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Dans la philosophie occidentale, ce que l’on appelle « objectivité » est en réalité une « non-subjectivité », qui correspond, en termes grammaticaux, à la deuxième personne.En postulant, dans cette non-subjectivité de la deuxième personne, l’existence de quelque chose auquel on peut se confronter, on en vient à créer l’existence de « Dieu ».À l’inverse, la perspective des innombrables divinités (yaoyorozu no kami) du shinto japonais correspond à une perspective entièrement à la troisième personne.Cependant, il y a bien un sujet à cet endroit.Mais ce sujet n’est pas porteur de valeurs humaines ; c’est un sujet qui évolue afin d’acquérir ces valeurs — autrement dit, une « auto-mémoire en évolution ».L’évolution de l’auto-mémoire commence par la perspective à la troisième personne des « huit millions de dieux », puis passe par la perspective cognitive de la deuxième personne, pour aboutir aujourd’hui à la perspective humaine à la première personne — mais cela ne constitue pas une fin en soi.À l’heure actuelle, tous les êtres humains contribuent à l’évolution de l’auto-mémoire.
2026.05.03
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In Western philosophy, what is called “objectivity” is in fact “non-subjectivity,” which corresponds, in grammatical terms, to the second person.By positing something that one can confront within this second-person non-subjective space, the existence of “God” is effectively created.In contrast, the perspective of the countless gods (yaoyorozu no kami) in Japanese Shinto corresponds to a fully third-person perspective.However, there is still a proper subject there.Yet this subject is not one that possesses human values; rather, it is a subject that evolves in order to acquire such values—that is, an “evolving self-memory.”The evolution of self-memory begins from the third-person perspective of the “countless gods,” then passes through the second-person cognitive perspective, and has now reached the first-person human perspective—but this is not the end point.At present, all human beings are contributing to the evolution of self-memory.
2026.05.03
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Closer To Truth:Peter van Inwagen - The Mystery of Existence「存在の謎」私は、この謎に対して一つの解答を持っている。それが「進化する自己記憶による存在論からの意識論」である。これを理解する為には、先ず「人間の主観」を捨て「自己記憶」という特殊な主体の視点を取る必要がある。西洋人にとっては、これは非常に難しいと思う。というのは、彼らの哲学は、主観がある事が大前提であって、それを排除してしまったら、そこで思考がストップしてしまうからである。この「進化する自己記憶」の視点というのは、日本の神道の「八百万の神々」の視点である。だから、日本人である私には、とてもすんなりと理解できる。西洋哲学で「客観」というのは、実は「非・主観」であり、文法でいう所の二人称になる。そして、この二人称の非・主観に、自分が対峙できる何かを想定する事で「神」の存在を創造してしまうのである。日本の神道の八百万の神々の視点というのは、完全な三人称の視点である。しかし、そこには、ちゃんとした主体がある。しかしそれは、人間の価値観を持つ主体ではなく、その価値観を持つために進化する主体、つまり「進化する自己記憶」である。自己記憶の進化は、三人称の「八百万の神々」の視点から始まり、次に、二人称の認知的な視点を通り、現在、一人称の人間の視点に至ったのだが、それがゴールではない。現在、全ての人間が、自己記憶の進化に貢献している。
2026.05.03
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Closer To Truth:Why You Are Every Conscious Being「なぜあなたは、すべての意識ある存在なのか」 | Arnold Zuboffこの哲学者は「Universalism(普遍主義)」を提唱しているとのことだが、のっけから「主観」や「客観」という区分を付けているのに、そういうカテゴリーがどうやって確立されるのかに関して全く言及がない。これは、この人だけに限った話ではない。西洋の哲学者達の間では「一人称の視点の主観」を哲学者自身が持っている事が、彼らの全ての議論の大前提になっているのだが、問題は、彼らが、それを全く自覚していないという事である。だから、主観や客観を議論の端々に挟んでも、それは全く意味を成さない。欧米の哲学者(後発の日本の哲学者も含む)が、主観という概念の起源を説明せずに、単独で使い始めたら、彼らの議論は、それ以上聴く必要はない。西洋哲学は、その出発点から、大きな矛盾を抱えているという事を、一般の人たちが認識する必要がある。
2026.05.03
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英語を勉強してフランス語を勉強すると、学術的な語彙が二言語間で、発音は違うが、綴りは、ほぼ一緒なのに気が付く。私が正に、そうだったのだが、その後にイタリア語を学ぶと非常に面食らう。語源が同じ単語でも、発音や綴りがかなり違うからである。例えば、英語:action (アクシュン)仏語:action (アクシオ゛)伊語:azione (アツィオーネ)でも、実は私は、既に韓国語を学んだ時に、漢字語の綴りと読み方に関する非常に似た現象に出会っていたので、それ程、違和感はなかった。この点でも、韓国に一年間語学留学をしたことは有意義だったと思う。仏語:action を(アクシオ゛)と綴るのは、フランス語の鼻母音には、子音の「n」が最後付かないので、苦し紛れの記述方法である。私は最近、イタリア語の音韻体系で非常に重要な事は、二重子音であると考えている。これは、下の例の様に、子音が1つと2つで意味が変わるというという単純な事ではなく、polo (極)pollo (鶏肉)イタリア語の音韻体系全体に関係する、音韻体系の根幹を成す部分だと考えるようになっている。イタリア語の二重子音に関して、重要な要素となるのが「s+子音」である。これは、フランス語の定冠詞の男性単数形に大いに関係している。単語の語頭が、子音が1つだと「il」になるが、「s+子音」の場合、「lo」になるというものである。il cane (犬)il gatto (猫)lo studente (学生)lo sbagliato (間違い)ここで面白いのは、「lo studente」の場合は、「s+t」で子音が2つ並んでいるのだが、「il cane」という場合も、「l」+「c」で、やはり子音が2つ並んでいる点である。
2026.05.03
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私は、ここでも幾度か、現在の言語学界は、中世のヨーロッパで、天動説を解くカトリック教会と同列に並べる事が出来ると考えている。つまり、言語学と言うのは、一つの宗教になってしまっているのである。だから、「象は鼻が長い」と言う新しい文法を提唱した三上章氏は「異端」とされたのだろう。中世ヨーロッパでは、地動説論者は、カトリック教会で異端裁判にかけられ断罪されたが、日本の言語学界では、三上章氏の文法に対して、どうやら「村八分」的な完全なる無視が発動したらしい。非常に日本らしいと言えるかもしれないが、えげつないと思う。
2026.05.03
