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我々が言語の恩恵を受けているのは確実であるが、具体的にどの様な恩恵を受けているのだろうか。言語はコミュニケーションの道具と言うのが、先ず連想されると思うが、私は違うと思う。問題は、言語で伝える事をどうやって共有できるのか、つまり、言語で同じ形をどうやって認識できるかにかかっている。面白い事に、我々の認識している「知覚によって形成される現実」と言うのは、他人とは共有出来ないと言う認識が一般的であるのだが、どうして言語の形になると、他人と共有する事が可能になるのと思えるのだろうか。「我々が言語を獲得したから」と言うのは、私に言わせると全く説明になっていない。同じ「言語の形」と同じ「言語の意味」を共有できる為の特殊なメカニズムの存在を明確にするのが、言語学の真の役割であるのだが、言語学者は、これに関して誰も考察をしていない。そう言う意味では、彼らは言語学者ではないと私は思っている。言語学者を自称する人達が、言語とは何かであるのかを完全に見失っている。
2024.11.25
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昨日、夢の中で電磁気力がどうやって発生するのかをずっと考えていた。重力に関しては、ソシュールの記号の動的メカニズムである「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」の後半部分の「(再)融合更新」の部分に当たると考えているのだが、その他の「力」に関しても、考察を始めてしまった事になる。還元主義を貫こうとすると、重力を司る「重力子(グラヴィトン)」という粒子を見つけようとするのだが、私の場合は、自己記憶の進化の過程に於いて発生する力の一つであるという理解をしている。私が取っている手法は、離散主義である。現段階で、私が独自に開発した離散主義を一言で説明する事は非常に難しい。自分でも、どうやっているのか、全てを理解している訳ではないというのも実際ある。とにかく今は、このアプローチを使って、自分独りで可能な限り、一つでも多くの事を記述しようと思っている。
2024.11.22
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Closer To Truth:Patrick McNamara - Neurophilosophy vs. Neuromania私は、この二つの違いが分からないのだが、どちらも人間の意識や心と脳が関係している事を前提に話が進んでいる様である。そこで、脳がどの様にして音楽を鑑賞しているのかという問いが出てくる。人間が音楽を楽しむ事が出来るのは、離散的に定義される音階を共有できるからだと私は考えている。では、何故、離散的な音階を認識できるかというと、これは音声言語の音素や手話のサインを認識可能にするソシュールの記号のお陰であると考えている。これが私の意識に関するボトムラインである。この動画の Patrick McNamara のアプローチはすごく好感が持てる。宇宙の根源を構成するものが、心か物質かという議論はあるが、我々は未だ何も知らないという立場である。これが、心でも物質でもなく記憶、しかも自己記憶であるというのが私の立場である。
2024.11.21
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言語の研究を通して人間の本質を知る。この考えを私は何処で手に入れたのだろうか。きっと漠然として持っていた考えが、手話と聾者そして手話言語学との出会いで、具体的に言語化されたのかもしれない。手話と音声言語に共通するものを定義したいと周りに言ったが、誰も相手にしてくれなかった。視覚か聴覚か、どちらかの知覚に特化するかで人間の言語が二つのタイプに分かれると言う事実を知った事は、私にとって棚ぼたであった。フランスに渡る1カ月程前に手話通訳の人に出会ったのは偶然ではなかったと今では思っている。この出会いがなかったら仏手話の無料講座に出会う事もなかった。私は、言語学者と言うカテゴリーには入らないようなのだが、世間一般の言語学者達は、一体、どう言う動機、或いは志を持って言語の研究をしているのだろうか。これは、ずっと前から持っている素朴な疑問なのだが、私は言語学者と議論をした事がないので、私にとっては完全なミステリーである。
2024.11.21
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さて、記憶とは一体、何者なのだろうか。先ず、始めに、私にとって記憶とは主体である。数年前から私は「記憶の視点」という表現を使い始めたし、現在は、それから発展して「進化する自己記憶」という表現を使っている。記憶という主体は、実は三段階の進化を通過し、人間の自己意識に至る。「記憶は主体である」と言っても、記憶自体には実体が無い。只、自己記憶の進化の過程で刻む軌跡を、我々は実体のあるものとして捉えている。しかし、これは、自己記憶の三段階の進化の第一段階にあたる物理化学的な時空間に於ける進化の軌跡のみに該当する。自己記憶の進化の第二段階は、生物認知的な時空間上に記憶の進化の軌跡が刻まれるが、これは実体が無い「過程」になる。この「過程」は、遺伝子上に記録されるのであるが、これが知覚を誕生させる。自己記憶の進化は、混沌からの離散化と言う動的なメカニズムによって進行するが、ソシュールの記号の持つ「二重の独立した価値体系」と言う入れ子構造が、言語意味的な時空間だけでなく、物理化学的な時空間と生物認知的な時空間でも働いている筈である。自己記憶の進化を解く鍵は「混沌からの離散化」であるが、先ず、この場合の「混沌」が何であるのかを知る必要がある。そこには、自己記憶の素がある筈。それは多分、自分が「何かである」事の記憶。しかし、それは具体性を持ってはいない。いや、それは、何かになりたいと思う気持ちなのか。自己記憶と言うのは、実は「始まりの意識」が、自分の存在を知る為に使う戦略なのである。一旦、自己記憶が発動すると、それは「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」を通して進化を始め、三人称の自己存在、二人称の自己意志、そして一人称の自己意識へと三段階且つ三層を成して進化が進行する。進化する自己記憶と言うのは意識の進化であり、存在の進化でもある。この進化を理解する為には自己記憶の視点を取り、自分自身が自己記憶に成り切る必要がある。人間の一人称の視点を捨てて、三人称の視点から出発して、二人称の視点を通過して、一人称の視点を獲得する旅を経験する必要がある。三人称から、二人称を通って、一人称に至る視点を持つ事を「神の視点を取る」と私は呼んだのだが、この直感は正しかったと思う。宇宙が生まれて、生命が誕生し、人間が登場するビッグ・ストーリーの流れを、超越した視点から俯瞰して観察する事になるのだ。この「神の視点」を、人類の全ての構成員が獲得出来たら、宗教と科学の融合の可能性が見えてくると思う。
2024.11.21
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私が記憶に注目した最初のきっかけは、音声言語と手話の共通点を探そうとした事だった。視覚身振りチャンネルに特化すると手話になり、聴覚発声チャンネルに特化すると音声言語になるのであるが、どちらも知覚したものを、直ぐに思い出す事が出来る。知覚は、そのまま記憶であると私は考えた。視覚と聴覚の両方が記憶であるという共通点があるとして、次に私が注目したのは音声言語の記号のシニフィアンの持つ離散性であった。この離散性というのは、ミニマルペアという「聴覚記憶の操作による音素の弁別」という操作によって明らかになるのだが、これが記憶喚起に関係があると考えた。「記号の離散性」というのは、ミニマルペアという聴覚的な記憶操作に於いては、二つの音素の弁別、つまり音素同士が互いに違うという認識を可能にするが、人間の発声器官の持つ自由度は、その生理学的な構造により限られている為に、一定の数と種類の音素で構成される音韻体系という形に集約される。音声言語の音韻体系を構成する音素の種類と数が一定であると言う事と音素は時間軸に沿って一直線上に連鎖すると言う事を総合して、普通は「音素は言語の最小単位である」と言う命題が導き出されるのだが、私は、異なる音素の弁別を可能にする記号の離散性がどの様にして成立するのかの考察を始めた。そして同時に「記号の離散性」が、我々が記号を記憶の中から喚起する際に、必要なものを瞬時に検索できるインデックスの機能を果たしているのではと考え始めた。そして、言語の記号に、その機能があるのであれば、人間以外の動物の記憶喚起のメカニズムとは何かが違うはずであると思い始めた。我々は、自分の記憶を自分の意志で選択的に喚起する事が出来る。勿論、思い出せないディテールとかはあるし、試験勉強をしても忘れてしまう事も多々ある。私が考えたのは、人間というのは離散性を持つ記号によって、自分の意志で選択的に記憶を喚起する事が可能な認知主体であるという事である。となると、言語を持たない人間以外の動物の記憶喚起には、自分の意志で選択的に喚起するという事が出来ないという事になる。しかし、動物も記憶喚起を使って知能を発揮しているのは確実。自分の意志で記憶を喚起できないとすると、どのような記憶喚起メカニズムで知能を可能にしているのか。ここからは、完全に私の思考実験だけになるのだが、私が出した結論は、動物の記憶喚起は、外界の物理的な波動を知覚すると、それと相似した過去の体験の記憶が自動的に喚起されるというものであり、現在の知覚と過去の記憶を比較して「快い」と感じる行動を個体が選択するのが知能の始まりとなる。この考察を始めたのは、もう25年くらい前の事だと思うが、この頃から「記憶とは何か」という考察を始めていた。動物レベルの記憶喚起が意識的でなく無意識であるとすると、それを可能にする特殊なメカニズムが記憶にはあるという事になる。こうして私は、記憶の本質に関しての考察を始めた。
2024.11.20
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言語学者としての私が提唱する宇宙論は、西洋の「materialism(物質主義)」や「physicalism(物理主義)」とは違って、物質や物理現象を最も基礎的な「reality(現実)」であるとは考えない。この宇宙は「進化する自己記憶」という「全ての存在を支える媒体」によって構築されていると考えている。「進化する自己記憶の存在論」という視点に立つと、この宇宙のあらゆる存在は、記憶として刻まれた状態を示す。その逆の、無という状態は、記憶として刻まれない状態を示す。そして、記憶が進化の軌跡が、一方向に流れる時間になり、同時に空間を形成する事になる。「自己記憶」の進化は「混沌からの離散化」という現象を出発点としている。この場合の「混沌」というのは、記憶が生成されない状態、つまり記憶として刻まれない状態を指すのであって「無」ではない。そして、記憶が刻まれない状態では、記憶が進化して生まれる時空間も存在しない事になる。
2024.11.20
