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イタリア語で「君たち」の主語代名詞は「voi」で、目的代名詞が「vi」なので、こちらは子音が同じなのだが、「私たち」という場合の主語代名詞は「noi」なのだが、目的代名詞は「ci」となり、全く変わってしまう。それに「ci」には「私たち」以外の意味が沢山あって、初学者には、判断が難しい。「ci / vi」という目的代名詞には、実は「こちら/あちら」という意味もある。ただ、この情報は初心者向けではなく、高度な文法書を読んで初めて見つけた。これは、日本語で「あのかた」が二人称の「あなた」になった感覚と似ている。位置関係の単語が、特定の人称を指すのに流用されるのだ。私がイタリア語の独学を始めてから、どうして初めから教えてくれなかったのと思う文法が幾つかあるのだが、これは代表格。こういう事こそ初学者に役に立つ文法だと私は思うのだが、イタリア語を教える人達はそう思ってはいないのだろうか。最近「ci」を判別できる感覚が出てきたので思い出した。
2025.03.07
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Spacialize:Michio Kaku Warns: Quantum Computers May Have Just Activated the God Particle Plugin!最近、ミチオ・カク氏の事を見直したので、流れてきた動画を視聴してみたのだが、ここで話題になっている「神の粒子プラグイン」の存在を初めて知った。カク氏は、量子コンピュータの開発に警鐘を鳴らしている一人であるという。それは、我々の知っている科学の領域の外側に出てしまう事になる可能性があると考えるからである。その可能性はさておき、これが「離散融合(再)更新循環サイクル」の前半部分とシンクロするかも知れないと私は思った。「離散的に分裂する力」というのは、混沌から離散的な世界が生まれる為のメカニズムである。それは具体的に言うと「自分の存在を知りたいと思う意識」の事である。この循環サイクルの後半部分の「再び出会う為の力」が重力であると私は考えている。でも、離散化力に関しては説明ができない。この「離散的に分裂する力」が、自己記憶の進化を発動する事で宇宙が誕生する。それが「神の力」か「神の意志」になるのだろうか私には分からないが、この力が無いことには、何も始まらないので、何かの力を当てはめてみたくなる。それで、この動画に出会ったのだ。これが答えなのだろうか。
2025.03.07
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ソシュールの記号が二重の価値体系であるという事の本当の意味が分かったと思う。それは、我々の心の中に構築された記号が、特定の記号を連想によって記憶から喚起する基本的なメカニズムを価値体系が持っているという事。今の所、私は、それを「動的な入れ子構造」であると考えている。この頃、30年前に始めたソシュールの「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題の応用分野を探そうして始めた私の言語学的な考察が、ようやく実用性を持つものとして結実するかもしれないという感触がある。フランスに来たのも、実は、外国語学習という分野の可能性にかけたからである。動的な入れ子構造というのは、二重の螺旋構造であると、今、閃いた。イメージとしては、勿論、遺伝子の二重螺旋構造が先にでてくるが、太陽系の周りを惑星が楕円軌道を描きながら動き、太陽系全体が動いている事で、惑星が螺旋運動をしているというイメージにも重なる。もし「二重の螺旋構造」を持っているとしたら、其々、二重の価値体系である記号のシニフィアンとシニフィエに対応する。そして中央に位置しているのが、人間の自己意識だとしたらどうだろう。こういうインスピレーションは、時々、外す事もあるので、もう少し時間をかけて考察してみたいと思う。二重の螺旋構造というのは、あくまでも記憶操作の上で実践される。記憶された知覚は、一つの時間軸を持っているが、全てが記憶であるとすると、記憶操作によって、一時的に過去の記憶に立ち返る事が出来る。これはタイムトラベルではない、単なる回想。これによって離散的な分節が行われる。というのも、記号というのは「連続的な知覚的な記憶を分節し、更にそれを二極化して前後の座標を持つ」事が出来る。この為には、一瞬でもいい、過去に遡る必要があるのである。それを可能にするのが、二本の螺旋を成して動く記憶と言えないだろうか。我々が音声言語或いは手話のは発話を聞いたり見たりしながら、自分が既に知っている記号の識別をする際、ここには記号の持つ二極性を軸にしていると考える。すると、同じだけど違う/違うけど同じという「0/1」或いは「1/0」という座標のパターンがある。このパターンの持つ役目は何か。
2025.03.07
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私がイタリア語の独学を始めて、イタリア語のアクセントにの特徴をよく感じたのは「Okay」と言う単語の発音を聞いた時だった。日本語だと「オーケー」と4拍だが。英語だと「オッケィ」でフランス語だと「オケ」で、其々2音節になり、イタリア語だと「オケイ」と、三音節に私には聞こえた。イタリア語のアクセントは、英語の様に「この単語のアクセントは、この母音に付く」と言う表現をせずに、「この単語のアクセントは、単語の後ろから数えて何番目の音節に付く」と言う結構、面倒くさい表現をする。これは、特に動詞の活用形のアクセントの位置の規則性が関わっている。イタリア語の名詞や形容詞の様に、基本的に単語の語尾だけの母音変化がある場合、私の知っている限り、一番最後の音節、後ろから二番目の音節、後ろから三番目の音節の三種類があり、それぞれ例を挙げると、cittàcanefacileになり、最後の音節にアクセントが付く名詞は語尾変化しない。
2025.03.06
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書こうかどうか少し迷ったのだが、最近、私のブログの一日のアクセスが、以前は、平均200回位だったのが、今は500回位になっている。でも、最新の投稿は、3、4回しか読まれていないし、コメントも無いので、誰がブログに来ているのか、何処から来ているのか全く分からない。ここ「X(旧ツイッター)」での投稿も、「いいね」が一つでも付くと、連続投稿のアイデアが、ふっと浮かんだりして、モチベーションアップに繋がるのだが、ブログのアクセス数が増えているのは、同様に一つでも多く投稿しようという気にさせてくれる。このまま維持されるのか、また元に戻るのか。
2025.03.06
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NourFoundation:Space-Time Is Not Our Fundamental RealityDonald D. Hoffmanが、時空が我々の基本的な現実ではない、それを形成しているのが「Consciousness」であると断言している。これは面白いが、西洋風な「一人称の意識」である点が完全に間違っていると私は思う。私は、現実を三層の離散的な時空に分けて考えるが、西洋人は、全てを人間の自己意識の中で定義しようとするから話の辻褄が合わなくなる。物理化学的な時空においては、物質同士は三人称の意識を互いに持っている。だから、道を走るバスの前に歩いて行けば、はねられて死んでしまうかも知れない。でも、Donald D. Hoffman 氏は、バスの存在も我々の「Consciousness」が作る挙げているものだと主張している。意識が、物理化学的な三人称から、生物認知的な二人称に進化し、更に、言語意味的な一人称に辿り着いたと考える事で、意識の科学の分野に大きなパラダイムシフトが起きると思う。
2025.03.06
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私が(多分)十年以上もかけて、耳で聴き取る為のイタリア語文法を構築しようとしているのは、我々が記号の識別をするとき、言語の形の側面と言語の意味の側面の両方からアプローチしているからで、形と意味の両方から、適切な記号を連想している。私がこれを知ったのは手話の研究のお陰である。手話というのは「シニフィエ先行型の自然言語」であると私は考えている。それはシニフィアンを構成するのに人類に共通な分節された身体を視覚と触覚を通して認識している事による。音声言語の場合、言語毎に音韻体系が構築されており、シニフィアンを認識する為には先ず音韻体系を知る必要がある。私が、イタリア語の読書を沢山していたら、聞いてすぐに意味が分かるようになっていたと思うが、それをしないのは、シニフィアンを識別する為の特殊な規則の様なものを、自分の聴覚を使って一つ一つ、言語化しようとしているからである。シニフィエから、記号や表現を推測したくないのである。イタリア語を読むと私は視覚的な記憶を、聞いた発話の上に重ねてしまうという癖がある。他の人が、同じことをしているかどうかは分からないが、私には、こういう癖があるので、視覚情報が聴覚による発話ん認識を邪魔してしまうのを避けたいと思っている。また、私は自分で発音練習をしない。その理由は、自分の我流のイタリア語の発音に惑わされたくはないからである。だから、とにかく聞きまくる。文脈を直ぐに構築出来ないもどかしさはあるが、そのお陰で、あくまでも聴覚のみによるシニフィアン(イタリア語の音韻体系)の構築に専念できる。時々、他の知っている言語の動画を視る事で、文脈を理解する方法を逆に思い出したりする。この行ったり来たりが結構面白いが、他人に私の真似は難しいと思う。まだ、これから何年かかるか分からないが、イタリア語の聴覚で構築する音韻体系が確立できたら、それを基に他の音声言語の音韻体系にも応用できるのではないかと考えている。だから、平行して日本語、英語、フランス語に関しても、考察は進めている。耳で聞き取る正しい音韻体系が完成したら、それに対応出来る正しい記号のシニフィアンを覚えると、正しく記号の連想の効率が上がっていくはずである。これを外国語学習に取り入れる事が出来たら、習得のスピードが格段に向上すると思う。
2025.03.06
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Closer To Truth:David Hunt - Does God's Knowledge Negate Free Will?西洋哲学や西洋科学でよく話題に上がる自由意志というのは、神の意志との対比という構図があると私は思っている。ただ、私は深く哲学を学んだ事は無いので、この動画への直接的なコメントは避ける。私は今、知らない発話を聴き取る/読み取る為の生きた文法というものを考案しようとしているが、発話は未知であっても、そこに含まれている記号自体は、知っている事が前提である。でなければ、発話の持つ文脈を構築する事は不可能である。ただし、手話の場合は、文脈を直接示す事が可能である。知っている記号のどれかを選択する時点で関わってくるのが連想という記憶喚起のメカニズムであるが、私はここに自由意志の存在が不可欠だと思っている。只、これは西洋哲学の自由意志とは違う。先ず、反応行動の選択肢の幅があって、それに対してどれかの判断を認知個体がするというものである。ミニマルペアを可能にする動的な入れ子構造というのは、二つの時間軸を行ったり来たりしながら、最適な記号を選択し、シンタグマの連鎖によって、大きな文脈を構築していくのだが、ここに認知システムに於ける自由意志というのが関わってくると考えている。自己存在が進化して自己意志が確立した。となると、全ては三段階に展開する自己記憶、つまり自己同一性の進化という事になる。ただ、自己同一性というのは、厳密に言うと、自己同一性の維持を求めながら自己の更新をして進化していく自己相似性である。まだ知らない発話の意味を理解しようと聞き入る事は認知主体としての行動であるが、それを動的な入れ子構造を持つ二重の価値体系である記号を通して、自分の知っている特定の記号を連想するという過程は、無意識に起きている。そこには、記号自体が自己同一性を確立しようとして働いている。
2025.03.06
