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昭和20年(1945年)9月2日
、東京湾に停泊するアメリカ戦艦・ ミズーリ号
の艦上で、連合国に対する大日本帝国の 降伏文書調印式
が行われました。
ミズーリ号艦上の日本側全権団
日本側は、 政府全権
として、外務大臣・ 重光 葵
(しげみつ まもる)、 日本軍
( 大本営
) 全権
として、参謀総長・ 梅津美治郎
(うめづ よしじろう)が出席して、ポツダム宣言の誠実な履行を定めた 降伏文書に調印
。
日本政府全権・重光葵、降伏文書に調印
アメリカ・イギリス・中華民国ほか、連合国代表も調印し、ポツダム宣言は法的な効果を持つことになり、連合国軍による 日本占領が確定
しました。
日本占領
について、連合国のなかには、北海道はソ連、本州はアメリカ、四国は中華民国、九州はイギリス、という分割占領の主張もあったようですが、結局、アメリカ軍が全面占領し、中国地方と四国にはイギリス連邦軍が加わることに決まりました。
東南アジアや中国に駐留する各地の日本軍にも、ポツダム宣言を受諾し降伏したことが伝えられ、各地で武装解除、降伏の手続きが行なわれました。
軍刀を差し出して降伏の意を表明する板垣征四郎(シンガポール)
シンガポールでは、イギリス軍に対して、日本軍司令官・陸軍大将・ 板垣征四郎
が降伏式を行ないました。
私は、ミズーリ号艦上での調印式の報道を見て、無謀な戦争の結末だとは思いながらも、心情は、敵の軍門に降った悔しさ、情けなさ、でいっぱいでした。役に当たった 重光 葵
こそ、最大の屈辱を感じながら調印をしたに違いないと思いました。
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日本側全権委員として、降伏文書調印の役目を果たした、 重光 葵
、 梅津美治郎
の二人のその後は、明暗を分けました。
重光 葵
は、戦犯になるようなこともしなかったのに、ソ連の執拗な要求により、極東国際軍事裁判で有期禁固刑になりました。しかし、4年ほどで釈放。公職追放も解除されて、政治家として、人生最後の一花を咲かせることになります。
梅津美治郎
は、極東国際軍事裁判で終身禁固刑の判決を受け、服役中に発病、昭和24年(1949年)に獄死しました。
板垣征四郎
は、A級戦犯として東京に護送され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けて、昭和23年(1948年)12月、絞首刑となりました。