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言語学が、いつの時代も、本質に辿り着くことが出来ずに空回りしているのは、誰も言語学者の唱える理論を知らなくても、全く問題なく言語を使えるからであると私は考えている。言語学者は、自分自身が使っている言語を客観視する事ができない。だから、言語に関する考察は、常に主観的なものになってしまう。そして後は、他の人たちから、どれだけの共感を得られたかで、その言語理論の評価が下る。普通、科学をしようとすると「再現性」と言うのを求められるのだが、言語学には、そう言う事は全く要求されない。何かを証明する必要性が無いのである。こういう状態の言語学に革命をもたらしたのが、数学的な手法を導入したチョムスキーである。ただ、彼が数学的に記述しようとしたものは、純粋な言語現象ではなく、あくまでも文法であり、更には「音声言語の文法」であった。彼には、記号の特定の知覚運動チャンネルへの特化という発想は無い。「ソシュールの一般言語学講義」という本は、本人の没後に残された講義メモや学生達のノートを元に、講義に出席していなかった二人の弟子によって編纂された。その後、これが世界的に評価されて、言語学のバイブルの様に扱われているのだが、私は彼の思想は完全に誤解されて伝わったと考えている。その代表的な例が「記号の恣意性」である。これは、記号のシニフィアンが音声言語の音素に対応すると前提した事によって発生した誤解である。「ソシュールの一般言語学講義」の中には「記号のラディカル(根本的)な恣意性」という用語のあるのだが、こちらの方は、ほぼ完全に無視されている。
2024.11.20
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のもと物理愛:【エントロピー】時間の矢は人間がつくり出している!?この動画を視聴していたら、どうやらエントロピーというのは、自己記憶の進化メカニズムである「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」の前半の「離散分裂」の過程と関わりがある可能性が見えて来た。ここで言う自己記憶の進化の原動力となっているのは、混沌である「全/一」が、「自分自身の存在を知りたい/確認したいと望む意識」である。これは、我々人間の持っている「主観的な意識」とは程遠いものであるが、我々の自己意識は、この「始まりの意識」の進化の延長線上にある。始まりの意識が自分自身の存在を知る為に発動したメカニズムが「自己記憶」。この場合の記憶と言うのは生命の持つ認識システムの工程である「認知主体による記憶の生成、保存、喚起」を指すのではなく、記憶自体が自己を複製する事で仮想的に対峙出来る主体を作り出し、自己の存在を知る事になる。「始まりの意識」の段階では、仮想的に対峙できる主体を創り出すと言ったが、これは厳密には正しくはなかったので訂正する。相手の存在を認めて対峙するのではなく、何の抵抗も出来ずに接触する相手の存在の影響を被ってしまうのである。それでも「自己存在」を知ったり確認したりは出来る。私は、この「自己存在を確立する自己記憶の発動」が、エントロピーという熱力学の第二法則と関連しているかも知れないと考えている。これは別の言い方をすると、他者の存在で自分の存在を知る事は出来るが、他者の存在を認めて対峙するまでには至っていない「三人称の意識」である。エントロピーという現象は、観察されたデータを元に確認されたものであるが、この段階では、自己記憶の発動のメカニズムである「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」の前半部分だけであり、後半部分の「(再)融合更新」という「重力の発動」に関しては実質的に無視されているようである。ここまで書いてきて、今迄、エントロピーを自分で棚上げにしていた理由がはっきりした気がする。エントロピーは、一つの大きなミッシングピースだったのだと思う。ただ、これが正しいかどうかは、勿論、まだ分からない。でも、全てが上手くかみ合っている様にも見える。最後に一言。YouTubeチャンネル「のもと物理愛」さんの動画のタイトル「時間の矢は人間が作り出している」は、真実である。人間は、一人称の自己記憶によって自らの記憶を離散化し、自分が知覚した対象を時系列に沿って配列させることが出来る。これが「時間の矢の正体」である。
2024.11.19
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私が、ソシュールの記号学から導いたアプローチは、二つの対象があったら、何が共通で何が相違しているのかを見極める事である。これで、それらが「仲間」であるかどうかが決まる。面白いのは、電子に関してである。全ての電子が単一の電子だとすると、無数に思える電子は、仲間ではなくなる。しかし、共通の単一電子で出来ている個々の原子は、電子という共通部分を持ちながら、物理化学的な時空間上に展開する原子という其々の違いで区別されることになる仲間になると言えるだろう。「ソシュールの一般言語学講義」では、これは「差異」或いは「価値」と呼ばれている。
2024.11.19
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少し前から気になっていたエントロピーを、真面目に考察しなくてはならなくなった。と言うのも、時間の経過が自己記憶の進化であるとすれば、エントロピーとの関係を説明しなくてはならないからである。ただ、今、そう思っただけで、何処から手をつけていいかわからない。でも、賽は投げられた。エントロピーに関する動画を見始めたのだが、先ずエントロピーは「熱力学の第二法則」であると言う事。エネルギーをどう説明するかと関係がある。そして、エントロピー増大に逆行するのが「重力」であると言う事は、私の「進化する自己記憶の存在論」と矛盾しない。方向性が見えて来た。言語学者が、どうやってエントロピーの考察をするのかだが、基本は、ソシュールの記号学の新解釈である。これを更に発展させたものとして、三段階、且つ三層を成す自己記憶の進化と言う枠組みがあり、私は、この二つの構図にどう当てはまるのかを考察していく事になる。言語学者の宇宙論である。今、閃いたのだが、記号学をベースにした宇宙論では単位を定義するのではなく入れ子構造によって成立する差異によって成立する関係性を定義する事になる。だから、数学を使う必要性が無い。数学が苦手な私には最適なアプローチであるが、考察には辛い部分もある。閃きが来る迄、待つしかない。殆ど全てが閃きによって導かれるので、理論がどの方向に進むのか自覚出来ないと言うのもある。只、正しいと思った事を曲げてはいけない。例えば、手話と音声言語が両方とも人間の正規の言語であるのなら、これらの二つのタイプの言語派同じメカニズムを共有している筈であると言うのは譲れない。手話と音声言語は、人間の言語としては「同じ仲間」であり、全く同じ記号を共有していると私は考えている。これらの二つのタイプの言語の唯一の違いは、この記号の特化する知覚運動チャンネルにあり、視覚身振りチャンネルの場合は、手話になり、聴覚発声チャンネルの場合は、音声言語になる。私が、ソシュールの記号学から導いたアプローチは、二つの対象があったら、何が共通で何が相違しているのかを見極める事である。これで、それらが「仲間」であるかどうかが決まる。面白いのは、電子に関してである。全ての電子が一つの電子だとすると、無数に思える電子は仲間ではなくなる。
2024.11.19
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私が実現しようとしているのは、言語学的なアプローチによる宇宙論である。ただ、それは私の独自な考えではなく、ソシュールの記号学が全ての出発点になっている。ソシュールの「言語には差異しか無い」という命題を証明しようとした事が、私の科学全般に適用可能なアプローチとなった。言語学者が構想する宇宙論というのは、私以外には誰も考えていないと思う。しかし、宇宙の三つの謎のの一つが「人類の誕生」であり、人間と他の生物との境界線を決めるのが「分節された言語」である事は広く認められている。だから、この三つの謎が、連鎖していると考えれば、言語が宇宙論に関わってくる事は、それ程驚くべき事ではない。現在、言語に関して大きく誤解されている事があるとすれば、生命の誕生と同時に発生した認知システムによる知能が、より高度の発展すれば、自然発生的な創発によって言語が生まれる訳ではないという事である。言語を操る人間が生まれる事は、宇宙の誕生の際に既にプロブラムされていたのである。現在、西洋科学は、ようやく意識の問題を研究テーマにすえるに至ったが、これにには量子力学で提起された観察者問題が、大いに貢献していると思う。意識と言うと「自分を自分と認識する主観的な視点」が話題に上がるが、これを可能にしているのが正しく言語であると言う発想は科学者達には無い。ところが、意識の主観を語る時には、何故か、文法用語の一つである「一人称」という表現が多用される。面白いのは、客観的な視点として「三人称」が出てくる事もあるのだが、三つの人称の内のもう一つである「二人称」には、お呼びがかからない事である。これに関する考察をしてみたいと思う。先ず私は、この宇宙の存在の根底にあるものは物質ではないと考えている。では、何か? それは記憶であり、より具体的に言うと「進化する自己記憶」である。物質と言うのは、自己記憶の進化によって構築される「離散的な時空間」である「物理化学的な時空間」上で進化を続ける自己記憶である。
2024.11.19
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西洋には「聖杯伝説」と言うものがあり、科学の分野でも、自分達が探している価値のあるものの例えとして使われる事があるのだが、私が言語の記号の研究で導き出したものは、彼らが考える「聖杯」とは全く違うものである可能性がある。私の視点は、自分でも「かなり特性」だと思う。私は、最初から、何かを具体的に探そうとした訳ではない。ただ、ソシュールの「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題の証明をしようとしただけである。宇宙や意識について、特に興味があった訳ではないのだが、いつの間にか、そこまで考察が発展していったのである。西洋には科学認識論と言うのがあるのだが、言語のメカニズムを解明する事が、この学問に貢献すると言う発想に乏しい様である。100年前のソシュールの記号学の登場は、一筋の光明であったが、その光は瞬く間に掻き消されてしまった。私は、その光を再び灯し、世界を照らそうとしているのである。
2024.11.19
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André Duqum:Top Physicist: “Science & Spirituality Merge in this New Theory of Consciousness” | Federico FagginFederico Faggin 氏のインタビュー動画。彼は、自身のスピリチュアル体験によって宇宙の摂理を知ったのであるが、彼の説明が、どうしてもこじつけにしか見えないのは残念である。その原因は、彼が言語のメカニズムを理解していないからと私は考えている。これは、Faggin 氏の批判と言う訳ではなく、彼は真実を知っているのに、それを表現する方法を知らないのが残念だと言う事である。この動画にも、言語に関係する事が多々出てくるのだが、言語には直接触れる事がない。言語と言う道具の真の性能を知らないで使っているのは残念だと言う事である。しかし、これはFaggin 氏に限った事ではない。いろんな人達が、自分なりの宇宙論を唱えているが、それを記述するために不可欠な言語の真の使い方を知らないし、知ろうとさえしていない。取り扱い説明書を読まずに機械を使っている様なものである。しかし、言語は取り敢えず使えるので、誰も問題にしない。言語の真のメカニズムを知る為の最初のステップは、我々は言語を、無意識/意識的な記憶操作によって使っていると言う事を知る事である。そして次に、言語活動を司る真の主体は「進化する自己記憶」であると認識する事。我々、人間は、自己記憶の進化を推進させる為に生まれた存在なのである。言語の真の性能を知ると言う事は、先ず、主体とは何かを知ることに繋がる。そこから派生して、存在とは何かと言う問いに至る。ここで、全てを説明する事は出来ないが、言語の真の性能を知ることは、科学を実践する上で、言語と言う「思考の為の道具」の性能をアップグレードさせる事になる。そして、その結果、次の新しいパラダイムシフトに繋がると私は考えている。