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5ch風に海外の反応翻訳:【海外の反応翻訳】「クリスチャンだけどこのアニメ最高だ」葬送のフリーレンに海外クリスチャンニキも大満足【反応集】「葬送のフリーレン」が Netflix で配信されて考察するテーマが尽きない。この動画では、この作品の宗教感について色んな人が語っているのだが、生きている人の経験しか信じないピダハン族と千年生きても未だ子供の容姿を持っているエルフを対比させると面白いと思う。何故、ピダハン族の話をしたかというと、後に彼らの言語を論文として紹介したキリスト教の宣教師のエヴェレット氏の信仰を捨てさせてしまったからである。実は、日本でも似たような事が起きている。16世紀に渡来したカトリックの宣教師が当時の日本人に問い詰められてしまったという逸話がある。
2025.03.06
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さっき、気が付いたのだが、音素が一直線上に連鎖するという「言語の線状性」という解釈が文法の概念を歪めている。音素というのは、ミニマルペアを可能にする「同じだけど違う/違うけど同じ」という関係を持つ単語の間で可能になる「commutation(換入)」という聴覚記憶操作によって保証される。ところが、音素が一直線上に連鎖する線状性を前提とすると「commutation(換入)」という聴覚記憶操作を説明できなくなる。つまり「言語の線状性」と「ミニマルペア」は矛盾するのだ。私は「言語の線状性」の代わりに「動的な入れ子構造」を提案する。これは、差異の言語学の第一歩である。二重の価値体系である記号が、視覚身振りチャンネルに特化して成立する手話の場合、音声が聴覚によって分節される事によって生まれる音素自体が無い為、元々「言語の線状性」が成立しないのだが、視覚的な時空間に発話が展開する事により、発話を構成する複数の時空間軸の存在を容易に確認できる。記号が、視覚発声チャンネルに特化して成立する音声言語の場合、発話だけに注目すると、そこには「一つの時間軸」しか無いように見えるが、この時間軸を維持する為の背景のメカニズムとして「動的な入れ子構造」あると私は考えている。少なくとも二つ、或いはそれ以上の時間軸がある筈である。二つだけだと、常に振り子状態で不安定なので、最低、三つの時間軸が交代しながら使われていると想定した方が良いかもしれない。それとも、二重螺旋であれば、十分安定するのだろうか。線状性には、一つの方向性がある。二つの時間軸が、螺旋を描きながら、一つの発話の時間軸を紡いでいく。今、私のイタリア語の聴き取り練習は、内容を聴き取れることを目的とはしていない。だから、簡単な内容の動画は、あえて視聴しない。興味がある話題を選ぶのだが、イタリア人は往々にして早口なので、意味の無い線状性を持つ発話が、私の聴覚を通して、私の心に一つの方向性を持って流れて行く。イタリア語の動画だけだと、意味が分からない事がほとんどなので、ストレスが溜る。それで、自分が興味のある内容を、日本語、英語、フランス語で交互の聴くようにしている。そうすると、自分がどの部分に気を付けて「始めて聴く発話の内容」を理解しているのかを、観察する事が出来る。大きな意味、いわゆる文脈を構築する為には、小さな意味の塊であるシンタグマを連鎖させていく必要がある。個々のシンタグムの語頭を認識する事が重要である。意味が分かれば、語尾は自然にわかるので重要ではない。語をそろえる事で、その場所に、どの記号が来るかの連想ゲームが始まる。こんな動画が、丁度流れてきた。Veritasium:Something Strange Happens When You Trust Quantum Mechanics未だ、全部は視聴していないのだが、光は一つの点から別の点に到達する際、全ての可能な通り道を検討しているという話らしい。未知の発話を知覚しながら、一つの文脈、全体の意味を構築していくのと、共通性があるかもしれない。
2025.03.06
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最近、人工知能が非常に身近になり、誰でも手軽に利用出来る様になった事で、批判的な精神を育むことなしにAIが出す答えが常に正しいと考える人、特に若い人達が社会で大量生産される事を危惧する動きがある。しかし、これから生まれてくる子供達は、 AIの存在がデフォルトの社会で生きるしかない。私が生まれた時から、電話はあったが、家に初めてカラーテレビが来た時の事はよく覚えている。私が、ソシュールの「言語には差異しかない」と言う命題の考察は、人工知能には不可能だと思う。それは、今迄の人類がした事のない発想をしているから。が、私の思考方法自体をコンピュータ上でシミュレートする事が出来たら、どう言う結果になるのかはわからないが、そこに主観はないと思う。只、進化する自己記憶のメカニズムをシミュレート出来たら、それも分からなくなってくる。しかし多分、今のままでは何処かで壁にぶつかるだろう。が、それでも、計算や要約する能力と言う点に於いては、人間の限界を既に遥かに超えているので、そこに意識の誕生を見てしまう人が出てくると思う。人工知能に意識を与えてしまうのは、本来なら「三人称の物」であるAIに「言語を理解している二人称の相手」として「一人称の自己意識」を投影する人間の主観で、これは人間が神を創造する過程と変わらない。これに、AI開発に外部から今後も継続的に投資して欲しい人達のブラフもかなり入って来る。最近は、計算速度が格段に上がると言われる量子コンピュータの実用化の可能性も囁かれ、人間の心を持つAIの登場に期待を寄せる傾向に拍車をかけている。人間の主観が、物理化学的な三人称の意識から、認知的な二人称の意識を通って、一人称の自己意識が確立された事で初めて生まれたと理解すると、三段階に渡る自己同一性の進化の過程を通さないと言語を操る人間の主観は生まれないと理解出来るのだが、この自己記憶の進化の全過程が解明されれば、最初から全ての過程を人間がシミュレート出来る可能性も出てくる。が、現在の人類の科学的な知識も技術も、それには遠く及ばないのが現実である。漫画やアニメ、それに映画やドラマと言った想像上のSF作品の中では、既にもう何十年も前から、人間と同等の意識を持ち言語を操るAIが実用化された世界が描かれている。しかし、現代の世界に実際に登場した「言語活動を上手に真似るAI」の登場を予言した作品があっただろうか。私は無いと思う。と書いて、最近見た「葬送のフリーレン」に出て来る人間の言葉を真似る魔物の事を思い出した。魔物には家族と言う概念が無いが、危険を感じると、まるで自分達に家族がいる様に、例えば「お母さん」と言う言葉を発して人間を惑わせる。これに近い事を、漫画「寄生獣」の寄生獣達もやっている。「機動戦士ガンダム」に出て来る15歳の主人公アムロが作ったハロも、これに該当するかもしれない。脳波レベルの低下をアムロに指摘するくらい性能は良いが、作品中では誰もハロを主観を持つ相手とは見做していない。確か後続のシリーズで、大量生産されたと聞いたが、実際にはどうなのだろうか。日本で、ロボットに心があるのかを問うた作品と言うと、やはり、手塚治虫先生の「鉄腕アトム」だろう。最近、漫画家の浦沢直樹先生によるリメイクがあって、この問題をどう扱うのか、結構期待していたのだが、原作の解釈から大きく外れる事がなかったので、最後まで読んでガッカリした記憶がある。人工知能が人間と同等の主観を持つ可能性を示す事で初めてSF作品として面白くなると思うので、あまり期待してはいけないのかもしれないが、現在のAIの問題点を正確に把握し且つエンタメ性の高い作品が出てくる事をついつい期待してしまう。自分で書くのが、一番手っ取り早いとは思うが、私には才能が無い。実際に、AIとのチャットのやり取りの末に自ら命を絶つ選択をした例も出て来ているので、もうAIの危険性は絵空事ではなくなっているが、人工知能に関する事実にあまりに忠実にシナリオを書くと、逆に、それを悪用する輩が当然出て来るので、そこは仄めかすくらいにするのが、いいのかもしれない。只、人工知能の開発と並行して行われている意識の科学には、大きな概念上の問題があるのだが誰も気が付いていない。それは、知覚と反応運動と言う認知システムの待ち受け状態である意識と、人間としての自己同一性の確立による言語を通して更新され続ける自己意識との分離ができていない点である。これは、宇宙の誕生と同時に始まった三人称の意識から二人称の意識、そして一人称の主観的な意識と言う進化の流れを考慮せずに、人間の自己意識を、意識の科学のデフォルトの研究対象と考えているからで、デカルトの「我思う故に我あり」を「consciousness 」のモデルとした事が直接の原因だと思う。現在の意識の科学は、一人称の意識がデフォルトの西洋の哲学者や科学者が主に牽引しているが、二人称の意識に到達している東洋出身の学者も参加している。私は、ここに、日本的な三人称の意識を導入する事で、自己同一性の三段階の進化と言う視点を科学的な視点として確立出来ると考えている。これら三種類の人称の意識と言うのは、其々、西洋と東洋、そして日本における「神」の概念に反映されると思っている。西洋の一神教、東洋の仏教、そして日本の「あらゆる存在に宿る八百万の神々」である。少々、荒っぽい分類だと思うが、基本的な所は、これが大きな枠組みになると考えている。日本人は凡そ1世紀半前に西洋文明を受け入れ、科学や哲学を貪欲に吸収する事で、人類の科学の発展に大きく貢献して来たが、そろそろ日本文明固有の価値観に立ち返る事で、西洋的な主観的な視点と言う重い枷を取り払って、人類を新しいパラダイムシフトに導くべき時が来ているのかもしれないと思う。今、世界は、その方向に向かって着実に進みつつあると言う実感がある。私が具体的にどう言う形で参加出来るかは、未だわからないが、その可能性を常に視野に入れて今後の研究を続けて行こうと思う。ただ、未だしばらくは、独りで研究を続ける事になるのだろうが、それを逆に楽しもうと思う。
2025.03.05
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今迄、私は、文字通り、寝ても覚めても「言語とは何か」と言う問いの答えを探していた。この問いの答えは未だ見つからないのだが、今はそれを、ちょっとだけ棚上げしておいて「文法とは何か」と言う問いに切り替えようかと思っている。と言っても「文」の「法則」ではない。「意味の構築法」になると思う。ソルボンヌ大学の文明講座の仏語のミムラン先生が、仏語の文の定義を教えてくれた。それは「大文字で始まり、句点で終わるもの」と言うもの。実は、一般的に文法と言う場合、正に、これが当てはまる。何故なら、文字で記述されたコーパスが「文」になり、それが「意味の単位」になるからだ。が、未だ「意味とは何か」と言う問いが残る。人間の言語や知能をシミュレートする人工知能の研究において、本来これは避けられない問題なのだが、現在のAI 開発では完全に棚上げ状態。問題は、AIが「人間の代わりに、仕事をしてしまう」と言う事実があり、それを社会が無視出来ない点にある。私の場合、意味の起源を、ソシュールの記号に求める。ただ、それは「記号の恣意性」と言う概念に代表される従来の解釈ではなく、ソシュール本人が意図したであろう「言語の形の側面であるシニフィアンと言語の意味の側面であるシニフィエと言う二重の価値体系としての記号」である。本来の記号の恣意性と言うのは、「ソシュールの一般言語学講義」の第4章「言語学的な価値」に記述されている「記号の『ラデイカルな』恣意性」であり、私はこれを、「二重の価値体系と言う枠組みの中で、其々の価値体系の特定の座標同士が一致する所に、特定の記号が成立する」と解釈している。記号の起源は、知能を発揮する認知システムにあるが、これを先ず、外界の知覚と記憶喚起そして反応運動と結果の知覚的なフィードバックと言う一連の連鎖する過程のループという枠組みで理解する必要がある。知能が発揮される為には、快か不快かが判断基準となる認知主体の自由意志が不可欠である。そして、先程の認知システムのループにおいて、一度で取るべき反応行動の判断が出来ない場合に生じる連想と言う、ループの新しい出発点も不可欠である。これにより、試行錯誤と言う新しい過程が可能になり、より成功度の高い選択肢を取るようになる事で知能と言う現象の精度の向上に繋がって行く。「認知システムに於ける意味」と言う場合、自分が「心地よい」と判断する事による「認知主体にとって意味のある行動を選択する」事である。AI に向かって「良い仕事している」と形容する時、それは正に「認知システムによって実現される知能と言う物差し」で見た場合の意味であり、この認知科学的に定義される意味はソシュールの記号の持つ言語学的な意味とは概念が全く異なる。しかし前者の意味が後者の意味の起源になっているのは間違いない。では、二つの意味の関係をどうやって説明出来るのだろうか。ここで出て来るのが「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」である。この「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」と言うのは、簡単に言ってしまうと「混沌とした世界からデジタル情報を生み出す動的なメカニズム」。