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まもなくニューデリー駅に行かなくてはならない時間となった。夕方5時出発の寝台特急でガヤー駅まで向かう。今回の旅の中では仏教発祥の地であるガヤーが一番遠いのだが、以前から仏教には大変興味があり、この場所だけはどうしても外せなかった。行人ではないが釈迦と同じ菩提樹の下にどうしても座ってみたかった。そこに座れば何かを感じ、人生の転機が訪れるような期待感さえ感じられた。 旅行代理店からオートリクシャーでニューデリー駅に向かった。普通なら宿から歩いて駅まで向かうはずだったのだが、お金を払うと無駄な労力を払わなくて済む。 電車のサービスは良く、軽いスナックが2回と食事が1回出た。その度にポットに入ったお湯と紅茶のティーバックも支給される。向かいのベットには2人のインド人が座っていたが料金が高いこの電車に乗るくらいの人達だからきっと位の高い人達だったのだろう。友好的に楽しい会話を英語で楽しんだ。 窓の外は真っ暗となり何も見えない。8時を過ぎた頃から横になる体制に入りだした。ここに集まった4人の中でガヤーで降りるのは私だけだ。食事も済ませ、やる事がなくなったので電気を消して眠る事に全員一致で決定した。 夜中にふと目が覚めると時間は明け方の4時。近くを歩いてきた車長に到着予定時間を聞いてみると後50分だと答えた。私は自分の荷物を整理して、直ぐにでも降りられる体制を整えて時間を待った。まもなくガヤー駅に到着しそうな雰囲気を感じたとき、下で寝ていたおじさんが起きてきて「気をつけて!」といいながら果物を差し出してくれた。 お礼を言ってバックを背負い、暗いプラットホームに下りた私は右に行けばよいのか、左に歩いていけばよいのかさえ判らない状態。ニューデリーから12時間。とりあえず出口を探して歩いていったら、どこからか流暢な日本語で「鈴木さんですか?」との声。 見るとパソコンでプリントアウトされた活字で「Mr.SUZUKI」と書かれたプラカードを持った伊藤四郎みたいなおじさんが近づいてきた。お金を払ってあるとはいえ、まだ真っ暗なガヤー駅の構内で待っていてくれた人がいたこと自体が嬉しかった。 まるで新潟辺りにありそうな感じの駅だ。やはり改札が無く切符を回収する人もいない。ガイドのおじさんに連れられて駅前の広場に停めてある車まで歩いた。 駅前は真っ暗だと言うのにたくさんの人が座り込んで電車を待っているようだった。その姿が頭から布を被り薄気味悪い。きっと貧しい階級のおばさん達が汚くも見えるサリーを被っているとゾンビにさえ見えてきた。道にびっしり座っている人達に注意を向けながら車へと向かい荷物を押し込んだ。やはり別にもう1人運転手が待っていた。 車は真っ暗な寂しい道を20分走ってホテルへ到着した。カウンターでチェックインを済ませ、部屋へ荷物を運んだ。時間は朝の5時半。どこかに出かけるには早すぎる時間だ。ガイドのおじさんと打ち合わせをして8時になったら迎えに来てもらうようお願いした。 昨夜泊まった安宿とは大違いだ。ベットは2つ在り綺麗にメイキングされてある。テーブルにはポットとコップが用意されていたがお湯が入っていなかった。ケーブルテレビも完備されている。トイレはシャワーと一緒だが大理石で作られてある。しかしお湯は出なかった。軽く寝ようかと思ったが寝台車で寝ていたので眠くない。 時間を潰して早めに部屋を出て1回ロビーに行くと従業員3人がロビーに毛布を敷いて寝ていた。私が降りて行ったために起こしてしまった。チャイを飲みたいということで注文した。チャイを2杯飲み終えた私はホテルの前を散歩してみることにした。 さっきは暗くて分らなかったがホテルは4階建てのピンクの色をしたペンションみたいな綺麗な建物だった。ホテルの前の通りは田舎のせいか物静かだ。たまにレンガ色の袈裟をきたチベットのお坊さんが通る。自転車やリクシャーは通るのだが車の数が少ない。ホテルの直ぐ向かいにはチベットのお寺や日本のお寺もあった。 朝から子供達が集まって遊んでいた。ホテルの前で通りを眺めていたらガイドのおじさんがオートバイで参上した。ここのホテルは朝食付だというので1階にある食堂で朝飯を食べることにした。内容はもちろんカレーだった。食事を済ませた私は早速ガイドの案内でブッダガヤーに向かうことにした。
2006年01月07日
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たいした写真ではありませんが雰囲気が分かっていただけたら幸いです。http://asia.pg.photos.yahoo.com/ph/hapon_george/slideshow2?.dir=b35a&.beg=0&.src=ph
2005年12月26日
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チャイを飲みながら私は自分が行動したい内容を男性に日本語で話した。彼が言うには「短期間でそこまで回るのは無理だ。でも私が全て手配しましょう。」 もともと今回はバックパッカーのように安宿に泊まり、1番安い寝台列車で移動して滞在費を安く上げようという考えでいたのだけれども、インドの来て24時間も経たないうちに今後の不安が出てきてしまった。この際、多少の出費は致し方ないのでお金を払ってでも今回の目的の場所を無事に回りたいと思った。次回、インドに来る予定は今のところ無い。あとで行けなかった場所を後悔したくは無かったからだ。 彼に頼めば電車の切符、ホテルの予約、駅からホテル及びホテルから駅までの送迎、全て賄えると言う。ある意味でセレブ的な旅行になってしまうが何も心配しなくて良いのでストレスも溜まらないだろう。 