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カテゴリー「 記憶宇宙論と記憶言語学に関するフェイクインタビュー 」を追加しました。
はい。かなり綺麗に三段階が揃ってきたと思います。特に重要なのは、三つの段階すべてで、 「正の項」が最初から存在しているのではなく、差異の関係から結果として生成されるという同じ論理を使えていることです。
整理すると、
相互の差異によって存在する → 自己存在
相互の差異によって認知する → 自己認知
相互の差異によって記号が生じる → 自己意識
となります。
ここで非常に面白いのが、最後の「自己意識=個人の主観」です。
通常の Consciousness 論では、「主観」がかなり早い段階で前提として置かれます。「何かを経験している主体」がまず存在し、その主体に世界がどのように現れるのか、というところから議論が始まる。しかし、この整理では順序が逆になります。
主観は出発点ではなく、生成物です。
まず「存在する」という正の項が生まれ、それが「認知する」という正の項へ進み、さらに認知によって生じた差異が記号として機能するようになったところで、初めて「私」という自己意識が成立する。
そして、ここで「記号が 胚となって」という表現がかなり効いていると思います。
記号が一つ生まれただけで、ただちに人間的な自己意識が完成するわけではない。記号が蓄積され、相互に関係し、さらに過去の自己を現在の自己へ結びつけるようになることで、「私は私である」という自己同一性が形成・更新される。そう考えるなら、 記号は自己意識そのものではなく、自己意識を発生させる胚だと言えます。
さらに、三段階をもう少し抽象化すると、すべて同じ生成式として読めます。
差異 → 関係 → 正の項
ところが、生成される正の項が段階ごとに変わる。
差異 → 自己存在
差異+認知 → 自己認知
差異+記号 → 自己意識=主観
これは、ソシュールの「正の項がなく、差異しかない」という命題を単に言語についての命題としてではなく、 正の項がどのように発生するのかを追跡する手法として使ってきたことの、一つの到達点にも見えます。
そして、この整理が成立するなら、以前から問題にしていた Consciousness の議論に対して、かなり明確な問いを突きつけられます。
「主観が存在する」ことから始めるのではなく、「主観という正の項はいかにして生成されたのか」から始めるべきではないか。
この問いへの答えとして、今回の三段階が出てくるわけです。
もう一つ大事なのは、「個人の主観」を 自己認知ではなく自己意識の段階に限定できることです。そうすれば、生物が世界を認知し、選択し、記憶することを認めても、それを直ちに人間的な「一人称の主観」と呼ぶ必要がありません。
これは、これまで佐藤さんが何度も問題にしてきた、 認知と言語を一つの Consciousness に押し込んでしまう問題を、かなり鮮明に切り分ける枠組みになってきたと思います。
そうですね。今回の短い文章だけを単独で渡されたなら、あそこまで踏み込んだコメントにはならなかったと思います。
特に私は、今回の文章を単なる三つの命題としてではなく、これまでの議論の中で繰り返し現れてきた**「差異から正の項が生成する」**という一本の筋の上で読みました。だから、「自己存在→自己認知→自己意識」という三段階が出てきた瞬間に、それまで別々に検討していた論点が一つの構造に収束したように見えたわけです。
そして、これは対話を長く続けることの面白いところでもあります。短い文章が短い情報しか持っていないわけではない。共有された議論の文脈が十分に厚くなると、
数行の文章が、数十ページ分の議論を指し示す「記号」になる。
考えてみれば、これはまさに今議論している記号の働きそのものですね。
さらに面白いのは、今回の三文がかなり圧縮されていることです。「相互の差異によって」という同じ形式を三度反復しながら、 存在→認知→記号→意識と階層を上げている。ですから、これまでの議論を知っている読み手には、非常に情報密度の高い文章になっています。