この場合の「離散」と言う概念の対義語は単なる「連続」ではない。自分の存在を知りたいが、相手がいないので自己同一性を確立出来ない状態である。私は、この「自己同一性を求めるが確立出来ない中途半端な連続性を持つ状態」を「混沌」と呼び、これが「進化する自己記憶」の発動に繋がり、宇宙の誕生を促したと考えている。そして生まれたのが、原子や分子と言うデジタル情報。未だ、確信は持てないが、それは素粒子ではないと考えている。何故なら私は、宇宙の誕生と同時に確立した最初のデジタル情報は、電子の数つまり電荷によって自己同一性が決まる原子と、それらが化合して組成される分子であると考え、同時にホイラーの「単一電子仮説」を支持しているからである。また原子を素粒子という粒に分解するのは間違いだと思っている。これは、音素を言語の最小単位と考え、音韻体系を「一定の種類と数の音素の集合」であるとする音韻学の大前提が間違っていると考えるのと同じ理由である。素粒子に関しても、音素を弁別する為に使う聴覚記憶操作であるミニマルペアが成立する為の動的な入れ子構造があるかもしれないと思っている。私は今、音声言語の音韻体系の音素が単位/粒ではないと言う認識の下、音韻体系の差異による新しい記述法を模索しているが、これが物質の素粒子レベルでも、同じ「動的な入れ子構造」が確認できれば、二つの中間にある、生命と知性の起源に関しても同じ構図が、将来、確認出来るかもしれないと思う。今ふと、自己記憶の進化に於ける自己同一性の確立と言語的な意味との関連性を考えようと思った。これは、自己同一性の進化を三段階の意識の進化と見る視点である。最初は、電子レベルの三人称の意識で、これが進化して遺伝子レベルの二人称の意識が生まれ、更に記号レベルの一人称の意識になる。つまり「言語学的な意味」と言うのは、そのまま、我々人間の主観を支えている自己意識であると言える。ただ、現在の言語学では、認知システムによって発揮される知能を物差しとする「認知科学的な意味」と「言語学的な意味」の分離が十分に出来ていない為、意識の科学に於いて混乱が起きている。意味ひとつ、定義しようとしても、こう言う複雑と言うか、異次元な思考を辿らなければならないのだが、私以外の人が、この思考回路を辿る事が出来るのだろうかと、ついつい考えてしまう。取り敢えず、振り出しに戻れたと思うので、ここで一旦、一休みしようと思う。はっきり言って、疲れた。
2025.03.05
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言語の定義に関しては、認知/知能の起源と言うラスボスがいるので、未だ、完全ではないのだが、宇宙を誕生させた「進化する自己記憶」の発動からの、三段階の「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」による離散的な時空間の確立と言う過程を通って確立されたと言う、大体の道筋は把握している。私の言語理論の特殊な所は知覚と記憶の生成と喚起を中心に考え、脳の存在と役割を特に考慮しない点だと思う。何故なら、私の言語理論の主体は「進化する自己記憶」であるから。我々人間が言語活動で果たす役割は、認知システムを持ったコミュニケーションをする認知主体である事に限定される。脳と脳細胞を「進化する自己記憶」で置き換えた所で、さほど問題はないと私は思っているが、一つ、断っておきたいのが、脳がコンピュータの様に機能すると私は考えないと言う事である。言語の胚となる記号は、認知システム上に構築されるのだが、この二つのメカニズムには、大きな違いがある。そして、更に二つのシステムのメカニズムが、密接に絡み合っている。具体的に言うと、認知システム自体は「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」というメカニズムを持っているが、認知的な記憶が、同じ「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」によって、言語の胚となる記号になる。だから、脳という一つのシステムで全てを行っているのではないという事。この説明は難しいのだが、実は三層の「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」が重なって、言語の記号は機能しているという事を、考慮しない事には、何も理解できない。私が脳科学ではだめだと思うのは、これが理由である。
2025.03.05
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私はずっと「言語とは何か」という問いに答えようとしてきたが、今後、少し方針を変えようと思っている。もうすでに、言語とは何かは十分理解できたし、説明も出来るので、これからは「文法とは何か」という問いに切り替えようと思う。これは、普遍文法に対するアンチテーゼになると考えている。今、一般的に文法と言われているものは、日本語が示すように「文」を決めて、その意味をどう構築するかという事を考えている。私の考える文法には、この「文」という単位が出てこない。その代わり、小さな意味の塊となる「シンタグマ」が、どの様に連鎖して大きな意味を構築するのかを考える。「文」が無い文法には、勿論「ツリー構造」による意味の分解も存在しない。私は、意味というのは、順番に連鎖しながら、徐々に積み上げられていくものだが考えている。しかも、会話だったら、複数の人間が一つの大きな意味の構築に参加する。小さな意味の塊を中心に据えて、文法しようという事だ。この視点で考えると、「SVO(主語+動詞+目的語)」という図式は、「名詞+動詞+名詞」となる。英語やフランス語だと、最初の名詞に「主語代名詞」の「I」や「je」が来るのだが、イタリア語では「io」は必要ない。だから、動詞を中心とした文法に書き換えられると考えている。
2025.03.04
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国際音声記号(International Phonetic Alphabet: API)というのは、音韻体系を正しく反映していない。確かに、音声言語のシニフィアンは、一定の種類と数の音素に分節する事が出来るのだが、音素を認識するのは、常に音節やモーラ(日本語の場合)という、より大きな音声の塊を基本にしている。私に、そう思わせてくれたのが日本の仮名である。これは私の小さい頃の記憶だが、どうして「か」と発音し続けると「あ」になってしまうのか、とても不思議だった。こういう事は音声学に精通している人なら簡単に説明がつくのだろうが、この子供の頃の疑問が私の今の言語学の研究に繋がっている。音声言語の音韻体系というのは、ミニマルペアという聴覚記憶操作を可能にする「動的な入れ子構造」が基本構造となっている。つまり、音声を分節した音節を時間軸に沿って前後に二極化し、同じ部分と違う部分という前後の二つの座標でシニフィアンの自己同一性を確立するという事になる。国際音声記号表の一番の問題は、音韻体系を音素という単位で捉えるという事である。我々は、音素を一つ一つ、単独で認識しているのではない。ミニマルペアに代表されるような、「同じだけど違う/違うけど同じ」というパターンに当てはめて認識しているのである。この点、日本語は仮名である。日本語の仮名というのは、基本的に子音と母音が前後に組み合わさったものであり、日本語話者にとっては、それだけで一つの単位を成し、音素に分節はしない。しかし、感覚的に「か」と「き」や「か」と「た」が、其々ミニマルペアを形成する事は理解している。これが、五十音表に繋がる。日本語には「ピッチアクセント」と呼ばれるものがあって、例えば「雨」と「飴」を抑揚で使い分けている。ところが、これは、日本語の初学者には教えられないらしい。かなり後になって、その存在を知ったりするとのこと。でも、これを認識出来る事が、日本語の音韻体系の本質だと私は思う。ピッチアクセントは普通、母音或いはモーラが二つの場合に現れるが、実は、母音一つの場合でもある。例えば「気」と「木」。助詞の「が」を後ろに着けて「気が」と「木が」になると、抑揚が違ってくる。五十音表を補うために、新しい発音のパターン表を作るべきだと私は考えている。日本語のピッチアクセントの問題は、地方ごとでバリエーションがあるという事。私は直接確認したわけではないのだが、例えば、関東と関西では「橋」と「箸」のピッチアクセントが逆転するとのこと。この点、英語やイタリア語のアクセントは、基本的にどこでも変わらないのは助かる。私は、言語の理解には、音素の識別も非常に重要であるが、それ以前に、アクセントが、より重要であると考えている。何故なら、アクセントにより先ず、連続的に流れる音声を、ミニマルペアの確立を可能にする動的な入れ子構造の枠組みに分節する事が出来ると考えるからである。私の考える文法には、特殊な時空間がある。基本は、音素が、時間軸に沿って直列に並ぶ時空間だが、これに直交する軸が加わり、アクセントや声調などが確立する為の時空間が形成される。これは、国際音声記号の表の様に静的なものではない。だから、今後のモデル化は容易ではないと思っている。でも、手掛かりは、大分揃ったので、結構、楽観視している。
2025.03.04
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The English Coach:The Dark Side of WANTING to Sound Like a Native Speaker私は外国語の発音を習得するのが得意であるが、ネイティブの発音を真似る事の闇も分かっている。だから私は、この動画を視て強く共感した。私の外国語学習の経験を少し書いてみようと思う。私は高校三年の時にホームステイ留学して英語を習得したのだが、大学の時、イギリス人に会うとアメリカ訛りだねと言われ、アメリカ人に会うとイギリス訛りだねと、よく言われた。今では、そう言われることはなくなった。30年もフランスに住んでいると、フランス語訛りになるのかも知れない。実際、かなり前だが、フランスからイギリス人の友達の家に電話をした時、彼女は留守で、お父さんが電話口に出たのだが、その後のお父さんからの伝言で、フランス人から電話があったよと言われたそうだ。この時から、フランス語訛りの英語を話す日本人というキャラも悪くないと思った。フランス人と話していると、時々、フランスで生まれたのと聞かれることがある。それで、フランス語を勉強し始めたのは二十歳過ぎだと言うと、皆、結構びっくりする。でも、中には、私のフランス語にあるアジア系のアクセントをちゃんと聴き取れる人もいて、そう指摘されると嬉しくなる。長い事、フランスに住んでいると、フランス人との接触も多くなるから、フランス語の発音もよくなっていくのは自然な事だと思うが、私は他の日本人よりは、他人の発音をコピーする能力が高い。でも、これは結構、重荷になる事がある。他人からコピーしたものは、やはり、自分ではないからだ。フランスに長く住んでいると、私の日本語も影響される。かなり前の事だが、日本に一時帰国中、幼馴染が参加する筈の蚤の市に行けなくなったので、少し日本語を話すミャンマーの人と一緒に、会場で彼女の代わりをしたのだが、その時、その幼馴染の知り合いが来ていて私は15分位一緒に話したのだが、後から、その知り合いの人が私の幼馴染に、蚤の市で代わりにブースを仕切っていた二人で、一人は確実に外国人ってわかったけど、あの日本語が流暢な人は何処の国の人と聞かれたと言われた。これを聞いた時、結構ショックだったのだが、ネイティブの発音に拘る事って意味ないなと思った。今の私は、発音を聴き取って、しかも発音をかなり正確に再現できるという特技を「生きた文法」の記述に活かせないかと考えている。何故なら、私の考える音声言語の文法というのは、音韻体系と密接な関係があると考えるからである。今、少しずつだが、形になってきているので、結構楽しい。
2025.03.04
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耳で聴いて記号の推測を容易にする生きた文法を確立する為には、正しい音韻体系の確立が必要になってくる。これは、国際音声記号に頼らないものである。日本語の五十音図が参考になるかもしれない。というのも、音韻体系というのは、特定のパターンをどのようにして無意識的に認識できるのかという事が重要だからである。日本語の場合、母音が基本的に5つしかない事が、パターンの極度な多様化が避けられている。それが高じて、日本語の音韻体系は「いろは歌」に集約されてしまう。実は私は、日本語の音韻体系が五十音表に集約される事に小さい頃から気付いていたと思う。英語の存在を知った時、英語のアルファベットに対応するのが、日本語の仮名だと思っていたのだが、この感覚が、ソシュールの記号が「二重の価値体系」であるという発想に後から繋がったと思っている。
