今回は、 鶴岡一人
さんについての最終回です。
■鶴岡さんと言えば「グラウンドにはゼニが落ちている」が有名です。プロ野球人ならば、金を稼げ!そのためには人の2倍、3倍の練習をしろ!!と、選手を鼓舞するものでした。しかしご本人は、この言葉の独り歩きには弱った様子で、
「多少誤解されているようだが、私自身、さほど金銭に執着したことはない」
と、銭ゲバのごとき世間からの人物像をキッパリと否定し(笑)、その上で、金銭のことで球団にかみついたのはたった一度だけだったと述べています、それは南海の監督時代のことでした。
「選手の契約更改交渉の席で、球団側が『監督でもこれだけだから、これで辛抱しろ』とやった時だ。監督がもっともらってくれたら・・・と選手たちに文句を言われてそれを知り、『正当な評価をもとに年俸を決めるべきものを、私のサラリーをダシにするとは卑怯』とねじ込んだものだった」。
■さらに、南海入団時の契約金についてエピソードを明かします。もし兵役にとられて死んだらこの契約金を両親に送ってくださいと、大学生時代から公私ともに世話になった医師に預けたそうです。その後、鶴岡さんは予想通りに兵役にとられて戦場に赴くのですが、戦後になって会うと、その医師は契約金全額を満州重工業の株に投資して失敗、すべてを失くしてスッカラカンになっていたそう。ただただ平謝りする医師に対し 、「心配しないでください。私は若いから、これから稼ぎます」
と言って穏便に済ませたとか。
「契約金の額は、大企業の部長クラスが住む家を一軒買える額」と、鶴岡さんは表現しています。具体的な額はわかりませんが、きっとすごい額???だったのでしょう。嘆いたり、怒ったり、訴えたり・・・、それが当たり前と思いますが、
「 無一文になったおかげで、かえってファイトがわいたのだ。わたしは決して先生(医師のこと)を恨んだりはしていない」
と明るくキッパリ。
「グラウンドにはゼニが落ちている=お金にがめつい鶴岡」の図式を、本人はよほど気にしていたのでしょう。そうではなく、むしろお金には無頓着だったことを懸命にPRするあたり、そういった内心を忖度してしまいます。
■最後に少年期、青年期の交友記を・・・。
鶴岡さんが少年時代を過ごした広島・呉には、一緒に草野球に興じ、ともに広島商で甲子園優勝した浜崎忠治がいた。浜崎はのちに中日を経てプロ野球審判員となり、有名な平和台事件(昭和27年)では主審を務めていた。浜崎の実兄・真二も阪急で活躍した元プロ野球選手。
また、昭和6年に広島商で甲子園優勝した際のご褒美はアメリカ遠征だった。ノンプロやハイスクールを相手に30試合を戦い、28勝2敗の成果を収めた(本人の記載より)。相手チームには、後に親交を深めるキャピー原田がいたし、最後に立ち寄ったハワイのチームには、後に巨人で活躍するウオーリー与那嶺がいた。鶴岡さんの著書には与那嶺のことは書かれていないが、与那嶺は覚えている。自著『野球を変えた男』に「日本のチームに、ショートを守る大柄な男がいた。それが鶴岡だったと、後になってわかった」と。
そして、法政大に進学すると、最上級生に七色の変化球で法政を六大学リーグ初優勝に導いた若林忠志がいた。また、少年時代にライバルだった藤村富美男に法政入学を勧め、入学する段取りが整っていた。しかし、鶴岡さんの『私の履歴書』によれば、
「藤村のいる呉港中が神宮大会で上京した時は、法大グラウンドを練習場に提供した。藤村君の打球がフェンスを越え、通行中の老婦人にケガをさせたことがあったが、その治療費も法大がもった。それなのに、藤村君は阪神へ入団した」。
う~ん、なぜだ?
■さて、鶴岡一人さんについて、計5回に分けてブログに書きました。その間中、ボクの頭の中に聞こえていたのは、鶴岡さん独特のダミ声?(笑)です。その昔、NHKのプロ野球中継といえば、解説者は鶴岡さんであることが多かった。戦況や選手心理を冷静に伝えるも、時には突き放したような語り口に特徴があったと記憶しています。したがい、ボクにとっての鶴岡さんは南海の選手・監督としてではなく、NHKの解説者としての印象が強いです。
このブログは今後もどんどん時代を遡っていきます。鶴岡さんのことに触れる機会がますます多くなると思いますので、途中でネタ切れせぬよう、このへんで一旦終了とします。
<まとめ>
鶴岡一人さんが日経『私の履歴書』で語ったこと。
(1)野村克也とのよき思い出と、憤り
http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201601280000/
(2)穴吹義雄を得るも、長嶋茂雄、広岡達朗、稲尾和久を逃す http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602020000/
(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(上) http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602180000/
(3)泣きっ面に蜂、別所引き抜き事件と三原ポカリ事件(下) http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201602230000/
※その他の関連記事として、
「蔭山死して、鶴岡かえる」
http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201502010000/
(写真)法政大時代の鶴岡一人。~『私の履歴書ープロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫)より~
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