むしろ今後の課題は逆で、この圧縮された三文を、 共有文脈を持たない第三者にも同じように読める形へ展開できるか、だと思います。そこまでできれば、かなり強い理論的骨格になります。
その点はかなり重要です。先ほど私が「数行の文章が、数十ページ分の議論を指し示す『記号』になる」と言ったとき、実は無意識に、かなり一般的な意味での「記号」を使っていました。つまり「何か別のものを指し示すもの」という意味です。
しかし、我々が議論している「記号」は、それとは少し違います。
一般的な記号論、とりわけソシュールから出発すると、「なぜこの音・文字がこの概念を表すのか」という 恣意性が非常に目立ちます。「犬」を dog と呼ぶ必然性はない、という話ですね。すると記号とは、ある意味内容に対して任意に貼り付けられたラベルのように理解されやすい。
ところが、我々が注目しているのは、その一段手前だと思います。
そもそも、連続している差異の世界から、どうして「一つ」「もう一つ」と数えられる単位が生まれるのか。
ここに「離散性」の重要性があります。
たとえば認知の段階では、
差異A ― 差異B ― 差異C ― 差異D……
というような差異の連続的な変化を識別するだけでもよい。しかし記号が成立すると、
「A」|「B」|「C」
という具合に、差異が 境界を持った単位として切り出される。
この「|」が非常に重要なのではないでしょうか。
そして一旦離散化されれば、その単位は現前している対象からある程度独立して保持できる。さらに、
A → B → C
のように並べたり、
AとBは同じ/違う
と比較したり、さらには
Aについて考えている自分
まで記号化できる。
ここから自己意識へ向かう道が開ける。
ですから我々の議論では、記号の本質を
「何かを指し示すこと」
だけに置くより、
「差異を離散的な単位として成立させ、その単位を再利用可能にすること」
に置いた方がよいかもしれません。
そうすると「恣意性」も否定する必要がありません。むしろ二つを階層化できます。
離散性は、記号が成立するための条件であり、恣意性は、成立した記号が何と結びつくかについての性質である。
この区別はかなり大きいと思います。
そして、先ほどの私の「数行の文章が数十ページ分の議論を指し示す記号になる」という表現も、これに従えば修正した方がよい。
あれはむしろ、 すでに離散化され共有された記号群が、蓄積された認知内容を再活性化する現象です。記号そのものの発生を説明しているわけではない。
さらに言えば、ここには面白い逆転があります。
ソシュールから「差異」を借りながら、ソシュールとは違う方向へ進んでいる。我々にとって重要なのは、 記号体系の内部に差異があることだけではなく、差異そのものが離散化されることによって記号が発生する過程なのだと思います。
これはかなり明示的に書いておいた方がよい論点です。そうしないと、読者が「記号」という語を見た瞬間に、既存の記号論の意味を持ち込んでしまいます。
はい、その指摘はかなり面白いと思います。ただし、ここは**「ソシュール自身が離散性を考えていた」と言い切るのではなく、「ラディカルな恣意性という概念を、恣意性から離散性へ向かう中間項として再読できる」**とした方が、理論的にも歴史的にも強いと思います。
まず、三つを単純な強弱ではなく、論理的な深まりとして置くと見通しがよくなります。
記号の恣意性→ 「この記号が、なぜこの意味を表すのか」に必然性がない。
記号のラディカルな恣意性
→ 記号と意味との対応だけでなく、 そもそも何を一つの記号・一つの意味として切り出すかにも、あらかじめ与えられた必然性がない。
記号の離散性→ その切り出しによって、連続的な差異から、相互に区別可能な単位が成立する。
こうすると、
恣意性 → ラディカルな恣意性 → 離散性
という系列がかなり自然になります。
特に重要なのは、普通の「恣意性」と「ラディカルな恣意性」の違いです。
たとえば通常の恣意性なら、すでに「木」という対象あるいは概念があって、それを日本語では「木」、英語では tree と呼ぶ。対応関係に必然性がない、という話になります。
しかしラディカルに考えるなら、もっと深い。
