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「キリスト教の神髄」
甲斐慎一郎
マタイの福音書、6章19~34節
マタイの福音書の五章から七章に書かれているキリストの教えは、
「山上の説教」と呼ばれ、聖書の中で最も有名なことばが数多く記
されています。
たとえば、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向け
なさい」とか、「自分の敵を愛し......なさい」というようなことば
はあまりにも有名です(5章39、44節)。
しかし私たちが、このような聖書の教えを真の神を信じる信仰を
持たずに、ただ外側の行為だけを模倣しようとするなら、必ず行き
詰まり、失望落胆して、果ては「キリスト教は、実行不可能なきれ
い事を教えているに過ぎない」と言って、聖書の教えやキリスト教
を敬遠したり、非難したりするようになってしまうでしょう。
このような間違いは、どこから来るのでしょうか。それは、聖書
が教えている最も大切で中心的な事柄を見失っているからです。そ
こで「キリスト教の神髄」とも言うべきことをこの箇所から学んで
みましょう。
一、第一は、人に依存することではなく、神に拠り頼むこと
です
キリストは、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、
自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と言われました
(27節)。私たちは、人のいのちに関すること、また明日や未来の
こと、そして死や罪の問題などは、人間の力ではどうすることもで
きないことを認めなければなりません。
キリスト教は、人間の力の限界を認めず、それを過信して、人に
依存する宗教ではありません。謙虚に人間の力の限界を認め、生殺
与奪の権を握っておられる偉大な神の力を信じ、すべてをゆだねて
神に拠り頼む宗教です。
二、第二は、物質的な御利益の追及ではなく、内的な救いを
求めることです
キリストは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そう
すれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言
われました(33節)。
キリスト教は、この世における物質的な祝福や恩恵を得るために
打算的に神を信じる御利益宗教ではありません。神とその救いを求
めることによって、心が変えられて、神を喜ばせることを目的とす
る内的な宗教です。
私たちが神とその救いをまず第一に求めるなら、神は、それに加
えて、必要なものはすべて与えてくださいます。ですから私たちは、
「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配する」
必要は全くないのです(31節)。
三、第三は、外側の行為の模倣ではなく、心の生まれ変わり
です
キリストは、「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明る
いが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と言わ
れました(22、23節)。ここで言う「目」とは、意図や動機また心
や霊性を指しており、「全身」とは、行為や行動また品性や人格な
ど私たちの全存在を意味しています。
キリスト教は、キリストとその弟子たちの模範的な行為や高潔な
人格を学んで、それを自力で模倣する宗教ではありません。心の中
に罪を持っている私たちは、このような外側の行為を模倣すること
は不可能です。
キリストは「あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨ
ハネ3章7節)と言われました。私たちは、罪を認めて、悔い改め、
キリストは十字架の上で、私たちの罪をその身に負ってくださった
ことを信じるなら、新しく生まれ変わることができます。
このように新しく生まれ変わることによってのみ、良いことを行
い、立派な人格が形造られるだけでなく、いままで罪のために妨げ
られていた神からの賜物や才能また様々な能力が十分に発揮されて、
神に喜ばれる人に変えられていくのです。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集