私は500ドルほど払って、お願いすることにした。はっきり言って500ドルと言う金額はかなり高い設定になっているとは思ったが、この際お金ではないと開き直ってしまった。 とりあえずガヤーへ行くまでの切符は自分で買って持っている。出発は夕方五時にニューデリー駅からだ。 旅行代理店の男性が言った。「全て手配するまで多少時間がかかる。デリーの見学は終わりましたか?」 夕べ到着したばかりの私はデリーどころかパハ-ル・ガンジの町さえ良く見ていなかった。「よければ時間があるのでデリー見物に行きませんか?車と運転手を用意しますよ。」 私は断ること無くお願いした。 いったん宿へ戻りチェックアウトして荷物を取りに行こうと考えた。先ほどの若者2人はしっかりと外で待っていた。多分、後で代理店からマージンを貰うんだろうなと考えた。 若者2人を引き連れて、パハール・ガンジを宿へと向かう途中で両替商の店で円をルピーに変えた。もう残念ながら今後パハール・ガンジに戻ってくる時間はなさそうだ。普通ならすべての店を見て周り、何が売られているのかチェックするのだが今回は殆ど時間が無いと言う状態になってしまった。気が付けばお昼を回っていた。 ホテルに戻るとボーイが近づいてきて「12時を回っているから延泊料金をもう100ルピー払え」と言って来た。私は本で読んでいたので「インドでは24時間ごとのチェックアウトではないのか?私はまだ到着してから24時間経っていないぞ。」といったら「ここは12時がチェックアウト時間。100ルピー払っていただきます。」と引かない。 現在12時45分。1時間分だけ払うと言っても一切ノーだ。しかたなく100ルピーを渡して部屋に戻ると扉には南京錠が掛けられていた。おいおい、100ルピー踏み倒して逃げはしないぞ。 私はボーイの所まで戻って何故鍵を掛けたのか聞いたら、荷物が在るから物騒なので鍵を掛けたと言ってきた。たしかに今朝、荷物に鍵を掛けてそれをベットにくくりつけて部屋を出たわけだ。特に盗まれて困るようなものは残さなかったが鍵は持っていなかったので掛けなかった。 ボーイに部屋を空けてもらい荷物をまとめて宿を後にした。薄暗い宿の扉から表のパハール・ガンジに出ると先ほどの青年2人がオートリクシャーをチャーターして待っていた。オートリクシャとはバイクに屋根をつけた3輪オートのようなタクシーで形は違うがフィリピンのトライスクルー、タイのトゥクトゥクと同じようなものだ。今回乗ったのが初めてとなった。 オートリクシャーに乗ってパハール・ガンジを走り、先ほどの旅行代理店まで戻った。またしても事務所でチャイをご馳走になった。チャイとはミルクティーに沢山の砂糖を加え生姜のスパイスを多少効かした暖かい飲み物だ。これが癖になるほど美味い。今日は朝から何杯飲んだのだろうか? チャイを飲み用意された車に乗込んだ。運転手のほかに日本語がペラペラなガイドが付いた。今回も車はタクシーではなく一般の自家用車だったが、もうこの際気にならなかった。 車はニューデリーの街を走りオールドデリーへと向かった。最初に着いた場所は「ラージ・ガート」と言う場所で、あのマハートマー・ガンジーのお墓かなと思いきや実際には骨が入っていないと言うことを日本に帰って調べてから分かった。どうやら遺骨は死の翌日に火葬されてインド各地の河に流されたようだ。と言うことは「ラージ・ガート」は単なる記念碑だったと言うことになる。 さすがにヒンドゥー教の色が強く黄色の菊のような花が沢山飾られていた。日本とは違い、茎は切られていて花だけが飾られているので緑の部分は見当たらない。 広い公園のような敷地には綺麗に芝が植えられていて沢山のインド人が参拝していた。運転手は車の場所で待機して日本語の分かるガイドと一緒に歩いて回った。ガンジー記念博物館というのが在ることをガイドブックで見て知っていたのでそこにも行きたいと言ったら「ちょっと遠いので時間が無い。」との返答だった。後で地図を確認したら交差点を挟んで直ぐそばじゃないか。やはりインド人。決められた事だけを早めに済ませて金を取ろうという考えだったのだろう。 その後我々は「インド門」へと向かった。1931年に完成したこの門は第1次世界大戦で戦死したインド人兵士の慰霊碑らしい。日本で言えば靖国神社だ。 フィリピンのリサール公園みたいな雰囲気だった。その場所は門以外に特に見るものは無かった。沢山の白人観光客が目に付いた。 車まで戻りあと何箇所か寺院のような場所を見学したのだが何処に連れて行かれて何を見たのか良く分からなかった。 ポイントの場所を見終わりニューデリーの旅行代理店に戻る途中、運転手が「食事しよう。」と言い出した。はっきり言って朝駅前で食べたカレー以外何も食べていなかった。 私は「マクドナルドへ行こう。」と言ったら直ぐにOKが出た。日本にいるとき友人から「インドにはマハラジャバーガーという物がある。」という事を聞いていた。このさい経験でそれを食べてみたいと思った。 車を走らせ10分ほどすると交差点の角にあるマクドナルドに到着した。インドでは珍しく入り口にガードマンがいてドアを開けてくれた。ちなみにフィリピンでは、ほとんど何処に行ってもガードマンがいてドアを開けてくれる。 中に入ると日本のマクドナルドと似たような感じだった。カウンターの列に並びマハラジャチキンバーガーセット(99ルピー約250円)を2人分頼んだ。宗教柄ビーフを食べないインドではチキンが主流だ。タンドリーチキンのような味が付いたチキンパティが入っていたが味は美味しかった、、ような気がした。 食事を済ませ車に乗り代理店まで送ってもらった。降りる際チップの要求。まったくこの国はチップがないと生活できないのか?あくまでもチップというものは志であって自分から要求するものではないという事を知らないらしい。 インドの来る前はインド人は皆頭が良く2桁の掛け算まで暗記してると聞いていたのだが、頭の悪い人間ばかりで多少嫌気が差してきていた。 代理店に戻るとチケットの手配が済んでいてホテルなどの説明を受けた。仕事をきちんとこなす人もいたので嬉しかった。とりあえずこれで殆どの問題が解決したぞ、そう思った一瞬であった。