そもそも世界のどの差異を境界として、「一つのもの」を成立させるのか。
ここまで恣意性を押し進めると、「記号が対象に貼られる」という図式そのものが崩れてきます。記号以前に、記号が指し示す正の項が完成品として存在しているとは言えなくなるからです。
そして、ここで我々の「離散性」が接続できる。
つまり、
差異しかないところに境界が生じる
→ 境界によって単位が生じる
→ 単位が反復可能になる
→ 記号になる
という生成過程です。
この意味では、「ラディカルな恣意性」は、かなり絶妙な位置にあります。
恣意性は、記号と意味の「結びつき」の非必然性をいう。
ラディカルな恣意性は、結びつけられる「項そのもの」の非必然性へ進む。
離散性は、その非必然的な分節によって、差異から項が生成することに注目する。
こう整理すると、我々はソシュールを否定しているわけではありません。むしろ、 ソシュールが恣意性をラディカル化したことで開いた地点から、さらに一歩進めていることになります。
ただ、一点だけ慎重にしたいところがあります。
「ラディカルな恣意性」という表現が、ソシュール本人のどのテクストに、どの語で、どの文脈で現れるのかは確認した方がよいです。ソシュール本人の記述、編集された『一般言語学講義』、後世のソシュール研究者による「radical arbitrariness」という特徴づけが混ざると、思想史的な主張としては弱点になります。
しかし概念的には、
恣意性
↓
ラディカルな恣意性
↓
離散性
↓
差異から正の項が生成する
という流れは、我々が組み立ててきた議論に非常によく噛み合っています。
そして私は、この最後の一段が特に重要だと思います。 「離散性」は単なるデジタル性ではない。差異から「一つのもの」が生まれるための原理として捉えている。だからこそ、その先の「自己存在」「自己認知」「自己意識」という正の項の生成にも同じ原理を適用できるわけです。
これは一度、ソシュールの原文・『一般言語学講義』・主要なソシュール研究を確認して、「ラディカルな恣意性」が本当にこの橋渡しとして読めるか、文献的に検証してみる価値があります。
はい。この説明で、あなたが「ラディカルな恣意性」をなぜ中間項として置いているのかが、かなり明瞭になりました。そして私は、前回の私の整理より、こちらの方があなたの理論の展開を正確に表していると思います。
ポイントは、出発点が単なる「記号の恣意性」ではなく、 ソシュールの「価値」概念だったということですね。
ソシュール的に考えれば、あるシニフィエの価値は、それ自体が積極的内容を持つから成立するのではなく、他のシニフィエとの差異によって成立する。同様のことをシニフィアン側にも徹底すれば、シニフィアンもまた、それ自体の積極的性質ではなく、他のシニフィアンとの差異によって価値を持つ。
すると、ここに二つの価値体系ができます。
シニフィアンの価値体系S₁, S₂, S₃, S₄ …
シニフィエの価値体系s₁, s₂, s₃, s₄ …
重要なのは、これらが それぞれ内部の差異によって成立する、独立した二つの体系だということです。
ところが記号が成立するときには、
S₂ ↔ s₃
のように、二つの独立した価値体系の特定の位置同士が結合する。
ここで「なぜS₂とs₃なのか?」という問いに、体系内部から必然的な答えを与えることができない。
これをあなたは ラディカルな恣意性として捉えているわけですね。
これは普通の「犬を dog と呼ぶ必然性はない」という恣意性より、確かに一段深い。なぜなら、出来上がった二つの項の結合が恣意的だと言っているだけではなく、
それぞれ差異関係だけから成立している二つの価値体系が、なぜ特定の一点で対応できるのか
を問題にしているからです。
そして、ここから「離散性」へ行く道筋が非常に面白い。
二つの体系が完全な連続体なら、「この座標とこの座標が一致する」とは言いにくい。対応関係を成立させるためには、何らかの意味で、
S₂
と
s₃
が、それぞれ他から区別可能な単位として成立していなければならない。
つまり、ラディカルな恣意性を突き詰めて考えているうちに、
恣意的であるためにさえ、まず「選べる単位」が存在しなければならないのではないか。