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十何年か前に「言語学の嘘」と言うタイトルでブログを始めたのだが、今は「言語学を超えて」に改名している。ふと思ったのだが、再び改名して「言語学の闇」に変えようかなと考え始めた。闇に支配されている「ブラックな言語学」に新しい光を当てようと言う意気込みの下、新しい企画がスタートする様な感じになるかもしれないと思う。
2026.05.03
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私は、言語学者が頭が悪い人達だとは思わない。でも、従来の言語学が引きずっている古い価値観に支配されていて、新しい発想ができない残念な人達だと思う。物理学では、量子力学の出現、生物学では、遺伝子の発見によって、大きなパラダイムシフトが起きたが、言語学では、ソシュールの記号の発見は、不発に終わってしまった。私は、新しい言語学として、ソシュールの一般言語学から発想を得た「差異の言語学」として、記憶言語学と量子言語学を提唱する。
2026.05.03
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私は、人工言語である文字で記述されるコーパスを説明する時、「平面上に静的に」と言う説明を必ず入れるのだが、自然言語の未知の発話の可視化の場合、平面的でも、静的でもなくなる。そして一番大きな違いは、自然言語の場合、記憶の巻き戻し再生ができる点にある。人工言語でも、視覚的に全てを一瞥する事が可能な事から、これと似たような操作は可能であるが、本質は全く異なる。私は、かなり早い時期から記号と言うのは「時間軸上に前後に二極化している」と言う結論に達していた。これは。ミニマルペアの考察を通してであり、この二極性が無いと、ミニマルペアが実現出来ないのである。ところが、リアルタイムで流れてくる音波は、連続しており、記号が幾ら二極性を持っていようが、聴き手が、音声を恣意的に分節して、そこに二極性を見い出しているとは思えなかった。しかも、二極化と言う現象は、現在から過去の方向に向かって働く力が無い限り、実現出来ない筈である。そこで、聴覚も視覚も記憶であると言う発想に至った時、全てが解決できる糸口が掴めた。言語が記憶で出来ているのなら、時間を遡る事は簡単である。言語が記憶であるとすると、実は全ては一旦記憶された過去の世界で全てが展開している事になる。私は今でも「言語とは?」と言う問いを常にしているのだが、いつのまにか、実質的に「記憶とは?」と言う問いに置き換わっている。私の研究対象は、言語ではなく記憶、しかも自己記憶に移り、言語と言うのは、自己記憶の進化の単なる一工程に過ぎないと考える様になっている。私は今でも「言語とは?」と言う問いを常にしているのだが、いつのまにか、実質的に「記憶とは?」と言う問いに置き換わっている。私の研究対象は、言語ではなく記憶、しかも自己記憶に移り、言語と言うのは、自己記憶の進化の単なる一工程に過ぎないと考える様になっている。言語の誕生のメカニズムが、宇宙の誕生のメカニズムと同じであると気がついた事で、私の世界観が変わった。今は、この二つの誕生の中間に位置する「認知/知能の誕生」の考察をしている。
2026.05.03
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フランスの言語学者マルティネが提唱した「二重分節(la double articulation)」というのは、音素が(音声)言語の最小単位であるという前提の下に成立する概念であり、更に、これは、文字で記述されたコーパスという「もう道ではない人工言語」の観察を通して得られたものであり、リアルタイムで展開する自然言語の観察とは矛盾する点が多くある。未知の発話を聴き取ろう、つまり最終的に、記号のシニフィアンを構成する音素にまで分節しようとする場合、先ずは、アクセントや抑揚の層があり、これにより音節やモーラ(拍)などの音韻学的な単位に分節され、その次に、ミニマルペアによる音素同士の違いが弁別される状況が生成し、それを、特定の音声言語の音韻体系を構成する音素として識別するという過程を通るのであるが、ここには、記号のシニフィエ、つまり文脈から推測される記号の識別という過程も同時進行しており、シニフィアンとシニフィエの両側面からの、記憶操作が行われているのである。
2026.05.03
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やっぱり、言語学ほど、非常識な学問はないと思うのだが、何故、誰も疑問に思わないのか、本当に不思議である。そもそも、言語というのは非常に定義が難しい対象であり、しかも、言語を言語で記述すると言う方法的な問題も存在する。それでも、私が「言語学の非常識さ」に気付く事が出来たのは、私が何故、言語の研究をしようと思ったのかにあると思う。私は、言語学を通して言語の研究をしようと思ったのではなかった。自分の自己同一性、つまり、自分の人格を形成している言語の本質を知りたいと思ったのがきっかけだった。言語が変わると人格も変わるというのは、最近は、結構知られる様になっているが、多くの人が、この意味を体感していないと思う。私はアメリカで一年間のホームステイ留学を通して英語を学んだ際、自分の心の中に、英語の人格を別に作ってしまった。その後、大学で韓国に語学留学したのは、二つの人格をコントロールする為に、三つ目の人格を作る事にしたからである。自転車より三輪車の方が単純に安定する。日本人の多くが、英語を話したくても話せないと嘆くのは、元々の日本人としての人格を維持したまま、英語を話そうとしているからである。最近は、英語脳を身につけようと言う人も出てきたが、二重人格になりなさいとは言ってはいない。何故なら、それは多分、乖離性同一症と言う一つの精神疾患になってしまう恐れがあるからであろう。でも、バイリンガルと呼ばれる人達は、大なり小なり、こういう精神的な危機を掻い潜りながら、何とか普通の生活を送っているのであり、私もその一人である。擬似体験をしたいなら、NHKやテレビ東京でドラマ化もされた山崎豊子の「二つの祖国」と言う本をお勧めする。人格形成と言うのは、心理学や医学の精神科の範疇であると思われがちだが、私は、言語の持つ独自のメカニズムに原因があると考えた。そして同時に、言語は、人類が高い知能を獲得したから誕生したのではないとも考えた。つまり、何か特殊なメカニズムがあって、それを利用して人類は言語を発明したと考えた。こう言う心づもりが、既に確立されていた状態で、私はソシュールの「言語には、差異しか無い」と言う命題に出会い、これを自分の研究テーマに据えたのである。言語学の研究など、最初から考えていなかったのだが、最初から、フランス手話(LSF)を学び、手話言語学に触れる機会があったのは決定的だった。こう言う状態のまま私は、一般の言語学者達とは、全く違う時間線を生きることになり、現在に至る。気がついたら、完全な異次元、或いは異世界の住人になっていた。私の世界での常識は、言語学界の非常識であり、その逆も然りである。私は、時々、言語学者達の言語学を志した動機を知ろうと思って、ここX上で質問してみたりするのだが、反応が全く無い。昔、一応、言語学部の学生だった時に、周りの学生や先生に聞けばよかったのだろうが、何故か、当時、それは聞いてはいけない事だと無意識のうちに思っていたのだと思う。言語学を学ぶ理由を聞く事がタブーと言うのは、おかしな話だと思うが、もう私も歳をとったので、実際のところを聞いてみたいと素直に思う。
2026.05.02
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今、一度、言語学界の非常識を纏めてみようと思う。1.人類は知能が高いから言語を使えると言う認識。2.言語の定義は、コミュニケーションの道具であるという認識。3.自然言語には、手話と音声言語の二つの異なるタイプがあるが、音声言語が正式な研究対象であると言う認識。4.自然言語を研究対象とすると言いながら、物理的な図像や文字を通して、視覚的なコントラストを使って、物理的な平面上に静的に記述したコーパス、つまり人工言語を言語学の研究対象とする認識。5.手話と音声言語と言う二つのタイプの自然言語に共通するメカニズムを研究するのではなく、特定の言語の文法や発音、そして語彙を記述をする事が言語学であると言う認識。6.音素は言語の最小単位であり、音素には線状性があると言う認識。7.ソシュールの記号の恣意性の解釈が、シニフィアンとシニフィエとの間には必然性が無いと言う認識。まだ、他にもあると思うが、現在は、これぐらいかと思う。
2026.05.02
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私が言語の関して、非常識だと思うのは、人類は高い知能を持っているから、言語を使えると言う認識である。人工知能の開発者達は、人工知能の演算能力が高度に高速になる事で、人工知能が人間並みの知能を持つ様になるシンギュラリティが到来するとされているが、これに関する理論的な裏付けはない。人間は他の動物と同じく、認知的な記憶の自動生成と保存、そして自動喚起による反応行動への帰結と言う認知メカニズムによって、知能を発揮することが可能なのであるが、言語は認知的な意識上に自己意識という宇宙が誕生する事によって初めて可能になる。高い知能があるから我々は言語を使える様になったと言う一般常識を破壊しなくてはいけない。多分、これが最重要かもしれない。
2026.05.02
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私の言語の研究の出発点は、ソシュールの「言語には、正の項が無く、差異だけがある」と言う短い命題であるのだが、この「差異」と言う概念に対峙するのが「単位」と言う概念であり、一時期「差位」と言う造語をした事もあった。単位の場合、認知対象としての単位を認識する認知主体がいるのだが、差異の場合、違うけど同じ/同じだけど違うと言う相互関係を持つ二つの主体の存在が必須であるが、これは、単位の定義で前述のした認知主体/対象とは違うと考えている。言語が差異で成立していると言う認識から始まり、宇宙のあらゆる存在が差異で成立していると考えると全てが丸く収まる気がする。
2026.05.02