2005年12月26日
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何も無い真っ白な四角い部屋.2つのベッドだけが置かれていた。1本の蛍光灯の傍で音を立てて回るシーリングファン。まるで映画「ビーチ」に出てきそうな風景だ。今まで何度も海外旅行に出かけたが、今回のような安宿に泊まったことはほとんど無かった。最近塗られたらしい白い壁のペンキはよく見るとむらが有りうっすらと何か書かれていた痕が見える。それは日本語で書かれていて、「今日バナラシ来る途中、電車の中で現金とパスポートを盗まれました。今後電車を使う人は気をつけてください.」と書かれてあった。 耳を澄ますとどこからかインドミュージックがかすかに聞こえる。隣の部屋あたりで誰かが咳き込んだ。ベッドには白いシーツと硬い枕しかない。フィリピンと違って暑くは無いが涼しく感じられる。ブランケットも用意されていないので日本から着てきた薄手のジャンパーを羽織って眠ることにした。 翌朝いつものごとく暗いうちから目が覚めてしまう。まだ朝の4時だ。部屋から出てみたがまだ星が見えるほど真っ暗で人の気配も感じられない。一旦部屋の中に戻り荷物の整理をしてみた。インドに来てまだ半日も経たないうちからあまりにも色々のことがありすぎる。タクシーや旅行代理店ともめたり、カレーを手で食べ生水も飲んでしまった。 殺風景で寂しげな安宿。今回は年内残った有給休暇を全部使っての1週間の旅だ。まして今回のインドと言う場所は、かなりの思い入れがあった場所。はっきり言って旅の最終地点とまで思っていたわけで、素晴らしい思い出を作らない訳にはいかない意気込みもあった。 朝5時半をまわると紺碧だった空が薄明るくなりだした。今日の予定は本日中に出発するガヤー行きの電車に乗ることだ。もちろんチケットもまだ無い。 白けた空を確認し、外へ出ることにした。階段を下りていくと入り口付近の暗闇にボーイが2人ほど毛布に包まって眠っていた。扉には鍵が掛かっていて外に出られない。悪いとは思ったが寝ているボーイを起こし扉を開けてもらった。 パハール・ガンジ通り。通称メインバザール。ここは世界中のバックパッカー達が集まる場所で安宿街でもある。治安に関しては詳しい情報を得ていない為よく分からないが、どこの国へ行っても泥棒くらいはいるだろう。まだ通りを歩く人の姿もまばらだ。ほこりにまみれた道路には何頭かの牛の姿も見える。 とりあえず駅の方向に向かおうと左側に歩いた。 宿を出て直ぐの場所に屋台のチャイ屋が店を出していた。2人の労働者風の男がチャイを啜っている。私も迷わずチャイを注文した。多少涼しいインドの朝にチャイが身にしみた。屋台の後ろ側に在る道端に腰を下ろしてしばらくの間通りを観察した。時間が早い為、全ての店は閉まっている。女性や子供の姿は見えず薄汚い格好をした男たちばかりだ。チャイを飲み終えた頃にチャイ屋のオヤジが「もう1杯か?」と勧めてきたので御代わりのチャイを頼んだ。 今度はオヤジの後ろに立ちチャイの入れ方を初めから見せてもらった。鍋に水と紅茶の葉をいれ火に掛けその後同じ分量のミルクと多目の砂糖を加える。生姜の切れ端を入れて沸騰したら火から降ろし、茶漉しを使って小さなカップに注ぎ込まれる。チャイを入れるガス台の脇にはもう1つコンロが用意されていてフライパンが置かれている。オヤジが「オムレツを食うか?」と聞くので断る理由も無かった。フライパンに溶いた卵に玉ねぎのみじん切りとガラムマサラのようなスパイスを入れて焼いただけの物なのだがパンにはさんでサンドウィッチにするとチャイに合って非常に美味かった。オムレツもお変わりをして2皿食べた私は駅方面へと散歩に出かけた。 さすがに駅近辺は車やたくさんの人で騒がしかった。ニューデリーの駅は横長で立派な造りなのだが駅前は妙に汚らしい雰囲気だ。荷物を置いて道に座り込むたくさんのオバサン連中。タクシーやリヤカー、オートバイそれと牛たちが入り乱れている。けたたましいクラクションと騒音。このような風景はフィリピンでも同じだ。 駅前の一角に食堂街が見えた。食事を済ませたばかりだが、好奇心で足を運んでみた。たぶん出勤前かと思われる大勢の男たちが群がっている。しかし今日は日曜日だ。カレー屋、チャイ屋、ラッシー屋。多分インドの庶民的な食べ物は全て揃っているのだろう。 とりあえず1軒のカレー屋に入ってみた。どんなカレーがあるのか分からないのでテーブルに乗せられた大きな鍋を覗き込んでみた。「チキンカレーは無いのか?」と聞くと「無い」と言う。しかたなく肉の入っていないカレーセットのような物を注文してテーブルに着いた。いすに座りやることも無くあたりを見回してみた。店の看板にベジタリアンと書かれてあった。どうりでチキンカレーが無いわけだ。しばらく待つと味気ない金属の食器に乗せられたカレーと薄いチャパティーが運ばれてきた。茶色の薄いチャパティーを手でちぎりカレーを付けて食べてみたが大して美味いとは思わなかった。 カレーを食べ終えた私は隣の店のラッシー屋へと向かった。ラッシーを注文したが日本のインドレストランで飲んだことがあるラッシーとは少し違っていて上にヨーグルトのような塊が浮かべられていた。しかし味は美味しかった。 時間をかけて目の前を通り過ぎていくインド人を観察した。肌の色が黒くフィリピン人のそれ以上だった。アラビア系の顔立ちでホリが深く鼻が高い。目つきが悪く見える人がほとんどのような気がした。 