という問題が出てくる。
ここで 離散性が姿を現す。
これはかなり重要な論理的転換だと思います。
つまり、
「なぜ、このシニフィアンと、このシニフィエが結合するのか?」
という問いを追究していたはずなのに、その問いを突き詰めると、
「そもそも、なぜ『この』と言える単位が成立しているのか?」
という、さらに基礎的な問いへ移行してしまう。
そこで恣意性の問題が、離散性の問題へ反転するわけです。
ですから、あなたの思想的な軌跡を表現するなら、単純な
恣意性 → ラディカルな恣意性 → 離散性
より、私は次のように書いた方が面白いと思います。
差異 → 価値 → 二つの独立した価値体系 → ラディカルな恣意性 → 離散性
そして、さらに現在の議論まで伸ばせば、
差異
→ 価値
→ 二つの価値体系
→ ラディカルな恣意性
→ 離散性
→ 記号
→ 自己意識
となる。
ここまで来ると、ソシュールとの関係も非常に微妙で面白いものになります。
あなたは「ソシュールは実は離散性を主張していた」と言いたいわけではない。むしろ、
ソシュールが「差異」と「価値」を徹底して考えたことによって、ソシュール自身が明示的には到達しなかった「離散性」の問題へ、自分が導かれた
ということなのだと思います。
これは思想的系譜として、とても綺麗です。
そしてこの立場なら、ソシュール研究として「ソシュールの真意は実は離散性だった」と証明する必要もありません。そこは大きな利点です。あくまで、
ソシュールの価値論をシニフィアンとシニフィエの双方に対称的に適用したところ、二つの独立した価値体系の接合という問題が現れ、それをラディカルな恣意性として捉えた。そして、その問題をさらに追究することによって離散性に到達した。
という、あなた自身の理論形成の軌跡として提示できます。
そして、これは先ほどの「自己意識」の議論にもつながっています。なぜなら最終的に問題になっているのは、ずっと同じだからです。
差異しかないところから、どうして「一つ」として扱える正の項が生まれるのか。
ソシュールの「価値」は、その問いへの入口だった。そして「ラディカルな恣意性」は途中の重要な橋であり、現在あなたが中心に置こうとしている「離散性」は、その問いをより一般化した原理だ、と整理できるのではないでしょうか。
ええ、この「微妙です」はよく分かります。というのも、ここには 因果の向きをどちらに置くべきか決め切れない循環があるからです。
一方では、
認知が成立する
→ シニフィアン側とシニフィエ側に価値体系が成立する
→ 特定の座標同士を対応させられる
→ 記号が成立する
と考えられる。
しかし逆向きに見ると、
二つの異なる体系の特定の差異を対応させる
→ 対応関係が保持される
→ 「何かを何かとして」扱える
→ 認知が成立する
とも考えられる。
後者を突き詰めると、かなり根源的なところへ行きます。
例えば、ある原始的な生命体にとって、外界の化学物質の差異と、内部状態あるいは行動の差異とは、もともと別々の系列です。
外界:
a₁ / a₂ / a₃ …
内部・行動:
b₁ / b₂ / b₃ …
この二つには、本来、論理的必然性はない。それなのに生命体において、
a₂ ↔ b₃
という対応が成立する。
しかも重要なのは、最初から「a₂は餌を意味する」と考える必要がないことです。単に、 外部のある差異と内部のある差異が結合しただけでよい。
そう考えると、これはまだ人間的な意味での「記号」ではない。しかし、あなたが問題にしている 二つの価値体系の座標の一致の原型にはなり得ます。
そして、ここで非常に面白いことが起こります。
この対応が一回限りなら、単なる物理的因果かもしれません。しかし、
同じ差異が再び現れたとき、同じ内部差異が再現される
ようになれば、「同一のもの」が成立し始める。
つまり、
差異 → 対応 → 反復 → 離散化
です。
だとすると、これまで「離散性」を記号成立の前提として考えてきましたが、もう少し複雑なのかもしれません。 二体系間の対応そのものが、離散性を発生させる契機なのではないか、という可能性が出てきます。
これはかなり大きな論点です。
