2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全4件 (4件中 1-4件目)
1
JRの事故は本当にいたましく、言葉が出ない。国鉄から民営化した際に、「大幅な人員削減」と「政治・組合対立の利用による職場内信頼関係の破壊」が、安全に障害をもたらす可能性は、かなり指摘されていた。ただ、そうした指摘は、黙殺され、少なくとも、その後省みられることは余りなかったように思う。折角、「気付いた人」が居たのに残念きわまりないことである。その主因として、戦後からその頃まで流行っていて、最近、また何故か、ネットと一部マスコミで流行りつつある、「左翼か右翼か」みたいな、煽りの中で、安全への懸念を言う「勢力」=「左翼」という古臭い図式の決めつけと思考停止が生じたせいでもあろう。今回の事故の原因は、まだ、物理的にも社会的にも判らないが、つい先週まで、「競争原理の導入」が、全ての特効薬のように言っていた方たちが、「JRも黒字なのに、私鉄との競争にあけくれ…」などとおっしゃっているのを聴くと、プロとしての品格を疑う。責めるべきは責めればよいが、自らの事も、率直に省みるべきであろう。また、どんな仕事でも、ミスはあるが、過去に、その運転士が犯していたミスが、どの程度のものにあたるのか、確認せずに、とにかく、「ミス」をあげつらって、「問題運転士」のようなイメージの報道が先行したのも、解せない。そのような報道態度は、まさに今言われている、JRが社員に行っている「些細なミスでも減点と懲罰を与える」という態度と相似していないだろうか?さらには、これは、ある程度報道されつつあるが、一般的に、その職場でなされていた「慣行」を実行した上での事故であれば、(これは、あらゆる「職場」に潜む、大きな落とし穴であり、「集団催眠」である)例えば、生き残られた車掌の方の、咄嗟の言動を攻撃するようなことがあってはならない。このところのマスコミも、「世間」も、「下手人」を特定して、「タタきたがる」「イジめたがる」傾向が、最近、強いので、非常に危惧する。そして、JR側も、そうした風潮に対する「人見御供」が必要だろうし。特定の現場の個人について、法的・科学的な検証の後、しかるべき責任が生じることを、初めから否定しているわけではないが、そうしたことは、慎重に、合理的に、行われるべきであり、「成敗」「私刑」であっては、絶対にならないと思う。大事なのは、(「偶然」ではない事故であるという前提を置けば)「必然」たらしめた要素は何か? そして、その各々の要素の各々の「責任」は、どのような人たちが、それぞれ、どのような形で負うべきなのか?そして、そのことで、2度と、このような事故が起こらないようになる のか?ということだと思う。こうしたことが、どうであれ、傷ましくも亡くなられた方は、もう戻らない、という、悲しい現実はあり、その「償い」は余りに重く、埋めがたいものである という現実は一方である。ただ、今書いた、大事な事が、きっちり行われず、一過性のものとなれば、さらに、酷く、無責任で、情けないことである。そして、亡くなられた方と、あえて結びつけて言うならば、冒涜ですらある。まず間違いなくJRの社員の方々のほとんど全ては、今回の事故を、心から悲しみ、悼み、2度と起こさないように心から、各々の心では、思っておられると思う。それは、本当に、そう思う。あとは、「プロ」として、「組織」として、どう動くのか? が問われている。そして、国民・世間側も、「タタキ」「イジメ」のネタにするのか、それとも、心から、悼み、将来につながる責任と対策を考える動きへ結びつくのか?が、やはり、問われている。「仕事」の責任、「人間」としての責任、それらは、「何を問題と見るのか?」「自他の振る舞いをどうするのか?」ということと、対応している。「無責任」といえば、太平洋クラブライオンズの元営業開発促進室長で、アメリカの「2A」球団の共同オーナーも勤められたという「実績」を、楽天オーナーとその支持者から「評価」された、キーナート氏が、解任されたとのこと。内外の人脈に乏しく、その人脈から呼んで来た外国人選手の起用にも失敗したから、とのこと。「あの」太平洋クラブライオンズの成績、活動した時期、などを考えて、こうしたことは、任命責任者・評価責任者にとって、「予想外」のことだったろうか?