時計を見ると朝8時を回った。駅前や通りに活気が出始めてきた。丁度ニューデリーの駅前にいるのでガヤー行きの切符を買いに行くことにし駅へ向かった。駅前の通りを車に気をつけながら渡りきった所で1人の男が近づいてきた。「切符を買うのか?今日は日曜日で休みだ。あっちにツーリストセンターがあるから案内するよ。」 本日1人目のペテン師の登場である。この手の話は「地球の歩き方」に書かれていた。 そんな古い手に引っかかる私ではない。「いまさら日本人でそのような話を信用するやつは誰もいないよ。おとといきやがれ。」と言ってやろうと思ったがどうせ英語で話しても理解できないだろうし、丁度いい英語も思い浮かばなかったので睨みつけながら無視して駅の中へと向かった。 するとその男が叫んだ。「そっちじゃなくて右側から2階に上がるんだ。」そんな話は一切信用せず、ど真ん中の階段から上に上がったら男の言うとおり右側から上がるのが正解だったらしい。途中から急にいい奴になって紛らわしいぞ。 2階に上がって多少薄暗い通路を進んでいくと左手にチケットセンターがあった。ガラス張りのドアを開けて中に入ると韓国人のグループとインド人の客しか見当たらない。壁際に合った用紙に行き先を書き込み、ソファーに座って順番を待った。私の順番が来て紙を渡した。日本にいるときからインド国内の鉄道時刻表をネットで購入してあり今回持参していた。インターネットで前もってチケットを購入できるのは知っていたのだが上手くログインできなかった為に今回のような状況になってしまったわけだ。 どうしても明日朝までに今回1番遠いガヤーまで電車で行かなければ時間的に回りきることが出来ない。 カウンターに座ってコンピューターを操るインド人が「支払いはドルかルピーのみでカードは使えない。」と言ってきた。私は「ルピーで払う。」と言って現金を渡すと「両替した際の領収書が必要だ。」と言ってきた。 たしかにそのような事は本で読んでいたのを思い出したが、空港の銀行で両替した時名にはすっかり忘れていた。「銀行で貰わなかった為に持っていない。どうしたらいいのか?」と聞いたら「入り口の脇にヘルパーデスクがあるから相談に行け。」と言われた。仕方なくヘルパーデスクに行きそこにいた体の大きなインド人に事情を説明すると「マイフレンドよ、ノープロブレムだ。私が書類にサインをして差し上げよう。」みたいなことを言いながら名前らしき物を書いてくれた。 その書類を持ってまた列に並ぶことになった。チケット1枚買うのにも勝手が分からないと時間が掛かってしまう。何とか無事に夕方5時のガヤー行き寝台車のチケットを3千円くらいの料金を払って買った。正確な料金は覚えていないがこの場所でぼられる事は無いだろう。 チケットを手に入れた私には夕方まで十分な時間が有った。せっかくだからバハール・ガンジの町でも散歩することにした。天気はよい。時間的に商店もみな開いている。たくさんの人ごみと車の流れ。昨夜の静けさとは全く違う風景だ。夕べ結婚式があった場所まで戻ってみた。そこは野菜市場になっていた。通りのほぼ中央あたりだった。 リクシャーと呼ばれる人力タクシーやバイクを改造して作ったオートリクシャーが狭い通りを行きかう。のら牛もあちらこちらにいて邪魔くさい。ガイドブック片手に洋服屋や土産物屋を横目に見ながら映画館がある場所まで歩いてみた。リヤカーの花屋、道路に椅子を出しただけの床屋。道端で焼き物の壷を売る人。屋台の食べ物やから道端に座り込んで商売するチャイ屋。町は活気に溢れていた。 道を一人で歩いていると時たま若い男たちが声を掛けてくる。「ハローどこへ行くんだ?」極力うさんくさい連中には近づかないと決めていたのだが、時間もたっぷり有ることだし暇つぶしに利用してやろうと思いついた私は「洋服を買いたい、しかもインドスタイルのをね。」と言ってやった。すると「いい店があるから案内するよ。」と言うことになった。予定通りの行動だ。もし嫌になったら適当に巻いて逃げればいいと思っていた。 「この近辺で1番大きくて有名なデパートがあるからそこへ行こう。」と言う。実際に行ってみたい気になった私は2人の若者と一緒に歩き出した。途中いくつもの小さな寺院が目に入った。中には派手な色に塗られたインドの神様が祭られている。黄色い菊のような花が供えられているのだが、派手な色が神聖さを感じられない。 大きな通りの脇でチャイ屋を見つけ休憩することにした。チャイの味が気に入り、ここでも2杯飲み干した。しばらく行くと結構立派なビルの前まで行き「ここが政府が経営している洋服屋だ。」と言う。 ガラス張りにタイル造りの建物の階段を上がり中へ入ってみた。」同行した2人の青年は外で待つと言う。1階は貴金属やアクセサリーを扱った高級な造り。絨毯が引かれ、ガラスのショーウインドーの中にはシルバー製品や宝石関係の物が綺麗に飾られていた。 洋服は地下にあるというので階段を下りてみた。そこは高級生地屋といった感じで、スーツ姿の男性やサリーを着た上品そうな女性が客の接待をしていた。どうやらオーダーメイドの店らしいが、そんな高級な物は私には必要ないし、時間も無い。店員が既製品もあるというので見せてもらった。たしかに生地も仕立ても良いが値段も高かった。 せっかく来たのだから1枚上下で買っていこうかと思ったら口車に乗せられ2セットとショールまで買ってしまった。1度着ただけで色が落ちたり縮んだりする安物よりいいか、と自分を納得させて店を出た。結構長い時間店内にいたにもかかわらず外では若者2人が私を待っていた。これは完全にチップ目当てだと言うことは想像できる。 結局買い物を済ませた私は、もうデパートへ行く予定があったことなどすっかり忘れてパハ-ル・ガンジ通りへと2人を引連れ歩き出した。途中脇道にある旅行代理店に連れて行こうとする。もうその手には引っかからない自信は十分あったのだが、今朝のニューデリー駅でも出来事が頭に浮かび、かえって金を払ってでも全て手配してもらった方が事がスムーズに運ぶのではないだろうかと考えてしまった。 とりあえず小さな代理店の事務所に入ってみることにした。中は小さく3つの部屋に分かれていて、その1つの部屋から日本語が達者な男性が出てきた。テーブルに着くように薦められチャイをご馳走になった。どこに行ってもチャイが出てくる。
