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ペルーの港を出港してから再び赤道を越え北半球に戻って来た。そして23日は1日かけてパナマ運河を抜けてコロンビアのカタルヘナに入港。前の晩はその前夜祭でデッキではオールナイトでにわかクラブが開かれDJのジェイ・ヘイズという人も来て若者たちは大喜びだ。今から約100年ほど前にアメリカが作ったこの運河は有名な階段方式で、船は3段階にゲートで人口湖のガトゥン湖に押し上げられ、また同じような方式で太平洋と大西洋の高低差26Mを越えるのだ。11時間かけて、いちばん狭い所は船と岸壁の間が左右40センチずつくらいしかない所を通り抜ける。船が誤った方向へ行かないようその両側を小さな日本製の機関車が一台ずつ伴走しながらロープで巨大な船を引っ張っている姿が何だかとても健気だった。この運河の通行料は船のトン数によるが、4万トン弱のピースボートのオセアニック号は2千万円だそうだ。かくして今はカリブ海に出た所。着いた港はパナマ共和国のクリストバルという港。船を降りてバスで外側からどのようにして船がこの細い水路を行くのかを見学に行ったが、その途中草原でひなたぼっこをするイグアナや木にぶらさがったナマケモノを自然の姿で見ることが出来てラッキーだった。パナマは「パナマ帽」で有名だが、これは実はこの運河が完成した時に来たルーズベルト大統領がかぶっていた帽子のことをそう呼んだからなのだそうで、実はエクアドル産だったのだそうだ。(私はてっきり繊維のことだと思っていた)パナマの次はすぐ翌日がコロンビア。ここの港はカルタヘナと言い、ここには「コレヒオ・デル・クエルポ」というダンスの学校があって、貧しい村の子どもたちにダンスを教えることで悪い道に行くのを防いでいるとのこと。私はいくつかあるここでのオプションの中から、その学校の見学ツアーに行くことにした。それは今にも崩れそうな家の立ち並ぶ町の1角にある2階建ての建物の中にあった。スペイン語の通訳の方を通じて知り得たことは、そこは「からだの学校」と呼ばれていて、ダンスだけではなく身体についての知識や社会的なこと、芸術的なこと、はては人生の生き方までを教えているとのこと。今は日本文化の中から「間」ということを、そのままの発音”MA”としてダンスの中に取り入れていると言う。そこから他人との間のスペースや自分が守るべきスペースも学ぶことになるのだ。そして子どもの頃からそこで学んでいる若者たち十数人の踊りを実際に見せてもらうことになった。それは日本のジャンルで言えば「舞踏」と言っていいようなモダンダンスで、確かにお能や歌舞伎にあるような動作が随所に見られる。日本で公演したこともあるそうで、かの有名な老舞踏家大野一男さんから花束が届いたとの話もあった。「間」を学ぶことで何か変わったか?と質問してみたら、「自分をみつけることが出来た」との答えが返って来て、これこそがこの学校の目指すところなのだろうととても感動した。
2011年02月26日
2月17日ペルーのカヤオ港入港。2日間停泊する。ここからマチュピチュやクスコへの1泊旅行に出かける人、ナスカの地上絵も入れて7泊で出かけパナマ運河を抜けた所で船に合流する人たちが合わせて500人もいる。私は2年前に行ったので今回はパス。ガラパゴス諸島へのツアーに出かける人たちもいるので船内は一気にがらがらになってしまった。最近風邪が流行っていてマスクをかけた人も多かったが私もいくらかその気味があるのか、なんだかやたらに眠いので自分の部屋や、誰もいないプールデッキでほとんど1日のんびりと眠ったりボーッとしたりしていた。2日目は今回が6回目という人など5人と一緒にタクシーでカヤオの町へ出かけた。20分も走るとものすごく大きなショッピングモールがあってあちこち歩き回るが、何もほしいものがない。それでも食料品のスーパーでバナナやジュースの小瓶、切り分けたマンゴーなどを購入する。(慣れている人はナイフを持って来ている)昼食は現地の食事は口に合いそうもないので平凡だけどピザハットに入った。帰りも同じタクシーで船へ帰って来たらぐったり疲れていてすぐに昼寝をしてしまった。今夜遅く船は出航しまた4日間連続でクルージングをしてからパナマ運河を越え、次はパナマのクリストバルに入港する。そには1日だけいてすぐまたコロンビアのカルタヘナに入港。これからはあまり長いクルージングはなくて1日か2,3日ごとに違う国を訪ねることになる。ほかは全部日帰りのオプションツアーを入れているのでけっこう忙しくなりそうだ。