近鉄バッファローズがしてきたことを「地域密着ではない」「経営努力が不足」などと批判し、スタッフをクビにして、 (=近鉄バッファローズを買い取る…という選択肢を否定したという意味で)新球団を、「近鉄と異なる優れた企画」「新鮮な人材」によって作る、ということにした、その「目玉」の1人だったわけだが。「近鉄バッファローズ」の実績と実力を「評価」し、また、キーナート氏を「評価」し、球団の買収ではなく、別球団を「是」と「判断」した「責任」は一体誰にあるのか?その判断の合理性は、当時は有ったと言えるのか?色々なところで、(重さも、程度も、比べるのも失礼ではあるが)「人」が軽んじられ、利用され、ないがしろにされている。そして、「責任」が、なすりつけられ、「イジメ」「タタキ」の、道具に成り下がろうとしている。せめて、「イジメ」の対象、「タタキ」の対象 を見つけて、「安心」する風潮に対して、「ちょっと、待って!」という流れを、少しずつでもよいので、声を上げていただきたい。せめて、「痛み」の判る人、そして、本当の「責任」の重さと尊さを知る人は・・・。本当の「プロ」の方は・・・。↓ずっと、昔に書いた「キーナート」氏関係の日記… 浅野知事・仙台・楽天・アメリカ人・太平洋クラブライオンズ・2A (新球団がどうとかいうより、既存のプロ集団とプロの方(スタッフの方々)を 問答無用で「切る」という価値観と動きに、暗然たる気持ちで 書いたものです。)
2005.04.29
コメント(3)
初めて聴いたのは、やっぱりNHK交響楽団の放送で、チェロはピエール・フルニエ、指揮はフェルディナント・ライトナーだった。当時は、土曜の夜8時かに、写真家の沼田早苗さんが進行役(時にはインタビューアー)を務めるクラシック番組があって、確かそれで聴いたと思う。もしかしたが、土曜の夕方のN響アワーだったかもしれないが。そのときからすっかり大好きな曲になり(ビデオも無かった頃なのに)、ほどなく、1300円の廉価盤「グラモフォンスペシャル」で、同じピエール・フルニエのチェロ、ジョージ・セル指揮ベルリン・フィルの盤を買っては、何度も聴いたことか。レコードでは、放送と違って、チェリストの鼻息や唸り声がナマナマしく入っているのにも随分感心したが(不思議とCDには入っていない…)、オーケストラの剛直な音色とリズム、木管楽器の素朴で涙が浮かびそうな音色・歌、そして、チェロの表情過多にならないながら、たっぷりと歌う美しさ、など、なんとも他に喩えようが無いほどの充実した演奏であり、曲だった。このバランスのとれた演奏を初めの刷り込みの体験としたもので、その後かなり長い間、他の演奏の、「チェロの演奏らしい」演奏(=ところどころ重音を挟んだり、リズムを崩したり、また思いーーっきり歌いまくったり)や、テクニックの不足を「勢い」で隠すような演奏は、どうも楽しめなくなってしまっていた。後者はともかく、前者の場合、例えば、ロストロポーヴィチとカラヤンが組んだ全く別系統の「名演」も楽しめなくなってしまう…。大分歳をとってから、少なくとも大分、「寛容」というか、楽しむ幅が広がって、もちろん、ロストロポーヴィチの盤あたりは、充分に、スペクタクルも含めて楽しめるようになったのだが、それでも、やはり、フルニエ&セルの演奏は、何度聞き返しても、やはり、バランスといい、オケ&ソロの表情付けといい、絶妙というほかない。オケのパートの各楽器だけで言うと、カラヤン=ベルリン・フィルもさすがで、例えば自分がオケで演奏するとすれば、対旋律や和音も含めて、「きっちり」やってるのは、むしろ、「厳格なセル」よりもカラヤンの方なのだが、トータルでの「厳しさ」「剛直さ」はやはりセルの指揮したベルリンフィルは別格だ。時代や奏者が若干異なることもあるのだろうが。で、ロストロあたりの格(しかも、カラヤンとのあの名盤)までになれば、ともかく、やはり、「弾き崩し」の目立つ演奏が多く、それらを聴くと、どうしても「ちがうのに…」という感じがしてしまう。テクニック上のゴマカシも実はあるのではないか、と思うが。今日、本当に久々に、この曲が聴きたくなって、当然のごとく、フルニエ盤…とも思ったのだが、「故郷」にいつも戻るのも、ややためらわれ、そこで、以前聞いて好印象だった「イッサーリス」の演奏をかけてみた。もう大分前に、FMで放送したもの。ビエロフラーヴェクが、チェコ・フィルを振って共演している。イッサーリスのチェロは、そもそもテクニック的に全然不自由さを感じさせない上、「引き崩し」や「その場の思いつき」「肉体的な慣れ」が見られない、良い意味で、健康的で美しく、バランスのとれた演奏だ。