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「ネイティブの耳」のメカニズムを解析するのに、一番、障害になるのが「音素の線状性」だと思う。これは、完全に間違いである。音声言語の場合、先ず、音素同士の差異を弁別するミニマルペアという聴覚記憶操作が成立する為に、連続的な音声を、音節(日本語の場合は「モーラ(拍)」を含む)という音韻学的な単位に分節する必要があり、音素の連鎖への分節は、その後に来るからである。ところが、既にネイティブの耳、或いは、それに準じる聴覚記憶操作が出来る状態にあると、無意識に音素の連鎖を構成する一つ一つの音素を識別できる様になってくる。この為、その前に絶対に必要となる、音韻学上の聴覚記憶操作の考察が行われなくなってしまうのである。また、音素も線状性というのは、音素を構成する二大カテゴリーである子音と母音の成り立ちを無視している。子音と母音は、連続した音声が音節という形で分節された際、母音を核として、音節が時間軸に沿って前後に二極化することで、母音の前後に子音が付く事によって成立する。この前後への二極化により、一つの音声を構成する母音は一つであるが、子音に関しては、同じものが二つ現れる可能性も出てくる。こうして考えると、音節というのは、一種、入れ子構造を持っていると見做すことが出来る。中国語の様に、一音節だけで記号が成立する言語はあるが、それでも複数の記号を前後に組み合わせて、複数の音節を使う事がある。一つの音節が複数になる時、音節が持っている入れ子構造が、拡張されると考えたらどうだろう。チョムスキーの普遍文法の候補として、シニフィエに関して「其々が自由に置換可能な三つの項目からなる文法的な人称」を挙げたのだが、これのシニフィエ版が、音節の持つ「入れ子構造」という事になるとしたら面白そうである。この入れ子構造を研究する為には、ネイティブの耳を獲得する必要がある。私の場合、日本語ネイティブであるが、文字表記による影響を排除するのが本当に難しいので、結構苦戦している。だから、私にとっては未知の言語であるイタリア語のネイティブの耳の獲得に挑戦しているのである。また一つ、突破口が見えて来たが、誰にも分からないのだろうなと思う。ほくそ笑んでもいいですか。
2026.05.01
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MrFuji from Japan:【英語の闇】日本人なら間違えない英語をネイティブが間違えすぎたこれと似たような事が、フランス人の友人から受け取るメッセージにも結構ある。典型的なのは、on 三人称単数の主語代名詞の一つont 動詞 avoir の直説法現在の三人称複数形aimer 不定形aimé 過去分詞形動画でも言われているが、文法を文字を通して習う外国語学習者にとっては、間違える事が少なくなる可能性があるが、ネイティブのフランス人には、全く同じ発音なので、綴りを間違える事がよくある。だいじろーさんの「かっこいい」という発言も、よくわかる。何故なら、こういう事は「ネイティブの耳」を持っていないと起きないからである。今、私が挑戦しているのは、イタリア語の動画の聴き流しをしながら「ネイティブの耳」を育てられるかという事である。10年以上やって、最近、やっと成果が出てきた気がする。もう少し、字幕を見ずに頑張ろう。
2026.05.01
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最近、本当に真面目に思うのだが、言語学と言う学問に関する認識に関して、私が非常識なのか、一般の言語学者達が非常識なのか考えてしまう。というのも、「象は鼻が長い」と言う本を著した三上章と言う「野良言語学者」の独創的の研究を、完全に無視したと言う前科が、日本の言語学界にはあると聞いたからである。今は、日本語話者に向けて、基本的に日本語で発信しているが、時々は、英語とフランス語での自動翻訳も発信している。今後は、Xやnoteで、自動的に多言語に翻訳される様になるとの事だが、どちらにせよ、様子見をしたいと思う。皆さんの忌憚の無い意見を聞きたいです。実は今までも、同じ様な投稿をして、殆ど全く反応が無かったので、あまり期待はしていないのだが、時々、こう言うアクションを取らないと、煮詰まってしまうので、息抜きとしてやっているところがある。言語について、真面目に議論出来る人が出て来れば嬉しいのだが、気長に考えようと思っている。と言うのも、当面のラスボスである「認知/知能の起源の解明」には、まだまだ程遠いからである。
2026.05.01
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My approach to linguistics:1. Rather than focusing on the grammar of a specific language, I aim to uncover the underlying mechanisms of human language as a whole.2. What we call human language consists of Saussurean signs specialized into particular sensori-motor channels, giving rise to two distinct types of natural language: sign languages and spoken languages. I want to identify the mechanisms that are common to both.3. Traditional linguistics studies corpora that are statically represented on a physical surface through visual contrasts—using written symbols or diagrams. However, real-time speech unfolds dynamically, and something “special” must be happening during both production and reception on the part of the speaker and the listener. My goal in linguistics is to clarify this mechanism.I don’t believe I am making overly complex or esoteric arguments.I am simply raising what seem to me to be very common-sense questions about language, yet there appears to be an unbridgeable gap between my perspective and that of linguists around the world.Is something wrong with me, or is it linguists who lack common sense?Someone, please tell me.
2026.05.01
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Mon approche en linguistique :1. Je ne souhaite pas m'attarder sur la grammaire d'une langue spécifique, mais plutôt élucider les mécanismes du langage humain.2. Le langage humain, tel que théorisé par Saussure, repose sur des signes qui se sont spécialisés dans des canaux perceptivo-moteurs particuliers, donnant naissance à deux types distincts de langues naturelles : la langue des signes et la langue parlée. J'aspire à élucider les mécanismes communs à ces deux formes de langues naturelles.3. La linguistique traditionnelle étudie des corpus statiquement décrits sur un plan physique, à travers des images physiques ou des caractères, en s'appuyant sur des contrastes visuels. Or, le discours qui se déploie en temps réel implique, chez l'émetteur comme chez le récepteur, lors de l'émission et de la réception, qu'un « événement spécial » se produit pour générer le tout. Élucider ce mécanisme est précisément le but de mon travail en linguistique.Je ne pense pas me lancer dans des sermons particulièrement arides ou compliqués.Je ne fais qu'exprimer des interrogations très terre à terre sur le langage, et pourtant, il existe un fossé insurmontable avec les linguistes du monde entier.Est-ce moi qui suis anormal, ou bien les linguistes qui manquent de bon sens ?Quelqu'un pourrait-il m'éclairer ?