2011年02月19日
いよいよ今夜真夜中にペルーのカヤオ港に入港する。沖にはフンボルト寒流が流れているので何日か前から大分涼しくなって来ている。南米大陸に近づくにつれて船の中ではチリが生んだノーベル賞詩人のパブロ・ネルーダに関する催しが多くなり、先日は彼の詩を10人の人が朗読をするという会があった。乗客の中には元新劇の女優さんだった方やフリーのアナウンサーの方もいて、みなさんオーディションで選ばれただけあってなかなかのもだった。その日の夜にはネルーダがカプリ島に亡命していた数ヶ月の間に知り合った郵便配達人との友情を描いた「The Post Man」という映画が上映されたが、これもとても良い映画だった。入港3日前はバレンタインデーとあって2度目のフォーマルディナー。今回は以前インドで買った黄色と黄緑のパンジャビスーツを着ることにした。「馬子にも衣装」とはよく言ったもので、いつもは化粧もせずTシャツとジーパンで歩き回っている人たちがきれいにメイクをして素敵なドレスを着ると見違えるようになる。特に男性はどの人もスーツにネクタイを締めるとサマになるが、カジュアルな服装でカッコイイ人はなかなかお目にかかれない。逆に若者はやはりスポーティーな服装のほうが似合っていて、スーツ姿は髪型とあまりマッチせず借り着みたいな感じになってしまう。セイクレッドダンスはこの間自主企画で行なったのだが、丁度同じ時間に若い人たちのサッカーの試合とサルサのクラスがあったために十数人しか集まらず残念だった。でも来てくださった方たちはみなさん「とても楽しかった!またやってね」と言ってくれたのでそのうちもう一度やるつもり。自主企画の申請は2日前にするので、当日にならないとどういうものがどこであるのかわからないのでなかなか難しい。日本にいたら遠慮して出来ないようなことがこの船の中ではみんなとてもオープンで積極的になるので申請時間になると大勢が詰めかけて場所の取り合いになる。先日のサンディーさんのフラで初めてフラに触れた人たちがどうしても基礎をやりたいというので、新潟の同年齢の方と二人で「フラ基礎クラス」というのをすることになってしまった。但し「60歳以上の初めての方に限る」とした。たまたま持って来ていたハワイアンのCDに合わせて先ずはいくつかの基礎のステップを練習してみるつもり。
2011年02月16日
タヒチを出航してまた再び毎日が海の上。船は一路南米のペルーを目指して進んでいる。濃紺だった海の色がどんどんきれいなブルーに変わって行く。再び赤道を越えるまでは南半球なので夜明け前の空には南十字星が燦然と輝いている。星に詳しい方がまだ暗いデッキに立って説明してくださるお陰で見ることが出来た。四つの星を線で結ぶとほんとうに丁度十字架と同じように横が短く縦が長い十字の形に見えるためそう呼ばれているので、一つの星を指すわけではない。私のスケジュールは毎朝7時の気功の後朝食を済ませて部屋へ戻るともう掃除もベッドメイクも終っているので、たいてい9時からのCDコンサートへ出かける。水先案内人の元共同通信の記者の方が解説をしてくださるが、あらゆるジャンルに詳しい方で最近は私の大好きなビング・クロスビーやパティー・ペイジなので嬉しい。同じ時代に青春を過したような方たちが皆懐かしそうに「テネシーワルツ」などに聞き惚れている。その後は11時半のピラティスまで時間があるのでジャグジーへ行くことが多い。水平線を眺めながらのジャグジーは最高!但し日差しが強いのでサングラスとサンバイザーは必携だ。昼食後はすぐに英語のクラス.。能力別に6人1クラスで19クラスある。私たちの先生はアメリカ人のマークで27歳。とても早口だけどわかりやすい英語なので助かる。