2024.11.19
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私の考える宇宙論は、言語の誕生が出発点になっているのだが、物理学者を中心とした学者達の考える宇宙論には言語の誕生が含まれていない。宗教家やスピリチュアル系の人達の考える宇宙論も同様である。ソシュールが今、生きていたら、どう思うのだろう。私は彼は言語の本質を知っていたと思う。ソシュールが言語の本質を知っていたと私が思う理由は「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題を残しているから。これを突き詰めると、「記号とは二層を成して重なる其々独立した価値体系(シニフィアン/シニフィエ)の特定の座標同士が一致する所に成立する」と解釈する事ができる。また同時に「記号の恣意性」に関しては、「ソシュールの一般言語学講義」の第四章「言語的な価値記号」に載っている「記号のラデイカル(根本的)な恣意性」で置き換える事ができる。これは、其々独立した二つの価値体系の特定の座標同士の関係は、根本的に恣意的であると言う解釈に基づいている。「記号の恣意性」の従来の一般的な解釈には、記号のシニフィアンとシニフィエが、二層の価値体系を形成すると言う発想がない事と、シニフィアンを「音素と言う言語の最小単位」で構成されていると前提した事により、記号のこれらの二つの側面には「動機付けが無い」と言う解釈がなされてしまった。この為、記号の恣意性に変わる概念として私が提唱するのが「記号の離散性」である。これは、記号を単独で捉え、その属性を記述すると言うものでなく、記号同士の相互の関係性を表す概念で、全ての記号の自己同一性が、シニフィアンとシニフィエ同士の差異によってのみ成立している事が根本にある。記号のシニフィアンは視覚身振りチャンネルに特化すると、視野内の頭を上にして正面を立っている手話話者の身体全体、聴覚発声チャンネルに特化すると、音声が基本的な媒体となるが、知覚的な記憶は連続的である為、これらを記号と言う依代を使って離散化し、共有可能な価値体系にする必要がある。手話のシニフィアンは、人類に共通している各部位に分節された身体が基本となり、これを視覚及び触覚を通して知覚する事で、空間的には既に離散化されている。後は、視野の中を一方方向に連続的に流れるシーケンスを「始めと終わりを同時に区切る」事で離散化し、手話サインを確立する事である。手話のシニフィアンの利点は、表現したい事象の概念を身体の動きを使って真似る事で、話し相手に全く同じではなくても似た概念を伝える事が出来れば、手話サインとしての機能は果たす事である。その後、同じ形と動作の手話サインが頻繁に使われるようになれば、共同体の標準手話サインに昇格する。これに対して、音声言語のシニフィアンは、音声の持つ響きや強弱のバリエーションはあっても、連続的に一方方向に録音テープの様に展開し、表現可能なものと言えば、動物の鳴き声や特徴的な物音くらいであり、手話の様に、形や動きを真似て、それに対応する概念を連想させることが非常に難しい。
2024.11.18
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André Duqum:Exploring The Self-Simulation Hypothesis & Nature Of Reality | Klee Irwin最近、ネットで知った宇宙論に「Self-simulation hypothesis(自己シミュレーション仮説)」と言うのがある。私のが「Ontology through evolutionary self-memory(進化する自己記憶による存在論)」であるので、「self(自己)」と言う共通点はあるが、発想は完全に違う。自己シミュレーション仮説は量子力学をベースにしていて、遺伝子による生命の誕生までは扱うが、その後、どうやって言語を操る人間が生まれるのかに関しては全く不問で、いきなり「Consciousness(意識)」が登場する。三人称から、二人称を、ほぼすっ飛ばして、一人称に辿り着く論理展開である。西洋人は、物理化学的な現実が、我々の宇宙の根底にあると言う大前提を持っている。最近になって、そこに「Consciousness(意識)」と言う現象を、どう組み込むのかと言う課題に直面しているのだが、宇宙の進化の綿々たる歴史を考慮していない為、重要な工程を省いて、宇宙論を展開してしまう。私の宇宙論の出発点は、ソシュールの「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題。つまり、言語の記号の研究が高じて「進化する自己記憶の存在論」に辿り着いたのである。まず間違いなく物理学者の誰も、言語と宇宙の関連に関して考察した事はないと思うし、言語学者も同様であろう。この動画を、半分くらいまで、寝転んで聞いているのだが、Klee Irwin 氏の考える「consciousness」と言うのは、やはり「一人称の主観的な自己意識」であって、それが既に存在する事が大前提になっている。今、最後まで、聞くかどうか、迷っている。多分、彼と私には、接点が無いと思うから。少なくとも、今の段階では。
2024.11.18
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私が「記憶」という概念に注目したのは、もう、四半世紀前の話なのだが、それから進化して、今は「自己記憶」となっている。最初は「記憶が、独立した主体である」という自分でも突拍子無いと思う考えから始まった。「人間の視点を捨てて、記憶の視点を取る」と大真面目で論じていたのを思い出す。その後、西洋哲学の主観問題、西洋科学の観察者問題と、主体とは何かという問題に直面している事を知るが、最初は、記憶や自己記憶が関係するとは考えなかった。今、この主体問題、視点問題が、「進化する自己記憶の存在論」で解決可能であるという確信が固まりつつある。
2024.11.18
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意識の問題を扱うのに、西洋哲学では一般的に「肉体と精神」に代表される二元論が基本である。哲学者デイヴィッド・チャーマーズ氏の「意識のハードプロブレム」も、脳と意識という二者の関係という視点で問題設定がなされている。これに対して、私は「進化する自己記憶の存在論」に根差した三元論を提唱する。Closer To Truth:Alex Rosenberg - Biology and Philosophy of Mindこの動画で私が面白いと思うのは、意識の問題を扱うのに、一人称の主観的な視点と、三人称の客観的な視点が出てくるのに、二つの中間に位置する二人称の視点が出てこない事である。この動画の最後で、インタビュアーの Robert Kuhn 氏が「アイデンティティー(自己同一性)の理論」について言及しているのだが、私が提唱する「進化する自己記憶の存在論」というのは、正に、自己記憶というメカニズムが自己同一性を確立し、それが意識という形で進化していく過程を扱っている。私の「進化する自己記憶の存在論」というのは、元々「ソシュールの一般言語学講義」という本の記号学から発想を得ているので、全て私のオリジナルという訳ではない。残念な事に、ソシュールが一般言語学を完成させることなく他界してしまったので、私は、それを最後までやり遂げようと思っている。
2024.11.14
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AI(人工知能)は人間の思考に絶対に辿り着けない。それは、その名称からして明白である。何故なら、人間の思考は知能の高度化によって実現されたのではなく、知能という認知システムをベースにして、新しい次元/離散的な時空間である言語意味的な時空間が構築された事によって可能になったから。ただ、AI(人工知能)は、問題解決の速度と精度を、今後、数年で大幅に向上させることは安易に予想が可能である。それは、人間の既知の思考プロセスをパターン化して、それの効率を上げるという点に於いては非常に強力であり、一般の人間は、そのパフォーマンスに圧倒されてしまうだろうと思う。AI(人工知能)の最大の問題点は、「問題を解決する事」が、その存在理由である事である。おのの ついにフォロワー80人! 実写あります@TYWPvCszxA23228人の思考は他の人からの刺激もありますから、無理でしょうねAIには、数値化できるものの計算や整理が得意だから、また違いますよね人の思考は数値化できないですから!人間の思考は個人的なものですが、個人的な思考は、集団的な記憶を形成します。だから、他人の思考とのシンクロが可能です。逆に言うと、我々は主に言語を使って、他人の記憶に影響を与える事で生きているともいえます。これは、一般的に言うと「コミュニケーション」ですが。人間の思考には、離散化というメカニズムが働いています。これは、数値化とは少々ニュアンスが違います。離散化されるから、数値化も可能になりますが、人間の認知システムには数値化できない「動物的かつ連続的な記憶」が大きな位置を占めています。ここら辺の区別が難しいですね。人工知能は、自分で「解決すべき問題」を設定する事が出来ないので、プログラマーや、人工知能を使う人間が設定する必要がある。例えば「チャット」を始めるのは、常に人間側である。今後、人工知能のプログラマーは、多分、人工知能にどうやったら「動機」を与えることが出来るのかと考えるのだろう。でも、価値観を持たない人工知能に、どうやって何かをする動機を与えようとするのだろうか。また、ここで、人工知能を使う人間の価値観が介入するのだろうか。「人間は知能が高いから言語を使える」という暗黙の了解が、現在、一般的であるが、私はこれこそが、人工知能の開発に於いてのボトルネックになっていると考えている。その理由だが、この前提があるお陰で、言語の本当のメカニズムを解明しようとする方向性が生まれてこないという事である。
2024.11.13
