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「きよめの体験(3)」
甲斐慎一郎
使徒の働き、15章9節
三、きよめられるための条件
罪の赦し(救い)を受けるためには、神に対する悔い改めと主イ
エスに対する信仰(使徒20章21節)が必要なように、罪からきよ
められるためには、神に対する全き献身と主イエスに対する信仰
(ローマ6章19節、使徒15章9節)が必要です。「罪の赦し」も
「罪のきよめ」も直接的な条件は「信仰」ですが、その信仰がほん
とうのものとなるためには悔い改めや全き献身が必要です。
1.きよめの直接的な条件
(1)神が、それを聖書の中に約束しておられると信じなさい。
(2)神は、その約束されたことをなさることができると信じなさい。
(3)神は、それを今なさることができるだけでなく、なさることが
みこころであると信じなさい。
(4)神は、今それをなしてくださると信じなさい。
( J・A・ウッド「全き愛」より
)
2.きよめられたことを知ること
罪がきよめられたことは、「内なる反省」では決してわからず、
「内なる御霊の証し」によって分かります。「内なる反省」では、
きよめられた後にも残る様々な「人間的な要素」があるために、そ
れにもすべて合格しなければ、きよめられたと確信し、証しするこ
とはできないからです。ですから「内なる御霊の証し」があるなら、
「私は、きよめられました」と証ししてもよいのです。
3.きよめられた後にも残る人間的な要素
「きよめ」は、「キリスト者の完全」とも呼ばれますが、これは
次に述べるような完全ではありません。
◇「神の完全」ではありません。
◇「天使の完全」ではありません。
◇「堕落前のアダムの完全」ではありません。
◇「栄光の完全」ではありません。
(1)知識的な完全を期待することはできません。
知識が不完全ですと、判断において過ちを犯します。
(2)過失から免除されないことではありません。
救いと実質的に関係のない事柄については、きよめられたキリス
ト者といえども、しばしば過失に陥ります。たとえば、行われたこ
とを行われていなかったかのように錯覚したり理解したりすること、
行ったと思ったことがしていなかったり、行っていなかったと思っ
ていたことが実はしてあったりするような過ちはあり得るのです。
(3)弱点(人間的な弱さ)を持つという意味で完全ではありません。
聖書が教えている弱点は、道徳的な性質を帯びたものでなく、道
徳と関係のない、内的、外的な不完全さです(肉体的なものだけで
はありません)。知識の足りなさや判断力の過ちからくる場合は弱
点です。また、生まれつき物分かりが遅い、思想が一貫しない、共
鳴性を欠いている、その結果として、非常に弁が遅い、ことばの選
び方が不正確である、ことばの使い方が下手である、発音がきたな
い、態度が粗雑である、身ごなしがなっていないなど、です。
(4)誘惑から免れ得ないという完全ではありません。
「誘惑は最初に知性に訴えられます。瞬間のひらめきをもって、
思いに訴えられます。これは誘惑の最初の段階です。それから誘惑
は感覚のほうに移されます。そこで誘惑は、官能、肉欲、情欲、情
感に働きかけるのです。これらが満足を得たいと刺激される危険が
あります。今や誘惑の危険な段階に来ているのですが、必ずしも罪
責を生じるわけではありません。心が罪から全くきよめられていな
い人の場合は、誘惑は多かれ少なかれ内面の共鳴を得ますが、その
悪の暗示を大事にし黙認しない限り、罪責を招くには至りません。
今度は意志が挑戦を受ける番です。誘惑者が成功を収めるかどうか
は、全く意志の決断にかかっているのです。もし、意志が誘惑に対
して『ノー』と言えば、誘惑者は失敗し敗北します。そして、たま
しいは圧倒的な勝利者になるのです」( トマス・クック著、渡辺勝
弘訳、「新約のきよめ」22、23ページ、イムマヌエル綜合伝道団出
版局、1988年
)。