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寒い・・・さすが冬だというくらい{{{{( ̄∀ ̄)}}}} 寒い・・。こんなに寒いと一日のしめくくりとしての入浴が私の楽しみだ。入浴剤をいろいろ変えて毎日のバスタイムを楽しむのだが・・。一番、好きなのは乳白色のお湯。香りはどんなのでもオッケーだ。 この間、入浴剤が切れていたので、近くのホームセンターで選んでいた。『ん・・・どれにしようかなっ・・。これはこないだ、使ったし・・。』など迷っていると、近くに「しょうが湯」「花梨湯」「檸檬湯」などいろんな小袋を発見した。『ほーっ、しょうが湯ねぇ~・・・あったまりそうだ・・。』そう思って、その辺の小袋(5個入り)を5種類ほど、買い込んだ。『うほほっ、今日のお風呂はたのちみだぁ~。』夜になって、『さあて、いろんなバリエーションがあるな・・。どれにしようかなぁ・・。困ったなぁ~、決めかねちゃうな・・。』と、ひとりニヤけながらいざ、バスタイム。今日は、『花梨湯~~~~~~っ』湯舟に入り、花梨湯の封を開け、お湯に溶かした。ん・・・????色がかわんねえなぁ~・・・。はて???効能が見えないのかなっ・・??効能を読んでみようっと。とパッケージの裏を読んだ。「本品ひと袋をカップに入れて、お湯又は冷水を適宜注ぎ、よくかきまぜてお召し上がり下さい。」ほ~っ、これは飲めるのか?さすが、温泉だな・・。(ここまできても私はまだ、自分の犯した過ちに気付かないでいた。)●使用上の注意1.開封後はお早めにお召し上がり下さい。とんで、3、熱湯によるやけどなどにご注意下さい。なんだ、効能が書いてないじゃん・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はっ!!!!!!!もしや・・・これって表にし、しげしげと見る。「花梨湯」「即席飲料」!!!!!!!!!!!!!!!!ぐあ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん。ぬあんと私は飲み物を入浴剤をまちげーていたのだ。すると、さっきまで気持ちよかったお湯が、なにかしら、べたべたしてるような気持ちになり、気分がわるくなった。しかし、脳天気なので、一瞬、湯舟のお湯に味がついているのか飲んでみたくもあり・・。手でちょっとすくい、口にもっていったが・・。『だめ~~~のんじゃ~~!!』という天の声に 驚いて、その欲求には打ち勝った。だんだん、べたべた感がますので、自分に『コップ一杯くらいジュースがこぼれたって、この湯舟のお湯の比率にくらべたら、なんてこたぁ~ないわい』と励まし続けて私のバスタイムは無事終了した。こそっと着替えてると、旦那が「やっぱりねぇ~~おかしいと思ったもん。俺、入るのやだ!」とほざいておった・・。Ψ( ̄∀ ̄)Ψケケケ・・・
2003年01月30日
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昨夜、チャットで話した、恋の引用がかっこいいと言われたのでなにも書く事がない今日はそれでごまかしま~すぅ。三十二 忍ぶ恋 「(略)恋の至極は忍恋と見立て候。逢いひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思い死する事こそ恋の本意なれ。(略)」(聞書第ニ157P) これまた、三島の「葉隠入門」より
2003年01月29日
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*少し理屈などを合点したる者は、やがて高慢として、一ひり者と云はれては悦び、我今の世間にあわぬ生まれつきなど云いひて、我が上あらじと思ふは、天罰あるべきなり。何様の能事持ちたりとて、人のすかぬ者は役に立たず。御用に立つ事、奉公する事には好きて随分へりくだり、朋輩の下に居るを悦ぶ心入れの者は、諸人嫌はぬ者なり。(訳)すこし理屈など知ったものは、やがて高慢になり、ひとかどの者だといわれてはよろこび、自分はいまの時代にはもったいない人間だなどといって、自分より才能のある人間はいないように思ったりするのは、かならず天罰が当たるにちがいない。 どんな才能をもっていようとも、人から好かれない者は役に立たない。ものの役に立ち、仕事が好きで、ずいぶんとへりくだり、同僚の下風にいても(いやな顔ひとつみせず、むしろ)よろこぶくらいの心がけの者は、だれからもきらわれないものである。最近、デスクの上に置いてある三島由紀夫「葉隠入門」からの一説である。なにかしら、自分の考えがまとまらない時に、項目をいろいろ流し読みしてその時の心境にあうものを選んで、読んでいる。なにかしら、自分の考えの地軸がないと不安にかられるのだ。その点、この著は理路整然として、素直に心に浸透していくから、好きだなぁ。
2003年01月28日