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宇宙や意識を理解する為の全ての鍵は「進化する自己記憶」。記憶というのは、一般的には「認知システムの一部」という認識がなされているが、私は「あらゆる存在を支える媒体としての記憶」という概念を導入する。記憶が存在する為には、時間と空間の存在が前提となるが、私は逆を考える。つまり、進化する自己記憶が刻む軌跡が、時間軸と空間軸を生み出しているという発想である。記憶というのは、時間的な差を超えて、同じ形を再現する動的な価値体系であるというのが、私の考える記憶の基本的な概念であり、記憶の誕生の出発点を自己記憶の確立とする事で、記憶の進化を説明できる。自己記憶の進化は、三段階に三層を成して離散的な時空間を構築しながら進み、言語は、三番目の言語意味的な時空間を構築する事になる。ここで重要な事は、我々は言語を、人間特有の記憶喚起メカニズムを基に自らの記憶を操作しながら使っているという事実で、これが理解できていないと始まらない。私が提唱する「進化する自己記憶による存在論」というのは、科学と意識の問題を同時に解決できる可能性を持っている。また、科学と宗教、或いはスピリチュアルなテーマも同時にカバーできると考えている。
2024.11.12
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現在、AI(人工知能)の話題でネットでも持ちきりだが、過去に何度か「AIブーム」が起きて、沈静化した歴史がある。只、今回に関しては、近い将来、「シンギュラリティー」が到来し、AGI(汎用人工知能)が誕生するだろうと言う期待が高い。私も、AIの技術的な進歩は、今後も益々、続くとは思う。AIは、人工的に知能を発揮する様にコンピュータ上でプログラムし、生命の持つ知能のシミュレーションをしているのであるが、動物の知能をベースにして言語によって構築される人間の知能と、言語を介さない動物の知能との境界線が何処にあるのかを理解せずに、研究だけが独り歩きしているのが現状。動物の認知的な時空間と、認知的な時空間をベースにして言語という離散的な時空間によって構築された我々の思考空間である自己意識の間には、宇宙物理学でいう所の、無と存在の間の違いと同等の違いがある。我々は言語を発明/習得する事によって、我々の内部に宇宙を誕生させたのである。ここでいう宇宙とは、自己記憶の進化という形をとって進化する意識を指す。意識には三つの段階があるのだが、これは文法カテゴリーの三つの人称に対応する。最初は、三人称の意識で、自分自身で完結している。次に、二人称の意識で、相手を認識し始める。最後に、一人称の自己意識となる。
2024.11.12
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物理法則が一定で厳密なのは、物質が「自己存在」の確立によってう生まれる「三人称の現実」を持っているから。そこには、未だ「自己意志」の発動による多様性を生む原因となるパラメータが介入して来ない。この時点での、物質の意識が「三人称」であるとすると、自己記憶の進化による意識の進化を、三人称>二人称>一人称と三段階に扱う事ができる。意識の進化を反映する汎心論であると言える。この汎心論は、実は同時に汎神論でもある。日本の神道は、元々「汎神論」であるし、日本人の普通の宗教感覚なら「汎仏論」でも良いかも知れない。この「汎心論」は、日本人の感覚の「心」である。これと、西洋人の考え理る「汎心論」は、どうシンクロするのか、しないのか考えてしまう。西洋人の考える「心」は、「consciousness」である。西洋人の「consciousness」は、一人称だが、日本人の「心」は、三つの人称の、どれにでもなれる。これを、どう説明したらいいか分からないが、これが真実だと思う。
2024.11.12
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Carlos Farias:On Memory as a Self-Adapting Agent(We discuss Michael Levin's paper "Self-Improvising Memory"...)「自己適用する主体としての記憶」というタイトルのMichael Levinのインタビュー動画。生物学者が、どのように記憶を主体として見るのか興味が湧く。動画を半分くらい迄、視聴したのだが、やはり、しっくり来ない。記憶を認知システムの一部、つまり認知主体として見ている様である。ただ、情報量が多いのと1時間と長い動画なので、また、後から考察してみようと思う。Michael Levin 氏が「記憶が主体である」という発想を得た切っ掛けをもっと知りたいと思う。まだ、全く分からないが、それが「認知の起源」の解明に繋がるかもしれない。
2024.11.09
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AI ブームが、現在進行形であると言う事実は、私の提唱する言語理論が、世の中に浸透する可能性が非常に低い事を暗に物語っている。いつか「汎用人工知能(AGI)」が生まれるだろうと期待する人達は、人間の言語のメカニズムを知らないのに、どうして、そう思えるのだろうか。私は、理解に苦しむ。人間の言語の真のメカニズムを理解した上で、それを、例えば、コンピュータ上のプログラムでシミュレーションするのだったら、まだ話がわかるのだが、脳細胞をモデル化したニューラルネットワークと言う機械学習と計算速度の向上によって言語が誕生すると思うのは、短絡的過ぎると言わざるを得ない。多分、これは「Emergence(創発)」という現象が起きて、人工知能が、ある日突然、汎用人工知能になる事を当てにしているのだと思う。言語のシミュレーションとしての精度は上がっても、意識を持つ人工知能は生まれないと私は思う。その理由は、意識の生まれる全課程を通過していないからである。
2024.11.09
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私の提唱する「進化する自己記憶の存在論」によると、「現実」というのは、三段階に進化し、三つの層に分離できる。先ずは、物質レベルの「三人称の現実」であり、接触する相手と物理化学的に反応するはするが、あくまでも自分自身の存在しか認識できないという「自己存在」のレベルである。次に「三人称の現実」が進化して、生命認知レベルの「二人称の現実」が確立される。この現実は、二層を成している。ベースになるのが、生物的な自己存在であり、これが、その上に、認知的な「自己意志」を発動させる。これにより、接触する相手を識別する為の選択肢と決定権が与えられる。そして、最終的に「自己意志」が進化して「自己意識」が生まれ、「一人称の現実」が確立される。西洋言語の文法区分である三つの人称というのが、記号の離散性を反映しているというのは理解していたが、まさか「進化する自己記憶の存在論」と完全にシンクロするとは思わなかった。これは結構、凄いと思う。
2024.11.08
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数日前に確信したのだが、現在の AI ブームが終わらない限り、人間の言語のメカニズムを解明しようという機運は生まれないだろうという事。人工知能の研究に一早く着手したミンスキー博士は、意味の問題を解決しない限り、人工知能は進歩しないと考えていたが、今、正に、意味なしで開発が進んでいる。これは、言語というのは文法規則であるという定義が広く受け入れられているからである。だから、人工知能に文法的に正しい文を生成させる事が出来れば、人工知能が人間の言語を操る事になるという思い込みが生まれる。言語学を文法学にする事で問題ないと主張したのは、生成文法やシンタックス理論を提唱したチョムスキーであるのだが、自身が言語の意味の問題を棚上げにしたことは問題にせずに、人工知能は言語を再現できないと批判をするのは、見ていて溜息が出る。今の AI ブームは、いわゆる「シンギュラリティ」は来ずに、終わるだろう。しかし、その時、AI は、我々の社会に広く浸透している筈で、それを人間と同等と見做す人間も出てくると思う。今でも、チンパンジーを人間として扱おうとする人たちがいるから、それ自体は不思議な事ではない。数年前の話だが、宮崎駿監督がスタジオジブリで、AI によって生成された地面を這って移動する人型の映像のプレゼンを見せられて憤慨し、生命に対する侮辱を感じるとまで言っていたのを思い出す。何かを単純に創造しようとしても、機械学習をエンジンにしている「心の無い AI」には無理なのだ。人間は「価値」を生み出すことが出来るが、機械学習の AI には不可能である。しかし、人間が価値を生み出す過程を、AI にシミュレーションさせることは十分可能である。これが、人間と AI の境界線を曖昧にしているのだと思う。
2024.11.07
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「現実(reality)」と言うのは、人間の五感によって、プラスかマイナスかによって成立する世界。それは、つまり、差異によって、成立する世界。それを「感じる」と思わせるのは、記号である。現実が、三人称から始まって、二人称になり、最後に、一人称になると言うのは、本当に理にかなっている。これが、自己記憶の進化の過程である。言い換えると、自己同一性の進化であり、三人称の自己存在が出発点になり、次に、二人称の自己意志が生まれ、最後に、一人称の自己意識が確立される。
2024.11.05
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最近、人工知能に対して大きな期待がかかっている。「AI がもっと進歩すれば、人間と同じ様に言語を使えるようになるかもしれない」という期待であるが、この為に、言語の背後になるメカニズム自体への関心が完全に削がれてしまっている印象がある。これは、AI ブームが終わる迄、続くのだろうか。言語学は、ソシュールが一般言語学を完成する事なく他界してしまった事で、彼が提唱した記号学も後発の言語学者達にこぞって誤解され更に曲解されて拡散されてしまった。その後、言語学は文法学にすり替わってしまい暗黒時代に突入する事になる。現在のAIブームは、この暗黒時代を延長に貢献している。言語学を暗黒時代に誘う先導をしたのは、現在、世界中で、偉大な言語学者とされているチョムスキーであると私は考えている。でも彼は、始めから「生成文法」を掲げて、言語学ではなく文法学をすると宣言していたのである。何故、世界中の大学の言語学部が、彼の学派になってしまったのだろうか。私は、チョムスキーが数学的な手法を導入した事が、世界中の言語学者を「生成文法」に改宗させるキッカケになったと思っている。これは、コンピュータ用に人間がプログラムする人工知能が、近い将来、人間の言語を操る事の出来る「汎用人工知能」のレベルに達するだろうと言う「AI信仰」に繋がる。興味深いのは、チョムスキー自身が「人工知能は言語をマスターする事は出来ない」と断言している事。チョムスキーは、言語の意味の定義を後回しにする事で、言語学を文法学に変換する事に成功したのだが、今、正に彼自身が、自分で導入した矛盾に直面すると言う状況に陥っているのである。人工知能(AI)は、我々人間が構築する「言語意味的な時空間」と言う、自己記憶の進化が構築する三段階目の離散的な時空間を構築する事が出来ない。何故なら、言語意味的な時空間は、物理化学的な時空間と生物認知的な時空間の上に構築されるからである。
2024.11.05