この曲は大事にする余り、レコーディングに踏み切れない、とのことだが、その言葉は、全く、見せ掛けではないことがよく判る。(もっとも、昔と違って「クラシックの商業レコーディング」は、普通に居れば、 会社からは声はかからない時代になってしまったが。もうウレる商売ではないので。)オーケストラも、ドボルザーク独特のリズム処理などは慣れたもので、それこそ、崩さずにきっちりつけている。冒頭のクラリネットのソロに、弦がリズムをつけて始まる「音」を聴いたらもう「ああ、そうやったなあ…」という思いが満ちてくる。「懐かしい・・・」のである。「そうそう、そしてフルートが答えて、ああ、ヴァイオリンがさらに応えて、波のようにみるみるトゥッティに・・・」スピーカーからの音を聴いているので、やはり、刷り込みの「セル=ベルリン・フィル」の音がかぶさって聴こえて来る気がする。ここでのチェコ・フィルの演奏も、また、表情過多にならない、均整のとれた演奏である。東欧のホルンらしく(ましてやチェコフィルのホルンらしく)、ビブラートのかかったやや細身の音で、有名な美しいソロが伸びやかに演奏されるが、これもまたビブラートが音楽を崩したり、音程を崩したりするまでには至らない、抑制の効いたものになっている。チェロのソロが始まるところ、いつも「今度はどんな演奏かな?」という期待と不安が入り混じるのだが、イッサーリスは先に書いたとおり、リズムを崩さずにしっかりと弾きこなしながら、主題を提示する(冒頭からド演歌する方も多い)。しかも、それでいて、しっかりと歌っている。音色も(これは録音にも再生にもよるから無責任だが)、トゲトゲしさのない深みのある音だと思う。どんな「名器」なのか知らないが。あと曲の至るところで、細かいリズムのかけあいや、和音のからみあいが、オーケストラの間であり、これがまた「ソリスティックなチェリスト!!(またはテクニック不足のチェリスト)」となると、リズムも和音も、反りが合わないまま、突っ走ることになることが多いのだが、イッサーリスとビエロフラーベク=チェコ・フィルは、多くのツボを極めて自然、アタリマエのように、合わせ調和させる。「こうあって欲しい」と思うように、音楽の世界が広がる。こうしたあたりも、フルニエ&セルとも共通する美点である。ライブでもあり、彼らのような「堅固な完成」とはまた少し肌合いは異なるが。音がきれいで、深く、しかも、イレギュラーで不自然な表情付けが無いので、とても自然に「音楽」「歌」に浸ることができた。これを「幸せ」と呼ばずして、何と呼べるだろう・・・。難点はひとつ。。。。こうした音楽を聴いたあとは、しばらく、雑多な音・音楽を耳に入れたくなくなることだ。CMやニュースのテーマ音楽など…(それらが「悪い」と言うのではないが)。本当に良い曲だ。
2005.04.18
コメント(1)
今の朝の連続ドラマ「ファイト」は、かなりオススメだ。例によって、イマイチ「?」と思うような前宣伝のおかげで、余り期待していなかったのだが、大人の立場、子供の立場、大人と子供の関係、が、「上下」でもなければ「別々」でもなく、それでいて、「通じようとしあっているのに、どうも通じない」といったあたりの「感触」も含めて、なかなか細やかに描いている。しかも、登場人物が、かなりの程度、自然で、しかも、爽やかであり、「緊張」と「緩和」、「緩」と「急」 のバランスがドラマとして、心地よい。そして、また、「プロの仕事」の難しさとリアルさも、ドラマとしては、かなり、リアルに、描いている点、出色であるように思う。また、思春期の「友達同士」の微妙な関係も、 (自我の支え合い&自我の潰しあい、 「信頼」そして、悪意からというよりも、臆病さからの「裏切り」・・・)まさに思春期ならではの出来事として、リアルに描いているが、それはまた、ウンとオトナになってからの「社会人」どうしの間でもおきている ということを、いずれかに軽重をつけず、同じ目線・近しさで、描いている。また、おそらくは、女性から見たオトコとは、こうしたズレ方、スレ違い方をするのだろう・・・という善意のズレ・不器用な夫・父親役を、緒形直人が好演している。今週は、「ただしいこと」というテーマ。