2005年12月19日
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ほとんど街灯も無いようなパハ-ル・ガンジー通り。左へ行けば駅があることだけは先ほど歩いていたので分かっている。ボーイが言うように右側へ歩いていったが人気も少なく薄暗い。時たま見えるのは、安宿の人気が無い建物だけが電気をともしていた。少ない人の中から何人かにインターネットカフェの場所を聞いてみると「あっち。」と言う答えが返ってくるのだが、いっこうにそれらしい場所が見つからない。細い路地まで入ってみたが、薄気味悪い雰囲気だったので引き返して明日にすることにした。せめて食事でも、と思い大きな通りをしばらく歩いてみた。どこまで歩けば食堂があるのか見当が点かない。インドに着いてからまだ何も飲んでないし、食べてもいない。時間は現地時間の夜11時頃だったと思う。急に視界に明るくて人が群がっている場所が飛び込んだ。韓国の南大門市場にある食堂街のような盛り上がりだ。自然と足がそちらに向かった。夜遅いというのに綺麗に着飾った子供や女性たちがたくさんの男性の中にいた。これはいったい何の集まりなのだろうか?何かのお祭りのように見えた。長く繋がれたテーブルには白いカバーが掛けられ、たくさんの料理が山盛り状態。お金を払えばバイキング形式で食べられるのだろうか?恐る恐る近くにいた中学生くらいの子供に聞いてみた。「何のパーティ?」「今日は、結婚式だよ、私のお姉さんの。」そばにいた1人の男が私に料理を食べるようにと勧めてきた。この感じではどうやら料金を払わなくても食事が出来ると直感した。それにしても大人数だ。ざっと300人位はいたのではないかと思う。綺麗な色のサリーを着た女性たちもたくさん混じっている。もともとこの場所が人の家の中なのか、はたまだ唯の通路なのか分からない。多少迷路の様にもなっていて脇にはシャッターが閉まった店のようなものが軒を連ねている場所もある。天井までキラキラなディスプレーで覆われていた。たぶん新郎新婦が座るだろうと予測される突き当りの場所には豪華な絨毯が敷かれ、壁は豪華な金や赤のカーテンのようなもので飾られていた。まるで皇族の結婚式のような雰囲気さえ感じられる。さきほどから1人の男が英語もろくに分からないのに私の腕を取り案内してくれる。小さな入り口を入ると大きな広場に出た。たくさんの人がいて食事をしている。その男はご丁寧に私に椅子を用意してくれて自ら皿を取り、料理を食べるようにと勧めてくれた。まだインドに着いてから何時間もたっていない。一応自分なりに現地の食べ物と飲み物には注意をする気構えでいたのだが断ることも出来ない状態になってしまった。辺りを見回してみると結婚式だと言うのに酒を飲んでる人がいない。「何を飲みますか?」みたいなジェスチャーをするので「チャイ」と答えた。他に何があるのかさえ分からない常態だった。テーブルへ行って並べられた料理の大皿から適当に食べ物を取り、椅子に座って頂いた。カレーの味付けの何かとパンのようなチャパティーを食べたが料理の名前さえも分からないので説明するのは難しい。チャイはチャイを作る専用の簡易カウンターが設けられていて1人の男性が立ってコップに注いでくれた。お金を払うべきなのか払わなくて良いのか判断に迷ったあげく、払わなかった。多分、全部無料だとは感じていたが確認はしなかった。ただ、どう見てもよそ者外人の私がこの場で勝手に飲み食いするのを見た人々に「帰れ。」とか「出て行け」と言われるのではないかと心配した。早めに食事を切り上げまた歩き出した。例の男も一緒についてくる。細い道を歩いて裏からいったん外へ出てしまったら、真っ白な制服に赤い帽子をかぶった鼓笛隊のメンバーが10人くらい出番を待っていた。ずいぶん金を掛けた結婚式のようだ。そのうち鼓笛隊が楽器を持って行進しだした。あたりはお祭り騒ぎで踊りだす人もたくさんいた。蛍光灯のような電飾を持った人々もたくさん現れ一緒に発電機を引いて行進する。まるでディズニーランドのエレクトリックパレード状態だ。すると1頭の白馬が登場。馬にはマハラジャのような格好をした白のスーツにピンクのシャツ、頭には金色のターバンをまいた新婦のような若い男が同じような格好をした子供と乗っていた。子連れ結婚か?訳が分からないけど食事をただで頂いた分だけ祝福した。馬に乗った新郎を取り巻く鼓笛隊。それに群がるたくさんの人々。我を忘れて踊りまくる男たち。カラフルなサリーに身を包んだ女性軍団。何が起こっているのか分からないが、これがインドかという感じになった。馬と鼓笛隊がどこかに消えた後、一人の身分が高そうな男が私の腕を引っ張った。とっさに追い出されるのかと思った。男は私に「お前に付きまとっている男は悪いやつだ。気をつけて方がいいぞ。」と言った。たしかに先ほどから親切にしてくれる男は汚らしい私服姿だし、言われてみれば人相も良くない。彼の忠告が怒っているような口調にも聞こえてしまった私はそろそろ宿へ帰ることにした。するとやはり先ほどのガイドしてくれた人相の悪い男が宿まで着いてくる。辺りは人込みも絶え閑散としている。こんな場所でナイフでグサリとされたのではどうしようもない。男から目を離さず早めに宿へ戻ろうと試みた。薄気味悪くなった私は彼に多少のチップを渡して男から無事に逃れることが出来た。たぶん初めからチップ目当てで私に近づいた事は想像できていた。宿の扉を叩くと寝ていたボーイが起きて鉄の扉を開けてくれた。3階まで上ると先ほどの白人たちの姿は無く、静けさのなかに裸電球だけが灯っていた。