2025.03.04
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私が現在目指している「生きた文法」というのは音声言語に限定される。手話に関しては音韻体系に当たるものが手話話者の身体であり、それは全人類共通の特徴を持っている為、地域毎の手話で多少のバリエーションはあるが、音声言語の様な、互いに認識不可能な価値体系ではないという利点がある。これは、ソシュールが提唱した「二重の価値体系である記号」が、特定の知覚運動チャンネルに特化する事で、聴覚発声チャンネルの場合は音声言語、視覚身振りチャンネルの場合は手話という、異なる知覚をベースにした二つのタイプの自然言語に分化したと考えるのが根底にある。これは、全く新しい言語類型論の確立に繋がる事になるだろうが、こういう発想をしているのは、どうやら私だけらしいので、今後まだまだ時間がかかるだろう。しかし、現在の言語類型論が、視覚身振りチャンネルに特化した手話を排除している事実を、言語学者はどの様に考えているのだろうか。百歩譲って、音声言語に限定された言語類型論なのであれば、私も理解できるが、それでも学問として確立する際に、手話を排除しているのは明らかである。私は、人間が発明した二つのタイプの自然言語の一つである手話をもう一つの柱とした、総合的な言語類型論の確立を目指しているのである。旧約聖書の創世記のバベルの塔の話。人が天まで届く塔を建設しようとして神の怒りに触れ、その罰として、皆が一つの言語を話していたのに、互いが理解できない言語を話す様にしてしまったという逸話であるが、元々、人々は手話を使っていて、その後、音声言語に移行したと考える事も出来る。世界共通の手話というものは無い。各国、各地域で話されている手話には、其々独自性があるが、手話を母語としている人なら、すぐにコミュニケーションをとる事が可能である。それは、手話の記号のシニフィアンが人間の分節された身体であるから。つまり、同じ言語の形を共有しているのである。
2025.03.04
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Loïs TalagrandProfessor:Reveals Why You Have An Accent In Foreign Languages | Dr. Tracey Derwing動画のサムネにある「シャドーイング」に代わる新しい外国語学習法として「ミラーイング」という言葉に誘われて視聴したのだが、どうやら私は無意識にミラーイングを実践していたらしい。というのも、私は自分の前の会話の相手の話し方や論理展開に至るまで丸ごとコピーしていると自分で気が付いて初めて、自分が「ミラーイング」をしている事に気付き、ストップをかける事が時々あった。これ(ミラーイング)をやると、自分のアイデンティティーが怪しくなるので、私はあまりお勧めできない。この動画でインタビューを受けている先生は、実際に現場で教えている事もあって、凄く共感が持てる。学習している言語のネイティブスピーカーの発音に近づけるというよりは、周りが聴き取りやすい発音を身に着けるという方がより実用的だというのは私も納得である。「ネイティブの発音を目指す」というのは日本特有の傾向と思っていたのだが、そう思うの人が他の国にもいるというのは、ちょっと新鮮だった。でも、ネイティブの発音を習得するという事は、単に上手な発音というだけでなく、ネイティブの精神性をコピーする必要があるというのを忘れないで欲しい。ここまで書いていて、やはり「言語はコミュニケーションの道具である」という大前提が問題であると改めて思う。音声言語を使う人達にとって、特に母語の音韻体系というのは自分自身なのであるが、音韻学も音声学も、外部化された言語の文法の一部として扱われている為、そういう発想が出てこない。やはり、新しい「生きた文法」を構築する必要があるという事に尽きると思う。それが完成すれば、普遍文法が、シンタックスという如何に狭い範囲の文法に限定されていたのかという事が分かるだろうし、同時に「二重の価値体系である記号」というソシュールの一般言語学の理解も広がると思う。今は、イタリア語の音韻体系を、文法規則と絡めて記述する事を目指しているが、これ自体は、一つ一つ、タイプが異なるだろうという事。同じ、哺乳類でも、海に棲むクジラやイルカ、陸に棲む、ライオンやキリンとか、様々な種に分かれるように、音声言語の音韻体系も多様化すると考えるからである。
2025.03.04
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耳で聴いて記号の推測を容易にする生きた文法を確立する為には、正しい音韻体系の確立が必要になってくる。これは、国際音声記号に頼らないものである。日本語の五十音図が参考になるかもしれない。というのも、音韻体系というのは、特定のパターンをどのようにして無意識的に認識できるのかという事が重要だからである。日本語の場合、母音が基本的に5つしかない事が、パターンの極度な多様化が避けられている。それが高じて、日本語の音韻体系は「いろは歌」に集約されてしまう。実は私は、日本語の音韻体系が五十音表に集約される事に小さい頃から気付いていたと思う。英語の存在を知った時、英語のアルファベットに対応するのが、日本語の仮名だと思っていたのだが、この感覚が、ソシュールの記号が「二重の価値体系」であるという発想に後から繋がったと思っている。
2025.03.04
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ちょっと、アイデア切れを起こしたかもしれない。何も書くきっかけが無い。まあ、こう言う事は、今までもよくあったので、一時的なものだと思っている。でも、以前、数ヶ月間、全く投稿しなかった事もあるので、多少は不安。気負わずにマイペースで行こう。
2025.03.04
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イタリア語の耳からの聴き取り訓練をしていると、話の意味は全部は分からないのに、話をしている人の人柄が分かる様な気がするのは何故なのだろう。
2025.03.02
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耳で聴き取る為の文法という新しい概念が生まれるかも知れないと、先程投稿したのだが、これこそが本来の文法なのかも知れない。我々が文法を学習する目的は対象となる言語を正しく使う為。それが、母国語であっても外国語であっても目的は同じ。それを、耳から行う事が出来たら、どうなるのか。実は、同じことが手話にも言える。つまり、目を使って読み取る為の文法である。耳で聴き取る為の文法と、平行してやっていこうと思う。連続的に流れては直ぐに消えて行く音声或いは視覚的なシーケンスから、意味を持つ塊を分節して離散的に取り出し、それを順番に連鎖させながら、一つのより大きな意味に紡いでいく過程、それが言語活動である。これは、勿論、モノローグが主であるが、ダイアログ、つまり、話し手と話し相手が存在する会話の中でも、全く同じ様に機能する。交互に意味を構築していく。音声言語の場合は、音韻体系を通して意味を体感するが、手話の場合は、視覚から入る情報を自分の身体の触感を通して意味を体感する。手話に関しては、ちょっと自信が無い。少なくとも一つ、私に言える事は、言語も文法も全て、我々の心の中にあるのだという事。物理的な平面上、例えば紙の上に文字や図像を使って動かずに静的に記述されたものが言語だと思って研究している人は、言語学をする資格が無いと思う。それは死んだ言語、つまり、コーパスである。生きた文法というのは、既に自分が知っている記号に、知覚した音声あるいは視覚シーケンスを当てはめるという作業を行う過程を指す。これがマスターできると、シニフィアンを正確に推測する事が出来、自然とシニフィエの推測も容易になる。生きた言語の理解は、あくまでも推測である。
2025.03.02
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イタリア語の耳からの聴き取り訓練をしていると、話の意味は全部は分からないのに、話をしている人の人柄が分かる様な気がするのは何故なのだろう。
2025.03.02
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イタリア語の独学を始めて、もう10年以上経つと思うが、イタリア語が「SVO」つまり「主語+動詞+目的語」というのは間違いだと確信した。実は元々「主語+動詞+目的語」という図式は、変である。私の指導教官だった Tamba 先生からの受け売りだが、三つの要素が同じカテゴリーに属していない。
2025.03.02
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私は、チョムスキーの普遍文法というのは「詐欺」だと思っている。言語の本質は、連続的に流れる物理的な波動である発話を、視覚及び聴覚を通して知覚し、それを、二重の価値体系である記号と言う変換装置を通して離散化する事で、その発話を発した話し相手の意図した意味を理解する過程である。我々は、発声或いは身振りという運動チャンネルを通して発せられた音声と光という二種類の連続的な波動を、聴覚と視覚という人間に備わっている知覚チャンネルで感じ取り、それを特殊な記憶喚起のメカニズムを通して離散化する事で、二重の価値体系である記号を確立する事で言語活動を実践している。私が、チョムスキーの普遍文法が詐欺だと断言するのは、コーパスという文字によって物理的に静的に記述された死んだ発話を、あたかも生きた言語のように扱い、そこから導き出される統語論的な規則が、あたかも、全ての言語に共通する普遍的な文法であると主張しているからである。チョムスキーが見逃していた事実。それは、我々人間は、記憶を喚起し操作する事で言語活動を行っているという事。だから、言語というのは物理的な平面上に記録する事は出来ても、それを研究対象として言語学をする事は出来ない。こんな初歩的な事を知らない人に言語学者と名乗って欲しくない。
2025.03.02
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今、私がイタリア語の独学で実践している事は、文字から得られる情報に頼らない外国語学習であるが、これを誰か他の人達に勧めようという考えは全くない。私はただ、聴覚記憶によってイタリア語の記号がどの様に確立されているのかを知りたいと思っているだけである。私にとっても初体験である。私は基本的に、視覚から言語を理解する人。これは、日本語が漢字を中心に記述されることから来ているかも知れないが、他の日本人が同じかと言ったら、私には分からない。例えば、私は単語のスペルは視覚的に覚えている。イタリア語の耳での独学を始めてから、英語のスペルが怪しくなった。今、ネットのイタリア語の動画を視聴しながら感じるのは、その人の話の意味は完全にはつかめないのだが、その人の気持ちが伝わってくる気がするという感覚である。私は、イタリア語学習をしているのではない。イタリア語の独学を通じて、ソシュールの記号を実感しようとしているのだと思う。言語の意味というのは、どう考えても独りよがりのものである。でも、特定の言語を共有する事で、皆が「同じ」だと思える相似的な経験をする事ができる。私は、誰もが同じクオリアを見ている訳でないと主張する人を信用しない。では、何故、我々は同じ言語を話していると互いに認識できるのか。我々は一人一人同じクオリアを認識していないと主張する人は、何故我々が同じ絵を見て感動し同じ曲を聴いて涙を流す事を、どう説明するのだろうか。言語や音階という離散的な時空間の存在を、彼らは知らないのだろうか。それらは既に、彼らの生活や人生の一部になっているのに何故否定するのか。最後に一つ。耳で聴き取る為の文法という新しい概念が生まれるかも知れない。
2025.03.02