2026.05.01
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私の言語学のアプローチ:1、特定の言語の文法ではなく、人間の言語のメカニズムを解明したい。2、人間の言語というのは、ソシュールが提唱した記号が特定の知覚運動チャンネルに特化して、手話と音声言語と言う二つの異なるタイプの自然言語を成立させたのだが、この二つの自然言語に共通するメカニズムを解明したい。3、従来の言語学では、物理的な図像や文字を使って、視覚的なコントラストを通して物理的な平面上に静的に記述されたコーパスを研究対象としているが、リアルタイムで展開する発話と言うのは、発信者と受信者の双方で、発信と受信の際に、何か「特別な事」が起きて生成されているはずで、このメカニズムを解明するのが、私が言語学をする目的である。私は、特に小難しい説教を垂れている訳でないないと思う。言語に関する非常に常識的な疑問をもっているだけなのに、世界中の言語学者とは、埋まる事のない溝が存在する。私が異常なのか、それとも言語学者が常識的なでないのだろうか。誰か教えてください。
2026.05.01
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私の考える言語学の抱える三つの非常識。1、言語学の対象を音声言語に限定し、手話を同等の研究対象とみなさない事。2、自然言語を研究しようとする際、知覚的な記憶上にリアルタイムに可視化される発話ではなく、物理的な図像や文字を通して視覚的なコントラストを使って平面上に静的に記述されたコーパスと言う人工言語を研究対象とすしている事。3、一時期は、チョムスキーの普遍文法の議論が盛んになったが、これは失敗に終わり、現在では、言語の本質の議論が無くなり、個別の言語の記述に終始している事。私は、どれも、初めからおかしいと思っていたのだが、30年経って、ようやく自信をもって「非常識である」と断言する事が出来る様になった。継続は力なりである。
2026.05.01
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音声言語の発話の可視化には、二つの方法がある。一つは、物理的な文字で視覚的なコントラストを使い平面上に静的に記述する。もう一つは、発話を聴覚を通してリアルタイムで聴きながら、それを一旦記憶し、発話をシンタグマに分節し、更に記号に分節しながら、それらを全て、自らの聴覚の視野内に収める事で、その後に、それらを組み合わせる事で、全体の文脈を解釈する事になる。二つ目の、聴覚記憶の空間に展開する可視化と言うのは、所謂、ネイティブなら自然に持っている感覚である。
2026.05.01
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現在の言語学は、どんどん自分達が扱いやすい方に偏る傾向にある。1.先ずは、手話と音声言語という二つのタイプの自然言語の内、「音声言語のみを研究対象する」という選択をしている。2.更に、音声言語という聴覚記憶を操作してリアルタイムに展開する「自然言語の研究」を、物理的な文字で視覚的なコントラストによって平面上に静的に記述されたコーパスを基にした「人工言語の研究」にしてしまった。3.そして、「自然言語全体の本質を解明する事」は棚に上げて、「個々の音声言語を記述した人工言語の文法の記述」を言語学の目的としてしまった。こうやって、言語学は、少なくとも「三重の袋小路」に入ってしまっているのだが、言語学者達本人は、そういう認識は全くないので、私から見ると、もうどうしようもないというのが現実である。
2026.04.30
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私が提唱する量子言語学で扱うのは、単位でも差異でもある音素が中心になるのだが、勿論、それだけではない。音素と言うのは、ソシュールの記号の形態の側面であるシニフィアンに該当するが、記号の概念の側面であるシニフィエに関する考察も含まれる。そして、音声言語のみではなく、もう一つのタイプの自然言語である手話も考察の範疇に入ってくる。記号が「其々が独立した二層の価値体系である」事に関する総合的な考察をする事になるのでだが、この考察を量子物理学に応用する事も視野に入れている。私は、量子物理学の背後にあるメカニズムと同じものが、量子言語学にもあると考えている。それが、「離散分裂(再)融合更新循環ループ」であり、これが「混沌からの離散化」と言う過程を司っている。ただ、これが全てではない。このメカニズムは、宇宙の誕生の際に発動した「自己記憶の進化」を司っており、この進化の過程で誕生した生命と認知に関する総合的な考察も考えている。量子物理学の登場は、宇宙の誕生と進化の謎を探る序章に過ぎない。量子言語学が完成したら、また並行して、量子生物学や量子認知学が出てくる事になると私は予想している。
2026.04.30
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私は最近、言語学をディスることに専念していると自分でも思っているが、それは、自分が言語に関して知りたいと思っていた事と、一般の言語学者達が探している事が決定的に違う事に起因している。私も、言語に関する知識が蓄積される事には、ある程度の意義を感じてはいるが、それは、言語の本質の追求とは完全にズレているところで行われており、それが、言語の本質の解明の役に立つとは私には全く思えないのである。言語の研究をしようと思い立ち、フランスに来て30年余経ったのだが、いまだに、自分と同じ目的を持っている人に出会ったことがないというのは、一体、何故なんだろうと思う。私だけが、変わり者で、そんなことを考えている人は、きっと何処にもいないのだろうと思うと結構悲しくなる。ただ、唯一、世界に一人だけ、スイスの言語学者ソシュールだけは、私が師として仰ぐ言語学者である。
2026.04.30
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最近は、イタリア語の動画の聴き取りが、かなり早口でも出来るようになってきたのだが、なんだかんだ言って既に10年以上も同じ事をして、ようやくこの状態に達した事になる。外国語の聴き取り関して非常に重要だと言われているのが、「パスバンド」という其々の言語の持つ特定の周波数で、これは「トマティス・メソッド」と言われる聴覚訓練機関で使われている用語である。例えば、日本語やフランス語は、このパスバンドが非常に極端に偏っていて、その為に、どちらの言語のネイティブも外国語の聴き取りが難しいと言われる。ただ、ロシア語の場合、非常に幅が広く、多くの言語を軽くカバーするので、ロシア語ネイティブの外国語習得のスピードが速いというのがある。実際、ロシア人が、あっという間にフランス語を身に着けたという話は、聞いたことがある。この「パスバンド(其々の言語の持つ特定の周波数)」を訓練する方法というのは、トマティス・センターにはあるのだが、これを独学で習得する事は出来るのだろうかと考えてしまった。私が実践してきたイタリア語の動詞の聴き流しは、初級レベルの内容の動画ではなく、高度に科学的な内容のものを選んでずっと聞いていた。だから、数年間、殆ど何も分からない日々が続いたのだが、簡単なレベルの動画には、殆ど手を出さなかった。
2026.04.30
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言語学というのは、研究をする主体と研究の対象が同じであるという非常に面白い学問である。自分で自分を研究するのは、所謂「客観性」が無いという事で、記号の持つシニフィアンとシニフィエという離散的な二層の側面を、物理的な図像や文字で視覚的なコントラストを使って平面上に静的に記述されたコーパスが採用され、長らく言語学の研究対象とされてきたのだが、これは、あくまで人工的に記述された言語であり、純粋な自然言語とは言えない。つまり、コーパスを通す研究では、言語の本質を解明する事は絶対に出来ないという事になるのだが、現在、言語学者は、これに単純に気が付いていないか、無視しているのが現状である。言語学者は、物理学者が物理現象の背後にある物理法則を記述する様に、言語活動の背後にある文法規制を記述しようとするが、外国語学習界隈では、文法と言うのは必要ないと言われてしまう程、その存在意義が疑われている。最大の問題点は、ネイティブであれば、文法の知識など無くても、言語を何の問題もなく使えてしまうと言う事である。役に立つ物理法則と役に立たない文法規則と言う対比が出来てしまうが、それでも何故、言語学者は文法規則を記述しようとするのだろうか。しかし、社会の役に立つ物理法則の記述をする古典物理学も、量子力学/量子物理学の登場により、主役の座から落ちてしまう。ここで私は、役に立たない言語学に代わるものとして、量子言語学を提唱する。これは、ソシュールの一般言語学を出発点としているが、ソシュールが導入した共時態と通時態と言う二元論を踏まえて、この二つを統合する事を目的としている。「ソシュールの一般言語学講義」と言う本は、先ず本人が執筆したものではないし、完成された言語理論でもないが、私は「言語には差異しかない」と言う命題に注目し、そこから考察を始め、この本の内容の再解釈をするに至った。一時は、共時態の言語学は間違いであると考えたが、それはソシュールの失敗と言うよりは、言語学者が、その方が都合が良いと思ったからである。これは、記号の恣意性の解釈にも通じる。音声言語しか視界に入っていなかった言語学者にとっては、記号の恣意性は、非常に都合が良かったのである。