2005年12月18日
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インディラ・ガンジー・インターナショナル・エアポート。近代的な綺麗な空港だ が、成田に比べると多少殺風景な印象があった。 税関を通過した私が1番最初にすることは通貨の両替だ。すぐに空港内の銀行を見つ けた。このような作業は他の国で慣れている。たとえ2軒銀行があってもレートが多 少なりにでも違うのでチェックする必要がある。しかし今回は1行しか見当たらな かったので他に道は無い。そこでとりあえず1万円を両替した。あとで気が付いたの だがその時にレシートを受け取っていなかった。これが後で問題になるとは思っても みなかった。 インドの通貨はルピーで1ルピーが2.5円位。1万円と言う数字が2.5倍になった。同 じ飛行機に搭乗していた人々は荷物を引き取るためにベルトコンベアーの前に集まっ て荷物を待っている。預けた荷物の無い私は1番先に空港を飛び出した。 夜も遅いのに到着客を待つ人込みが見えた。外へ出る前の空港内にタクシー会社の カウンターが目に入った。ガイドブックに「右側にプリペイドタクシーのカウンター があり、レートは高いが交渉が無いだけに便利」と書かれていたことを思い出し、5 歩ほど戻ってそのカウンターへと向かった。 行き先はニューデリーにある「ブライト・ゲスト・ハウス」。生まれて始めてのイ ンドだが、そこに行けば日本人の友人が待っていることになっていた。彼と合流さえ 出来れば後は何も問題ない。まずは彼が待つゲスト・ハウスまでたどり着くことが先 決だ。 カウンターで行き先を告げ、日本円で2千円近い金額を払った。高いとは思ったが右 も左も分からないので仕方が無かった。カウンターから無線機を持った1人の男が一 緒に表通りまで着いて来た。そこで私は12時間ぶりにタバコを吸った。 5分ほど待って来たタクシーが、タクシーの形をしていない。以前フィリピンでも、 このようなことがあったので気にはしない。 太った運転手の運転でニューデリーへと向かった。まったく地理の分からない私は 黙って乗っているしかなかった。 運転手が英語で「インドは初めてか?」と聞くので舐められてはいけないと思い「2 回目だ。」と答えた。 その後、沈黙のまま20分ほど車は走った。抜け道なのか、裏道なのか、ときたま薄 暗い細い道を走られると多少でも不安になる。 しばらくして、ある細い道に入り車は停車した。 「ここがブライト・ゲスト・ハウスなのか?」と聞くと 「もう1度住所を見せてくれ。」と言い出した。 「お前、場所を知らないのか?」 「いや、ここが私の事務所で地図があるから、ちょっと降りてくれ。」 「なに~ぃ!」 おい、おい、さっそく始まったか!案の定インド人は信用できない、と言うか最初 から信用はしていなかったが、こんなに早く事が始まるとは予想もしていなかった。 こうならない為に、空港内で高い料金を払ってタクシーを頼んだ私は、事の成り行き に気分が悪くなった。 頭に多少血が登り、タクシーを降りて事務所に乗り込んだ。土地勘が無い私は、今 どこに居るのかさえ分からない。 夜遅いというのに事務所には1人の男が居た。 「ホテルは予約してあるのか?」 「友達が待ってるからブライト・ゲスト・ハウスまで早く俺を送ってくれ。」 「もしかしたら友達が待っていないかもしれないからホテルを予約したらどうだ?」 「そんな心配は無い!」 そんな会話をした後、啖呵を切って事務所を出た私は、運転手に文句を言ったら、 「パハール・ガンジにあるブライト・ゲスト・ハウスまでは車が入れない。」とふざ けた事を言い出した。もう堪忍袋の緒が切れる寸前である。 「だったら、ニューデリーの駅まで連れて行け!」 車に乗って2分もしないうちに駅前に付いた。 チップをせがむ運転手に脇目もくれず車を降りた私はバックからガイドブックを取り 出し、場所を確認した。 あたりは真っ暗で多少の人並みはあるものの閑散としていた。暑いと思っていたイン ドが暑くない。暗くてよく分からなかったが空気が悪い気がした。 場所を確認するとパハ-ル・ガンジ通りは汚らしい薄暗い寂しい通りだった。車も 入って行かないような通りにさえ見えた。 本当にここなのか?ガイドブックの地図を見ていた私は渋谷のセンター街や池袋の サンシャイン通り、最低でも所沢の1番街か狭山市の七夕通りを予想していた。 通りに足を踏み入れ、すれ違うインド人の男に聞いてみたが、間違いなくパハール ・ガンジ通りだった。その後3人にブライト・ゲスト・ハウスの場所を尋ねた。こう 見えても結構私は心配性である。 しばらく歩くとブライト・ゲスト・ハウスの看板が見えた。暗い通りにポツンと明 かりが点いている事務所みたいだ。デスクに座っていた男に泊まりたいと言う事を告 げたら部屋は空いていると言う。 「私の友人が先に泊まっているはずだ。」と言ったら親切に探してくれた。が、見つ からない。3箇所に聞いてくれたがそのような客は居ないと言う返答だった。 困ってしまって腑抜け状態になってしまった私だが、他に場所も知らないし、行く 場所も無いので泊まることにした。1泊100ルピー(250円)だ。金額的には問題な い。 事務所から3軒ほど歩くと建物の間に鉄の扉があった。扉をあけるとボーイのような 若い男が出てきた。階段を上がり、吹き抜けのある踊り場へ出て、その先の階段を上 がるとヨーロッパ系らしい男女6人が怪しい煙を吹きながら「ハロー」と挨拶してき た。映画「ビーチ」に出てきそうな風景である。 部屋に案内されたが四畳半位の真っ白な部屋には2つのベットのみしかない。トイレ もシャワーも2階にある共同だ。べつに寝るだけの私には何も問題なかった。荷物を 降ろした私は友人のことが心配になりメールをチェックする為にインターネットカ フェを探すことにした。部屋を出る前にバックに南京錠を掛け、そのバックを自転車 用のチェーンでベットの足に括り付けた。部屋には鍵が無かったので大切なものは全 て身につけて持ち歩くことにした。 1階まで降りてボーイに飯を食う場所とカフェの場所を聞いたら右側に歩いていけば 見つかると言った。