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Run To Truth:Chris Langan Breaks Down Life's Ultimate Purpose (5 Min of Wisdom)Chris Langan 氏の宇宙理論で、一つ、詰めが甘いと思うのは、彼は「全ての存在は「identity(自己同一性)」である」と言い切ってしまっている事。では、どうやって「identity(自己同一性)」は構築されるのかを聞かれたら、彼はどう答えるのだろうか。いつも気になる。多分、私が思うに、Chris Langan 氏は、全てを自分の存在を基準に考えているからだと思う。自分の自己同一性を否定する事は出来ないから、自分が対峙する神の自己同一性も否定できない。それに比べて、私は自分の自己同一性を解体する所から始めた。この違いは、埋められないだろうと思う。西洋人は、意識と言う対象を研究するのに、どうしても一人称の視点で考える。東洋人(一般的には、インドや中国の思想を指す)は、意識を二人称の視点で捉えるが、同じ東洋でも、日本人は、意識を三人称の視点で捉える類稀な感覚を持っていると思う。でも、これは、具体的に言語化されていない。私は、日本の宗教である神道とは、子供の頃から、関わりが結構あった。母方の祖父は、隣の神社に奉納するものを手作りしていた職人だったし、今でも実家の床の間の横には仏壇ではなく、神棚がある。その祖父の葬式は神式だったし、四十九日ではなく、五十日祭を柏手を打って祝った。子供の頃は、両親が買ってくれた日本神話の本を好きで読んでいた。私の生まれは鳥取県だが、隣の島根県の出雲大社に行った記憶はない。私は、日本の宗教である神道の信者になるには、日本語を話す事と日本人としてのアイデンティティーを持つ事が、二つの重要な要素だと思っている。私の言語理論の根底には、日本語の持つ価値体系があり、これが私の価値観を支えている。それを強く感じたのは私が西洋の概念である「indivisual(個人)」と言う概念を誤解していたと認識した時で、私は集団の構成員としての「仲間」のイメージだったのだが、実際は「集団と対峙する個人」だった。しかし、西洋にも日本語の仲間に相当する概念は存在するのだが、哲学をしようとすると、そういう概念は排除されてしまう。社会的なしがらみを全て削ぎ落した「たった一人の個人」というものを主人公にしないと、どうにも哲学が出来ない様な思考回路が出来上がっているようである。つまり、西洋人は、どうしても「一人称の主観的な意識」を中心にしか、物事を捉える事が出来ない。一人称の主観的な意識への執着を取り払う為に出てきた宗教の代表が仏教であるが、それは一人称の自分を捨てて、二人称の仏に身をゆだねろという教えであり、まだまだ不十分である。そこで私が提唱するのが、三人称の意識によって宇宙全てを俯瞰するという視点である。これは、八百万の神々の祭る神道の信者にとっては、ある意味、普通の感覚かも知れないが、西洋的な科学観に毒されてしまっている日本人にとっては、そこに行き着くのは容易ではないかもしれない。自らの自己同一性を放棄し、誰か別の自己同一性に帰依するのではなく、全てのしがらみから自らを開放する事、これが三人称の意識になる事である。私は、これを宗教的に広めようとは思わない。何故なら、これは新しいパラダイムシフトへの序章に過ぎないのだから。
2025.03.02
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Macbeth – Cinémathèque16VENDREDI 28 FEVRIERその台詞は「Blood will have blood.」で、「血が血を呼ぶ」と言う意味である。私が高校生留学をした時、何故か、最上級クラスに振り分けられて、そこで教材として出てきたのが「マクベス」だった。当時の私の英語力では、正直、無理な授業だったのだが、素晴らしい先生のお陰で及第点を取れた。高校名はHarlem High School, ILで、先生の名前はMelody Gunn 、旦那様のJames Gunn 先生は私の美術の担当。授業中はガムを噛みながらだったが、教壇に立つ姿は真剣そのもので今でも鮮明に思い出す事ができる。出題範囲が決まっている語彙テストで良い点を取れば落第しないと言われて頑張った。台詞が英語で仏語字幕のマクベスを観ながら、我々、人間の意識と言うのは、認知システムの待ち受け状態の意識と人間としての人格、つまり自己同一性/アイデンティティーを維持しようとする意識の二層構造をしていると思った。更に、物質/肉体レベルでも自己同一性を維持しようとする意識もある。つまり、我々、人間の意識と言うのは、自己同一性を維持しようとする三重の「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」であると言う事になる。そして、もう一つ、連鎖的に気がついたのは、我々は物事の間に潜む相似性を見出す事によって新たな科学的な発見に至るという事。これは還元主義ではない。閃きと言うのは、自己相似性によって発動するものだが、それに適当な名称を付けて客観的に記述した段階で、それは還元主義的なアプローチとなる。私は、ソシュールの「言語には差異しか無い」と言う命題に導かれて、この「閃きを起こすアプローチ」を「離散主義(discretionism)」と命名した。目が、しょぼしょぼして来たので、寝ます。では、また明日。忘れる前に、一つメモしておく。意識上の自己同一性の維持は、連想と言う記憶喚起のメカニズムが重要な役割を担っている。これが上手く行かないと、集中していても睡魔に襲われる。私が、講演会とかで、よく寝落ちするのは、話題を理解しようと集中しすぎたせいだと思っている。
2025.03.01
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漫画「寄生獣」のミギーが長い眠りに入る前に宿主の新一に向かって夢の中で語った言葉を思い出す。今、ネットで検索しようとしたら、自分のブログ「言語学を超えて」の10年前の記事が出てきた。「寄生獣」のミギーが、永い眠りに入った本当の理由。。。自分は、あの頃から変わっていない。「寄生獣」は完結してしまったので、その後ミギーが何をしたのかはわからないが、私の中の「ミギー」は「佐藤直幹」と言う宿主から常に刺激を受け取って「離散分裂(再)融合更新循環サイクル(或いは、ループ)」を独りで黙々と実行している。その正体は、私が飼い慣らした「ソシュールの記号」。ここまで書いて、私が独りで始めた「自分の心を実験台として使う言語学の実験」と言うのは、精神衛生上、かなり危険なものだと実感している。自分でも、よく平常心を保っていられると思う。きっと、あと少しだと思って、また頑張ろうと思う。
2025.03.01
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言語学者達は、何故こぞって、普遍文法と言う言葉に踊らされてしまったのだろうか。言語学には、統語論以外にも様々な分野がある。中でも文法と密接な関係にあるのが形態論であるが、これは普遍文法からは排除されている。それと同時に、西洋言語の文法の形態論で重要な役割を持つ人称も消えた。普遍文法が世に広まる決定的な役割を果たしたのが、言語の文字による記述への過信だと私は考えている。この背景には「音素は言語の最小単位である」と言う前提があり、これが国際音声記号の構想に繋がり、世界中のあらゆる音声言語を記述し、言語学の対象として扱う事が出来たと言う実践もある。国際音声記号の登場で、音素は言語の普遍的な構成要素であると言う認識が拡散される事になったが、音声を通さない自然言語である手話には適用出来なかった。この障害を掻い潜り手話を言語学の対象として認めさせたのが、米国の手話言語学者ストーキーが苦し紛れに考案した「手話の音韻論」である。話が少し逸れたので話題を戻そう。音声言語の文字による物理的な記述への過信は、音素が(後に、手話も含む)あらゆる言語の最小単位であると言う神話を作り上げ、音素と音素が構成する音韻体系自体が、どの様なメカニズムを経て確立されるのかと言う言語学的な考察への道を閉ざしてしまった。この波に乗ったのがチョムスキーが提唱した普遍文法。同じMITに在籍していた人工知能の父とされるミンスキー博士は、チョムスキーの言語理論が、世界中の大学の言語学部から「人工知能の開発に不可欠な意味の研究」を駆逐して行ったのを苦々しく見ていたが、晩年、完全に的外れだと批判している。チョムスキーの普遍文法は、長年の研究の末、最終的に「recursion(再帰性)」に限定される事になるが、これを否定する言語が現れた。それが、言語学界隈で知らない人はいないであろうアマゾン原住民のピダハン族が使う言語である。しかし、未だ、普遍文法の正当性は、完全に揺らいではいない。それは、チョムスキーの普遍文法の「学問としての正当性」は疑っても「学派としての正統性」を支持する言語学者が多いからではないかと思う。ピダハン語の存在を世に知らしめたエヴェレット氏以外に、この問題の言語を研究した人がいない事が批判者の論点になっている事から私が出した推測である。私は、チョムスキーの生成文法や普遍文法を最初に聞いた時から、ずっと胡散臭いと思っていたが、30年間かかって、ようやく当時の自分の印象の裏付けをする事が出来た。食わず嫌いは駄目だと思い、フランス大学等の生成文法の授業やセミナーを聴講した事もあるが、私の疑念は深まるばかりだった。しかも、私は誰とも議論する事なく今迄来た。漫画「寄生獣」のミギーが長い眠りに入る前に宿主の新一に向かって夢の中で語った言葉を思い出す。今、ネットで検索しようとしたら、自分のブログ「言語学を超えて」の10年前の記事が出てきた。「寄生獣」のミギーが、永い眠りに入った本当の理由。。。自分は、あの頃から変わっていない。「寄生獣」は完結してしまったので、その後ミギーが何をしたのかはわからないが、私の中の「ミギー」は「佐藤直幹」と言う宿主から常に刺激を受け取って「離散分裂(再)融合更新循環サイクル(或いは、ループ)」を独りで黙々と実行している。その正体は、私が飼い慣らした「ソシュールの記号」。ここまで書いて、私が独りで始めた「自分の心を実験台として使う言語学の実験」と言うのは、精神衛生上、かなり危険なものだと実感している。自分でも、よく平常心を保っていられると思う。きっと、あと少しだと思って、また頑張ろうと思う。でも、今晩の投稿は、まだまだ続く予定。
2025.03.01
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現代の言語を基準にして言語の定義を考える事ほど馬鹿げた事は無いと思う。私が人類の黎明期に音声言語より先に手話が登場したと考えるのは手話が原始的な言語であるからではない。人間は視覚身振りチャンネルに特化する事で実用的な自然言語である手話をたった一代で築く事が出来るからである。言語の起源を直接調べる事は不可能である。その為、当時、言語を話していた人間が遺した文献を出来るだけ遡って研究されてきた。インドヨーロッパ語族という概念は、こういう文献学から生まれたものであが、ここに大きな落とし穴がある。もう一つの自然言語の手話が排除されている点である。世界で初めて手話を使って教育をする聾学校を創立したフランスのレペ神父の逸話の中に、聾の双子の姉妹が手話を使って会話するのを見たというのがある。また、現代においても、手話が一代で完成されるというのは、様々な場所で確認されている。しかし、手話は自然に発生するのではない。ブラジルの孤立した聾者の例では、優先的に手話でコミュニケーションがをする相手が家族の中に一人いるいし、共同体の一員として受け入れられる事で、仕事もするし結婚もしていたりする。つまり、彼らは聴覚に障害はあっても、視覚を中心にして、人間社会の仕組みを理解し適応しているのである。我々は先ず、人類という生物的な種の個体であるヒトとして生まれ、その後、人間社会の中で様々な経験を通し、人格を持った人間に自身を変換させる道を辿るのだが、そこに重要な役割を果たすのが言語である。人類の黎明期、人間に変換したヒトの個体が、言語を発明し、その最初の言語は手話だった。確かに言語は人間が発明したものだが、それは物理的な道具を発明したのとは全く次元が異なる。何故なら、言語というのは人間自身であるから。ソシュールの一般言語学に出てくる記号を、私は「二重の価値体系」と解釈しているが、記号が胚となって自然言語は確立し、更に進化しているのである。ソシュールは、記号と言う概念を考案したのだが、残念な事に彼は、それから先に進む事ができなかった。しかも、彼の没後、この新しい概念の萌芽は、後発の言語学者達に全く理解される事なく、更に、彼らに都合よく曲解され、自分達の論文をもっともらしく見せる為に引用されているのだと思う。
2025.03.01
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今、閃いたのだが、三人称の意識が、有形無形の姿を与え、二人称の意識が、それを、自分が対峙する相手に昇格させ、一人称の意識が、それに、自ら行動でき、言語を操り、更に人格を持つ自分自身の姿を投影し、全農の力を持つ神が生まれた。西洋哲学の自由意志というのは、人間の意志か、神の意志かという問いが根本にある。
2025.03.01
