あま野球日記@大学野球

あま野球日記@大学野球

2009.08.04
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カテゴリ: 大学野球

昨日の続き。


前回、戦後間もない1945年(昭和20年)10月28日、「オール早慶戦」が
開幕したのを皮切りに大学野球が復活を遂げた、と書いた。


そこで一番の疑問は、用具はどうしたのだろう? ということ。なにせ、
「職業野球(東西対抗戦)が復活した時は肝心の用具がなく、 鈴木竜二
日本野球連盟会長(当時は専務理事)が西宮にあった4ダースのボール
をリュックに詰め、死に物狂いで東京に運んできた」のである。大学野球
だって事情は似たり寄ったりだったろう。そうボクは思っていた。

鈴木竜二 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「鈴木竜二が必死になって運んだ4ダースのボール」  (2009.8.1) → 
こちら へ。

ところが、大学野球はちょいと事情が違っていた。早稲田大野球部が戦中も
きっちりと道具を守っていたのだ。書籍『早慶戦100年 激闘と熱狂の記憶』
(富永俊治著、講談社刊)にそのへんのことが詳しく書かれている。


きっかけを作ったのは 飛田穂洲 のひとこと。
「今は戦争で野球がやりにくい時代だけど、戦争が終わりさえすれば、すぐに
野球の時代がやってくる。その時に肝心の用具がなかったら、野球そのもの
がやれないよなぁ」


飛田の命を受けたのは当時マネージャーだった 相田暢一 。慌てて用具を買い
集めた。そして相田が出征後は、昭和19年度の主将・ 吉江一行 が管理を引
き継ぎ、まさに用具を「死守」した。


「空襲警報発令のサイレンが鳴るや、まだ合宿所に残る数人の部員たちと
手分けをしてバットやボールを敷地内の防空壕に運び込み、警報解除ととも
に、今度は部員たちの手渡しで用具を倉庫に戻す重労働を繰り返した。晴れ
た日には湿気を取るための虫干しも」
行っていた。


そんな吉江らの労苦があったから、戦後すぐに大学野球が復活したとも言える。


吉江主将には悲しい後日談がある。終戦直前、とうとう吉江は戦場に送り込ま
れることになる。そして戦場で病を患い、その病気がもとで戦後間もなく故郷の
福島県で亡くなってしまった。先に「死守」と書いたのはそういった事情があった
から(多少の語弊はあるが)。大学野球を復活させるため命を捧げたような人
だった。残念ながら「大学野球が復活した試合」を目にすることはなかったん
だろうなぁ。



この記事は「ボクにとっての日本野球史」の中で、次の期に属します。
→ (第5期)
1946年(昭和21年)、終戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降


◇  「ボクにとっての日本野球史」  (2009.7.1)、 INDEXは こちら へ。



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Last updated  2009.08.08 10:27:37
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