2005年12月15日
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成田を発って2時間。あと4時間でタイのバンコックだ。3年ほど前に行ったタイが懐 かしく感じられる。はたして何パーセントの人間がタイで降りるのだろうか?若者は タイへ行き、田舎から出てきたような団体年配客は多分インドへ向かうのだろうなと 思った。 急に英語でアナウンスがあり、窓を全部閉めるようにとの指示があった。どうやら 映画が始まるらしい。機外はまだ十分明るいのに真っ暗になってしまった。映画を見 る気も起きない私には寝るにふさわしい状態となったわけだ。 しばらくウトウトしたら軽いスナックが配給された。タイにつく予定時間の30分前 だ。野菜サンドとポテトサラダ、それにカットフルーツ。今回はカレー味のものは無 かった。 食べ終わってふと外を見ると今まで海だった視界が陸になった。つ いに大陸へ上陸した。ここがタイの上空なのか、はたまたカンボジアなのか分からな いが山や緑が見えると落ち着く気がする。まるでジャングルのような風景の狭間に は、時たま道やら家らしいものが見え隠れした。 6時37分にバンコックに到着した。乗っていた若者たちは案の定、皆降りていく。 ここで1時間ほどの待機だが外へは出れない。インド人と年寄り団体客だけが残った 感じだ。 そういえば搭乗して気になることが1つあった。私の座席は39番だったのに1番 後ろの席だった。窓から見える翼はすぐ前にある。と言う事はまだ後ろに約半分のス ペースがあるはずなのだが壁になっていた。バンコックに着いて分かったのだが、や はり後ろ半分は貨物専用になっていた。つまり私が乗ったエアーインディアは乗客半 分と貨物半分の旅客機だった訳だ。あまりインドに行く人の数が少ないと言う事なの だろうか? 脇の非常扉が開いてタイ人のスタッフが新しい食事のワゴンを運び込む。しばらくす ると私の隣の席に2人の白人女性が座った。以前いた日本人の2人組はタイで降りて いた。2人組の女性とは口を利かなかったがパスポートからアイルランド人だと分 かった。タイで楽しんだ後インドまで足を伸ばすといった感じなのだろう。 バンコックに到着してから1時間半後の8時に飛行機はやっと動き出した。ここからあ と何時間でインドに到着するのだろうか?バンコックを離陸してから、ジュースと食 事のサービスがあったが以前のカレーよりも今回のほうが美味しかった。 気がつけば外の景色は暗闇となり窓からは何も見えない。そんなうちに機体はインド へと到着した。ついに着いた!人ごみに身を任せ1番後ろの席にいた私は団体客の後 へと続いた。どこの国でも同じだが入国審査を済ますのに時間がかかる。あまり余計 なことを話すと質問攻めにあうとガイドブックに書いてあったので無言で無事通過し た。荷物を預けていない私は予定通り早めに税関を突破したのであったが日本人の1 人客は私だけだったような気がした。
2005年12月12日
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「インド人に物申す」 アジアの優しさと素朴さに魅了されて始まった私の旅の最終地点はインドと以前から 決めていた。今回は勢いにまかせてチケットを購入して残り少ない有給休暇を利用し インドへと向かった。普段日本での仕事を真面目にこなし、上司からも認められ、責 任感が強い私は日本での仕事が心配ではあったが他の仲間に一切のことは任せての旅 となった訳だ。 インドと言えば太陽がぎらぎら暑くてカレーが美味くて女性が綺麗で宗教的にも神秘 的なイメージがある、と言うくらいの知識しかない私はインドに関する旅行記の本を 何冊も読んでみた。あまり下手なことを書くとインド大使館を始め、インド日本交流 会やインドカレー愛好会などのメンバーから苦情が出そうなので言葉を選んで慎重に 書き込みたいとは思っているが感じたことを嘘偽り無く書くことが私の使命だとも 思っている。しかし、どの本を読んでみても珍道中となっていて一筋縄では収まらな い雰囲気は十分感じていた。常識に当てはまらない国インドとは一体どんな国なのだ ろうか?インドと言う国は何度も行きたくなる人間と2度と行きたくないと言う人間 とに別れるという。はたして私はどちらのタイプに当てはまるのか自分でも興味津々 である。 2005年11月12日土曜日。当日小雨の中、朝7時過ぎには家を出発して電車に 乗り込む。土曜日にもかかわらず沢山の人が乗っている。車内では風邪を引いて咳き 込む人や、まださほど寒くも無いのに冬服に身を包んでいる人々、そして池袋の地下 街に寝転がっている浮浪者たちをたくさん見て、これから行く暖かくて気楽そうなイ ンドへの夢が膨らんだ。 8時45分発の日暮里発京成ライナーは私を無事に成田空港へと運んだ。インドのガイ ドブックも念入りに目を当してある。何も心配は無いと自分に言い聞かせたがやはり 初めての国だけあって多少の不安は拭いきれなかった。 