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2006年06月05日
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カテゴリ: ニュートラル
ダ・ヴィンチ・コードを見た。今は原作本を読んでいる。


キリスト教、聖書との出会いは大学生の頃、三浦綾子さんの小説に
感銘を受け、三浦さんの小説を読みあさり、聖書入門書、解説書などにも手を伸ばした。

5~6年前、ひょんなことからとある教会へ通うようになった。
だが、信者にはならなかった、なれなかった。洗礼を決断することができなかった。
優柔不断な悪い癖がここでも出た。

教会通いしていた頃は、クリスチャンの人から聖書についていろいろ学んだ。
1人で聖書を読んでた時は分からないことだらけだったけど、


当時、孤独に苛まれていた僕は、クリスチャンの人たちとの付き合いに
最初は心地よさを感じていた。心の通い合う深い付き合いに感動の連続であった。
その時に感じた人間愛に比べると、男女の恋愛なんかちっぽけに思えてしまった。

しかし、元来、人付き合いが苦手な僕は、干渉もされる深い人付き合いに
次第に窮屈・苦痛を覚えるようになり、教会から足が遠のいていった。
一向に信者にならない僕に、信者の人たちも次第に僕から遠ざかっていった。
所詮、人間とはそういうものなんだな、クリスチャンでさえもそんなものなんだな、
と失望した。そして教会に全く行かなくなった。

だが、聖書は折に触れ読んでいる。つらい時は聖書を繰り返し繰り返し読んでいる。
これは一生ものだと思っている。常に持ち歩いている。
聖書のおかげでいっぱい勇気をもらい、転職もできた。

神の存在というか、人知の及ばぬ大きな力、知力は存在すると思う。
そう信じたい。

でも、功罪である。
聖書なんか知らない方がよかった、というマイナス点もいくつかある。
「中途半端な正義感と倫理観」である。


でもこれは信者でさえ守るのは非常に困難なことである。
まして信者でない人は、その都度自分に都合のよい解釈をして
正義と倫理を捻じ曲げてしまう。
でも、一般人以上に罪意識が強いため、深い罪悪感に苛まれるのである。
聖書を知るまでは罪とも思わなかったことが、キリスト教では罪なのである。

典型的な例として、
Hな気持ちで女性を見ることは、即ち心のなかで女性を犯したことになる、など。
これはクリスチャンの男性にとって非常に悩ましげな問題として有名である。

今の自分は、極端なことを言うと、 女性を見るたびに罪の意識に苛まれる のである。
まともに女性を見ることができないのである。
女性と目を合わせられないのである。
これが女性の前でオドオドしてしまう、堂々と振舞えないことの
一つの要因である。罪の意識に囚われているのである。

女性関係以外にも罪を意識してしまうことが結構ある。
人生に積極的になれない要因にもなっているように思える。
信者どうしの愛の絆を思うと、恋愛感情などちっぽけ、もろい、はかないものに思える。
なので女性を愛することができない。
事実、前の彼女も心から愛せなかった(数年前の話だが)。

罪から逃れられる唯一の方法が聖書に書いてある。
即ち、信者になることである。
イエス・キリストの贖いだけが人を罪から救う。
全人類の罪一切を背負って神の子イエスは十字架に掛かった。
そのイエスだけが人の罪を許すことができるのである。
これは人を信者に導く常套句でもある。

こんな自分は洗脳されているのだろうか?
教会に通っていた時は今思えば洗脳されていた。自覚なしに。

これら罪の意識から解放される唯一の方法は、
やはり洗礼を受けることなのだろうか?分からない。
だが、5~6年前に悩んだように、信者になる勇気はやはりないのである。
捨てられないものがあるのである。
神の恵みを受けるには、捨てることも必要なんだが。


※ちなみに、ダ・ヴィンチ・コードの衝撃の事実?は、受け入れられない。
 フィクションとして捉えるべきだ。でなきゃ信仰心が揺らいでしまう。

 聖書は人の手によって、時の権力者の命により作為的に編纂された、とある。
 しかし、その会議や作業は人間が行ったが、そこには神の意志が働いた、と思う。
 会議参加者、編纂作業者を通して神の意志がはたらき、現在の聖書の形になったと考える。

 聖杯伝説が本当だったとしても、最後の晩餐においてイエスから弟子へぶどう酒の
 回し飲みは行われたと考える。物理的な聖杯は存在したと考える。

 ただ、ダ・ヴィンチ・コードは否定しない。
 ダ・ヴィンチ・コードのヒットによりキリスト教がよりいっそう広まるであろう。
 これこそ人知を超えた神の巧妙な意思、計画かもしれない。





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最終更新日  2006年07月18日 03時06分40秒
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