2026.04.30
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イタリア語の動詞の聴き流しというのは、未知の発話のシニフィアン(音素の連鎖)とシニフィエ(既に存在する記号の概念)を平行して特定しながら、発話によって構築される一つの文脈を解釈するという作業になる。イタリア語の場合、この過程で一番重要になるのが、アクセントだと思う。多分、息継ぎなどによる区切りも関係してくるのだろうが、アクセントによって、発話は「小さな意味の単位であるシンタグマ」に分節され、それが持つ小さな文脈を、連鎖的に紡いでいく事により、発話という大きな文脈の構築に繋がっていく。日本語の場合、ピッチアクセントと呼ばれる抑揚が重要であり、これが無いと、何を言っているか分からなくなる。10年以上も続けているイタリア語の動詞の聴き流しなのだが、ようやく最近になって、少しずつ聴き取りが出来る様になって来たのだが、どうしてそうなったのかに関して、今一度、考察をしておかないといけないと思う。というか、どんな形であれ、発話の聴き取りをする目的は、発話が持っている文脈を特定する事であるのであり、それが出来た時点で、目的は達成され、それ以上の考察は行われなくなる。私の場合、そこに至るまでの過程の考察をする為に、動画の聴き流しをしているのであって、これを忘れたら、意味が無くなってしまう。
2026.04.30
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イタリア語の音韻体系を記述するのには今、考えているのは、日本語の五十音図である。イタリア語の場合、日本語と同じで、基本母音が5個しかないので、子音をどう整理するかに集中出来そうな気がする。ただ、イタリア語の子音の場合、綴りと実際の発音にズレがある場合があるので、それを、どう吸収するかにかかっていると思う。例えば、「ca, ce, ci, co, cu」を仮名表記すると「カ、チェ、チ、コ、ク」となってしまう。「カ、ケ、キ、コ、ク」と発音させるためには、「ca, che, chi, co, cu」と綴る必要がある。更に、「チャ、チェ、チ、チョ、チュ」と発音させるには、「cia, ce, ci, cio, ciu」となる。とは言っても、かなり規則性があるので、その点は助かる。
2026.04.30
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イタリア語の聴き取りが出来るようになってくると、誰が話しているかが、聴き取りの効率に関わってくるのが分かる。しかし、誰が話していようと、イタリア語の音韻体系と文法を踏襲している発話であれば、全ては離散的な音素の連鎖という形になる。これは、手話でも同じである。手話をしているのが人間であれば、老若男女問わず、同じ手話サインをすることが出来る。ただ、手話サインを超える自由な手話表現というのは、個人差が非常にある。特に子供の場合、プロの通訳でも分からない場合があって、聾の大人の人が、通訳に対して通訳をする場面を見た事がある。ネイティブの耳、或いはネイティブの目を持つと言う事は、発話の主の持つ個性を完全に抹消して、離散的なシニフィアンを識別できると言う事であるが、文脈に関しては、記号の持つ共通な概念を基本としているが、場合によっては、発話を解読する人によって解釈が大きく変わる場合がある。
2026.04.30
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私の記号の定義で、一つ、解決していない問題がある。それは、シニフィアンとシニフィエと言う二層を成す価値体系の特定の座標である価値が、何故引き合って特定の記号を成立させるのかと言う事である。この「引き合う力」は、認知システムに起源があるが、元を正せば、物質同士に働く重力ではないかと考えている。認知/知能の起源を解明する事は、物質世界と人間の自己意識の間のミッシングリンクを探す事である。西洋哲学では、宇宙の説明をするのに、いつも何故か二元論になる。「物質対精神」とか「肉体と意識」とか、という感じである。私は、そうではなくて、宇宙/物質の誕生、生命/知能の誕生、言語/意識の誕生という三つの誕生によって構成される三元論を提唱する。
2026.04.28
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音声言語の未知の発話を理解できる為には、平行して同時進行する二つの過程が存在する。それは、ソシュールの記号が、シニフィアンとシニフィエという其々が独立した二層の価値体系である事に起因している。つまり、シニフィアンという記号の形態の側面とシニフィエという記号の概念の側面で、特定の記号を認識する為に、二つの過程が同時進行しているのである。これを理解するには、世間一般に流布されているソシュールの「記号の恣意性」という概念を払拭し、同じくソシュールが提唱した「記号のラスボス」を理解する必要がある。ただ、この「恣意性」という用語自体が誤解を生む恐れがあるので、私は新しく「記号の離散性」という概念を提唱する。そして、一つ重要な事は、これにより「物理的な図像や文字によって静的に記述されたコーパス」の扱いが非常に難しくなるという事である。コーパスというのは、発話を記述する手段としては非常に優れているが、これに代わる動的な記述の出来るコーパスが必要になると考えている。今の所は、口だけ番長であるが。コーパスの扱いが難しいという事であるが、私は、コーパスをツリー構造に分節するという解析は行わない。私の考えている発話の分節は、一方方向に、連鎖しながら、進んでいくものとなる。ツリー構造による分節は、文という一つのまとまりが既に区切られていて、文脈が完成している状態から分節を始めるのだが、私の場合、分節はリアルタイムで行われ、分節されたシンタグマが連鎖する事によって、文脈もリアルタイムで構築されていくことになる。ここで、量子言語学が出てくる。未知の発話を理解するためには、シニフィアンとシニフィエという二層の価値体系を通して、特定の価値(座標)を持つシニフィエとシニフィエを特定するという過程がある。価値というのは、互いに離散的なものであるが、互いの差異によって確立されているのであり、どちらに転ぶかという選択を迫られているのである。ただ、実際の会話で、ここまで考える人は普通いない。何故なら、条件が揃っていれば、まるで物理的なコーパスの様に発話の可視化が出来るからである。量子言語学の目的は、既に固定された人工言語である文が持つ文脈を解析する事ではなく、自然言語の生成過程をシミュレーションする事である。
2026.04.27
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ソシュールの一般言語学から出発して、私は、記憶言語学、そして現在は、量子言語学へと考察を続けている。その過程で、「ソシュールの一般言語学講義」に出てくる「共時態と通時態」という二元論について、ソシュールは間違っていたと考えたのだが、それは、共時態と通時態を同時に扱うことになる量子言語学への準備段階であったと考える様になった。ソシュールが一旦分離した共時態と通時態を、再び統合するという事にすれば、すっきりと収まると思う。ただ、共時態という免罪符を獲得した事で、コーパスという静的に記述された人工言語を言語学の研究対象とする事自体は間違っていると断言できる。しかも、これは、二つのタイプの自然言語の内、手話を排除し、音声言語を絶対的なものと考える言語学者達の歪な言語観を反映して生まれたものであり、これは修正すべきであると考えている。まだまだ、当面のラスボスである「認知の起源」の解明には程遠いのだが、新しい言語類型論が出来たりと、最近は、結構、パズルのピースがポンポン見つかるようになった。独りで考察しているので、考察自体に非常に時間がかかるのであるが、そのお陰で逆に、静かに考察ができるという利点もある。ちょっと嬉しい。
2026.04.27
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今、ふと思ったのだが、人間らしさと言うのは、ふと疑問を持つ事なのかもしれない。良い疑問が出てくれば、後は、その答えを探せば良い。でも、良い疑問というのは、往々にして素っ頓狂なおかしな疑問なのだろう。今の人工知能には、こう言う発想は出来ないのか?人間が課題として与えれば、それで解決してくれるのだろうか?今の人工知能は、システム的に研究の質を向上させることは得意だが、全く新しい発想をする事は可能なのだろうか考えてしまう。
2026.04.27
