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「誘惑の意味するもの」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。2015年5月5日放映「 目に見える神と目に見えない神
」
「誘惑の意味するもの」
マタイの福音書、4章1~11節
イエスは、ヨハネからバプテスマを受けられました。それは、天
が開け、御霊が鳩のように御子の上に下って来られ、天から御父の
声が臨んだという輝かしい、栄光に満ちた時でした(三章16、17節)。
ところが、その後、「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊
に導かれて荒野に上って行かれた」のです(1節)。
一、イエスの誘惑
イエスが悪魔の誘惑を受けられたことに関して聖書は、次のよう
な不思議な出来事を記しています。
1.御霊に導かれて悪魔の誘惑を受けられた。
2.荒野で悪魔の誘惑を受けられた。
3.断食をして悪魔の誘惑を受けられた。
4.神の言葉によって誘惑に打ち勝たれた。
これらの出来事は、悪魔の誘惑に関して、私たちに次のようなこ
とを教えています。
▽神は、悪に誘惑される方ではありませんが(ヤコブ1章13節)、
悪魔の誘惑を受けることも、父なる神の許しのもとに行われます
(ヨブ1章12節、2章6節)。
▽荒野に象徴される悪い環境の中でも、また断食に象徴される肉
体の弱さの中でも、神の言葉によって悪魔の誘惑に打ち勝つことが
できます。
そしてイエスは、三つの誘惑を受けられましたが、それは、次の
ような非常に狡猾なものでした。
1,石をパンに変えよという第一の誘惑ーー目的のためには手段
を選ばないという誘惑
2.神殿の頂から身を投げよという第二の誘惑ーー神の言葉の範
囲を越えて自由にふるまうという誘惑
3.悪魔を拝んで、この世の栄華を得よという第三の誘惑ーー十
字架の道を避けて栄光に至るという誘惑
イエスが全人類の真の救い主となられるためには、救い主として
正しいあるべき姿を生き、多くのなすべき事をなし、十字架という
通るべき所を通られることが必要でした。もしイエスが、石をパン
に変えたり、神殿の頂から無傷で飛び降りたり、悪魔を礼拝したり
されるならば、人々は、ただちにイエスを救い主としてあがめたこ
とでしょう。
しかし石をパンに変えるような生き方は、救い主としてあるべき
姿ではなく、神殿の頂から飛び降りるようなことは、救い主として
なすべき事ではなく、悪魔を礼拝してこの世の栄華を得ることは、
救い主として通るべき所を通らないことです。ですからイエスは、
この三つの誘惑を拒絶されたのです。
二、誘惑の意味するもの
私たちは、何のために悪魔の誘惑を受けるのでしょうか。「誘惑」
と「試練」は、原語において同じ言葉であり、悪魔が悪にいざなう
ものが誘惑で、神が信仰をためされるものが試練であるという違い
はありますが、その目的は全く同じで、次のような三つです。
1.自分を知るため
ーー「あなたを試み……あなたの心のうちに
あるものを知るためであった」とあるように(申命記8章2節)、
私たちは、誘惑や試練を受けることによって、自分の本当の姿を知
るのです。
2.神によって生きるため
ーー「人は主の口から出るすべてのも
ので生きる」とあるように(同8章3節)、私たちが誘惑や試練を
受けるのは、神によって生きるためです。
3.ほかの人への祝福の管となるため
ーーアブラハムは試練を受
けた後、神から「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福
を受ける」と言われましたが(創世記22章18節)、私たちも誘惑
や試練に打ち勝つことによって人々への祝福の管となるのです。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集
次回は2016年9月19日「試練と誘惑の違い」です。