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(つづき)
姉弟悲傷の巻 ;6
天武8年(679年)、大津皇子17歳のとき、皇后、草壁皇子を
はじめとして、大津、高市、河嶋、忍壁、志貴の6皇子を率い、
群臣を従え、天武天皇は吉野の離宮に向かった。
そこは、「千歳の後に、無事なからしむ」ことを誓う吉野の盟誓
の場ではあったが、同時に草壁皇子を第一等に据えることにより
皇位継承についての争いなきよう神に宣誓する場でもあった。
そして、二年後に草壁皇子は立太子したのであったが、それは
もっぱら天武と皇后の強力な支持によるものだった。
しかし、天武12年、大津皇子21歳のとき、「大津皇子、初めて
朝政を聴こしめす」と日本書紀は記す。
天皇を継ぐ位置にある皇太子が存在するにもかかわらず、大津
皇子が政治を執ったということは、大津の声望が、それだけ宮廷の
内外で高かったからに外ならない。
その年10月、天皇は群臣を従えて倉梯(くらはし)の地へ遊猟に
赴いた。
ここは、十市皇女が入る予定だった斉宮が設けられた所である。
十市皇女の、いたましい自害事件からすでに6年の歳月が流れて
いたが、一行のなかにいた高市皇子の十市への追想は、暗く切実な
ものがあったであろう。
『懐風藻』に「遊猟」と題する大津皇子の詩篇が収載されている。
朝(あした)に択ぶ三能の士 暮(ゆふへ)に開く万騎の筵(むしろ)
に始まるこの詩の大意は
< 朝には有能な官人を選りすぐって猟に出
夕べには多数の騎馬の勇士を集め酒宴を開く
獲物の切り肉を食めば
みなともにこころは豁として開け
酒盃を傾けてはともに陶然となった
弓は谷間に輝き
雲のようにたなびく旌旗は
嶺の前に張り巡らされている
日の光はすでに山に隠れたが
狩の壮士たちよ
今しばらくこの場に留まろうではないか > でもあろうか。
集団の雰囲気を、生彩に富む筆致で詠う、白眉ともいうべき
一編であった。
宮廷人の前に披露されて、万雷の喝采を博したに違いない。
(つづく)