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我々が言語を使える事は、宇宙が生まれたのと同じくらいの重要性を持っている。量子力学では、量子は「離散的な塊」と定義されるが、記号学では、記号には「離散性がある」と定義できる。この「離散的な性質」というのが、物質的な宇宙と我々の思考と人格を支えている基本的な特性なのである。離散的な性質によって作られている世界は、これら二つだけではない。認知主体としての生命も同様に、この特質によって支えられ、進化を続ける。我々の知っている世界、われわれが知覚している現実は、三層の離散的な時空間で構成されているというのが私の結論である。「我々は、自分の中に小宇宙を持っている」という表現は、色んな所で聞かれるが、これは真実である。そして、言語の創り出す宇宙というのは、科学する事が可能である。何が、離散性を持った記号を生み出しているのかを、今こそ研究する必要がある。文法学としての言語学は、止めにしよう。
2024.11.04
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私が言語学をやろうと思った直接的、間接的な動機は、「人間とは何かを知りたい」という疑問だったが、この世の中に、そう思っている人は存在しないと最近知った。だが、言語に興味を持っている人は多い。でも、そういう人たちは、多分「道具としての言語」という見方をしているのだと思う。私も初めから、物質世界の起源に迫ろうとする量子力学とソシュールの記号学がシンクロすると思っていた訳ではなかった。「言語には、正の項が無く、差異しか無い」というソシュールの命題が正しいと信じて、それが本当に意味する事をずっと探究してきたのだが、それが思いがけない結果を生んだ。チンパンジーやボノボと言う現存している霊長類の行動の観察を通した研究では、人間と高等なサルとの違いは「分節された文法を持つ言語」であると言うコンセンサスが出来ていると思っていたが、これを、実際に、具体的な手法を使って証明しようとしている学者はいるのだろうか。ここ数年、人工知能は、計算速度の大幅な向上により、目覚ましい進歩を遂げた様に見えるが、これは機械学習のスピードと効率が上がった事で、人工知能が、あたか言語を操っている様な印象を与えるが、本来の言語のメカニズムは、LLMにはプログラムされていない。
2024.11.04
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言語の定義として頻繁に出て来る「言語はコミュニケーションの道具である」と言う命題は、確かに正しいが、正しくない、コミュニケーションが成立する為には、互いに同じ「言語の形と意味」を構築出来る共通のメカニズムが必要である」と考えた。これが私の、認識論や観察者問題への入り口になった。そこで私が考えたのは、昔、化学で習った「親和性」だった。コミュニケーションが成立する為には、互いに親和性がある必要がある。人間同士のコミュニケーションでも、共通の言語の形と言語の意味を構築出来る仕組みが必要であると言う事であると考えたそこで私が考えたのは、昔、化学で習った「親和性」だった。親和性と言うのは、互いに「同じだけど違う/違うけど同じ」と言う関係性を持った相似体同士の間で発動する。もう一つ、スケールの問題がある。コロナウイルスは、小さすぎて我々は直接見る事が出来ないが、ウィルス側は、我々が欲する欲しないにかかわらず、我々の細胞レベルで「コミュニケーション」してくる。そういう意味で、ウィルスは我々を認識している。
2024.11.04
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ソシュールの記号は、言語意味的な時空間で、シニフィアン(signifiant )とシニフィエ(signifié)と言う「二層を成す独立した価値体系」によって構成されており、そこで「意味(signification)」が進化するのだとすると、これと同じ構図が、先に成立した二つの離散的な時空間にも適用できるはず。量子力学の量子は、物理化学的な時空間で、「過程/プロセス」を進化させるとすると、これは、決定論に出て来る時間の流れになる。それは「地球の時間」なのかもしれない。遺伝子が地球の「時間/鼓動」を記録したものだとしたら、どうだろう。生命は、地球の「分身/片割れ」なのである。すると、遺伝子は、量子の「過程」と言う時間を使って、生物認知的な時空間で「認知/知能」を進化させると言う事になる。それは「生命の時間」になるのか?これが、更に進化して「人間の時間」つまり「意味」になるのか?量子が成立する事で最初に確立したのは「接触」いや「親和性」?これが、自己記憶の進化の循環サイクルによって、進化の軌跡が刻まれる。これが物理的な時間になる。「接触」の段階では、これはまだ「三人称の意識」である。でも、物理化学的な時空間では、太陽系が生まれ、地球が生まれた。これは、離散分裂(再)融合更新循環サイクルの後半部分の「(再)融合更新力」である「重力」である。これが進化して「過程」になると「二人称の意識」に昇格する。「過程」か「認知」か?では「知能」と言うピースは、何処にはまるのだろうか?ソシュールの記号の構造は、単純化されているのか?疑問は尽きない。それとも、まだ、必要なピースが欠けているだけなのか。
2024.11.04
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今、生命と認知(知能)の起源に関する考察しているのだが、この動画を見て「認知的な記憶」に考えを馳せた。認知と言うのは物体が主体となって相手を認識し、それに対する選択肢に従った行動を起こす事が基本であるが、その行動の帰結である結果が「快く」ある必要がある。認知的な記憶と言うのは、生物的な記憶と同じ価値体系であり、自己記憶の進化の第一段階で確立された「自己存在」が進化して、他者の存在を気にかけたいと欲する「自己意志」が発動した事で誕生した。生物認知的な時空間で進化するのは、物理化学的な時空間で生まれる「過程/プロセス」である。自己記憶の進化によって展開する三層の「離散的な時空(間)」と言う場合、単純に考えて三種類の時空(間)が存在する事になる。ある離散的な時空間で何が進化するかを決めるのは、その前の離散的な時空間で構成される記憶である。自己記憶の進化は、自己存在、自己意志、自己意識へと進化する。誰か、これを理解できる人がいたら会ってみたい。そして、一緒に考察の道を歩んで行けたらと思う。物理化学的な時空間の中で確立された相似体同士で働く「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」により、物理的な時間がベースになって「過程/プロセス」と言う概念が生まれる。誰か、こう言う現象に関心がある人はいませんか。今なら、第一人者になれますよ
2024.11.04
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Closer To Truth:Deepak Chopra - Is Life After Death Possible?ネットで「Consciousness(意識)」や「Reality(現実)」を科学しようとする動きに、インド出身の人達が多く関わっているのを目にするし、しばしば、彼らが「東洋哲学」を代表している場面が多い。Deepak Chopra 氏の動画は他にも幾つか視聴した事があるが、この動画で初めて「記憶」について語っているのを聞いた気がする。只、彼にはインドの宗教思想や哲学が背景にあって、それが正しいと言うと大前提で話が進んでおり、私は苦手である。同じ事をFederico Faggin 氏の動画でも感じた。この動画で扱っている「記憶」に関しても、「そう言うものだ」と言う説明だけで、具体的な記憶の動的なメカニズムが見えて来ない。それに、多分「言語」との関係性に関して、彼はノータッチであると思う。今後、彼の他の動画も探して視聴してみようかと思うが、あまり期待はしていない。只、私は、Deepak Chopra 氏もFederico Faggin 氏も、この宇宙の真実に非常に近い所にいるとは思っている。しかし、私とはアプローチの方法が全く違う為に、多分、議論にはならないだろう。私しか知らない事を、彼らが自分の真実に組み込む事が出来るかにかかっているが、あまり期待していない。やはり、パラダイム・シフトを起こした方が手っ取り早いが、こっちの方が、逆に難しいだろう。私の研究は、誰かと議論して言い負かすのが目的ではないので、とにかく、自分だけの考察を積み上げて、自分の理論を構築して行くして方法がないと思う。今は、独りよがりで十分である。Deepak Chopra 氏も Federico Faggin 氏も、言語のメカニズムを解明する事が、宇宙や意識の謎を解明する事に繋がると考えてはいないだろう。この点において、共感を得られない限り、彼らとは、まともな議論にはならないと思う。これは、今までの経験で確証を得ているので、結構、自信がある。
2024.11.04
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西洋の哲学と科学の伝統である還元主義と私がソシュールの「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題からインスピレーションを受けて考案した離散主義の事を考える時、パリのEHESS(社会科学高等)のTamba先生が、セミナーの中で西洋と日本の認識の違いを説明してくれたのを思い出す。その時、先生が説明に使った黒板の画像は視覚的に覚えているのだが、説明の仕方の記憶は、かなり曖昧である。西洋の場合、物事を理解しようとする場合、分割するが、日本の場合は、分割ではなく、分節すると言う事だったと思う。先生のセミナーは、私にとってインスピレーションの宝庫だった。還元主義では、物事を分割したら小さくなった単位の属性を定義する。離散主義の場合、物事は、互いの差異で成立している無数の相似体で構成されていると考え、背後にある離散的な入れ子構造が、どの様にして成立するのかを考える。ここには物理的な実体はなく、価値体系の無数の座標だけがある。還元主義は、そのまま、物理主義(physicalisme)になり、それを超越する哲学的なアプローチである形而上学は、「物理主義を超越する」と言う意味を込めて「metaphysics」となる。これでは、いつまで経っても、その先に到達出来ない。永遠に「Closer to Truth」が持続される事になる。還元主義の最大の問題は、観察する主体が存在する事を大前提としている点である。だから、量子力学で「観察者問題」が出て来ると、もう何も出来なくなる。これが理解出来たので、最近は、これに関するYouTube動画を本当に見なくなった。言語学の動画は、かなり前から、ほぼ全滅である。西洋哲学の伝統は、ギリシャ時代に迄、遡る。今迄、様々な変遷を遂げて今に至るのだが、21世紀に入って、西洋哲学は、西洋科学をサポートする枠組みを提供するという役目において、本当に限界に来ていると私は思う。これを解決できるのは、東洋哲学ではない、日本哲学だと私は考えている。
2024.11.04
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決定論と言うのは、何かが起きるのは、その前の状態によって既に決まっているとする哲学的な見方であり、これは二人称の意識から来る発想であるが、個々の意識が三人称の状態の物理化学的な時空(間)では基本的に成立しない事になる。でも、物理法則で次に起きる事は予測可能である。この意味は?決定論は、自己記憶の進化に於ける意識の進化の流れと合致していないと言える。二人称の意識が発動して、過程の進化が始まるのだが、三人称の意識の宇宙の物理法則では、過程の推移は予測出来ない事になる。物理化学的の時空(間)で「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」の連鎖で自己記憶が進化する軌跡が時間の流れになるのだが、これが、まるで必然的な過程を創造している様に見える。それで、物理学者達は、自分たちが未来を予測していると錯覚してしまうのである。