娘の側は、親友や「みんな」との価値観・自我の違和感と葛藤に悩みつつも、臆病に(ほぼ「卑屈に」・・・)迎合しながらも、本音を漏らし、それが親友の小さな「裏切り」に結びつき・・・という、「近づいたり、離れたりする心」「信頼と従属」の交差している、父の側はプロの職人として、また、家族と従業員の生活を背負った経営者として、元請の大企業の不正に悩み、リアルな妻の助言に、屈辱に耐える決心をしながらも、どうしても、自らの価値観・誇りとの葛藤に苦しみ、ふと不用意に漏らした言葉により、経済的にも社会的にも、家族や従業員を窮地に追い込んでしまい…というように、各々、「勇ましい」「一点の曇りも無い」ような、強さを予め持ち合わせているわけではない、登場人物が、「それでも、なお」という点に動かされる姿が、描かれている。「人」に恐れを抱き、落ち込み、怯えながらも、なんとか、あふれんばかりの自然な笑顔で接するという、痛ましさとけなげさの描写など、演出も含めて、おもわず、見入ってしまう。(前作の「わかば」が、「チアは笑顔!」という「キメぜりふ」で 都度都度まとめていたのと対照的だ。 アレはアレで「朝ドラの判り易さ優先&まとまり」のニーズに応えたのだろうから、「悪い」というワケではないが。)また、学校での心配事・怯えを前にしながらも、ふと、厩舎での人や馬との触れ合いには、本当に心が解きほぐされている様子も、実際、「人によって傷つけられ、人によって救われ・癒される」ことを鮮やか、かつ、爽やかに描いている。職場での心配・悩みを抱えながらも、娘の姿に向き合う時は「父の顔」となることもまた、同じこころの動きなのかもしれない。父と娘は、ドラマとしても、相似形で描かれているが、しかし、両者は、理解しあえず、娘は自らの弱さ卑屈さへの嫌悪感も含めて、父親の「半端な正義感」にも見える態度をなじる…のだが、しかし…。というところまでが、本日(金曜日)。父親が、不正を働いた大企業の締め上げを喰らって窮地になった状況で、マスコミに「窮地になると判っていたのに、告発したのは、何故か? 正義感からだろう?」と問われ、「違います」・・・・・「なぜだか、よく、わかりません」と答えたあと・・・・・ ・ ・ ・「でも、判っていることが一つだけあります。」 ・ ・ ・「他所のバネに、ウチのバネの代わりは出来ません。 タカがバネだと思われるかもしれませんが、 私は、木戸(父のバネ製造会社)にしか出来ないバネを造って来たつもりです。 私は、自分の造ったバネに誇りを持っています。」と答えるシーンは、朝ドラながら、かなり、インパクトがあった。こうした「具体的な自負」「絶対的な(相対的でなく)モノを見る目」は、ここ数年、多くの企業経営者に直接話を聴いてきた僕の経験からしても、リアルなものだと感じた。(つまりは、この脚本家は、プロ・職業という面についても、よく取材し、見ていると思う。)自社を裏切り不正を働いた元請の大企業を非難するかどうか、という問題以前の、本当の自分の仕事、それ自身の具体的な(絶対的な)プライドを、端的に表す、シーンだった。フツーの、ドラマの感動的なシーン…でもあるのだが、 (娘との、理解の復活のシーンでもあるし)しかし、実際の「仕事」「プロ」を考えると、ありふれたようでいて、実は、非常にリアルに良く書けた台本であり、セリフであった。朝ドラの限界として、どうしても、語りが多く、説明が丁寧すぎて、まるで「ノベライズ」した台本のような傾向があり、 (もしかして、脚本の筆者は、小説家?)また、「判りやすいストーリー」となるきらいもあるが、それは、ドラマ枠として、措くとして、かなり、非常に見ごたえのある、しかし、爽やかなよく書けたドラマとなっている。ちなみに主人公の、本仮屋ユイカ は、あの「スウィングガールズ」で重要な役を演じていた女性であり、このドラマでは、さらに、その魅力を全開している。表情も(そして移ろいゆく表情の変化も)、セリフも、本当に自然でありながら、リアルに伝わるものを持っている。演出・演技指導のレベルが高いということでもあるのだろう。ちなみに、かなり、演技指導も本気度が高いようで、キャッチボールから、馬との接し方、また、工場での作業まで、「ウソ」「アテレコ」などがほぼ無いリアルさも、また、このドラマの完成度を上げているようだ。これは、あの「スウィングガールズ」の楽器演奏の、巧さも下手さもアマチュアっぽさも勢いもリアルであったことと、 (最終的に、びっくりするほど上手なのだが、 「プロの巧さ」「プロのスタジオ録音」とは全く違った 高度なアマチュアの「巧さ」&「楽しさ」を あの映画ではリアルに写し取ることに成功していた。)偶然ながら通じるように思う。(例えば、「新選組!」以外の昨今の大河ドラマの演出レベルから見ると、 まさに出色である。 大河は「スター」を並べまくりすぎるから、 横笛を吹くシーンひとつ、指も、姿勢も、メチャクチャなのだろうが。)「ファイト!」という題名や、「馬とのふれあい」「ソフトでがんばる」「家族の別離」のような前宣伝から想像するもの (主人公は当然のように「何か」を定型的に信じて目指し、 「事件」が多く・・・みたいな・・・)とは、全く違う、非常に見ごたえのあるドラマであるように思う。もっとも、まだ、始まったばかり。これから、どうなるのか、保証の限りではない。が、まさに、「ドラマ」をライブで見る 楽しみが、ひとつ、出来て、嬉しい限りである。