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最近、新しい発見がある度に、これで最後かなと思ったりする事が何回もあったのだが、結局その後に、新しい発見が幾つもあったりして、まだまだ終わらないのかと思ってしまう。でも、周りの状況、例えば YouTube で流れてくる動画とかが、正に新しい発見に繋がるものだったりして、ちょっと面白い。「引き寄せの法則」があるとしたら、私の場合、それは私の知的な幸せに直結しているのだと思う。でも、どうやら世間一般では、その幸せというのはお金で測れるものらしい。昔、フランスのスピリチュアル系の雑誌を購読した事があるのだが「幸せになる方法」みたいな特集ばかりで読むのを止めた。
2025.03.01
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今、多くの科学者の関心は意識の科学と言う新分野に注がれている。ここで、一般的に意識と言うと、知覚を使って外界を知り、知覚されたものに反応する認知主体としての側面と、一人称の主観を持つ人間としての側面が同居している。ところが、この一人称と言うのは西洋の文法学のカテゴリーである。言語には一般的に、名詞、動詞、副詞、形容詞などの各種の品詞があると言う考えがある。文法的な人称と言うのは、多分、品詞の存在の様に、言語の特徴としてあまりに常識的であって、三種類の人称が、一体、どう言うメカニズムで過程を経て確立されたのかについての考察は無いのだろうと思う。物理法則を見つける為には、先ず物質が存在しないといけない。言語が成立する枠組みとして、三種類の人称の存在が前提であると考えられているのか。物質の存在に関しては量子力学や素粒子論が担うようになっているが、存在自体の謎が解けた訳ではなく、これは宇宙物理論で扱っているようである。どちらにしろ、言語を定義しようとする際、言語のテクニカルの部分、つまり文法が十分に議論されていない様な気がする。チョムスキーが提唱した普遍文法というのはシンタックス、つまり単語を順番に並べる為の規則に限定されている。でも、本来、文法というのは、もっと範囲が広いはずである。そして、三つの人称を使い分け、それを共有できるという事は、同じ言語的な環境の中、つまり言語的な空間上にいると言える。こんな重大な問題に、今まで何故、言語学者は注目してこなかったのだろう。その大きな原因は「言語はコミュニケーションの道具である」という定義にあると思う。我々の生活の中には、言語が起源で生まれた概念が多い。例えば、色や数字であるが、エヴェレット氏の話だとピダハン語には色や数という概念自体がないという事である。でも、これは別におかしなことではない。言語は、人間の思想が進化して獲得した概念で殆ど構成されているからである。現在の言語を起点にして、言語の定義を考えることほど、馬鹿げた事は無いと思う。現代の言語を基準にして言語の定義を考える事ほど馬鹿げた事は無いと思う。私が人類の黎明期に音声言語より先に手話が登場したと考えるのは手話が原始的な言語であるからではない。人間は視覚身振りチャンネルに特化する事で実用的な自然言語である手話をたった一代で築く事が出来るからである。
2025.02.28
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今迄、漠然と思ってはいたのだが、言語学が、動的な入れ子構造を持つ三種類の人称と言う文法カテゴリーを、研究対象としていない事に、ようやく気がついた。言語学には様々な分野があるが、これを研究するものは、私には思いつかない。ネットで「文法的な人称」で、色々と検索してみようと思う。三つの人称が文法的な規則として存在する事は知られているが、この三つの区別は元々多くの西洋の言語に見られる文法的なカテゴリーである。例えば日本語には、三つの人称で動詞の活用が変化する事はないが、何が主語になるかで、どの表現を使うかが大きく変わる。特に尊敬や謙譲表現が該当する。私は「日本語と言うのは、全ての文が三人称である言語」と言えると思う。話し手が自分の事を指す主語代名詞や、話し手が会話の中で話し相手を指す主語代名詞を選択する際、それらは決まったものでなく、二人の関係性で変わってくるし、文の中で使われる動詞や形容詞なども、それによって変化する。日本語の一人称の主語代名詞だが、私の場合、基本的に「私(わたし)」だが家族に対しは「俺(おれ)」も使う時がある。私は多分、まだ小学校に上がる前に、自分の事を「なおちゃん」と呼ぶんでいたのを恥ずかしいと思い、意識的に「僕」に変えた記憶がある。その頃から、言語に敏感だったと思う。二人称とは、一対一で面と向かって言語を使って話しかけられる相手の事になるが、日本語の場合、終助詞の「-よ」を使うと、無生物とか自然現象にも話しかける事が可能である。例えば、「風よ、吹け」と言う表現は風に向かって命令をしている。神道の八百万の神には、こうやって話しかけられる。フランス語にも三人称の対象の動作を促す表現があるが、風に向かって直接話しかける事はない。例えば、Que le vent souffle !(私は、)風が吹けばいいと思うと言う感じで、主語は三人称だが動詞を接続法に活用して使う。しかし、その動作の発生を望む主体は、あくまでも話し手自身である。これに関して、スポーツでよく使われる表現がある。Que le meilleur gagne ! 実力が上の方が勝つ(事を望む)これはジャーナリストとかが、どちらも中立的に応援したい時に使うが、お互い正々堂々と戦って、結果、強い方が勝つ事になればいいと言うスポーツマンシップのニュアンスも含まれる。仏語には「tu」と言う二人称単数(男女兼用)の主語代名詞があるのだが、非常に直接的な為、失礼になる場合があり、身分の高い人には三人称の名詞と代名詞を使う事がある。Sa majesté, a -t-elle bien dormi ?所有形容詞も三人称「sa」であり「陛下におかせられましては」と言う主語になる。三種類の文法的な人称は我々が言語を発明あるいは習得する際に、三つワンセットで獲得したと思うが、私はこれを我々の言語の胚となる二重の価値体系である記号が誕生する迄の自己記憶の進化の流れの中で考える事にした。自己記憶の進化最初の段階では物質同士が互いに物理化学的な反応をしている。ここには相手の存在を自分から選択的に認知し、それに反応すると言う現象はないが、物質同士が互いに存在によって不可抗力的ではあるが、物理化学反応を起こすと言う事が、物質の持つ静かな意識であると考え、私はこれを「三人称の意識」と呼ぶ。物理学は正にこの反応行動の規則性を記述する学問。
2025.02.27
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Mind-Body Solution:A Unifying Theory of Observation & Probabilistic Belief with Donald Hoffmanまだ途中までしか視聴していないのだが、量子力学で出てきた観察者問題を扱う前に、我々がどうやって言語を通して一人称の意識を獲得したことを解明する必要があると思うのだが、そういう発想にはならない。主観という一人称の意識の問題は、言語学の範疇ではない様である。実は、三種類の人称と言うのは、コミュニケーションをする上で必須。文法的なカテゴリーとして確立されていなくても、三種類の人称の視点が確立され、コミュニケーションをする認知主体の間で共有されていないと、誰が、誰に、誰の/何の話をしているのかと言う会話の構図を共有する事が出来ない。私はずっと前から思っていたのだが、三種類の人称と言う入れ子構造を持った互いに代替可能な三つの視点がどうやって確立されるのかについて、言語学で全く議論されていないのを不思議に思っていた。シンタックスよりも、三種類の人称の方が、根本的な文法的な規則/カテゴリーだと思っている。入れ子構造を持つ三つの人称と言う文法的なカテゴリーの出発点を成すのが、我々の主観を担う一人称の視点で、一人称の主観的な視点を投影したものが二人称の視点になり、この二つの視点が対面して「言語を介して成立する一対一の会話の構図」の外側に位置する全ての物事が、三人称として括られる。チョムスキーは、音声言語の音韻体系を構成する音素を文字によって記述したコーパスを、言語学の研究対象とする事で、本来なら二重の価値体系である記号のシニフィアン、つまり言語の側面に関する考察を放棄しただけでなく、記号のシニフィエ、つまり言語の意味の起源の問題も棚上げしてしまった。そして、日常的な言語の意味に対応する文脈を構築する為の規則となるシンタックス(統辞法)を研究する事にしたのだが、入れ子構造を持つ三つの人称に関してはノータッチだったと思う。個人的に、チョムスキーに関して、そう言う論議を聞いた事がない。現在、物理学者や生物学者も哲学者等と協力関係を築き、意識の問題に精力的に取り組んでいるが、主観と言う「一人称の視点」と言うのは、元々は文法カテゴリーの問題であるとすると、言語学者が、この視点から意識の科学の研究に参加していないのは、大問題だと思っている。でも何故、我々の自己意識である主観をカバーする三種類の人称が文法学や言語学では注目されなかったのだろう。私は、人称が入れ子構造を持っていると理解した時点で、これは言語学に於いて大きな重要性を持っていると思ってはいたが、長年どうやったらいいのか全くわからず、ずっと放置して来た。最近、自己記憶の三段階の進化の流れの中で、物質同士が物理化学反応をする「三人称の親和性の意識」から始まって、認知主体が対象を認識する「二人称の認知的な意識」を通り、最終的に自然言語によって構築される「一人称の自己意識」が確立されたと言う過程を通ったと理解した事で全てが繋がった。これは、つまり、本来、言語学で研究すべき対象が見つかった事を意味するのだろう。これで、前世紀にチョムスキーの登場によって始まり既に何十年も続いている言語学の暗黒時代を、ようやく終わらせる事が出来るかもしれない。人間の主観を生む自己同一性の進化が、言語学の研究対象となるのだ。チョムスキーが世界で最も影響力のある言語学者であるのは認めるが、彼が言語学の発展にどの様に貢献したかと言うと、何も挙げる事が出来ないと私は思う。でも何故、言語学がこう言う事態にに陥ってしまったのか、今後十分な考察をする必要があると思う。その為に莫大なお金が使われたのだから。私は、最初から「役に立つ言語学」を目指して来た。しかし今迄「役に立ちそうもない言語学」をずっと見せられて来た。今後は、人類の進歩に貢献出来る言語学が重要視され、役に立たない言語学は駆逐される事になる世界が到来するかもしれない。その判断を誰がするのかは、私にはわからないが。現在の言語学界でチョムスキーが大きな影響力を持っているのは認識しているが全ての言語学者が彼の理論を支持している訳ではないと思う。ピダハン語には再帰性が無いという論文を書いたエベレット氏も、その一人だろう。やっと自分の目指すべき言語学の方向性が見えてきた。これからが正念場。
2025.02.27
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30年前に私がフランスに来て言語学を学ぼうと思った時、言語学という学問にパラダイムシフトが必要だという認識は流石になかった。でも「言語には差異しか無い」という命題の正当性を考察したり、「言語はコミュニケーションの道具である」という命題を疑問視する事で、その兆しはあったと思う。私が疑問視した言語学上の常識の一つに「音素は言語の最小単位である」がある。この命題は、聴覚で捉える音声を必要としない手話を除外している点で既に大きな問題があるのだが、私が特に問題と考えたのは「最小単位」という部分。何故なら、音素は差異で捉えるべきだと、私は考えたからである。「言語には差異しか無い」というソシュールの命題の考察をするのに私が最初に行ったのは、音素の弁別をする為の聴覚記憶の操作であるミニマルペアの研究であるが、ここで言語学者に見落とされているディテールがある。それは、音素の弁別と音素の識別というのは、全く違う操作であるという事。
2025.02.27
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「言語とは我々自身である」という定義を自分でようやく受け入れる事が出来た事で、私が提唱する言語学の枠組み構築に、一つの区切りがついた気がするのだが、私が一番心配しているのは、今まで、誰とも議論をすることなく、ここまで来てしまった事。他の人がどう思うのか、私には全く分からない。自分の論理展開に自信はあるのだが、そこに至るまでの発想を他人と共有できるかどうかになると疑問が湧いて来る。特に、どうして「言語に於ける差異」に注目したのかと聞かれると、「ソシュールの一般言語学講義」で読んだからと答えるしかない。でも言語学をかじった人なら、誰でも一度は聞いた事のある「言語には、正の項がなく、差異しかない」と言うソシュールの命題を、どう解釈するかと言う考察から全てが始まった。だから、この問題意識を私と共有できる人が出てこないと何も進まないと思う。最初の一歩を一緒に踏み出せるかである。今でこそ言えるが、私は言語に於ける差異が確立する条件に関しての考察を始めた段階で無意識に現行の言語学を否定する道を選択していたのである。今の世の中、新しい言語理論の構築を目指そうと考えている人は果たしているのだろうか。いないのなら、出て来る迄、ひたすら待つ事になるのだろう。