2024.11.04
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言語学者を自称する人達と言語学者を目指す人達に言いたいのは、言語とは何かを定義しようとするのではなく、人間とは何かを知りたいと思って欲しいと言う事。このギアチェンジを実践する事で、世界が変わって見える様になる筈である。そうすれば、言語学は「意味のある学問」になる事が出来る。実は私は、最初から言語学をするつもりではなかった。元々、言語に興味があったが、日本の大学は経済学部を選んだし、フランスに来たのも言語学の為ではなかった。只、言語学というものを一通り知ろうとは思ったので、パリにある大学や学校の言語学関連の授業を、数年かけて自由聴講しまくった。様々な言語学の授業を受けるに従って、言語学への疑問が徐々にだが確実に膨らんで行った。社会科学高等院のTamba先生のセミナーの影響も大きかったと思う。先生は笑いながら、言語学のメソッドを繰り返し批判していた。只、残念ながら、先生は、私のしようとする事を理解してはくれなかった。また、手話と手話言語学との出会いで、言語学に関する疑問というか、疑念が確実になった。現在の言語学は音声言語に特化した学問であって、人間の言語を研究する学問ではないと確信した。世界中の言語学者が手話を学んだ所で、解決するものではない。何故なら、その為の言語理論がないから。手話言語学の最大の障害は「ソシュールの一般言語学講義」に出て来る「記号の恣意性」。この為、シニフィアンとシニフィエの間に大きな関連性を持つ手話は人間の言語ではないとか考えられていた時代もあった。今では、手話は言語学の研究対象に昇格したが、そうなったのは、お情けだと私は思う。ソシュールの「記号の恣意性」は、視覚身振りチャンネルに特化して生まれた手話には、全く適合しないのに、言語学者達は、何故、この解釈が間違っていると考えないのだろうか、私は疑問に思う。「音声言語だけが、人間の正当な言語である」と信じて疑わないからなのだろうかと邪推してしまう。まるで、太陽が地球の周りを回っていると信じて疑わなかった天動説信者の様である。これは、何故なんだろう。「ソシュールの一般言語学講義」は、まるで中世ヨーロッパの聖書みたいな扱いなのだろうか。なんか、確実な理由がある筈と思って、日々、研究を続けている。音声言語は世界的に見て、大部分の人間が使っている言語、つまり「マジョリティー言語」である。これに対して手話は、聾者と一部の聴者によってのみ使われている「マイノリティー言語」であるが、音声言語と比較して話者が圧倒的に少ないと言うのは、手話が軽んじられる理由にはならない筈である。手話が、音声言語のジェスチャー版であると考える人達がいるのは確実だと思う。こう考える人達は、多分、手話の母体となった音声言語を研究するだけで十分であると思っているのかもしれない。そこまで、深く問い詰めた事はないので、これはあくまでも私の想像に過ぎないが、結構、自信がある。もし、大学の言語学部で、全ての学生に対して手話の習得を義務付けたとしても、言語学における音声言語の絶対的な優位性が変わるかどうかはわからない。最近の手話言語学の傾向は分からないのだが、私の知っている限り、現在の言語理論では手話と音声言語を同レベルで扱う事は出来ないからである。現在、世間で通っている言語理論には、先ず「個々の人間が共通して獲得する記号が、特定の知覚運動チャンネル(視覚身振りと聴覚発声)に特化する事によって、手話と音声言語という「二つのタイプの言語」に分化する」と言う発想が無い。これは、言語学の理論にとって致命的だと、私は思っている。世界中の大学の言語学部の学生が「外国語としての手話」を学んだとしても、手話に関する偏見と誤解を助長するだけになる可能性が高い。私はフランスで手話言語学を学んだのだが、アメリカの手話言語学者の発表を見た時、彼らの発想の中心にあるのは手話ではなく音声言語であると感じた事がある。きちんとした言語理論が確立されていない限り、言語学における「手話に対する音声言語の絶対的な優位性」を崩す事は出来ないと私は考えているが、この様な言語理論の必要性を求める動きは、現在、皆無であると言うのが私の印象。ネットをざっと見ても、それらしい動画もサイトも全くヒットしない。私は勝手に、現在、言語学は学問としての本質から逸れて、暗黒時代に入っていると考えている。言語学というのは名ばかりで、実質的に文法学になってしまったからである。最近、流行りのキツい言い方をすれば「闇落ち」してしまったのである。しかし、私以外、誰もそんな事を思っていない。量子力学の登場は、物理学に革命を起こした。ソシュールの記号学も、量子力学が物理学に与えた影響を言語学に与える可能性を持っていたが、残念な事にソシュールは一般言語学を完成させる事なく他界してしまい、その上「記号の恣意性」は、後発の言語学者達に誤解されて世界に拡散されてしまった。量子力学とソシュールの記号学との共通点は、その離散性にある。量子と言うのは「離散的な塊」である。ソシュールは離散性と言う用語ではなく、「言語には、正の項が無く、差異しか無い」と言う命題と「言語的な価値」と言う表現を使っているが、それらは「離散性」と同意義だと私は考えている。量子力学の離散性もソシュールの記号学の離散性も、それぞれ宇宙を形成する。量子力学の場合は、物理化学的な時空(間)で、記号学の場合は、言語意味的な時空(間)であり、自己記憶の進化の歴史に沿って考えると、これら二層の「離散的な時空(間)」の中間に生物認知的な時空(間)が存在する。量子と記号の離散性が二層を成す其々独立した価値体系を形成するが、これが離散的な時空(間)に該当する。記号の場合、意味を軸に回っていて「シニフィアン(意味を成すもの)」と「シニフィエ(成された意味)」と言う二層の価値体系が構築されるが、量子の場合、どの様な二層の価値体系なのか。量子の場合「過程/プロセス」を軸に回っていて「連鎖して過程を成すもの」と「連鎖して成された過程」と言う二層の、其々独立した価値体系が構築される事になると考えたらどうだろう。この「過程」と言うのは、次の段階の生物認知的な時空(間)で進化する「離散的な塊」となる。私って、天才?生物認知的な時空(間)で進化する「離散的な塊」が遺伝子であるとすると、上手く収まるが、遺伝子の構造を「ソシュールの記号学」に則って、定義し直す必要が出て来る。遺伝子の二重の螺旋構造を、どう解釈し直すかが今後の課題だが、また一歩「認知と生命の起源の解明」に近づいたかも知れない。遺伝子の二重の螺旋構造そのものではなく、遺伝子の連鎖した配列を、実際に読み取って、タンパク質を生成する機能に注目するべきだろう。ここまで来ると、私の生物学の知識では手に負えないので、誰か生物分野の専門家の協力者が欲しい所だが、まあ、当分は独りで考察を続け様と思う。この特殊に思考回路を再現出来る人が、私以外にいるとは思えないが、そこから生まれた規則性とかは、再現性があるだろうから、誰でも利用する事が出来る様になると思う。明日も頑張ろう。
2024.11.04
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ここ数日の投稿が、大分、支離滅裂になっているが、この混乱状態が結構、心地良い。これは所謂、ブレーンストーミングに当たるのだろうが、その方向性をつけているのが自分自身であるというのは、ちゃんと理解している。全てが同じ色のジグソーパズルのピースをテーブルの上にぶちまけた様なもの。でも、無数のピースは、やっぱり、一つ一つ違う形をしている。そして、そのピースと合う他のピースが必ず存在する。新しいアイデアが浮かぶと、また同じ色のピースが大量に投入される。増えて分だけ、完成するパズルのサイズが大きくなる。私は、この作業をいつまでも続けるのだろうか。無理だと思った事でも、時間と思考の手間をかければ、糸口が見えてくる。でも、焦って直ぐに引っ張ると、また絡んでしまうので、全体が緩んで自然に解ける迄、待つしかない。そうなったら、最後は、最初に見つけた糸口を軽く握って、一振りするだけでいい。気持ちいいくらいに、全てが解ける。でも、私が見ているものは、他の人には見えない。だから、誰にでも見える様に、それを言語で記述する必要がある。すると、説明が支離滅裂になる。最近は、この繰り返しの様な気がするが、あまり気にしなくなった。共感を得るのは、気分が良いが、真実に迫る方が、もっと気持ちが良いから。
2024.11.04
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記憶は物理的な媒体を必要としない。自己記憶の進化で確立された最初の離散的な時空間(物理化学的な時空間上)では、自己記憶の進化の第一段階で発動する自己存在が確立される。単一電子宇宙論を採用すると、「全/一」が離散的に分裂した事で生まれた個々の電子が自己存在を確立した事になる。自己記憶と言うのは、この宇宙のあらゆる存在を保証する循環サイクルである。自己記憶は、進化するから存在するのであり、存在する為には進化する必要がある。全てが、隠と陽の循環サイクルである。すると「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」も「(再)融合更新(再)離散分裂循環サイクル」であるとも言える。
2024.11.04
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最近、決定論(determinism)が気になっている。何かが起きた後に、別の何かが起きるという発想は、先ず第一に、時間が流れていると大前提している。だから、決定論を議論する前に、時間の流れの存在に関して議論をする必要があると私は思うのだが、西洋哲学では、それは完全にパスである。この「決定論」の大前提となる時間の流れと、自己記憶の進化の第二段階である生物認知的な時空(間)で重要となるプロセス/過程の確立。生命は、遺伝子情報を解読する過程によって誕生し、認知/知能は、二人称として認識した相手との関係で何をするのかの過程が軸となる。物理化学的な時空(間)で始まった自己記憶の進化だが、離散分裂(再)融合更新循環サイクルの連鎖によって生まれた物理的な時間の流れであるが、これが、プロセス(過程)という新しい記憶を生み出す。これが、自己記憶の進化の流れに乗ると、生命と認知(知能)の誕生に繋がる。これが、生命と認知の起源を解くための糸口になるのか分からないが、一つ、前進できたかもしれない。物理化学的な時空間が確立されたことで、同時に、プロセス(過程)が展開できる時間軸と空間軸が確立される。このプロセス/過程が、新しい記憶の起源に繋がる。「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」が連鎖する事で、物理化学的な時空間が成立する。しかし、この段階では自己記憶の進化は「自己存在」という三人称の段階である。しかし、プロセス/過程の萌芽が、物理化学的な時空間が出来た事で生まれた。後は、これがどうやって二人称に進化するか。自己記憶の進化を発動させた最初のきっかけは、「全/一」が自分の存在を知ろうとした事である。でも、それは、自分の存在を「再確認」するためであったとも言える。つまり、全ては循環しているという事になる。