その後はアフタヌーンティー。そして夕食までの間に何か出てみたい「自主企画」があればそれに参加して、夕食後はトランプをしたりマージャンをしたり。8時に出来上がる船内新聞をもらって部屋に帰るか、その後映画の上映があればそれを観に行く、というのが大体の日常。「シカゴラミー」というトランプ2組を使うゲームを教えたらみんなが気に入ってほとんど毎晩することになってしまった。こうしていつの間にか一緒に食事をしたり遊んだりする気の合う仲間が何人か出来たが、いつも一緒にいるわけではない。それぞれ自由に好きなことをしていて、人に合わせたり気を使ったりはしないのでとてもラク。かくして、テレビも新聞もなく、家事も仕事もしないのにあっという間に1日が経ってしまう。そして昨日は「洋上大運動会」。何日か前から実行委員の若い人たちが徹夜までして横断幕を作ったり、応援合戦のチアやダンスの練習をしたりで大張り切りだった。まるで学園祭のノリでみんなのテンションがどんどん上がっていく。年齢も職業も社会的な立場も何も関係ない老若男女が童心に返って一日中大騒ぎする運動会なんてピースボートくらいしかなにのではないだろうか。応援合戦も私たち春生まれの白組は「白鯨」がテーマ、夏の青組は「海」、秋の赤組は「まつり」冬の黄色組は「黄金の女神」とそれぞれ趣向を凝らした応援合戦に全員が参加してすごい熱気。どの種目も面白かったが、いちばん笑ったのはプールの両端に座った二人がひもを引っ張り合うゲーム。プールには救命具をつけたライフセイバーが二人待機していて落ちた敗者を大げさに助け上げたりで会場は笑いの渦となった。優勝は黄色組で私達は惜しくも2位。今日は午前中若者たちをあまり見かけなかったので、きっと昨日の打ち上げが明け方まで続いたのだろう。
2011年02月13日
2月5日早朝デッキに出ると目の前にタヒチの港の灯が見え、遠くにはクラブかバーのネオンが見える。2週間ぶりの陸地。とても懐かしい風景。そこに船はゆっくりと近づいて行く。接岸した時にはもうすっかり夜が明けていた。港のすぐ前がもう町なので下船許可が下りるのを待ってすぐマルシェへ出かける。大きな倉庫のような所で生鮮品や雑貨、衣料品などを売っているのでそこでアップルバナナを一房2ドルで購入。タヒチはハワイの親みたいな存在だけど町の印象はとてもメキシコに似ている。スペイン語が似合いそうな雰囲気なのに公用語はフランス語で通過はパシフィックフラン。人口の約2割が中国人だそうだがマルシェには日本人のような顔立ちの人も何人もいた。出航は夜中なので丸一日がフリーでスタッフたちも久しぶりの休日。乗客たちは13もあるいろいろなツアーのどれかに参加する人、船をチャーターして釣りに出かける人、バスでホテルのプールに行く人、トレッキングに行く人などさまざまだが、私はあまり歩かなくて済むコースに入って美術館めぐりをした。「コンティキ号の叛乱」を書いたジェームス・ノーマン・ホールの住んでいた家がそのまま博物館として残っていたり、ゴーギャン美術館はレプリカばかりだけれど彼の波乱に富んだ人生を知ったりで興味深かった。カウアイ島に植物の好きなお金持ちのアメリカ人が作ったアラートンガーデンという広大な植物園があるが、ここにも同じようにお金持ちのアメリカ人が作ったというガーデンがあり、アラートンと同じような段差のある川が作ってあったが広さはさほどでもない。モーレア島へ行った人たちからはその海のブルーの色の美しさを聞かされ、そちらにすればよかったと悔やんだけれど、日本を発つ前友人からそれを聞かされた時にはもうすでに定員いっぱいで残念だった。でも港の海の色もけっこうきれいなブルーで、それまでの黒に近い濃紺の太平洋を見続けて来た目にはとても新鮮だった。夜はすぐ傍の広場に沢山出る屋台へ出かけ有名なcheow menを夕食にした。具沢山の上海風焼きそばという感じでなかなか美味しかった。2週間ぶりの陸地ということでどんなにか感激するかと思ったらさほどでもないので自分でも意外だったが、それは船内での生活が充実していた証拠よ、と言われ、そうかもしれないと納得。