2005.04.15
コメント(4)
今日は、早く帰れたので、なかなか行けなかった落語会に行けた。桂吉弥さん。吉朝師匠のお弟子さんだが、もう今や安定感も勢いも兼ね備えたベテランだ。かなり以前、梅田の大融寺で、「吉朝学習塾」という一門の勉強会で、デビューされたのを見たのが、この吉弥さんだったのか、あさ吉さんだったのか、失礼ながら、はっきりしないのだが、もう当然ながら、その頃の「芸」など、全くの別人である。 (デビューでは、「東の旅」を、リズムに乗せて一気呵成に、間違わずにやる、 というのが、ものすごいイニシエーションのようだ。 その折も、明らかに「娑婆の友達」がたくさん座敷に集まって、 はやしたてていた(…あさ吉さんだったかもしれず、ご両人に失礼ご容赦…))今、療養中の、大師匠、吉朝師匠も、以前から、劇団リリパットアーミーの「団員(?)」として、怪しげな(?失礼?)役どころの演技などを披露されていたが、この吉弥さんも、このところ、わかぎえふさんのお芝居に出られてるとのこと。三谷幸喜氏の「おいしい生活」でも触れられていたように、その出演の折に、見出されて、「新選組!」の山崎丞の役に抜擢されたとのこと。TVで突然、吉弥さんを見たときは(しかもありきたりのナニワのお笑い役でなく、むしろ凄みのある役)本当にびっくり&感心したものだ。とはいえ、やはり、吉弥さんの本業の落語は、充実の極みであった。(「たち切れ線香」「花筏」)ナマで聴く(見る)のはかなり久々で、とくにホール以外では、もしかしたら、「吉朝学習塾」以来(その記憶のやや不確かなデビュー以後も、ずっと「学習塾」は続けておられたので、その折)かもしれない。演じ分けの明確さ、口跡の鮮やかさは、言うまでも無く、目・顔・身体から発する「演技」は、本当に安心して、見られるし、心を許して笑わせてもらえる。また、緊張感・静かさの場面での、客席全体が息を呑む空気 もまた、ナマの落語ならでは。落語は、ホールでのものも良いが、やはり、座敷や比較的小さな部屋(今日は、ワッハ上方レッスンルーム)での、顔の表情や、視線がはっきり判り、マイクを使わない場所でのものは、他に比べようもないほどの体験だと思う。これは、ホールでの体験とはかなり違うし、当然、イラク戦争やダースベイダーやブッシュが次々映るTV画面での視聴とは、全く異なる。「見える」という意味なら、TVは充分に「見える」のだが…。不思議なものである。残念ながら、今日は、雨ということもあってか、入りは6分くらいか? 50人くらい居たかな?もともと、小さなスタジオのような部屋だから、日や天気によったら、すぐ、一杯になっておられるのだろうが、惜しいことではある。(まあそのおかげで、良い席で、拝見は出来たのであるが)一緒に演じられた、笑福亭銀瓶さんの「牛ほめ」も、独特のクセのある枕から一転、澱みもケレンも無い鮮やかなもの。こちらも、演じ方に甘えは無いが、と同時に、勢いとエネルギーを放出し続ける、若さを良い意味で出しておられた。また、開口一番の、桂佐ん吉さんの「商売根問」の一節も、若手ながら、きっちりと演じて、笑わせてもらえるところでは、しっかり笑わせてもらえた。こちらも「甘え」の無い修行の成果からか、ちゃんと「客」として、噺を聴かせて貰えた。掛け値なしに最高レベルの落語、現代最高のパフォーマンスの機会の1つ、と言って差し支えないと思うのだが、しかも「大河俳優」の会!! なのに、お客の入りが、ブレイクしないのが、「上方文化」「大阪文化」 と 「大阪人」 の距離というか、「知られていない」「体験したことがない」ことの証左とは言える。全くもったいないことではある。映画より安いのだが・・・。一日の終わりに、プロの中のプロの方たちと、面と向かって、心の底から笑わせてもらい、また、しんみりさせてもらい・・・、ありがたいことである。
2005.04.12
コメント(6)
全4件 (4件中 1-4件目)
1