2024.11.04
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私は、多次元宇宙論を信じない。これは、西洋哲学の論理展開によって生み出された詭弁、或いは屁理屈だと思っている(只、私は、オカルトの異世界は信じる)。しかし、面白い事に言語に関しては、視覚と聴覚のどちらかに特化することで、手話と音声言語と言う全く違うタイプの言語が誕生する。そして、特化した視覚運動チャンネルの特性によって、それぞれのタイプの言語のバリエーションの幅が大きく変わってくる。視覚身振りチャンネルに特化した手話の場合、記号のシニフィアンは、人類に共通している分節された身体であり、個々人が同じ構造を持つシニフィアンを共有していると言える。手話の記号のシニフィアンである分節された身体は、老若男女問わず共通している。性別による違いはあっても、それは無視できるものである。これに対して聴覚発声チャンネルに特化した音声言語の場合、シニフィアンは声によって構成されるのであるが、特定の音素への分節は言語毎に大きく異なる。つまり、人間が獲得した「離散的な記憶の生成喚起装置である記号」を聴覚発声チャンネルに特化する場合、シニフィアンが、言語毎に全く異なる宇宙を生みだすと言ってよい。音声言語は、シニフィアンという言語の側面において、一種の多次元宇宙を創り出しているのである。ここまでを要約すると、記号というのは人類が共通して持っている記憶の生成喚起装置であり、これが先ず、視覚身振りチャンネルと聴覚発声チャンネルに、其々特化する事で、手話と音声言語という、其々の知覚運動チャンネルの特質を反映した二つのタイプの言語、言い換えれば、二つの宇宙に分化する。視覚身振りチャンネルに特化して生まれた手話の場合、記号のシニフィアンが、人類に共通した分節された身体であり、全世界で話される手話に共通であることで、手話を母語とする人たちの間では、個々の手話の違いを乗り越えて、非常に短時間で相互コミュニケーションを確立する事が可能である。聴覚発声チャンネルに特化して生まれた音声言語の場合、記号のシニフィアンが音声という人類に共通したものであるにも関わらず、聴覚記憶となった音声を、個々人がどのように分節するかで、全く違う音韻体系が構築され、相互に似た音韻体系を構築した人の間でのみ、シニフィアンの共有が可能である。音声言語の記号のシニフィアンは、聴覚的な記憶だけでなく発声という運動の記憶にも大きく影響を与える。外国語を学ぶ際、母国語の発声/発音の影響が如実に現れるのは、この為である。母語の発音の癖を矯正して「ネイティブ」の発音に近づける事が、外国語学習者の一つの目標となっている。手話の記号のシニフィアンの軸となる分節された身体も、音声言語の記号のシニフィアンを生み出す発声器官のどちらも、人類共通の遺伝子情報が受精卵の細胞分裂によって実現されるが、音声言語の場合、発声器官が作る音声がシニフィアンの軸となる事で、バリエーションのパラメータが、一気に増える。ここまでは、言語の記号のシニフィアンの側面を見て来たのだが、手話と音声言語の、其々の記号のシニフィエの側面を見てみよう。その前に、私が提唱する記号の解釈であるが、それは「二層の独立した二つの価値体系」である。言語の形も、言語の意味も、どちらも価値体系であるという事になる。そして、二つの価値体系の特定の座標が一致する所に特定の記号が成立する事になる。こうやって出会う特定のシニフィアンと特定のシニフィエとの関係を示すのが「ソシュールの一般言語学講義」に載っている「記号の根本的(ラディカル)な恣意性」である。私は、これを「記号の離散性」と呼ぶ。記号のシニフィアンの側面に関しては、視覚身振りチャンネルか聴覚発声チャンネルに特化するかで、非常に大きな違いが出るが、シニフィエに関してはどうだろうか。現代の手話は、特定の音声言語を共通語とする集団の中で使われる事が多い。例えば、日本でなら、日本語と日本手話である。日本手話を母語とする人達は、殆どが日本人であり、日本の文化の中で生活をしている。自ずと日本語の単語に対応する標準手話サインが存在するが、全てが一対一の対応をする訳ではない。音声言語の複数の単語が、一つの標準手話サインに統合される事もあるし、その逆もあるだろう。ただ、音声言語の単語と手話の標準サインとの間の「一対一の対応」があると言っても、その裏にあるシニフィエに関しては、共通にカバーしている基本的な概念はあるが、全く同じではない。音声言語と手話のシニフィエの違いに関して、私は手話をマスターした訳ではないので、詳しい説明は控えるが、一つ、補足しておきたいのは、手話が「シニフィエ主導の言語」であるという事。標準サインの成立過程で「形や動きを真似る」事が多く採用されているだけでなく、標準サインを使わないパントマイムやクラシファイヤー(CL/類辞)を使う表現で、形と動きから連想される意味が共有できれば十分である。音声言語の場合、これが可能なのは、動物の鳴き声の様な場合に限られており、シニフィアンとなる音声のバリエーションを使って、それ以上の意味や概念を伝える事が困難である。唯一出来る事というと、喜怒哀楽の感情を載せる事だろうが、それは具体的な事象の説明には使えない。つまり、記号を使ってストーリー(物語)性を創造する為には、手話なら、形と動きを真似る事で十分表現が可能であるのに対し、音声言語の場合、先ず、音韻体系の確立と、それの複数の人による共有が実践され、その後に特定の概念に該当する記号が確立して、初めて可能になるのである。手話のシニフィエ先行型と言う特質が、人類が最初に発明した言語が手話であると私が考える理由である。場所によっては、視覚物理チャンネルに特化して生まれる文字も、ほぼ同時期に発生した可能性がある。音声言語は人類が手話を使いこなした後に、サインが徐々に音声で置き換わる事で誕生した。この「手話サインが徐々に音声で置き換わっていく過程で、手話言語集団の中で、共通の音韻体系が、時間をかけて確立して行ったと私は考えている。そして、音韻体系の基本的な形が、その音声言語の文法に大きく影響することになる。手話による言語活動で培った手話サインによるシニフィエ(言語の意味/概念)を音声で置き換える作業を通して、音声言語の文法が徐々に確立されて行ったとすると、音韻体系の基本的な性質が、どの様に文法に影響を与えたのかを考察する事ができる。音韻体系と文法の関係を記述できるかもしれない。これを、今後のイタリア語の研究に利用できそうである。手話には音声言語の様な語彙の多様性が無いと考える人がいるかもしれないが音声言語の語彙が増えたのは教育によるものである。今後、手話による学校教育が充実すれば自然と語彙も増えていく事になる。フランスの手話通訳者に理系の学士免状が求められていると聞いたが、これを反映していると思う言語は、一朝一夕にできるものではなく、各言語に固有の歴史がある。フランス手話を基本として発達したアメリカ手話は、音声言語である英語の強い影響を受けた手話であり、英語の単語の概念を指文字でスペルする事で、語彙を増やして行くが、フランス手話は学校で禁止されていた期間が非常に長く、音声言語としてのフランス語の単語からの概念の借用をする事はあっても、指文字によるスペルは、初めの段階だけで、それに対する手話サインが徐々に形成されて行く。フランス手話通訳の人が聾者の友人達に、この単語の概念をどうやって手話で表現するのか確認しているのをSNSで見かけた事がある。フランス手話が、フランスの学校教育で禁止されていた期間が長かった事が、手話としての特徴を保つ事ができたのは、少々皮肉なものである。日本人は、西洋の概念を受け入れた時、発音通りに記述するのではなく、一つ一つを漢字語で置き換える事に成功したのだが、それと少し似ていてと思う。手話には音声言語の様な語彙の多様性が無いと考える人がいるかもしれないが音声言語の語彙が増えたのは教育によるものである。今後、手話による学校教育が充実すれば自然と語彙も増えていく事になる。フランスの手話通訳者に理系の学士免状が求められていると聞いたが、これを反映していると思う
2024.11.01
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量子力学などで議題となる「観察者問題」を解決する為には、言語の文法カテゴリーである「動的な入れ子構造で成立している三つの人称」が、どのようにして確立されるのかを解明する事で可能になる。これは、言語学者達が、言語の真のメカニズムを解明せずに来たことが原因である。三つの人称の「動的な入れ子構造」というのは、ソシュールの記号の離散性によって構成される。我々は、三つの人称があるお陰で、会話をすることが出来る。例え、日本語の様に、文法区分としての三つの人称が無かったとしても、我々は、話し手/話し相手、そして話題を区別して会話をしている。言語学者達が、三つの人称の動的な入れ子構造に注目しないのは、記号の離散性によって固定された文法的なカテゴリーを言語学の研究の対象としているからである。つまり、一旦、三つの人称にが成立した時点で、それは所与のものとなってしまうのである。人類の個体であるヒトは特定の知覚運動チャンネルに特化する事で、新しい言語を発明したり、別の誰かが発明した言語を習得する事を可能にする記号と言う動的な入れ子構造を持つ離散的な記憶の生成喚起装置を、認知システム上に構築する遺伝的な資質を持っている。ヒトは、言語を通して人間になる。ソシュールの提唱した一般言語学は、言語的な価値に注目していた事で記号の持つ離散的な性質に迫るものであったが、彼が使った「記号の(根本的な)恣意性」は後発の言語学者に完全に誤解されて世界中に広まってしまった。これにより、言語学という名の「実質、文法学」の暗黒時代が始まってしまった。言語学を暗黒時代へと誘った先導者は、世界的に有名な「言語学者」であるチョムスキーであると私は考えている。それは「言語学は文法学である」という謳い文句で始まった。なんと初めから、言語学ではなく文法学をする事を宣言していたのに、世界中の言語学者が、彼の学派に乗っかってしまったのである。
2024.10.31