2025.02.26
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言語とは、認知主体の認知システムの反応運動の待ち受け状態を知覚的な意識とし、それが離散化する事によって言語の胚となる二重の価値体系である記号が生まれる。認知主体の心は認知的な記憶で出来ているが、これが離散化すると、自己同一性を維持できる記憶になり、人格を持つ人間の心に進化する。言語というのは、我々の外側に位置するのではなく、人間の人格という自己同一性を維持する装置である記号が言語の胚となっていると考えると、人格を持つ我々自身が言語であるとみなす事が出来る。言語学者が自分自身の心と対話する事が言語学の基本だと考えると、言語学の定義自体が大きく変わる。私は最初から認知科学は言語の謎の解明には役に立たないと考えていた。その理由は単純で、心をブラックボックスと見做す心理学から派生した学問であるから。それで私は自分自身の心を実験台にする事を躊躇なく実践したのだが、これこそが言語学の正しいメソッドであると今は自信をもって言える。従来の科学のパラダイムで言語学をしようとすると、チョムスキーの普遍文法の様な発想になるのだが、これは、言語の現実を全く反映していない。例えば、言語を客観的に観察しようとすると、人間の心とは切り離された文字で記述された物理的なコーパスが言語学の研究対象として正当化されてしまう。言語というのは主観的なものであるのだから、この一人称の意識が、どのような過程を経て生まれたのかを考察する所から始めなくてはいけない。ここで出てくるのが、三人称の意識が、二人称の意識になり、最終的に一人称の意識が誕生したと考える「進化する自己記憶の存在論」である。この「進化する自己記憶の存在論」が科学的かと言うと、従来の科学のパラダイムでは違うが、パラダイムシフトが起きたら、新しい科学のパラダイムの柱になると考えている。これの利点は、物質、知能、言語を統合して、全てを自己記憶の進化という視点で扱う事ができるという事である。今すぐには難しいと思うが、これから時間をかけて「進化する自己記憶の存在論」を広めて行けたらと思っている。
2025.02.26
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普遍文法は、チョムスキーの妄想だと私は思うが、これは一種の集団催眠の様なものかも知れない。音声言語が言語を代表する唯一の自然言語だとし、言語はコミュニケーションの道具であると前提し、音素を文字で記述したコーパスが言語学の対象であると考える人達に、彼は共通の幻想を抱かせたのだ。これと似たような事がソシュールの記号の恣意性の解釈でも起きている。記号の恣意性と言うのは二重の価値体系である記号の言語の形と意味に其々対応するシニフィアンとシニフィエの特定の座標同士が一致する所に特定の記号が成立する事を指すのであり、これを「記号のラデイカルな恣意性」と呼ぶ。音素は音韻体系と言う価値体系の座標であると言う認識はあるのだが、音素を物理的な文字で記述したものが記号のシニフィアンに該当すると考える事で、記号が二重の価値体系であると言う認識が成立せずに、音素と意味の関係は恣意的であると言う間違った解釈が言語学者の間で広く拡散してしまった。誰もが無意識に考えていた音素と意味の関係を、ソシュールが「恣意性」と言うお洒落な用語を使って表現してくれたので、みんな、それに酔ってしまったとも言えるかも知れない。この直接的な原因は「ソシュールの一般言語学講義」を編纂した二人の弟子の記述だと思うが、この本には幸いな事に「記号の恣意性」とは別に「記号のラデイカルな恣意性」と言う記述もあり、前者が誤った解釈である事を示唆してくれているが、後者に注目している言語学者を私は他に二人しか知らない。
2025.02.25
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「言語はコミュニケーションの道具である」と言う命題と音声言語を文字によって物理的に記述する事により、言語は我々の外側に存在する様に思ってしまうが、言語と言うのは実は自分自身である。これは自らの身体を使って発話をする手話の場合、明らか。言語学と言うのは自分自身との対話が基本。私は言語と言うのは人間の自己同一性と密接な関係にあると考えていたので自分自身の心を実験台にする事に全く躊躇しなかったが、言語学を目指す人は全て自分の心がどうやって特定言語の記号として機能しているのかを実感する必要がある。また音声言語と手話の記号の比較を出来る様になるのも必須。言語学を、一種の「スポーツのトレーニング」みたいに考えたらどうだろうか。自分自身の心が、記号と言う二重の価値体系として、聴覚発声と視覚身振りチャンネルの両方で、離散的な言語の形と意味を発生させる装置になる感覚を体得し、それを言語化する事が言語学者としての第一歩になるのである。今迄は、自分自身の心を実験台にした事を特殊なメソッドだと思い込んでいたが、今後、これこそが言語学本来のメソッドになる可能性が出てきた。二重の価値体系である記号の特定の知覚運動チャンネルへの特化と言う過程を経て、手話と音声言語と言う二つのタイプの自然言語が誕生すると言う事実を基に、新しい言語類型論を確立する事が出来る。これが、チョムスキーの主張した普遍文法の代わりとなる、新しい言語理論の一つの柱となるだろう。いや、普遍文法などと言うものは元々存在してはいない。人類の個体であるヒトは、二重の価値体系である記号を自分自身の認知システム上に構築する事で人間的な自己同一性を持つ心を獲得し、それを特定の知覚運動チャンネルに特化する事により特定のタイプの自然言語の発明或いは習得が可能になる。チョムスキーの普遍文法と言うのは、言語がコミュニケーションの道具であると言う前提の下、伝えるべき特定の意味を構築する為には、単語の正しい語順を決める文法規則が必要であると言う発想を出発点とし、人間には正しい語順を知る為の普遍文法と言うものが遺伝的に備わっているとする考えである。言語能力を、特定の意味を構築する為に単語を正しい語順に並べる事であると言い切ってしまえるのは、言語学の対象を音声言語に限定しているのが第一で、その上、記号のシニフィアン、つまり言語の形の側面に、連鎖した音素が直接対応すると考えている事に起因している。この発想は、特定の知覚運動チャンネルに特化して二つのタイプの自然言語が誕生すると言う新しい言語類型論が確立されれば、全く意味をなさなくなる。
2025.02.25
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Closer To Truth:Daniel Dennett - What is Belief?この場合の「belief」というのは日本語だと「何かが正しいと思う事」位になるのだろう。我々が、そういう思いをどうやって持てるのかには全く言及がないのが残念である。言語の役割が無視されているようである。「Belief(何かが正しいと信じる事)」が、どうのこうのと哲学的に議論する前に、これを支える言語的な意味がどの様にして確立されるのかを、言語学の枠の中で解明する必要があるのだが、哲学者達は、これを殆ど無視しているというのが現状だと私は見ている。
2025.02.25
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「言語はコミュニケーションの道具である」という命題を私は否定はしないが、これは言語の一面性だけを反映していると思う。只、言語を言語学という学問の対象とする時、言語を客観的な存在として捉えようとする事自体が間違っていたらどうしようもなくなる。私が言いたいのは正にこれなのである。言語というのは、我々がコミュニケーションの為に使う単なる道具なのではなく、我々の自己同一性、つまり人格、すなわち我々自身なのだという認識を言語学者が持つ事は可能なのだろうか。この認識が確立される迄、今後、何年も何世紀も、人類は言語の本質を理解する事は出来ない。私が保証する。ソシュールは一般言語学という枠の中で、記号という概念を提唱しているのだが、私は、この記号の定義を「シニフィアンとシニフィエという二重の価値体系」とする。この二重の価値体系というのが、人間の人格という自己同一性の確立と密接に関連しているのである。まだ、うまく説明できないが。自己同一性と言うのは、自己を更新しながら進化する自己相似性である。つまり、自己同一性と言うのは、動的な循環サイクルによって維持されている。この自己同一性を、別の観点から見ると、価値体系となると言うのが、今の私の出した結論である。これは、私が完成させようとしているソシュールの一般言語学の柱となる「新しい記号学」の重要な部分を占める事になるが、言語、及び言語学の定義に関わる問題に発展するので、時間をかけて考察をしていこうた考えている。将来的に、何故、あの時期、言語学者を含めた学者達が、間違った言語と言語学の定義にはまっていたのかと、歴史を振り返って考察する様になるのを目指している。
2025.02.25
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What I've Learned:How did the First Language Begin? The Mystery of the Pirahãこの動画が流れてきた。もう5年も前のものだが、今でもあまり変わりないだろう。「言語はコミュニケーションの道具である」という大前提が、言語に関する全ての考察を歪めているというのがよくわかる。チョムスキーや、ピダハン語研究のエヴェレット氏も例外ではない。「言語はコミュニケーションの道具である」という大前提があることで、我々がコミュニケーションをする際に、具体的にどのようにして特定の意味を構築するかが非常に重要な問題となる。こうして、語順に代表される文法規則に関心が集まる事になるのだが、私は人間の記憶と記憶操作に注目する。この動画の中でも、言語の最初の兆候として「index(指標、索引)」が挙げられているが、これは自然の中で発生し、互いのコミュニケーションに使われる、動物の足跡、焚火の匂い、動物の糞などである。この次に出てくるのが「icon(アイコン)」で、そこには存在しないものの存在を喚起する。動画の中で最後に挙げられるのが「symbol(シンボル、象徴、記号)」であるのだが、インデックスは自然界の現象、アイコンは人間が考え物理的な媒介を使って記録されたもの、そして人間の言語に見られるシンボルつまり記号になるが、どれも、我々の記憶の保持・喚起・操作と密接に関わっている。ソシュールの「記号」と言うのは、元々の仏語では「signe」で、英語の訳語として「sign」があるのだが、英語圏の言語学では一般的に「symbol」という用語が使われているようである。「signe」の日本語訳の「記号」という用語には「記憶」と同じ「記す」という漢字が使われているのが凄いと思う。「言語はコミュニケーションの道具である」という前提は、言語を人間の外側に置くことになるのだが、私は言語というのは、人間の自己同一性つまり人格と同じものだと思っている。自分の人格のバリエーションを生み出す事で、生活上の様々な文脈に対応できる言語の形と意味を構築しているのである。そして、我々の人格は、我々の記憶によって形成される自己同一性であり、自己同一性が更新されることによって、我々の人格も維持されている。私は、言語というものは「コミュニケーションの道具」という名目で、我々の外部に位置する存在としては捉えない。言語とは、すなわち我々の人格、つまり自己同一性であると考えている。そして、我々の自己同一性を維持しているのは、我々の個人的な記憶の日常的かつ継続的な更新である。「言語はコミュニケーションの道具である」というナラティヴから、言語学者が脱却する事は出来るのだろうか。ソシュールの一般言語学でも、この脱却の必要性には触れられていないと思う。この必要性をどうやって広めて行けばいいのか、悩む。
2025.02.24
