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1968年度のサンレモのコンピのLPはキングから発売された1枚とコンパクト盤2枚、だけで例年出ていた日本ビクターからは発売されませんでした。
カッコ内はイタリア人歌手ですが、各社の出場歌手数は以下の通りですが、比較的満遍なく割り振られている状況、反対にいえばアルバムを作るだけのオリジナル歌手がそろわなかったことになります。
CGD 7 (5)、RCA Italiana 5 (4)、V.C.M.5 (3)、Fonit-Cetra 4 (3)、RI-FI 4 (3)、Ricordi 4 (2)、Ariston 3 (3)、CDI 3 (1) 、Clan Celentano 2 (2)、Phonogram Italiana 2 (2)、Durium 2 (1)、Carosello 2 (1)、DET 1 (1)、BDM 1 (1)
キングはCGD5、Fonit-Cetra3、Ricordi2、Carosello1、DET 1の12歌手ですが、ジュリアーナ・ヴァルチがCBSで対象外、代わりにフォニット柄出場した岸洋子が入りオリジナル12曲でアルバムを作っています。
日本ビクターは当時3グループに分かれており、RCAグループはRCA Italiana 4、ワールド・グループはDurium 2 (1)のみ、フィリップス・グループはRI-FI 3とPhonogram Italiana 2の内の1。日本コロムビアがAriston 3とClan Celentano2です。東芝音楽工業はV.C.M.3、日本グラモフォンがPhonogram Italiana2の内の1、テイチクは0、国内契約なしがCDI 1、BDM 1といったところでした。
シングル盤はそこそこリリースしてもらえていたので、コンピ盤がキングだけになってもやむを得ないところだったと思います。
SR- 180 (1968年4月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP第18回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1968)
1.君を歌う (CANZONE PER TE)
セルジョ・エンドリゴ (vm)
2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA)
マリ-ザ・サンニア (vf)
3.カンツォーネ (CANZONE)
ミルバ (vf)
4.静けさの声 (LA VOCE DEL SILENZIO)
トニ-・デル・モナコ (vm)
5.消え去らぬ影 (CHE VALE PER ME)
ペピ-ノ・ガリアルディ (vm)
6.狂った蝶々 (LA FARFALLA IMPAZZITA)
ジョニ-・ドレルリ (vm)
7.ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI )
ウィルマ・ゴイク (vf)
8.今宵あなたが聞く歌は (STANOTTE SENTIRAI UNA CANZONE)
岸 洋子 (vf=j)
9.青空の想い出 (DA BAMBINO)
マッシ-モ・ラニエリ (vm)
10.
夕べのしあわせ (SERA)
ジリオラ・チンクェッティ (vf)
11.
茫然自失 (LA TRAMONTANA)
ジャンニ・ペッテナ-ティ (vm)
12.
人生 (LA VITA)
エリオ・ガンドルフィ (vm)
SR- 180
PS- 61 (1968年4月SEVEN SEAS - キング) 17cm CP 第18回サン・レモ音楽祭第1集(SAN REMO 1968 Vol.1)
1.君を歌う (CANZONE PER TE)
セルジョ・エンドリゴ (vm)
2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA)
マリ-ザ・サンニア (vf)
3.今宵あなたが聞く歌は (STANOTTE SENTIRAI UNA CANZONE)
岸 洋子 (vf=j)
4.茫然自失 (LA TRAMONTANA)
ジャンニ・ペッテナ-ティ (vm)
PS- 61
PS- 62
PS- 62 (1968年4月SEVEN SEAS - キング) 17cm CP第18回サン・レモ音楽祭第2集 (SAN REMO 1968 Vol.2)
1夕べのしあわせ (SERA)
ジリオラ・チンクェッティ (vf)
2青空の想い出 (DA BAMBINO)
マッシ-モ・ラニエリ (vm)
3.静けさの声 (LA VOCE DEL SILENZIO)
トニ-・デル・モナコ (vm)
4.狂った蝶々 (LA FARFALLA IMPAZZITA)
ジョニ-・ドレルリ (vm)
コンパクト盤もキング一社のみで、このコンパクト盤はLPに収録されている曲とすべて重複して必ずしも買う必要もなかったので、案外レア的存在になっているかもしれません。
前回「サンレモの歌手たち」でミーナの事を書き、PDUという自分の会社を立ち上げたことを紹介しました。ミーナの場合は既にサンレモ音楽祭には出場しなくなったので、サンレモ音楽祭初出場のレコード会社の紹介が書けませんので、この場を借りてPDUの事を書くことにしましょう。
歌手や演奏家が自分のレコード会社やレーベルを持つことはよくあることでした。戦後間もなくい1948年テディー・レーノ(Teddy Reno)が興して巨大レコード会社に成長しましたし、イタリアのスウィングの父ナタリーノ・オットー(Natalino Otto)は60年代に入ると自分のレコード会社テレ・レコード(TELERECORD)を作りました。
またクァルテット・チェトラ(Quartetto Cetra)のヴァルジリオ・サヴォーナ(VIRGILIO SAVONA)は62年に楽団リーダーのアルマンド・シャシア(ARMANDO SCIASCIA)とプー(I POOH)やエキペ84(EQUIPE 84)がデヒューしたヴェデッテ(VEDETTE)・レコードを立上げました。
特にミーナが自分の会社を作りたいと思ったのは、同年代のロック・ン・ローラー、アドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)が61年12月19日自分の会社クラン・チェレンターノ(CLAN CELENTANO)を設立したことがどうきになったと思います。ミーナがPDUから自分の初シングル盤をリリースしたのが12月19日だったのは、単なる偶然とは思えません。
さて本来のPDUの事に戻りましょう。58年12月イタルディスク(ITALDISC)からデビューし、63年4月息子マッシミリアーノ(Massimiliano)を婚外子として出産、カトリックおひざ元のイタリアですから、激しいバッシングに合い63年後半イタルディスクから新興レーベルのリフィ(RI-FI)に移籍します。
普通の歌手ならこれで消え去っていくのですが、リフィ3枚目の"私のあの人[伊] (E' L'UOMER ME / HE WALKS LIKE A MAN)"はナンバー・ワン・ヒットにして、周囲からの批判の返答とします。
そのリフィから69年の年末近く独立し、父ジャコモ・マッツィーニ(Giacomo Mazzini)とレコード会社と音楽出版社、PDU (Platten Durcharbeitung Ultraphone)をスイスのイタリ語地区のルガーノに興しました。会社の事実上の運営はミラノで行い、本社籍はリジテンシュタインに置いたため、その後イタリアの税務当局から租税回避行為とされました。


設立から69年までドゥリウム(DURIUM)がディストリビューションを行いサブ・レーベルのサン(SUN)もつくり、ジャズやクラッシックのをリリース、また新人歌手マリーサ・サケット(Marisa Sacchetto)、ティム(Tihm)、ドモドソッラ(I Domodossola)、カンタウトゥーリのロベルト・フェッリ(Roberto Ferri)を送りだしましたが成功とはいえませんでした。
70年~96年EMIに、97~99年RTI、99年以降はソニー・ミュージックの扱いになりました。
※謹告
この秋引越しすることになり、準備はいります。少なくとも4カ月、場合によっては年末近くまで再開することができないかもしれません。お許しください。 時間が出来れば、軽く「色々なこと」を書いていくつもりでおりますので、時々は覗いて見て下さい。
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