■日米親善試合の名目で、 ルー・ゲーリック
などメジャー選手らで構成された全米選抜チームが来日したのは1931年(昭和6年)11月だった。それを迎え撃つ全日本チー
ムは、当時人気絶頂だった東京六大学リーグのOBや現役選手たちで占められていた。
約1か月間にわたり全17戦が行われ、結果は全日本の全敗。まだ日本にプロ野球が
なく、「プロ」と「アマチュア」の違いをはっきり見せつけられた大会となった。
そこで持ち上がったのが、日本でもプロ野球を作ろうという 創設
プラン。時代もちょうど
追い風だった。この「追い風」の理由を『日米野球史』(波多野勝著、PHP研究所刊)は、3点挙げている。
(1)東京六大学は「実力伯仲の時代」であり、野球人気が盛り上がっていた
(2)全米選抜チームのプレーはファンの目を肥えさせ、選手の向上心に火をつけた
(3)学生チームが全米選抜と戦うことを禁止する「野球統制令」が結果として、
プロ創設を後押しした。
市岡忠男
、 浅沼誉夫
、
三宅大輔
、 鈴木惣太郎
ら。そして出た結論は、おおよそ次のようなものだった。
・
最強チームをまず国内にひとつ作る
・毎年アメリカの西海岸(パシフィック・コースト・リーグ)に行って50試合を行う
・夏には帰国し、秋は逆にアメリカチームを来日させて試合する・
・一方で、日本の各都市にチームを結成し、数年後に日本選手権を行う
・200万円の株式会社を作り、水道橋の近くにホームグラウンドを作る など
プランだけでは仕方がない。当然、相応の資金が必要だった。これは資本家に委ねる
より他に方法はない。昭和9年の夏、4人は日米親善試合を主催してきた読売新聞社・
正力松太郎
社長にそれを仰いだ。
「よろしい、引き受けた!」
正力は力強くそう話し、創設プランは急速に現実味を帯び始めた。
■ただ読売新聞社に資本を仰ぐことに反対した人もいた。浅沼誉夫もその一人。
理由は 職業野球が新聞社に利用されること
を危惧したからだが、リーダーの
市岡忠夫はそれを押し切って、読売に打診することを決定した。
鈴木惣太郎も、(残念ながら) 読売がこれを興行的に使う
ことは予想がついて
いた。だから少なからず不安をもって、この時のことを鈴木はこう記している。
「これが、果たしてよかったか、悪かったかは、もう少し後になってからの判断を
待つべきものであろう。・・・ひとりプロ野球ばかりではない。日本における野球
の発達は、おおむね新聞社の報道関係以外の事業関係と、密接な連絡を持つ
宿命に置かれている。
(以上、参考:『日米野球史』)
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