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死んだほうがいいとか死んだほうが楽って常に考えるのは心の病なんだろうか。疑問に思うんだよね、コレ。死にたいと思うのはなんでもないような事に思えるんだけど。ワリと良くいわれる「生きていればなんとやら」的な言葉はなんの裏づけもないまま今のこの世の中で生きていく事が本当にキツイと思っている人に「もっと辛い思いしろ」と言っているのと等しいのではないか。生きていれば良いことがあるって言う人は狭い自分の体験談がさも一般的な事の様にいう。だけどそこにはなんの保障もない。辛い思をしただけで死んでいく人は多数いる。これは真実だ。だったらはやめに死んでしまっても別にいいんではないかなーと思うんだけど。不登校、出社拒否、鬱、引きこもり、これらは現在この社会において大多数の人間に否定される。それは仕方ないと思ってあきらめたほうがいい。何故なら大多数の人間が学校へ行き、会社へ行き、社会の中でさまざまな事象と向き合いながら生活を続けているからだ。どちらが善くてどちらが悪いという話では無い。人間誰しもいつかは死ぬ。死にたいと真剣に思ったら死ねばいいんだ。死にたいと思った人間がバンバン死んだらこの社会は今の形態を保ってはいけないだろう。でも死人には関係ない。過去も未来も、宇宙すら関係ない。金も時間も、家族友人関係者全てが関係ない。いかなる関係も否定したい人にとっては死は最も有効な手段である。
俺自身は死にたいとは思わない(たまに死にたくはなるが)けど、死にたいという人に向かって「生きろ」とは言わない。俺自身の心情としては死にたい人は遠慮しないで死んだらいいと思う。もし、このブログを見て死を決意した人がいたとしても俺はなんとも思わない。死を選択したのは他ならぬその人であるからだ。
勘違いしないでほしいのは死んだらいい事があるという話では無いのだ。死んだらいいことも悪い事も全てが無くなるのだとい事を心の底から理解して欲しい。簡単な例を挙げれば、死というのは寝て起きる間の一切の記憶が無い状態が永遠に続くという事だ。そこには死後の世界など無い。自分自身の証明でもある自我も消失する。未来永劫起きる事のない永遠の眠りにつくのだ。肉体は消滅し、自我は消失する。魂などというものははじめから存在しない。あらゆる勘違いの集大成ともいえるべき霊といわれる嘘になれる期待など持たないほうが無難である。無という想像すらできない領域に入るのである。無というのは透明とか闇とかというものでは無い。無は無である。無い事なのである。それでも死にたいという人を俺は止められない。死んだらいい。