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運転中にラジオから映画の話題が聞こえてきた。最近はもっぱら、運転中には、お気に入りのサウンドを聞くのだけど車を修理に出している為、代車だったのだ。古いカルディナにはカセットしかついていなかった。そこで、退屈な時間を、久々にラジオで紛らす事にしたのだ。熊本のFM曲だった。こちらでは馴染みの男性のパーソナリティの声だ。「この黄泉がえりは熊本出身の方の原作ですよねぇ~。舞台も熊本ですし、是非、みなさんで応援しましょう。」みたいなことを語っていた。『邦画ねぇ・・・』私はもっぱら、現実逃避趣向で洋画を好み、邦画を映画館で楽しむことは滅多にない。嫌いな訳ではないけど、テレビドラマとどこが違うのだろうという、先入観があったのだ。しかし、ラジオから、流れてくる言葉にはなにかしら、興味をそそられ『レイトなら、いいかな・・・。たまには邦画も・・。」なんて、思ったりしたのだ。もちろん、洋画もレイトだけど。日曜日。一日、引きこもっていた私は、夕食を済ませて、近くのシネコンへ出かけた。そのシネコンは8つのボックスから構成されているのだが、何が、何時から上映されているかは調べていなかった。『行ってから、決めよう・・。』と、まだ、黄泉がえりを観ることを決めかねていた・・。チケット販売ブースに並び、カウンターの女性から、「何をみられますか?」と聞かれ『ううううううう・・・』「カンバニーマンを・・・。」と、言ってしまった。「お客様、申し訳ございません。カンパニーマンはレイトの上映はおこなっておりません。」『ぐはっ!!』「ん・・・・じゃ、黄泉がえりで・・。」などと、非常に失礼な感じで幕は上がった。 上映、5分前、私はコーヒーを買う為に売店にならんでいた。売店のにーちゃんは目が隠れるくらいのロンゲでなんだかうっとうしい。しかも、なんだか、髪がもたついてるからだろうか、行動までもたもたしてるように見える。『うおりゃ、とっととしねーか!!並んでるだろう!!テキパキ動け。始まちゃうじゃねえ~か!!ボケ!!!』とボケまでつけて、心の中で叫んでいた。笑顔で。『ちぇ、こいつぁ~ダメだ・・もう、間にあわねぇ・・』とあきらめて半券を切ってもらい劇場にはいったのだが・・やはり、コーヒーがほしい・・。場内をみまわして、十分席が残っているのを確認してまた、売店に舞い戻った。また、さっきと同じお客さんが並んでる・・。『いってい~何、やってたんでい!!うすらぼけ!!』心で悪態付き放題。しかも、悪態がこぼれちゃった。「はやく、しねーか!始まっちまうじゃないか!」どうやら、私のぼやきは店員さんには届かずに、前のおばちゃんの耳に届いたらしい・・。おばさんが、彼女のマックスのスピードでびくびくしながら注文をし始めた『しまったぁ・・。まあ、いいか』こうなるともう、笑顔はなくなった。私の後ろに並んだ、ヤクザぽい風体のおじさんと変わらない面構えで、コーヒーを注文する。店員さんは目もあわせない。『わたしって、なんて奴。しかし、ちみもとろいのよ。わたしゃ、焦ってるんだから・・。』と自分に言い聞かせて、コーヒーを受け取り、急いで、4番ボックスへと向かった。席について、しばらくするとジャストタイミングで場内の照明が消え、予告が始まった。『ふう~、こまったもんだぜぃ』と、何が困ったのかわからないが困ってみる。ひとりだとどうしても言葉を発することができないので手持ち無沙汰だ・・・。携帯なぞを触ってマナーモードになっているのをまた、解除して、マナーモードにしたりと・・。ようは退屈なのだ。ふむ。えらく長く書いてしまったが、まだ、黄泉がえりについて何も書いていない・・。しかも、疲れてしまった。続きは後日。でも、ここまで読んでイライラさせるとまずいので一応、泣いちゃうくらいよかったと言っておきましょう。邦画もいいのだと改めて見直したと・・。今度、ちゃんと続き書くから許してちょ♪
2003年01月27日
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人間はどんな人でも、自分自身の善ー悪、正ー邪の価値判断に基づいて、できるだけ悪を退け、善をとっていこうとする。すべて悪いと判断されたものは抑圧されて無意識の中の影の集団に加えられる。(略) あまりにも影が増大すると、意識と無意識の境界線を突破して、意識的な人格が分裂し、二重人格を形成することもある。謹厳的な学者ジキル博士の影の人格である、野獣をむき出しにしたハイド氏の物語などはあまりにも知られている例といえよう。つまり、影の背後のは悪という元型がひそんでいるとみることができる。外向的な性格の人は、内向的な側面が影となり、内向的な相手が暗くて悪いという感じを持つし、思考的な人は、感情を主として行動する人がどこか間違っているように思う。その限りでは、シャドウは相対的なものであって、シャドウの自覚は、人格の幅を広くし、人間的な成長につながっている。 どんな人でも、人間の意識というものが、ものごとを明確に見て、その一方を選択するという性質をもっている以上、残されたものは影となる。それが未熟で、未発達な姿のまま無意識に中に眠っていて、その人の人格の発達を妨害する。 それだけではなく、シャドウの困った点はは、抑圧され、捨てられたものの恨みをもっていて、なんとかして日の当たる意識の面にあらわれようとし、他人の上に投げかけられ、相手を幼稚なものとおもわせるし、復讐の念にかられて、他人への攻撃性となってあらわれることである。そこでお互いに欠点を指摘し合って、不愉快な関係を産み出す原因となる。納得!!!このような考え方もあるのかぁ~。 「ユングの心理学」より抜粋 著秋山さと子氏