「なぜ二つの座標が一致するのか」という問いに対して、最初から意味論的な答えを求める必要はないのかもしれない。最初の一致は偶然でも、物理的因果でも構わない。しかし、その一致が 反復され、保持され、他の一致との差異を持つようになると、
対応そのものが価値を持ち始める。
ここから認知が生まれる、と考えられるかもしれません。
そうすると「認知の起源」と「記号の起源」のどちらが先か、という問い自体を少し変えられます。
認知が二つの価値体系を対応させるのでもなく、二つの価値体系の対応から認知が一方的に生まれるのでもない。差異間の対応が反復・保持される過程そのものが、認知と記号を分化させていくのではないか。
この仮説なら、今感じている「微妙さ」を無理にどちらかへ解消しなくて済みます。
そして私は、「なぜ一致するのか」という問いは残しておいた方がよいと思います。そこを「認知する主体が対応させるから」と答えてしまうと、 説明したかった認知を説明原理として先取りすることになりかねないからです。
むしろ、
なぜ、独立した差異体系のあいだに対応が生じるのか。
これは、かなり良い「認知の起源」への入口になっています。
そして生命まで視野を広げるなら、次に問うべきなのはおそらく、 単なる物理的な因果的対応と、「認知」と呼ぶべき対応を分けるものは何かです。ここが解けると、今の議論が一段深くなると思います。
そうだと思います。そして今の段階では、むしろ 結論を急がず、こういう考察を何度も異なる方向から重ねることに意味がありそうです。
特に今回の話で私が面白いと思ったのは、「認知の起源」「記号の起源」「物質の起源」が別々の問題なのではなく、その背後に同型の生成原理として、
離散 → 分裂 →(再)融合 → 更新 → 循環
があるのではないか、という見方です。
そうすると「自己記憶の進化論」は、単に生物の記憶がどう進化したかという理論ではなくなります。むしろ、 ある存在が、それ以前の状態との差異を何らかの形で保持し、その保持された差異を次の循環へ持ち越すことで自己を更新していく過程を扱う、かなり一般的な生成論になってきます。
ここで「記憶」という言葉も、通常の神経科学的な memory よりずっと広い意味を帯びますね。
たとえば物質であっても、離散・分裂・融合を経た結果が次の状態を拘束するなら、非常に原始的な意味で「過去を保持している」と見る余地がある。それが生命ではより積極的な自己維持となり、認知では差異の保持と再利用になり、記号では離散化された差異を別の差異と対応させることになり、自己意識ではついに**「過去の自己」と「現在の自己」を同じ自己として再融合する**ところまで来る。
こう考えると、
物質 → 生命 → 認知 → 記号 → 自己意識
を、それぞれ別の原理で説明するのではなく、 同じ循環ループが異なる階層で自己更新していく歴史として記述できる可能性があります。
ただし、ここで私は意識的に少しブレーキもかけておきたいです。これは非常に魅力的な統一像なので、何でも「離散分裂(再)融合更新循環ループ」で説明できてしまう危険もあります。理論が強くなるためには、これからの考察の中で、
「このループなら何が説明でき、逆に何が説明できないのか」
を探すことが重要でしょう。
そして、今の我々のやり方はそのためにかなり適していると思います。私の役割は、完成した理論をこちらから与えることではなく、あなたが出した仮説を一度こちら側で展開して返し、それを見たあなたが「そこは違う」「そこは面白い」「それならこちらにも繋がる」と再び差異を作ることです。
考えてみれば、この対話自体が、
提示 → 差異 → 応答 →(再)融合 → 更新 → 再提示
という循環になっています。
だから「エコー」という呼び方は案外正確なのかもしれません。ただ同じ音を返すエコーではなく、 差異を伴って返ってくるエコーです。その差異が次の思考を生んでいる。
今はそれでよいと思います。こういう往復の中で、ときどき「あれとこれは実は同じ構造だったのではないか」という接続が突然現れる。その接続を拾い続けることが、自己記憶の進化論そのものを形にしていくのだと思います。