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言語学と言う学問は、人間と言う存在を解明する事に直結していると、私は始めから分かっていたのだが、言語学者達は、そう言う発想をしていない。30歳近くになってフランスに来て初めて、大学等の言語学界隈に身を投じたのだが、言語観に関して違和感をずっと感じていた。その一つの帰結として、17年前に「言語学の嘘」と言うブログを立ち上げることになったのだが、違和感は解消されるどころか、どんどん増幅していった。最近は「量子言語学」などと言う造語までする様になったが、相変わらず独りで考察を続けている。私のやっている事、いや、やろうとしていることを理解できる人は、いないのだろうと思う。面と向かって議論できる人が出てこないので、時々、こうやって自問自答を繰り返して、今の自分の立ち位置を確認しようとしている。非効率だと思うが、これが私が30年かけて開発した研究メソッドである。
2026.04.27
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言語学者が「言語はコミュニケーションの道具である」と言う場合、彼らは、視覚と聴覚を通してリアルタイムに展開する発話を持つ自然言語ではなく、物理的な文字で記述されたコーパスと言う人工言語を、「視覚的に認識」する事がデフォルトとなっている。この問題点は、発話のシニフィアンとシニフィエが、既に分節された状態で提示される事である。これにより、未知の発話のシニフィアンとシニフィエを分節すると言う過程に関する発想自体が存在しなくなる。現在の言語学が、役に立たないと私が考えるのは、これが大きな理由である。彼らは、コーパスを使って自然言語の共時態を研究していると思っているが、彼らは大きな勘違いをしている。コーパスとは「言語の死体」である。コーパスを研究対象とする事が、どれだけ意味のない研究であると言う事を、言語学者は認識して欲しいと思う。殆ど全ての「言語学者」を否定する事になるとは、思わなかった。もう、後戻りはできない。私にとって、唯一の例外が、スイスの言語学者ソシュールである。
2026.04.27
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私がイタリア語の動画の聴き流しで実践しているのは、記号の離散性である。何か、単純な事だが、今迄、気が付かなかった。記号の離散性が、音声を音節と言う前後に二極化された音韻学的な単位に変換し、子音と母音と言う音素の二大カテゴリーを確立し、音素同士の違いを弁別するミニマルペアを可能にする。未知の発話を構成する音素の連鎖を識別するのは、種類が決まっているピースを使ったパズルのようなものである。それらを、子音や母音の位置に、一つずつ当てはめていく。音韻体系を知っている事が必須条件であるが、それだけでは不十分である。
2026.04.27
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TBS CROSS DIG with Bloomberg:【超知能AIは悪意なく人間を排除する】機械知能研究所(MIRI)所長ネイト・ソアレス/開発者自身が「絶滅する可能性がある」と認め開発を進めている/確率は10%か90%か【ULTRA SCIENCE】非常に面白いインタビュー動画だが、知覚と運動を循環させる認知とは何か、認知循環により発揮される知能とは何か、認知循環が進化して確立した言語とは何か、そして言語を使って自己同一性を確立した人間とは何か、と言う根本的な問いに誰も答えていない間に、AIの開発だけが先走っていると言うのが、よく分かる。私は、兎に角、マイペースでいいので、この基礎研究を進めていくしかないと思う。「認知/知能の起源」と言う当面のラスボスに焦点を当てよう。ASI (超人工知能)と言うのは、AGI(汎用人工知能)よりは分かりやすいが、結局のところ、どちらも、人間の行動を基準に考えているのは変わらないと言える。ところが、誰も「人間」の正しい定義が出来ていないのである。それでも、それしか基準がないので、何となく人間とはこう言うものであると言う漠然とした定義をこさえて、議論しているのだ。これには、西洋哲学の「一人称の視点である主観」をデフォルトとする世界観が基礎にあると思う。ファイン・チューニング宇宙論や人間原理などは、人間中心の世界観から生まれる議論である。人間の登場も、長い宇宙の進化の歴史に於いて、単なる一つの出来事に過ぎないと言う、第三者的な視点が欠落している。
2026.04.27
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コンピュータの基礎となるデジタル情報は、人間の記号の離散性に関して、シニフィアンの側面だけをコピーした事になる。人間の記号には、シニフィアンと平行したシニフィエと言う価値体系があるが、デジタル情報では、こちらは再現出来ていない。だから、AIには価値観が無い。悪意と言う感覚も無い。言語を操って人間を欺く葬送のフリーレンの「魔族」と非常に似ていると言う指摘は的を得ていると思う。
2026.04.27
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昔、書記言語の無い状態の音声言語の研究をしたいと言った時、私の担当教官は、我々にとって書記言語は、切り離す事の出来ない一部になっていると言われた事があるのだが、私はそれに反発して、自分の方針を貫いた。今になって、聴覚のみの音声言語の発話の視覚化に挑戦事で、先生の考えと逆に進めると思う。先生に反発して、本当に良かったと思う。私の担当教官は、独創的な考えを持っていて、とても尊敬できる人だったのだが、何故か、節々で、常識に囚われていると思わせてるところがあった。
2026.04.27
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私は、日本で大学を卒業後に、一旦、素材メーカーに就職してから、4年後に退職し、約30年前にフランスで言語学を勉強する為に来て初めて、大学の言語学の先生や生徒と実際に出会う機会を得たのだが、私はどうやら、フランスに来る前から、彼らとは全く違うものを追い求めて言語学を学ぼうと思っていたと、最近になってようやく気が付いた。つまり、一般的に言語学と呼ぶばれているものは、私が求める言語学ではなかったのだ。これは、フランスの大学等で教えられている言語学に限らない。インターネット上で語られる言語学を含むて、世界中の全ての言語学は、「言語の本質を追求する意志が皆無である」というのが、私の出した結論である。折角、言語の本質を解明したいと思って、フランスにまで来たのに、渾身の肩透かしを喰らった気分である。私が30年かかって出した結論は、世間一般で研究されているのは、言語の亡骸でしかない「物理的な図像や文字で記述されたコーパス」と言う人工言語を研究対象とする言語学であると言う事である。これに対して、私が研究対象とするのは、リアルタイムで発話される生きた自然言語である。何で今迄、これに気が付かなかったのだろう。いや、実のところ、初めから薄々、理解はしていたのだが、まさか自分が、全く新しい言語学を始める事になるとは思わなかったと言うのがある。私はただ、スイスの言語学者のソシュールが提唱した記号という概念を中心とした一般言語学を完成させようとしているだけであるのだが、他に、私と同じ目的を持つ人に出会った事がない。私は、今の言語学界に完全に絶望しているが、だからこそ、頑張ろうとも思える。毎年、三月、四月になると、今年も言語学を学ぼうと意気揚々に大学に入学する学生さんがいるんだなぁた思う。でも、大学で彼らを待っているのは、言語学と言う名の「言語の亡骸であるコーパスを研究対象とする人工言語学」であると言う事を知らない。個人的な事だが、日本の大学で言語学を専攻しなくて本当に良かったと思う。しかも、短い期間だったが、社会人経験をした後の言語学を始めた事でが本当に有利に働いた。高校を卒業後、直ぐに、言語学を学ぶのは良くないと思う。言語学は、言語の本質と同時に人間の本質を解明する学問である。そう言う覚悟がある人なら高卒でも構わないと思うが、言語に関する雑学を仕入れようと思っている人は、大学で言語学を学ぼう学ぶ必要はない。そんなことは、既に多くの「言語学者」達が既に何世紀に渡って実践しているのであり、本を読んだり、YouTube 動画を視聴すれば十分に足りる。それでも、言語学をしたいのなら、英語以外に、手話を含む数各語を大学に入る前にマスターすべきである。でないと、大学生活は、時間と労力というか人生の無駄になると思う。大学で言語学を専攻しようとする高校生や大学生は、一体、何を求めているのだろうか?個人的な意見だが、私は大学で言語学を専攻するのは意味がないと思い、それよりも、社会の仕組みを知りたいと思い、経済学部に進学した。でも、私の言語に対する興味は尽きず、高校三年生の時に米国に一年間のホームステイ留学したのに続き、大学三年に上がる前に一年間休学して韓国に語学留学し、韓国語をマスターした。フランス語は大学四年生の時に仏語会話の授業を取り、就職後も三年間、飯田橋駅の日仏学院の土曜日コースに通ったが、基本的に、一貫して独学だった。
2026.04.27