2003年01月20日
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こないだの夜、ビデオを返しに行ったついでにワインが切れていたのでワインを買いにコンビニへ立ち寄った。知り合いのコンビニなので、店長とワインの話しなどをちょっとして、ワインのつまみを探していると、レジのほうがら一際大きな声が聞こえてくる。「ちいいがうだろ!!」「計算、まちがえてるだろ!!」ん???私はレジをみた。背の高い髪がぼさぼさのおじさんと30代くらいのおばさんがレジにいた。彼女はしきりに他のお客さんを気にしていたので、おじさんが叫んだのだろうと思っていると。彼女の口から「計算まちがえだろうが!!このばかていいいいいん!!」と罵声が飛んだ・・。『うおっ!!彼女だったとは・・』意外だった為、しばらくボー然と見ていると、挙動不振な彼女の目と私の目がぶつかった。彼女の目が一瞬、光りを帯びたように見えた。まずい・・・私は、おそるおそる目をそらしていった。半笑い状態で・・。すると「うおい!!!!そこの髪染めたやつ!!」『しまった、わたしだ!!!』「おら~!!何がおかしいんだ!!何を笑ってんだ!!!こら!!お前だ!!」と、叫びだした。何喰わぬ顔で逃げようとすると追いかけてくるではないか・・。私は店長の後ろに逃げ込んだ。「こら~おまえだ!!何がおかしい~」相手はマジ切れ。店長も身体をはって「止めて下さい!!!お客様に!!」と彼女の前に両手を広げ、かばってくれた。しかし、彼女の怒りは収まらない。店内を、叫び声をあげながら、私の後を追ってくる。店員の女性と目が合い、彼女は小声で「最近、来られるんです。今日はすごい機嫌が悪いみたいで・・すみません」とのこと。彼女は獲物を狙うように私をつけてくる。彼女は明らかに病気だ。目つきが普通ではない。彼女の連れも散々、彼女の行動を制していたが店の外へと出てしまった。このような時、どう振る舞えば彼女との関係がうまくいくのかその時はわからなかった。ただ、恐怖だった。結局、彼女が帰るまで、お店の裏に逃げ込ませてもらって、お店は警備会社を呼ぶ騒ぎになってしまった。しかし、何も解決していない。彼女も近所の人であるらしいし、どこでどう繋がるかわからない。私の対処は間違っていたようだ・・。笑ったつもりはなかったが彼女に対して微笑もうと思ったのは事実だ。しかし、それは伝わらなかったし、彼女から逃げた事で彼女を余計に興奮させてしまった。叩かれてもいいから、逃げないで、ちゃんと誤解を説くべきだったのだろうか・・・。どう、対処すれば良かったのか、今だ思案中・・・。
2003年01月15日
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愛とはなんだろう。ふと考えてみる。愛する喜び、愛される喜び。同じようで違うような気がする。一体、愛とは存在するものなのだろうか?そして、存在するとすればそれは結局、自分の心にしか存在せず、又、自分の感じる愛が愛であると、みんなが思い込んでいることではないだろうか?愛と言う言葉を使わずに私が、愛と感じることを表現すれば心が幸せに感じる事。心が躍動し、喜びを感じること。あの人の微笑みは私の心を和ませてくれる。あの人の喜びは私も嬉しい。あの人の悲しみは私の心も苦しみを感じてしまう。あの人の為に何かしてあげたい。そう考えると愛に対象物ある場合は、相手の気持ちを(気持ちが完全に理解できるとは限らないが)共有したいと願い、相手の喜びを自分の喜びとしたいという願望がみえてくる。それは一体、どう言う意味だろう。それは相手を、ある意味理想化偶像化しているのか・・。自分に足りない物を相手にみるのか、従って、相手を吸収したいと思うのか・・。自分を中心とした考えの上から人を愛するのだろうか・・。しかしながら、自分を大切に思うからといって愛するひとを探す訳でもなく、愛して行く上では別の意味での苦悩も出現する訳で、それでも愛し続けることができるのであればそれは単に、自分が幸せになりたいからだけではないようでもある。人を愛する時、心や頭では、泉から湧き出るように感情を迸らせて永遠に広がる大地のように広大で、宇宙のような神秘さを、その中に感じるのかもしれない。と、いうことは愛することは無限の広がり、包容を感じることなのだろうか?愛がまだ、なんなのかわからない。しかし、人を愛していける心を持ち続けたいと思うのは事実です。はて、まだ、クエスチョン?
