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〈トーク朝・日のいま〉 「僕の叔父さん 網野善彦」を書いた中沢新一さん(宗教学者、中央大教授)
網野さんは民衆の生活をもとにした社会史の視点から新たな日本史像を描き出し、著書「日本社会の歴史」(岩波新書=上、中、下巻)など多くの著書を持つ。百姓イコール農民ではない、7世紀以前には日本も日本人もこの列島に存在しなかった…「日本」の歴史の「常識」や「通念」を根底から問い直した網野さんの仕事は、「網野史学」として多方面に圧倒的な影響力を及ぼした。
そんな叔父さんを中沢さんはどう見ていたのだろうか。
「学問や人生への姿勢が常に純粋でまじめで、誠実だった。そこに一貫する驚くべき道徳的な高さ。僕らの世代には失われたものだ。敗戦を境にして、すべての価値観が覆った体験を通して、それまで『常識』だと思われたものや『権威』というものを疑い、嫌った。網野さんは偉ぶることがない学者だった」
生前、網野さんは「歪んだ歴史観が侵略戦争を起こす」と繰り返し、警鐘を鳴らし続けた。「明治以降の政府が選択した道は、『日本』を頭から『単一』などと見るまったく誤った自己認識によって、日本人を破滅的な戦争に導き、アジアの人民に多大な犠牲を強いた、最悪に近い道であった」と。中沢さんは日本社会に網野さんの歴史認識が浸透していれば、日本と朝鮮半島、アジアの間には、もっと平和的な関係が築かれていただろうと確信している。
「僕のおじさん 網野善彦」集英社新書 若き日の網野さん(「僕の叔父さん 網野善彦」より)
「網野の一族はもともと丹後の出身。鎌倉時代に山梨に移ったようだが、元のルーツは朝鮮半島ではないかと網野さんは思っていたようだ。縄文時代以降の日本海を通じての豊かな朝鮮半島、日本列島、大陸との交流という事実に即して常に歴史を考えてきた。 日本社会は稲作中心の農耕社会だったとか、単一言語の単一民族社会だったとか、日本列島が『孤立した島国』で、固有の民族文化を発展させてきた、などというウソや偉そうな学説が網野さんは大嫌いだったのです 」
現在、日本には「自由主義史観」と称する歪んだ歴史認識の潮流が現れている。歴史教科書の中の近代日本のアジア侵略の歴史叙述を「民族の誇り」を汚す「自虐史観」だとする国家主義的な日本国内の動きに、網野さんは激しい嫌悪感を抱いてきた。それは、28年生まれで、軍隊体験を持つ「戦争世代」の戦争観に根ざす。
「『従軍慰安婦』が、兵士以下の奴隷的な状態に置かれていたことは疑いない。戦場に『従軍慰安婦』を住ませわて、兵隊が、行列をつくって並ぶなんてことは、世界のどこの国でもやったことはないのではないでしょうか。…だから、いまごろ、『国民的な誇り』などと言われたりすると、しゃらくさいという感じをもつ」と語っていた網野さん。
中沢さんは、石原都知事も「網野史学」をよく読んでいると言うが、それならなぜ「三国人」などと発言するのだろうかと疑問を投げかける。「網野さんは破綻した人、過剰のものを抱えた人、なりふり構わない人に物凄い好奇心を持っていた。まとまった人間、外側だけをカッコつけている人間、頭の良い冷酷な人間が大嫌いだった」
網野さんは終生、アカデミズムという狭い世界を打ち破り、生身の人間の暮らしを根源的に探求し思索し記録する歴史学の構築に猛烈なエネルルギーと情熱を傾けた。
実証主義的な歴史学の中で描かれてきた「民衆」像というのは、「近代人として人間の『底』の抜けていない、一つの閉じた概念」であり、網野さんの描くのは、「飛礫を飛ばす悪党や、無頼な人生を送る博打打ちや、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとか、大地と共に生きる民衆である」と中沢さんは語る。
通説を壊し自由で、創造的な学問の道を追究してきた二人の学者。中沢さんは著書「僕の叔父さん 網野善彦」の「終章 別れの言葉」を「網野さんのような人に出会い、叔父と甥の関係を通して親友のように仲よくなり、互いが心に思うことを存分に語り合うことができた。そのことにかぎりない人生の神秘を感じる」という一文で締めくくっている。深い清らかな追慕の思いに心が揺さぶられる。(朴日粉記者)
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