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Theories of Everything with Curt Jaimungal:Why Are Humans in a 3 Dimensional Reality?Stephen Wolfram 氏の動画の考察の続き。これ以外にも幾つかの動画を視聴してみて、大分、全体像がつかめて来た。そして、認知科学で昔、流行った「計算的認知」を思い出した。動画の丁度半分くらいから視聴し直しているのだが、Wolfram 氏は「自分は西洋の伝統しか知らないので、東洋の考え方も知りたい」と言っている。これが具体的に何を指しているのか分からないのだが、彼の周りの人間が言う東洋思想には、多分、日本の神道は含まれてはいないと思う。私自身、最近になってようやく、自分が提唱する「進化する自己記憶の存在論」が、神道の考えに通じるものがあるかもしれないと思い始めているし、神道には、元々教義が無いので、日本の文化を知らない人達が学ぼうとしても取っ掛かりが無いだろうと思う。Stephen Wolfram 氏の言う「Rulial space」というのは、一見、私の提唱する「言語意味的な時空(間)」と似ているが、根本的に違う部分がある。それは、彼は言語の形の側面には全く関心を示していない事である。また、言語の意味の側面に関しても、所与のものとして扱っている点も、私とは違う。彼も、結局は、根本的な問題を解決する事なく、この宇宙は「離散的な要素」のよって構成されていると勝手に決め込んで、それをコンピュータを使って記述しようとしているだけである。しかし、自分が定義する世界に人間味が無いことは、十分に承知はしているようで、この点は、好感が持てる。Stephen Wolfram 氏は「考えをどうやって伝える事が出来るのか」という疑問を提示する。その為には、考えを何らかの形に纏めて、それを伝え、受け取った方が、それをほどく作業が必要であるという。そして、送り手と受け手で「同じではないが、十分に似ている」概念を共有する事が出来るという。この点に関しては、私のアプローチと似ているのだが、彼はそれを電子の様な「離散的な要素」に求めたが、私は「進化する自己記憶」に求めたのが大きな違いである。そして、離散的な要素が織りなす様々なルールが作る世界を、コンピュータによる計算によって記述できると考えている。「離散的な要素」があれば、それを「情報」と見做してコンピュータで計算する事ができるが、私は、この「離散的な要素」自体が、一体どのようにして確立されるのかという最も根本的な疑問を持ち、それに応えようとしているの。この点が Stephen Wolfram 氏と私のアプローチの違いである。いい球が来たような気がしたのだが、結局、それは空振りに終わってしまうのが分かっていたので、私は Stephen Wolfram 氏の動画を、ずっとスローモーションで再生していたのかも知れない。似たアプローチをしている人がいるのは嬉しいが、似過ぎていると多分根本的なすり合わせができない。やっぱり、今のところは、自分独りで研究を続けるしかないのだと思う。
2024.10.30
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「認知の起源」を解明すると言う発想を持った人間は、今の所、私だけである。これは宇宙の歴史に於ける大きな「ミッシング・リンク」であるのだが、現在の西洋を中心とした科学では、その存在の可能性さえ誰も理解していないが、一旦認められれば、新しいパラダイム・シフトが起きるのは確実である。先ずは、遺伝的な突然変異と自然淘汰を軸としたダーウィンの進化論を再考する必要が出て来る。今の私には具体的に説明出来ないが、生命と同時に誕生した「認知の起源」が、一般的に認知されたら、生命体が外界を知覚する事が、直接、生命の種に進化に関わっている事が理解される様になるだろう。宇宙の起源を解明しようとする学問が量子力学だとすると、人間の言語の起源を解明しようとするのが、ソシュールの記号学(ただし、私が再解釈したもの)である。これに対して、生命と認知(知覚と知能)の起源を同時に解明しようとする学問は未だない。進化生物学は、認知をカバーしない。
2024.10.30
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遺伝子情報は、一本の連鎖した情報だが、これを離散的に読み取る何らかのメカニズムがあるはずである。しかも、生命活動と認知活動と、離散的な活動は二重になっているはずである。この「はずである」と言うのは、物理化学的な時空と言語意味的な時空の両方の構造からの推測である。言語の記号の様に、二層の独立した価値体系を構成するのだが、どちらも進化する自己記憶である。生物的な記憶と認知的な記憶。物理化学的な離散的時空が確立した際、同時に自己存在という三人称の自己同一性を確立したとすると、生物認知的な離散的時空が確立した際、同時に自己意志と言う二人称の自己同一性が確立された事になり、言語意味的な離散的時空が確立した際、同時に自己意識と言う一人称の自己同一性が確立された。自己記憶の進化は、自己同一性の進化でもあるが、それは、「全/一」が自分の存在を確認したいと思った事で発動した意識の進化でもある。今、認知の起源の解明の糸口が掴めたかもしれないと感じているが、ぬか喜びかもしれない。遺伝のメカニズムを発見したメンデルも、生前は業績を認められなかった。インターネット時代になった21世紀でも、同じ事が起きる可能性は十分ある。でも、記録として残してさえいれば、時が来れば、分かって貰えるだろうと楽観している。今は、自分の人生を楽しむことが、最優先事項である。
2024.10.30
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Kirk Cameron on TBN:Stephen C. Meyer: What Is Intelligent Design? Scientific PROOF of GodMeyer 氏の事は、実は、少し前にYouTubeで知ったのだが、彼が推す「インテリジェント・デザイン理論」について少し考えてみた。インテリジェント・デザイン理論と言うのは、ダーウィンの進化論を正統な科学であると考える学者達からは、聖書に基づいた創造論を推す宗教的な一派と思われ、目の敵にされているらしい。この宇宙や生命は、知性的な何かデザインしたと言う主張で、それが神の存在を肯定することに通じる。この動画を見ていて、私が提唱する「進化する自己記憶の存在論」も、Stephen Meyer氏の「インテリジェント・デザイン理論」と似ていると思った。只、彼の場合の神は、一神教であるキリスト教の「唯一の神」であるが、私の理論の神は、日本の神道の「八百万の神々」である点が大きく違う。Stephen Meyer 氏は哲学者でもあり、彼が推す「インテリジェント・デザイン理論」は、西洋哲学の伝統的な論理性を基礎としている。そう言う視点に立つと、この理論が生まれた背景や経緯を理解する事ができるが、同時に、西洋哲学の限界による、この理論自体の限界も見る事が出来る。西洋哲学の抱える最大の問題点は、言語の仕組みの解明をせずに、言語を使って記述をしていると言う事である。実はこれは、言語を使って記述なければいけない科学全体に言える事でもある。言語の仕組みを理解していないと言う事は、何故、主観的な視点や客観的な視点が成立するのかと言う問いに答えていない事になる。これ以降は認識論になるので、また、後で。
2024.10.30
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日本人として生まれて日本で育ち日本語で教育を受けた事は、今の私にとって、かけがえのない財産になっている。宇宙や意識に関心を持って、面白い話題をネットで探そうとすると、どうしても西洋人の動画が多く出て来る。彼らは、神の存在を無視する事が出来ないのだが、私にはそう言う問題はない。例えば「自由意志」と言う哲学的なテーマは、人間個人の意志か、それとも、神の意志のどちらと言う選択肢がある所から来ていると思う。私にとっては、そんなことなどどうでもいい。意志を発揮出来る選択肢が、どうやって成立するのかを知りたいだけである。つまり「自己意志」の起源である。実は、私が「自由意志」という哲学的なテーマの存在を知ったのは、数年前、Closer to Truth という番組をネットで視聴したのがきっかけだった。私だけなのかも知れないが、何でそんなことを考えるのだろうかと疑問に思ったのを覚えている。私の日本人的な発想では、思いつかないテーマである。私は、量子力学の観察者問題の根本には、西洋言語の文法カテゴリーである「三つの人称」が関わっていると思う。この三つの文法的な区分がある言語では、誰が行動の主体であるかというのを常に意識しながら発話をする。何かを記述しようとする時、「誰が、何を」と必ず決定しないといけない。私の母語である日本語は、三つの人称が文法区分として存在しない。しかし「話し手と話し相手」という会話のシチュエーションは存在するし、勿論の彼らの会話の話題となる対象も存在するのだが、それが文法的には反映されない。私は、究極の所、日本語は「三人称だけの言語」だと思っている。私の世界観では、物質も生命も、認知によって成立する知能という過程も、一つの意識の進化の推移が現れたものであり、その頂点に一人称の主観的な人間の自己意識がある。ところが、西洋的な考え方では、物質と意識が何の脈絡もなく突然、対置されてしまう。「意識の科学」はこうやって成立する。
2024.10.29
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私は中学校までは算数が得意だった。しかし、高校生になって数学、特に微分積分が全く理解出来なかった。でも、数学が苦手になる兆候は、小学生の頃に既にあった。私は、割合と言う概念が苦手で、それがずっと後を引いていたと思う。でも、今は、自分が数学が苦手だった事に感謝している。それは何故かと言うと、「数学抜きで考察をする」という一種の自由が与えられるからである。また、私は、数学の根幹を成す「自然数の1」を、我々が概念化できる仕組みを先ず知るべきだと考える。だから「数学こそは、宇宙の基礎を成す言語である」という考えの人とは、基本的に話が合わない。我々が概念化した「自然数の1」というのは、文法の三つの人称と関係がある。元々は、一人称の視点が起点にあるが、次に二人称の視点を通して観察対象が取り込まれ、最終的に三人称の、所謂、客観的な視点という形で落ち着いた時、「数」という概念や「数える」という動詞が誕生する事になる。西洋言語によくみられる文法区分である三つの人称というのは、以下の様な入れ子構造をしているが、それは、誰/何でも、どの人称にも該当する事が出来るという「動的な入れ子構造」である。(⦅一人称/二人称⦆/三人称)(⦅話し手/話し相手⦆/話題)我々の人格の核をなす自己同一性というのは、この三つの人称という「動的な入れ子構造」が成立している事で保証される。日本語の場合、このような文法的なカテゴリーはないが、自己同一性は存在する。今、ふと、これが、日本語の「ことだま(言霊)」に該当するのではないかと思った。
2024.10.29
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「進化する自己記憶」の自己記憶は、別の言い方をすると「自己同一性」または「意識」と呼ぶ事が出来る。一般的に「Consciousness(意識)」という場合、人間の一人称の主観的な視点を持つ自己意識に該当するのだが、この「自己意識」は、自己記憶が三段階に渡って進化して生まれたのである。私の提唱する「進化する自己記憶の存在論」を採用すれば、物理学、特に量子力学で問題になる「観察者問題」に答えを出す事が可能。「Consciousness(意識)」というのは、物質的な意識から、認知主体としての生物的な意識を経て、人間的な自己意識へと進化したのであり、全て一貫して繋がっている。
2024.10.29
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Theories of Everything with Curt Jaimungal:Why Are Humans in a 3 Dimensional Reality?Stephen Wolfram 氏とのインタビュー動画の最後の部分を視聴したら、私と同じ事を考えていてびっくりした。量子力学と記号学の背後には、全く同じメカニズムが隠されている。余談だが、この Stephen Wolfram 氏の動画を視聴し始めて既に数週間が経っていて、ようやく今日、最後まで視し終わった。。なんか、今まで、無意識に、ずっと見ないようにしていた気さえする。また、日を改めて、考察してみようと思う。
2024.10.29
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