2003年01月11日
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逃げなかった。嫌な事に立ち向かった。いつも、逃げてたけど、私がいなくなれば全て丸く収まるんだ、と思っていたけど。一度、言ってみようと、一度、自分の意見をいってみよう。それがいいか悪いか、好転するか悪転するかわからないけど。ぶつかってみてもよいではないかと思った。自分が消えるのであればちゃんと自分の意見を言って消えればいい。黙って消えるのは私が赦さない。きっと心がそう叫ぶ。我慢も限界だった。私は私の心にしか従って生きない。結果、素晴らしくすっきりした!今度から、ちゃんと言える。心は清清しく生気に満ちている。私は自分に忠実に生きた。それでいいのだ・・・・。と、言った舌の乾かないうちに・・・もう、反省・・・。でも、後悔はしてないぞお!!
2003年01月10日
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今日はちと、反省です。てか、ほとんど、反省の日々だけど・・。ちょっとユング読んだからって、すぐ、のめり込むんだよね~。悪い癖だ。興奮しちゃうっていうか~。なんだろうな~、嬉しくなっちゃって、どうしても感化されちゃうのだな~。いけない、いけないと思いながらもついつい・・・。もっと思慮深くならなければと思うのだけど・・。気持ちが先走り・・・。で、結果、反省するハメになってしまう。何偉そうな事いってんだ、ぼけぇ~!!と自分にいいたくなるのだ・・。ぼけだな、ぼけ。きっと、私の近ごろの日記を読んだ方は、不愉快に思われたに違いない・・・・。ごめんなさい。もっと、言葉を上手に伝えれるように、たくさん、本読んで行きたいとおもいます。赦してください。ごめんなさい。愚かな女でした。もっとネタをしいれねば・・・・。
2003年01月08日
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映画を観ると人々はいろんな印象をもつでしょう。しかし、作り手が何を伝えたいか、それを観た人が少しでも心のどこかに、それを感じれば、その映画は成功であると思う。しかし、作り手が解説をして伝わるのではちょっと・・。イメージを伝えるのは非常に大変な事だと思う。監督には伝える以上のイメージが必要とされるからだ。宇宙的なイメージが必要だろう。観る側の問題ではない。伝える側の問題である。人は国、人種が違っても、神聖な者は神聖なものと感じるし、怖いものには恐怖を感じる。感動も同じであると思う。そこに訴えなければ人々は同じ思いを共有できないのだ。映画において一部の作り手側からみた感想を述べこういう見方をしなければというのはナンセンスだし、自己満足である。自分が受けた印象をみんなが共有しないのは自分以外が感性が乏しいというのではない。たまたま、その人の着目点がそこに引きつけれたのである。その点において、気付かない他が自分より、劣っていると考えるのはまた、ナンセンスである。若い人は、まだ、未熟である。まず、自分を知らない。また、それが素晴らしい事なのである。自分を知らないから、無限の可能性を秘めている。能力以上のものを発揮する可能性も秘めている。また、その能力も未知数なのだ。己を信じて突き進めば、幾多の障害があらわれるであろう。そこで、彼達は自分の能力の数値をはっきり、認識しはじめるのだ。未知数は未知数である。暴れまわってどんどん、ぶつかっていろいろな方向から自分をみつめたらいい。人は一つの失敗や間違いで、その人自身を裁いたりはしない。一つの行動が、失敗であり、間違いと気が付けばそれは修復が可能だからだ。可能性は無限だ。若い貴方達はどんどん、成長していかねばならない。ポジティブに。思考していかねばならない。経験をしなければならない。いずれ、賢者といわれるように。
2003年01月07日
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以前から、心理学に興味があったけど。やはり、おもしろい。心理学に興味があるといったら、それはきっと、勘違いをしてるんだよ、といわれた事がある。心理学とは統計学であるから、貴方が思い描いている心理学とは違うだろうといわれた事がある。しかし、まだ、一冊だけど、ユングに関しての本を読んでいルが、楽しくてしょうがない。私の、まとまらない心の意見を活字で表現してくれている。論じてくれている。彼がいかなる考えを持っていたかを知りたいし、もっと読まねばと思う。わくわくするなぁ~~~
2003年01月06日
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