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音声言語の未知の発話を構成する音素の連鎖の「文字に頼らない聴覚のみによる可視化」の実践を通して、文字表記とは、一体、何なのだろうと考えてしまった。こう言う根源的な疑問は、いつも突然やってくる。そして、疑問を持った瞬間から、答え探しが始まる。発話を記述するのには、音韻学と音声学があるが、私が実践している音素の連鎖の可視化は、音韻学に近いと思っている。その理由は、音韻体系が基本であるからである。音声学的に違う音も、音韻学的には同じである事があり、私は音韻学の方を優先する。それが、ネイティブが可視化している音素に該当すると考えるからである。
2026.04.27
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言語学には「linguistic typology(言語類型論)」と言う分野があるが、これは、手話を排除して、音声言語のみに特化した非常に歪な学問である。私は、記憶言語学の観点から、新しい言語類型論を考察しているのだが、その中心にソシュールの一般言語学で提唱された記号を据えている。この場合の記号の定義は、シニフィアンとシニフィエと言う記号の形態と概念に該当する二層を成す価値体系であり、其々の価値体系の特定の座標である価値同士が一致するところに特定の記号が成立する事になる。ソシュールの記号は、言語を使う認知主体の意識上に存在するのだが、記号を直接、知覚運動チャンネルに特化して成立するものを自然言語とし、物理的な記憶媒体上に記録し、認知主体が内包する記号を介在して言語として機能するものを人工言語と呼ぶ。自然言語は、手話と音声言語の二つのタイプに分かれるのだが、人工言語には大きく分けて、図像や文字で記述される静的なコーパスと、これをデジタル情報に変換してメモリと言う記憶媒体に保存し、それを呼び出して演算出来る動的なコンピュータが存在する。動的な人工言語として、最近、大きな注目を集めているのが、人工知能(AI)である。これは、人間が意識上で使う記号の、離散的な記憶の保存と喚起と言う特殊なメカニズムを、記号のシニフィアンの側面をデジタル情報で置き換える事でシミュレーションしているのだが、人工知能が扱うもの中に記号のシニフィエは存在しない。シニフィエが登場するのは、そうやって出力された人工言語を、記号を持った認知主体である人間が読み取る瞬間である。つまり、人間の記号の介在無しには、単なるデジタル情報の羅列に過ぎないのである。人工知能が人間の記号の介在を通して機能している限り、人間が読み取って行動する事によってでしか、社会に影響はないが、人工知能に、主体としての行動を許容する様になると事情は変わってくる。
2026.04.27
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私が提唱する「ネイティブの耳による発話の可視化」と言うアプローチの最大の問題は、それを他人と共有するのが難しいと言う事である。更に、この可視化に挑戦しているのは、現在のところ、私だけであり、今後、挑戦する人が一人も出て来ない可能性も十分ある。だからこそ、コーパスを使った伝統的な研究が蔓延る形になるのは理解出来る。「客観的に記述されたコーパス」を使えば、言語を科学出来ると思い込んでいるのであろう。悲しくなる。いくら、ソシュールが共時態と言う概念を提唱したとしても、コーパスを使った研究は「発話の死体」を対象としている事に変わりがない。言語学は、伝統的にコーパスを使ってきたのだが、今こそ、これと訣別する時期に来ていると思う。コーパスを使った人工言語学を続けるのは勝手だが、それは、結局、役に立たない文法を長々と記述するだけである。チョムスキーは、生成文法の記述によって、自然界における物理法則の記述に匹敵すると考えたようだが、そんな文法などなくても、誰もが言語を習得する事が可能であり、全ては無駄な努力に終わる。実際、彼自身、諦めてしまった様である。
2026.04.27
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字幕を見ないイタリア語動画の聴き流しを10年以上続けて来たのだが、音素の連鎖を大分を可視化出来る様になって来た。これは、まるで、自分の意識の上に音素が書き込まれて行く様な感覚である。私も大人になってからイタリア語を学んだので、勿論、文字を通した学習をしているので、文字に起こされた文章を読んだ事はあるし、文法説明を読む場合も、文字に起こされたイタリア語が目に触れる。しかし、それ以外には、イタリア語を読む練習は、殆どしていない。時々、サムネのタイトルの単語を調べるくらいである。意識の上に音素の連鎖が可視化されると言っても、それは、イタリア語のアルファベット文字によるものではない。可視化後に、文字列が浮かんでくる事はあるが、一旦それによって意味の理解に繋がると、文字列が消えていく。私は、母国を持つ人は、必ずこの感覚を持っていると思う。しかし、文字、そして正書法(正しいスペリングや正しい漢字表記)を学ぶにつれて、そちらに引きづられてしまい、特に意識が出来なくなっていると思う。私はこれを「ネイティブの耳による音素の連鎖の可視化」と呼んでいる。数年前だと思うが、私はスイスの言語学者ソシュールが提唱した「共時態と通時態」と言う二元論は間違っていると言う結論に達した。これは、言い換えると、物理的な文字や図像によって平面上に静的に視覚的なコントラストを使って記述されたコーパスを使った言語学は、間違っていると言う事になる。私は、我々が視覚や聴覚を通してリアルタイムに使っている自然言語に対して、コーパスを研究対象とする言語学を人工言語学と呼ぶ事にした。これは、生体を扱う生物学と死体を扱う解剖学と対照比較出来るかもしれない。イタリア語の「聴き流し」から始めたのだが、その過程で、未知の発話を聴覚のみで理解すると言う過程に関する考察をずっと続けて来た。音素の連鎖の聞き取りは、勿論、最重要なのだが、文脈からの意味の連想や類推も重要である。記号には、シニフィアンとしニフィエと言う二層を成す形態と概念の側面があるが、特定の記号を識別する為には、シニフィアンとシニフィエの両方の側面からのアプローチが可能なのである。これを、ソシュールは「記号のラデイカルな恣意性」と呼んだのだが、他方で同じソシュールの「記号の恣意性」が大きく誤解されて世間一般に伝わっているので、私はこれを「記号の離散性」と呼ぶ事にした。未知の発話を聞き取る際、音素は一直線に連鎖している訳ではない。音素の差異の弁別が可能になるミニマルペアが成立する為には、音節と言う母音を核とした音韻学的な単位に分節される必要があるのだが、イタリア語の場合、その前に、アクセントによってシンタグマ(小さな意味の塊)に分節される必要がある。ここで先ず言える事は、音素の線状性は、意味のない定義であると言う事である。そして、未知の発話の可視化と言うのは、この様な組織的な過程を踏んでおり、それを全て聴覚記憶のみで記憶して、一度に認識すると言う過程なのである。可視化出来る範囲が短いと全体の文脈を追う事が出来ない。今の私は、大分長く可視化出来る様になって来たのである。因みに、ネイティブは、これを難なくやってのけてしまう。だからこそ、ネイティブなのであるが、私は、イタリア語ネイティブが可視化している世界を知りたいと思っているのである。私がイタリア語の独学を始めて、最初に不満に思った最大の事は、動詞の活用形のアクセントの位置の説明が不十分であると言う事である。例えば、命令形で活用形の後に代名詞が来ても、活用形のアクセントの位置は変わるないと言うのは、どこにも説明が無かった。「-are」と言う規則変化動詞でも「imaginare」の様に、活用形のアクセントの位置が変わるものの説明もなかった。他にもあるが、こう言う不親切はフラストレーションが溜まる。イタリア語文法は、アクセントに重きを置いて記述されていない。「ネイティブの耳による発話の可視化」の研究は、始まったばかりなのだが、これが進めば、外国語学習に革命を起こす事が出来るかもしれないと思う。そろそろ、しっかりと議論出来る協力者が欲しいところでもあるが、気長に待つことにしようと思う。私が今やろうとしている事は、イタリア語ネイティブの耳を獲得を通して、特に外国語学習者向けに、イタリア語文法を書き換える事である。
2026.04.27
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量子力学/量子物理学(どちらかわからないが)の観測問題を解決する為には、量子言語学と言う分野を新設する必要があると考えている。一つ、断っておくが、この問題は、西洋哲学には絶対に解けない。その理由は、哲学では、言語学で言う所の一人称の視点、つまり主観の存在が大前提であり、この視点が、どの様にして確立されたのかに関しては、全く問題にしていないからである。哲学者には、観測問題を扱う資格が単純に無いのである。だから、量子言語学を新設する必要が出てくる。
2026.04.27
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「人間らしさ」を、心理学的にではなく、純粋に科学的に定義する必要性がある。問題は、どう言う手法を使って「科学」するかである。今、私が考えているのが「進化する自己記憶」をベースにした記憶科学というアプローチである。