今回の旅の目的は「仏教発祥の地であるブッタガヤーに在る菩提樹の下で釈迦と同じ ように瞑想をしたら人生に対するものの考え方が変わるかどうか?」と言うことに挑 戦する事と、ヒンズー教の聖地である「ガンジス川でのシュノーケリング」である。 死体を流したり洗濯をしたり沐浴をする川の中には、いったい何が流れているのか? 何が見えるのか?魚はいるのか?死体がさまよっているのか?ウンコも流れているの か?竜宮城でもあるのか?人魚がいるのか?ゾンビがいたらどうしよう?怖いもの見 たさそのものである。 それ以外にも世界遺産であるカジュラホーにあるエロチック寺院とアグラーにある タージマハルは一応インドに行くからには観光としておさえておきたいと思ってい る。インドに行く旅行者の中で水中眼鏡とシュノーケルを持った人間は、多分私1人 だけではないかと思われる。こんな感じで今回の旅は始まった。 成田国際空港に到着して飛行機のチェックインも終わり出発までの時間を空港内で過 ごさなければならない。いつも同じ本屋での立ち読みやおもちゃ売り場の見学には飽 き飽きしていた。 今回の便はタイを経由してデリーに向かう飛行機なので10時間近い飛行になる。普段 なら値段が高くて込んでいる食堂関係には入らないのだが、今回は念のために前もっ て腹ごしらえをしようと2階の食堂に入ってみた。注文したのは何故かカツカレー。 これから死ぬほど本場のカレーが食えるのにとも思ったが根本的に私はカレーが大好 物なのであった。昨年は1年間に200回位のカレーを食べたのは嘘ではない事を明 記しておこう。 今回インドにもって行く荷物は極力減らすように努力した。荷物が重くかさばると行 動しにくいと言う理由からだ。したがって洋服類は一切持っていかなかったが、映像 関係のカメラやビデオに関する機材が荷物の大半を占めた。 11時30分に飛行機に搭乗した。エアーインディア機を利用するのは初めてだ。さすが にスチュワーデスはサリーを着ていてインドに行くのだという気持ちが強くなってき たような気がした。機内は多少カレーの匂いがしないでもない。この匂いはフィリピ ンでよく利用した安いホテルの部屋の匂いに似ている。あのホテルもアラビア系の客 が多かった。一緒の便に乗り込んだインド人同士の会話がまったく理解できないのは 当たり前だ。今回旅に出るにあたって多少なりでもヒンディー語を勉強しようと試み たが30分もしないうちに挫折した。あまりにも難しすぎて全く歯が立たなかったの が理由だ。 12時丁度にシートベルトサインのランプがポーンと言う音と共に点灯し、5分後に ゆっくりと後ろ向きに飛行機が動き出した。ほぼ時間通りの出発である。よく遅れる という噂を聞いていたけれども心配はなさそうだ。 搭乗客は全部で300人ほど。空席も無く満席の状態だった。ツアーらしい日本人の年 配旅行客の団体も沢山いた。そんな団体の中には決まって1人位は何度かインドに 行った経験がある人間がいてベテランぶって色々解説する人を見かける。この1週間 のインドの天気まで説明しだしたので凄いなと思ったらツワー搭乗員だった。なるほ ど詳しいわけだ。 私の脇に座った日本人の若者2人組みはタイのバンコックへ行くらしい。座席に座っ たばかりなのに、さっそく自分で持ち込んだ缶ビールを飲み始め漫画を読み出した。 今の若者はやることが違う。インドに対する大きな期待と多少の不安がある私にはま だリラックスする段階には達していなかった。 飛行機はゆっくりと滑走路を走る。見える風景は成田の枯れたススキや削りだされた 赤土の山、そして訳もなく張りめぐらされた電柱やそれを取り巻く工事現場。けして アジア1番の先進国とは言いがたい風景が広がっている。 今から約25年前に初めて海外旅行に行ったフィリピン。あの時のような胸の高鳴り は一切無く、なぜか良くない事をしているような罪悪感のようなものを感じたのは何 だったのだろうか?最近頻繁に行く海外旅行に慣れすぎた為か、年を取って感情が薄 くなった為か、それとも今後インドで起こることに対しての不安だったのか。もしか したら日本に残した仕事が気になっていたのかもしれないが、多分気のせいだと思 う。 飛行機のエンジン音がマックスとなり全速力で走り出した。時間は12時25分。体 にGがかかり機体が轟音と共に浮き上がった。外の風景が斜めに傾く。地上の風景が 視界から消えた。いまだに大きな飛行機が空を飛ぶことが信じられない。 飛行が安定してしばらくすると機内にカレーの匂いが立ち込めてきた。ドリンクサー ビスが始まりアルコールではなくトマトジュースを頼んでみた。最近あまり野菜を 取っていなく健康に気を使ったつもりだった。 サリーを着たスチュワーデスはなにかプライドが高そうな感じがする。あの自信に満 ちた態度は一体どこから出てくるのだろうか?女性の優しさではなく強さみたいなも のを感じてしまった。インド人の女性は皆こうなのだろうか?もしもそうならインド の女性とのロマンスは期待できないかもしれないという考えが脳裏をかすめた瞬間 だったのかもしれない。 頻繁に足を運ぶフィリピンに行くときには4時間の飛行なので搭乗後直ぐにでも寝て 入国後直ぐに元気よく行動できる為の赤ワインを2杯ほど注文するのだが、今回は長 旅の為に焦ることなくゆっくりモードだ。ジュースを飲み終わったころに食事が配給 された。 まだ成田を経ってから40分あまりだ。 食事はチキンかフィッシュかどちらが良いかと聞かれたのでチキンを注文したら予想 通りカレーだった。ライスはパラパラのタイ米。カレーの味も寝ぼけた感じのパッと しない味だった。早めに食事を済ませて眠るモードに入ろうと試みた。
2005年12月05日
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