東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2010.01.17
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カテゴリ: カテゴリ未分類

「迷い出た羊」

                               ルカの福音書、15章1~7節

 「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、
みもとに近寄って来」ました(1節)。するとパリサイ人、律法学
者たちは、つぶやいて、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事
までいっしょにする」と言いました(2節)。そこでイエスは、彼
らに、「迷い出た羊」と「失われた銀貨」と「放蕩息子」のたとえ
を話されたのです。

 パリサイ人や律法学者たちは、神に近づくために、罪や汚れから
分離していましたが、次第に罪人からも遠ざかって行きました。彼
らは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさ
せるために」来られたイエスを全く理解することができなかったの
です(5章32節)。

一、迷い出た羊の姿

 この一匹の「迷い出た」羊は(マタイ18章12節)、「何をして
いるのか自分でわからない」で(23章34節)、「無知のために」
(使徒3章17節)、「知らないで」(第一テモテ1章13節)、神に
そむいて罪を犯し、滅びに向かっている罪人の姿を表しています
(R・C・トレンチ)。

 無知には、学問的(または頭脳的)な無知と、道徳的(または意
志的)な無知があります。学問的な無知は、直接的には罪はなく、
無罪ですが、道徳的な無知は、罪をまぬかれることはできず、有罪
です。

 「罪とは律法に逆らうこと」ですが、知らなくても律法を破れば
罪になります(第一ヨハネ3章4節)。ペテロは、「無知のために」
イエスを十字架につけたイスラエル人たちに、「あなたがたの罪を
ぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」
と勧めています(使徒3章17、19節)。

二、捜し歩く羊飼いの姿

 この迷い出た羊を捜し歩く羊飼いの姿を、絵画的または物理的な
イメージで描くと、道なき道を、ものともせずに、いばらをかきわ
け、深い谷まで降りて行く光景になります。

 しかし全知全能の神が、私たちの姿を見失って、捜し歩かれると
いうことは、あり得ません。神は、目に見えない心の世界や霊的な
真理を教えるために、目に見えるわかりやすいたとえを用いて話さ
れたのです。

 それでは、神が罪人を捜し歩かれるとは、どのようなことでしょ
うか。迷い出た羊は、無知であっても、神にそむいて罪を犯し、神
の前に失われている罪人を表しています。

 ですから、神が罪人を捜し歩かれるとは、神が人の心の中に働か
れることによって、神の前に失われている罪人が罪を自覚するとと
もに、その罪を悔い改めて神に立ち返らなければならないことがわ
かるようになるということです。

三、見つかった羊の姿

 羊飼いが迷い出た羊を捜し歩いて、ついに見つけた姿を、絵画的
または物理的なイメージで描くと、どこにも見えなかった羊をとう
とう発見したという光景になります。

 しかし全知全能の神が、どこにもいなかった私たちを、ついに発
見されたということは、あり得ません。神は、目に見えない心の世
界や霊的な真理を教えるために、目に見えるわかりやすいたとえを
用いて話されたのです。

 それでは、罪人が神に見いだされるとは、どのようなことでしょ
うか。迷い出た羊は、無知であっても、神にそむいて罪を犯し、神
の前に失われている罪人を表しています。

 ですから、罪人が神に見いだされるとは、神の前に失われている
罪人が罪を自覚するとともに、その罪を悔い改め、神に立ち返るこ
とによって、神がその人を罪から救われるということです。

拙著「キリストの生涯の学び」126「迷い出た羊」より転載






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Last updated  2010.01.17 14:28:37
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