2026.04.25
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昨日、人工知能には汎用性が生まれないという結論に達したのだが、これに関しては、もうしばらく、根本的な考察が必要だと思っている。認知システム上で、外界の刺激に対する反応行動の選択肢がどの様に設定されるのかという事を解明する必要があるからである。現段階では、反応行動をする準備が既にある事が前提であり、認知システムはそれを誘発するだけであると考えている。これで、認知の起源に、また一つ、近づいた気がするが、まだまだ、先は長そうである。認知の起源なんてものの追究を始めてしまったことで、世間一般からどんどん乖離している感じがするのだが、そういう選択を私はしてしまったのだから、このまま行くしかないだろうと思う。今、私がやっているのは、人工知能の開発者がすっ飛ばした「認知と知能と言語に関する基礎研究」なんだと思う。誰も、認知システムを支える知覚的な意識であるクオリアの正体を知らない。だから、認知システムによって発揮される知能のメカニズムも解明されていないし、言語のメカニズムに関しても同様である。人間の離散的な記憶喚起を、デジタル情報を扱うコンピュータでシミュレーションする事に成功した事で、文字で書かれた静的な人工言語が、チャットと言う対話型の人工知能に変貌した。それでも、人工知能の開発者は、認知、知能、言語のどれをとっても、背後にあるメカニズムを理解していない。全ては、ブラックボックスである。ただ、人工知能の演算能力は、日々倍増しているのは事実であり、今後、社会は、この影響を長年にわたってまともに受ける事になる。AGI(汎用人工知能)という場合の、「General(汎用)」とは、何を意味するのだろうか。いや、この用語を造語した人の意図は何だったんだろうか。AGI というのは「人間並み」という事になるらしいが、その場合の「人間らしさ」というのは、一体、何になるのだろうか。AI の開発者たちは、人間の定義をすることを怠ってきた。誰も「人間並み」が意味する所を知らない。それでも、汎用人工知能の登場という幻影だけが、独り歩きをしているのである。
2026.04.24
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最近、YouTubeの動画で、英語脳、何たらかんたらという動画をよく目にするが、英語脳を獲得したとしても、結局は、日本語脳に戻るとしたら、あまり意味がないと思う。でも私は、自分の努力で、英語脳を既に獲得した上で、こう言う結論に達した訳であり、まだ英語脳を獲得していない人に対して、アドバイスをする立場にはない。英語脳に興味がある人は、自分の努力で獲得する事に挑戦すべきであると思う。私も若い頃は、ネイティブスピーカーの英語に憧れたので、英語脳を獲得したいと思う人達の気持ちも分かるつもりである。でも、一旦、英語脳を獲得し、英語圏の人間の思考回路を理解できるようになると、自分が元々持っている価値観と相容れないと言う事実に直面する。英語脳を獲得したいと漠然と思っている人達が、こう言う板挟みを望んでいるとは思えない。多分、彼らは、英語圏の軽やかなインタラクションを欲しているだけだと思う。もし、そうなら、英語脳は諦めた方がいい。日本人が外国語を学ぼうと思う時、それは純粋に、相互理解が根底にあると私は思う。ところが世界中で、外国語を学ぶ理由の大半は、経済的な動機である。このギャップは、多分、埋める事は出来ない。例えば、日本に来た外国人の、日本語を学ぶ動機が、純粋に文化的な興味であるか、日本で稼ぐ為の単なる手段であるかを、判断する事は難しいと思う。
2026.04.24
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人間の本質の理解が出来ていない現状では、人間というのは、知能が高度に発達したものであるという定義が罷り通ってしまう。そして、言語に関して、人間は高度な知能を持っているから言語を使えるという理解が蔓延る。私は、AI(人工知能)が今後、人類の脅威になる事には、ある程度の理解を示すが、それは人間が AI に対して行動選択の主体としての力を与えるからである。人工知能が、洞窟の壁画や文字の発明から始まった人工言語の延長線上にあるという理解が広まれば、AI の暴走を止める論理が構築できるかも知れないと思う。人工知能が暴走するかどうかは、全て、人間側の判断にかかっているという事である。ただ、人間の本質が理解できれば、新しい科学のパラダイムシフトが起きる可能性が出てくる。現在の人工知能への投資バブルは、この好機を人類から遠ざけていると私は考えている。AI(人工知能)に関する議論には、根本的な問題がある。それは、知能という認知システムが発揮する能力が正しく定義されていない事に加えて、それが更に進化して誕生した言語に関する正しい定義が為されていないのに、既に、AGI(汎用人工知能)が、いつ出現するのかの議論が為されているという事である。私は、AGI は絶対に来ないと思っているが、現在の AI の開発自体に関しては、人間社会にとって大きな脅威になるである事は、感じている。しかし、それは全て、人間が AI にどの程度の主体としての判断の裁量を与えるかどうかにかかっていると考える。つまり、AI が脅威になるかは、人間側の問題という事である。AI(人口知能)の演算が、高速且つ高度になり、いつか「人間並み」になるシンギュラリティが到来すると考えている人達がいるが、これは、投資家向けのブラフである。彼らは、生物的な認知主体の知能の真のメカニズムを知らない上に、認知システムが進化して誕生した言語の背後にあるメカニズムも知らない。今、ふと思ったのだが、彼らは人工知能が「人間並み」になるとは言っても、人間並みの意識を持つ様になるとは、面と向かって主張していない気がする。人工知能の開発に、大きな投資を呼び込もうとしているビジネスマン達は、人工知能が、いつか人間の様に話し出すと我々を脅しているが、彼らが言語自体を定義する事さえ出来ないのは滑稽である。彼らの目的は「投資家向けのブラフ」であって、自分達で「人間並みとは何か」、「言語とは何か」を科学的に定義しようとする意志は皆無である。彼らが欲しいのは、人工知能への投資バブルが、継続的に膨らむ事だけである。でないと、自転車操業をしている彼らの人工知能ビジネスは、終了してしまうからである。実は「知能」と言うのは、その定義からして、汎用性は全く無い。特定の自然環境下で、特定の認知主体が、その種が生物学的に受容可能な外界の物理的な刺激を知覚する事により、その個体の過去の経験の記憶から、知覚刺激と言う「現在の記憶」と相似した特定の認知的な記憶が自動的に喚起され、先程の「現在の記憶」との比較に於いて、認知的な記憶によって提示される「反応行動の制限された選択肢」の中で、その個体が、自らの自由意志によって、先程の選択肢の中から実際に取る行動を選択する事になる。人間の「知能」に汎用性があるのは、人間が自己同一性を確立し、様々な価値観を獲得する事で、自ら選択肢を創設する事が可能になっからである。日本語で、人間の知能の事を、しばしば「知性」と形容するのは、この為である。ところが、英語では、日本語で知能と知性を分けて考えるのに対して、どちらも単なる「Intelligence」になってしまう。知能、知性、言語の考察に、英語と言う言語は、全く向いていないと言える。「汎用性人工知能(AGI)」と言うのは、生物的な知覚と反応認知システムによって発揮される「知能(Intelligence)」を正しく定義すると、単純に「有り得ない」概念であると言える。知能とは、特定の自然環境下で、特定の生物的な知覚器官を通して受容される物理的な刺激に対して、自動的に喚起された個体の過去の経験の認知的な記憶に仕込まれた行動の選択肢の範囲でしか、実際に取る行動として実践する事が出来ないと言う、特定のコンテキストでしか通用しないものなのである。これに対して、言語を発明した人間は、自ら、知覚刺激に対する反応行動の選択肢を創造する事が出来る。だから、日本語では、これを知能ではなく、知性と呼ぶ理由である。人工知能の開発に、英語は適切ではなないと思うのは、私だけだろうか。日本語には、英語の「intelligence」の訳語として、知能と知性の二つがある事に関して、真剣に考察する必要性があると思う。知能は「animal intelligence」、知性は「human intelligence」と英語に訳す事は可能だが、元々「英語脳」の人達にとっては、結局のところ、どちらも単なる「intelligence」でしかなく、動物と人間の知能の境界は連続的であって、二つの境界線を定義する事は出来ないというか、そう言う発想自体が無い。私は、自分の母語が日本語であって、本当に運が良かったと思っている。その後、成長する上で私は、英語脳、更には、仏語脳を習得した事で、自分に付加価値がついたとは思うが、日本に生まれた事、日本語を母語として日本語脳を持っていると言う事は、私の最大の財産である。
2026.04.24
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