、のちに『那古井館』と名乗ります。「前田温泉」も「田尻温泉」も、当時は田んぼの間にあり、山と海の両方面から吹き来る気流のために風通しがよく、夏の湯治場に適していたため、夏季になると、両温泉とも引きも切らぬばかりの湯治客で溢れかえったといいます。 漱石が逗留したのは「前田温泉」の方でした。現在は「前田家別邸」=「漱石館」として公開されています。 その別荘には、犬養毅、植木枝盛、中江兆民、頭山満など、多くの自由民権の活動家が訪れました。明治23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙で案山子は熊本一区から出馬して当選。大須外務大臣の条約改正に反対して気を吐きました。佐々友房、木下助之、古荘嘉門、頭山満らと国民自由党を結成しますが、明治25年(1892)の第2回衆議院議員総選挙には立候補しませんでした。案山子は、政治の道から身を引き、明治37年(1904)7月20日に病没しています。「前田温泉」も「田尻温泉」も 単純アルカリ泉で体温くらいの低温。神経痛やリューマチ、神経衰弱、ヒステリーに効果があるといいます。漱石は、『草枕』に「那古井温泉」こと「小天温泉」のお湯を描写しています。漱石の文章を読むと、温泉の湯に酔ってしまいそうです。 寒い。手拭を下げて、湯壺へ下る。 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とはいうもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭いもない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだことがない。ただ這入るたびに考え出すのは、白楽天温泉水滑洗凝脂という句だけである。温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。 すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏かに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠めて、ひそかに春を潤すほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠られた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出いでんとする景色である。(草枕 7)
2024.11.02
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長い間お休みにしていてすみません。ようやく、仕事がひと段落したので、これから毎日、漱石のマンガを描こうと思います。これから、よろしくお願いします。また、途中からですみません。熊本第五高等学校二年生の寺田寅彦が、合羽町にあった漱石の家を訪ねてきたのは明治30年(1897)の7月のことでした。学年試験の終わったころ、高知からきた学生のうちに試験をしくじったものがいて、受け持ちの先生宅を訪問して、赤点をカバーするための運動委員に選ばれていたのでした。漱石は寅彦と気軽に会い、泣き言を黙って聞いていました。もちろん、もちろん点をくれるともくれないとも言いません。寅彦は、役目が終わった後、「俳句とはいったいどんなものですか」と質問しました。漱石が俳人として有名なことを寅彦は知っていのです。漱石は「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある」と話しました。寅彦は、急に俳句がやりたくなり、帰郷していくつかの句を詠みました。夏休みが終わった寅彦は漱石を訪問します。漱石はすでに大江村の家に移っていました。寅彦の印象によると、漱石はいつも黒い羽織を着て端然として正座しており、奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたといいます。いつでも上等の生菓子を出されましたが、漱石が好きだと見えて、紅白の葛餅を、よく食べさせてもらいました。寅彦の俳句は、そのうちに「日本」新聞の俳句欄に掲載されます。これが、寅彦の作品が活字になった、初めてのことでした。寅彦は、漱石に書生に置いてもらえないかと頼んだことがあります。裏の物置きなら明いているから来てみろと案内されたのですが、その室は畳が入っておらず、ゴミだらけ。物置きになっていたので、寅彦は諦めました。しかし、漱石と寅彦の交流は、これから終生まで続くのでした。
2024.11.01
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