サンディーさんやぶんさんたちとはここでお別れ、次の寄港地カヤオ(ペルー)までまた2週間ほど海の上が続くが、今船内では11日に行なわれる「洋上大運動会」の準備で若い人たちが大張り切り。誕生月で春、夏、秋、冬の4組に分かれて競うのだそうだ。私たちもみんなそれぞれの色、白、赤、青、黄のリボンを首に巻いたりしてだんだん盛り上がって来ている。タヒチまでは横浜から9000キロの旅。これからは太平洋の残り半分を渡ってペルーに向かうのだが、海の色は微妙に違って濃紺からもう少し明るい青に変わって来ている。これまでに虹が何回も出てその中をくぐったこともあり、クジラやトビウオを見たという人もいるが、残念ながら私はまだそのどれも目にしていない。今は無数に散らばる南太平洋の島々の間を航海しているので、これまで見ることのなかった鳥の姿を見かけるようになった。(写真を沢山撮ったのでアップしたいところだがネットにつないでいる時間が長くなるので 出来ず、帰国してからまとめてアルバムにするつもりです)
2011年02月07日
横浜を1月23日に出航してから4日目に初めて時差が発生して時計の針を1時間進め、その翌日、翌々日と連続3回1時間ずつ進めた後1月30日が48時間になり、その2回目の30日5時27分に日付変更線を通過とのアナウンスがあっ飛行機での旅行とは勝手が違うので、寝る前に時計を進めるのを忘れて集合時間に遅れたり、食事を食べ損なったりした人が何人もいてちょっとした混乱があった。そして31日は午後プールデッキで「赤道祭り」が行なわれてみんな赤のTシャツやスカーフなど思い思いの赤いものを身につけて集まり大いに盛り上がった。中には何も赤いものがなかったのか赤い救命胴衣をつけて出て来たおじさんもいておかしかった。しかし実際の赤道通過は祭りも終わった17時50分で、汽笛がその瞬間を教えてくれた。もう曜日の観念もなくなってしまったので、3時間前を指している日本時間の日付がいつなのかわからないけれど、多分この時は2月1日の14時50分だったのだと思う。2月に入りいよいよ5日は最初の寄港地タヒチに入港する。2週間ぶりの陸地だ。出発前は2週間も海しか見えない生活ってどうなのかと思っていたが毎日が矢のように過ぎて行ってしまった。その日を2日後に控えた節分の夜はプールデッキでSandii & BunBunの演奏を中心に、サンディーさんが熱心に教えてくださったフラのチーム約100人(私もその一人)とタヒチアンのグループ、そして高橋jrさんが指導して来たウクレレBunさん率いるカリンバ隊と、この10日間ほどワークショップを受けて来た人たちによる合同の大ライブ大会がプールデッキで行なわれた。どれも全く初めての人たちがほとんどなのにそれなりに出来るようになったのはひとえに3人の師匠の根気強さと熱意のお陰としか言いようがない。私たちフラグループも汗びっしょりになりながら練習を重ね、中には女性の乗客の最高齢88歳の方までいて熱心に練習していらした。その方はカリンバも同時にされていたのだからスゴイ!お陰で出来は上々、大成功だった。まだ頭の中でPua Lililehuaの曲が鳴り響いている。11時近くに終わってもエレベーターさえ降りれば我が家。電車で帰らずに済む有難さは船ならではのことで、このライブのタイトル通り"Very Very Happy"な夜だった。更にこの日もう一つうれしいことがあった。700人も乗っているのだから、もしかしてフィンドホーンを知っている方がいるかもしれないと自主企画で「フィンドホーン仲間集まれ!」というのを船内新聞に載せたらなんと6人の方が集まってくださったのだ。行ったことのある人はそのうちのお一人だったけれど男性2人女性4人(大分、金沢、岡崎、横須賀、清瀬、札幌)で、このうち女性群は皆夕食時間が同じ組だったのでさっそく一緒に同じテーブルで食事をすることになり楽しかった。 ※船内新聞というのはいろいろなお知らせや記事のほか、何時にどこで何が行なわれる かが書かれていて毎日夜8時に翌日の日付のものが発行される
2011年02月04日
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