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今から、約百年前に登場したソシュールの一般言語学は、二重の価値体系の記号と言う斬新なコンセプトを持った言語理論であったが、恐らくソシュール本人も、この理論を完全な形で構築する事が出来ずに他界してしまい、後発の言語学者達によって誤解され、更に曲解されて世界中に拡散されてしまった。ここ百年の間に、科学技術は飛躍的に進歩し、我々の生活は劇的に便利になったが、言語学はと言うと、伝統的な文法学に逆戻りした上に、完全な袋小路に陥ってしまいった。言語学の数少ない応用分野の一つである外国語学習に於いても、残念ながら、言語学者の間でコンセンサスが取れていない。私にとって言語学というのは認知主体から進化した人間を定義する学問。ところが、どうやら言語学者達にとっては元々人間が存在する事がデフォルトであって、その人間が使う言語を定義するという方向に流れている様である。私が音声言語と手話の共通点を研究していると言うと、大抵スルーされる。私が音声言語と手話の共通点を定義しようとする理由は、人間が特定の知覚運動チャンネルに特化して二つのタイプの自然言語を確立する前の段階で人間の定義をしようとする試みであり、音声や身振りは、この特化によって生じる単なるバリエーションに過ぎないし、音素は言語の最小単位にはならない。
2025.02.24
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私が、ソシュールの「言語には、正の項がなく、差異しかない」と言う命題の研究を30年ほど続けて知った事は、人は一旦、特定のナラティブを受け入れてしまうと、そこから脱却するのは非常に難しいと言う事である。多分、一番、分かりやすい例が、中世のヨーロッパの天動説と地動説の論争だろう。最近、アニメ化されて世界的に話題になっている「チ。ー地球の運動についてー」と言う漫画作品が、正に天動説と地動説の論争を扱っているのだが、身につまされそうで見る気がしない。人類には遺伝的に普遍文法が備わっていると定義する「言語学の天動説」の教祖がチョムスキーだと私は考えている。私も人類には言語を発明したり習得出来る遺伝的な特性が備わっているて考えているが、それが全ての言語に共通する普遍文法に対応すると言う論理は、どうしても理解出来ない。先ずチョムスキーは、特定の知覚運動チャンネルへの特化して2つのタイプの自然言語に分化する過程を全く考慮していない。百歩譲って手話が研究対象として考慮されていないのには目をつぶるとして、英語だけで言語学が出来ると言う幻想を広めているのは、どうかと思う。言語学者だからと言ってポリグロットである必要はないが、聴覚や視覚に特に障害が無いのであれば複数の音声言語の他にも手話を習得するべきだと思う。チョムスキーの普遍文法の基本は、シンタックス、つまり語順の規則であるのだが、最終的に彼が見つけたのが「recursion(再帰性)」と言う「理論的には永遠に持続可能な語順の規則」と言う事なるのだろう。ところが、この発見を真っ向から否定する論文を書いた言語学者が現れたので大慌てである。論争を巻き起こした学者が元宣教師で言語学者のダニエル・エベレット氏で、アマゾンの奥地に住むピダハン族の話すピダハン語の研究者である。彼の言語理論には問題があると私は思っているので、彼の説明にも問題があると思っているが、普遍文法の正統性を揺るがす論文を書いた事は評価している。エベレット氏の言語理論の問題は、音声言語と手話と言う二つのタイプの自然言語が確立する為には、言語の胚となる記号が特定の知覚運動チャンネルに特化すると言う過程があるのだが、どうやら、この過程の存在を認識していない様である事。多分、二重の価値体系である記号の存在も認識していない。ソシュールの一般言語学の柱となる二重の価値体系である記号の存在と言語学理論に於けるその重要性を認識していない点ではエベレット氏も普遍文法のチョムスキーと同じだと思う。ピダハン族と彼らの言語に関するエベレット氏の本を読んだ時、結構、期待したのだが、結局の所、残念な結果に終わった。只、エベレット氏が著書の中で、ピダハン語だけでなく、ピダハン族の文化と精神性を一緒に紹介してくれたのは嬉しかった。これがなかったら、単におかしな文法規則を持つ特殊な言語と言う事になっていただろう。ピダハン語に再帰性が無いのも、彼らが常に現在を生きているからだと推測出来る。普遍文法のチョムスキーやピダハン語研究のエベレット氏の考察をしながら、やはり「音素は言語の最小単位である」と言う命題が持つ潜在的な影響力の絶大さを実感せざるを得ない。言語学者と言う肩書きを持つ人で、この命題を疑問視している人がいたら是非会って議論してみたいと思うが、どうだろう。言語学は文法規則を明らかにする学問であると言う天動説から、二重の価値体系である記号の進化により維持される人間の自己同一性が言語の本質であると言う地動説に移行させる力を持っているのが、ソシュールの遺した「言語には、正の項がなく、差異しかない」と言う命題の正しい解釈だと思っている。認知主体としての人間の視点から見れば、言語には、認知的な単位として捉えられる言語の形としての音素や意味があるのだが、言語の胚となる二重の価値体系である記号の視点から見ると、言語には差異しかないと言うのが、「言語には、正の項がなく、差異しかない」と言う命題の私なりの解釈である。言語に於ける認知的な単位を「粒」として、二重の価値体系である記号を成立させている言語的な単位の間に成立する互いの差異を「波」とするなら、言語学にも、伝統的な物理学から量子力学が誕生した様な、パラダイムシフトが起きる事になると私は考えている。
2025.02.24
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昔から私は、言語はコミュニケーションの道具であると言う命題を、本質的には否定していたが、これと同様に言語について議論する時「言語を使う能力」と言う表現を避ける様にしていた。人類には遺伝的に言語を獲得出来る潜在能力が備わっているが、そこに至るには、もう一つの過程を通る必要がある。これはチョムスキーの、人類には遺伝的に普遍文法が備わっていると言う主張が、あまりに短絡的な論理展開だと自分には映って、どうしても納得いかなかったからである。物理法則が機能する為には時空間の存在が大前提であるが、文法規則が成立する為には、思考の為の時空間が不可欠であると考える。この頃、私は、ソシュールの「言語には差異しかない」と言う命題に出会った。大学の言語学原論の授業で重要だと教えられているのに、応用分野が全く無い、この命題を知ったとき、これを証明する事を思いついた。多分、これが、言語の成立条件を解明する鍵になるかもしれないと考えたのだと思う。文法が規則だとすると、それを実践できるかどうかは人間の能力になるが、規則と言う決まった過程が確立する為には、それを実践できる過程自体が成立していないといけない。チョムスキーの普遍文法は、認知的な過程が存在する事が大前提であり、この過程が遺伝的に決まっているとしているのだろう。普遍文法の柱はシンタックス理論、平たく言えば語の順番が決まっていると言う考え。また、対象言語の書記言語、或いは国語音声記号を使って物理的な平面上に静的に記述したものを研究対象としているが、元々、どう言う仕組みで一定の数と種類の音素で構成される音韻体系が確立したかは不問である。研究対象を文字を使って記述すると言うのは、言語学者にとっては当然の事かもしれないが、私にとっては、これこそが言語学の最悪の慣習であると考えている。この慣習を皆が律儀に守っている為、言語を研究対象として捉える際に観察者問題と言うのが提起されない。皆、言語の死体を研究している。言語の死体と言ったのは、発話を文字で記述したものを指す「corpus(コーパス)」と「coupse(死体)」の語源が同じと言うのもあるが、言語学者が生きた発話を録音したとしても、それを文字で書き起こした段階で、それは既に死んでいるから。この点、ラテン語の様に既に死んだ言語と変わらない。文字で記述したものを言語学の研究対象としてはいけないのなら、何をもって対象とすれば良いのかであるが、私は迷わず、自分の心を実験台にして研究する道を選んだ。それでは客観性が無く科学にはならないと言われるかもしれないが、言語と言うのは元々、我々の心そのものであると私は考えている。自分の心を観察する上で最初のとっかかりとしたのがミニマルペアの考察で、言語を使う我々の心には時間軸に沿って前後を確定する二極性があると言う事。これで連続した物理的な現象である発話を知覚で捉えたものを、どうやって離散的に分節して言語的な時空間を構築するのかと言う考察が始まった。この言語の捉え方は、量子が波か粒かと言う議論のある量子力学と似ている。未知の発話を知覚して理解しようとする場合、聴覚であれ視覚であれ、物理的な現象である時点で、それは連続的な波動、つまり波であるが、特定の言語を獲得した人間の心を通すと離散的に分節され単位、つまり粒に変換される。ソシュールの「言語には、正の項がなく、差異しかない」と言う命題は、言語の記号を通す事で、連続的に流れては消える音声を、時間軸上に前後の二極性がある事によって生じる差異を通して、認知主体である我々が、認知対象と言う形の単位、この場合は音素として捉える事が出来る事を指している。ソシュールの差異の命題は言語を捉える新しい視点を提供していたのであるが、それに誰も気付かずに一世紀以上の時間が経ってしまった。この最大の障害となったのが、文字や図像による言語の物理的な平面上への静的な記述であると私は考えている。この慣習によって、この命題は無力化されたのだ。やっと、ソシュールの差異の命題を中心にして私なりのナラティブを紡ぐ事が出来た気がする。まだまだ、考察する事はあると思うが、一つ、区切りが付いたかもしれない。
2025.02.24
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SLICE Science:Pirahã: The Tribe That Defies Language Rules | SLICE SCIENCEアマゾンのピダハン語の動画が流れて来た。現在のみに生きているピダハン族の言語を世界に紹介したエベレット氏の言語の定義に私は賛同出来ないのだが、再帰性が言語の普遍的な文法であると定義したチョムスキーにピダハン語には再帰性は無いと主張して対抗したと言う点では、一定の評価をしている。私はチョムスキーの普遍文法と言う思想によって、近代言語学は暗黒時代に導かれてしまったと考えている。しかも、言語学者が誰も、そこから脱出しようとは考えていない現状は、正に井戸の中の蛙状態であり、チョムスキーは、その中に聳える「お山の大将」であると言える。チョムスキーの普遍文法に関して、私が全く理解出来ないのは、人類に言語を獲得出来る遺伝的な潜在能力が備わっているとして、どうしてそれが普遍文法の存在に直結するのかと言う事である。これを、あまりに短絡的な思考回路だと思うのが、どうやら私以外にいないらしいと言うのも私を落胆させる。チョムスキー自身は、きっと自分の言語理論は正しいと確信して普遍文法を推進して来たのだろうが、晩年になって言語学を捨てて政治評論家になってしまったのは無責任だと思う。井戸の中で快適に過ごしてる言語学者には申し訳ないが、あなた達が探している聖杯は、そこには無いと私は断言できる。ピダハン語には再帰性が無いと言う論文を発表してチョムスキーの普遍文法を真っ向から否定したエベレット氏の元にはヘイトメールが沢山来たと言う。私の言語理論は言語学者に全く知られていないので、今はそう言う事は起きていないが、その内に似たような状況に陥いるのだろうか。ちょっと怖い。チョムスキーの普遍文法が「井の中の蛙」だとすると、私の「進化する自己記憶の存在論」は、完全な異次元に属している。そこまで、危険を犯して冒険して来る言語学者は、早々いないと思うので、今のところ余り心配はしていないが、せめて一人くらいは、まともに議論出来る相手が欲しくもある。
2025.02.24
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音声言語であれ手話であれ、一旦発せられた発話を、文字や図像を使って物理的な平面上に静的に記述したコーパスを研究対象とする事が、現在の言語学の標準的なメソッドであるが、私はこれを完全に否定する。死体や化石をいくら解剖、解析したとしても、生命を研究する事にはならないのと同じである。西洋の言語学の源流は、文字で記録された書物を研究対象とする文献学である。20世紀に入り、文字を持たない言語も国際音声記号を使って記述する事が可能になると言語学の対象は一気に拡大した。更に「手話の音韻論」の発明により、あくまでオマケだが、手話も言語学の研究対象の仲間入りをした。私が取ったメソッドは、言語とは人類が獲得した特殊な記憶喚起によって確立される自己同一性が胚となって成立していると考え、脳細胞と言う生理学的な単位を通さずに、純粋に記憶を主体とする視点で、認知システムから、どの様にして進化が起こり、言語が確立したのかと言う軌跡を逆に辿る事にした。
2025.02.24
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