東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

昭島フリー

昭島フリー

Freepage List

Calendar

Comments

聖書預言@ Re:説教要約 1266(08/08) 『JDファラグ聖書預言』でネット検索すれ…
2008.06.30
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
「天の御国のたとえ(5)」

                    マルコの福音書、4章26~29節

 イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」すと言
われました(26節)。これが「人手によらずに育つ種のたとえ」で
す(27~29節)。これは、最初の「種蒔きのたとえ」と対になって
いると思われます。

 そしてイエスは、「あなたがたは、これらのことがみなわかりま
したか」と弟子たちに言われました。彼らが、「はい」と言うと、
イエスは、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す「一家の
主人のたとえ」を話されました(マタイ13章51、52節)。

一、人手によらずに育つ種のたとえ

 イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝
て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。
どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせ
るもので……す」と言われました(26~28節)。

 ここで言う「神の国」とは、ペンテコステからキリストの再臨ま
での教会(教会時代)のことを指しています。「人」は、第一義的
には、「かまを入れ」るという刈り入れのことを考えると(29節)、
キリストのことです。しかし伝道するキリスト者にも当てはめるこ
とができるでしょう。「地」は人の心を、「種」は神の言葉を表し
ています。

 キリストとその弟子たちによって蒔かれた神の言葉という種は、
「朽ちない種」(第一ペテロ1章23節)であり、それ自体に、神の
生命を持っています。ですから、それは「人手によらず」に「芽を
出して育ち」、「実をならせる」のであり、人知をはるかに越えた
神秘的なものです(27、28節)。

 「生命」というものは、それが肉体的な生命であれ、精神的な生
命であれ、そしてこのような救いをもたらす霊的な生命であれ、神
に属するものであり、人の力の及ばないものです。

 人が子どもとして生まれ、肉体的には大きくなり、精神的には知
恵がついて成長していくことができるのは、その子ども自身に生命
があるからであり、その子が与えられている生命の力によって自ら
成長しない限り、ほかの人は、どうすることもできません。

 そのように、人が福音を信じて新しく生まれ、キリスト者として
成長していくことができるのは、その人自身に霊的な生命があるか
らであり、その人が与えられている霊的な生命の力によって自ら成
長しない限り、ほかの人は、どうすることもできないのです。

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの
ことばによ」って生きる者です(マタイ4章4節)。ですから神の
言葉を信じて、神から霊的な生命を与えられることほど大切なこと
はありません。

二、一家の主人のたとえ

 イエスは、「天の御国のたとえ」の締めくくりとして、「天の御
国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物で
も取り出す一家の主人のようなものです」と言われました(マタイ
13章52節)。

 「学者」は、神の言葉を学んで、それを説き明かす者です。です
から、「倉」は聖書、「新しい物」は新約の教え、「古い物」は旧
約の教えを指しているのでしょう。

  旧約聖書        新約聖書
◇準備         ◇完成
◇萌芽         ◇開花・結実
◇模型・ひな型・影   ◇実体・実物
◇具体的な実物教訓   ◇抽象的な霊的真理

 キリストの弟子は、天の御国の奥義を教えている神の言葉を学ん
で、それを説き明かす学者として、旧新約聖書の教えをとらえて、
それを語ることが求められているのです。

拙著「キリストの生涯の学び」63「天の御国のたとえ(5)」より転載





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008.07.01 01:52:15
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: