昭和49年10月14日の感動の場面以来、長島はマスコミ界に旋風を巻き起こしつつ新監督の道を歩いた。スポーツ紙、週刊誌、単行本のすべてが「長島もの」なしでは夜も昼も明けぬ狂乱時代に突入した。しかし、それとは、うらはらに背番号90の行く手は苦難に満ちたものであった。
■1974年(昭和49年)10月14日、 長嶋茂雄
が中日戦を最後に現役を引退した(38歳)。ボクは祖母と一緒に引退試合を自宅のテレビで見ていた。元々巨人ファンだったものの、いつの頃からか徐々に巨人への興味がフェイドアウトした。常勝軍団とかいう言葉が、実はたんに「やりたい放題」球団と同義語ではなかろうか、そんな考えが頭の中にもたげ始めたからだ。
そんなわけで、この頃には完璧なアンチ巨人に変貌を遂げていたボクは、長嶋茂雄の引退に涙を流しつつも、翌75年の巨人の惨状(球団史上初の最下位)には心躍らせたものだった。特に「ジョン損」こと デーブ・ジョンソン
の不振は痛快だった。しかも、ボクが好きだった 黒江透修
の背番号「5」をつけていたから、ジョンソンに対しての憎悪は一層強いものだった(苦笑)
そのため、当時、ボクのプロ野球・セリーグの見方は、長嶋は好きだけれど、巨人は負けろ! の一念だった。
■同75年の近鉄バファローズは、前年から 西本幸雄
監督が指揮を執り、上昇気流に乗り始めていた。後期には念願の初優勝を飾り、プレーオフで阪急に敗れるも(1勝3敗)、その後の「江夏の21球」「10・19」につながる、近鉄の、ある意味で黎明期だったと思う。
大和球士
さんは 「どうも近鉄の監督西本は一本勝負に弱い。大毎監督時代に1回、阪急監督時代に5回、長期リーグ戦には優勝したものの、一本勝負的な日本選手権には勝ったことがなく、いままた・・・」
と書いている。
その指摘どおり、実際に最後まで西本さんが勝つことはなかった・・・。
個人成績では鈴木啓示が勝率第1位、またベストナインには鈴木啓示と佐々木恭介、ダイヤモンドグラブ賞に有田修三が選出された。
■同年の東京六大学野球は、春秋ともに明治大が優勝した。法政は「花の昭和49年組」の二年目で戦力に勝っていたもののチームワークを欠き、エース・ 江川卓
をもってしても優勝できなかった。
『東京六大学野球80年野球史』(ベースボール・マガジン社)によると、法明戦3試合はそれぞれ3万5000人、4万8000人、4万人の大観衆を集めたという。今の閑散とした神宮からは想像できない観客数である。
また11月18日、東京六大学野球連盟50周年記念試合として、プロ野球在籍の六大学OBによる紅白戦が行われ、荒川博監督(早稲田OB)率いる白軍が西本幸雄監督(立教OB)率いる紅軍に5対4でサヨナラ勝ちした。
■同年の甲子園は、高知高が 原辰徳
を擁した東海大相模高を破り優勝。この試合は、ボクが初めてスコアブックをつけながらテレビ観戦した試合だった。そして夏を制したのは習志野高、決勝で新居浜商高にサヨナラ勝ちした。この時、習志野高のエースは小川淳司。現・ヤクルト監督である。
■同年、世界ではベトナム戦争が終結し、南ベトナムが崩壊した。また国内では沖縄海洋万博に沸き、ボクが学生時代にバイトした日刊ゲンダイが創刊されたのもこの年。「JJ」(光文社)や、愛読した「ビックリハウス」もこの年に創刊された。
「アンタ、あの娘のなんなのさ」が流行語になり、歌謡界では「さらばハイセイコー」「年下の男の子」「わがよき友よ」がヒットした。
同年生まれのプロ野球選手には、松井稼頭央、 上原浩治、高橋由伸らがいる。
■「近鉄のムーンライト・グラハムに会いに行きたい」などといったものを書きながら、じっくり野球史の書物を読みたいと思うようになり、『野球百年』(大和球士著、時事通信社)を読みつつ、頭に浮かんだ事柄を年表にまとめる如く、このブログに書くことにしました。
この書物は資料を含め全700頁余に及ぶ大作で、日本に野球が伝えられた頃から1975年まで、事細かに記されたものです。当然、明治時代から順番に書く方法もありますが、たぶんそれでは早く飽きがくる懸念があり、最後の1975年から逆に時代を遡って書くことにしました。そのほうが面白そうだ、と。いつになったらホーレス・ウィルソンに辿り着か分かりませんが、よろしければ、お時間のある時にお付き合いください。
テーマは「プロ野球」「近鉄」「大学野球(東京六大学)」「高校野球」「社会・世相」に区分してまとめていきます。
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