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近藤役の香取氏と土方役の山本耕史氏の対談が載っていたので、テレビナビを買った。その中での山本氏の発言。「新撰組は江戸幕府が倒れるストッパーのようなもの」一年間新撰組のメンバ-になりきって生活していたような役者としての、さすがな発言だと思う。武器には武器で、暴力には暴力で対抗して、志士達の行動にストップをかけてきたのだから、立場的にもそうだと思う。池田屋騒動は、維新を一年遅らせたと言われてきているけれど、最近では、むしろ維新を早めたきっかけとも言われてきている。その前の寺田屋騒動で、窮地に陥った長州勢がより先鋭化して、池田屋では、さらにエスカレートした、京都の街を焼き払って、天皇を奪う計画をたてていた。そこでの力の制圧。相手が強ければ強いほど、思想も理想もへったくれで、討幕を仕掛けてくる。新撰組の五年は、そういう力学的に微妙な状況だったと思う。ストッパーであり、同時にきっかけにもなる。そして今から思えば、徳川260年の歴史の最後を派手に飾った存在のような気もする。
2004.11.30
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土方歳三は、掃除が好きだったかもしれない。兵の掃除でも、沖田総司のことでもなく、普通の部屋の掃除のことだ。というのも、『豊玉発句集』と題された、京都へ行く前の句にある、「うぐいすや はたきの音も ついやめる」鬼の副長と言われ、粛清の手を緩めることがなかった、土方氏が、部屋ではたきを振るっている姿は絵になるかもしれない。少なくとも、この人物が腰が軽いのは事実だと思う。常に何かをしているし動いている。私が読んだのは、「土方歳三の三十五年クロニクル 菊地明氏著」の中の日記だが、本人のは残っていないので、他人の日記や何かから土方氏が何をしていたのか推し量っているもので、空いている日があるのが普通なのだと思うのだが、三日と空かず、埋まっているし、動きが素早く多い。特に有名な話は、医師の良順と言う人が書いた日記の中で、本願寺に移った新撰組を見にいった医師が、風呂場の設置や衛生面でのアドバイスをしたところ、その日のうちに改造してあったとの、くだりだ。「武士は拙速を尊ぶ」と言って、二人で大笑いをしたという。生き急いだと言えばそれまでだが、この腰の軽さ、見習いたい。腰が軽い土方歳三、「新撰組!」ではよく描かれていると思う。やっぱり若くてよく動けるってことも大切。昔より資料が増えていて、研究が進んでいるんじゃないだろうか。
2004.11.29
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気がついたら、こんなに長いこと日記をお休みしててびっくり。未だに、新撰組勉強の旅続行中。ひたすら本を読んでいます。テレビも見ているけど。何か新しいものにハマるっていうのは、滅多にない非常事態なのだ。今まで思いもかけなかったエネルギーが沸き上がり、それしか考えることも喋ることも目にすることもないような、恐ろしくも楽しい生活。驚いたのは、今の世にこれほど新撰組に興味がある人が多いと言う事実だ。未知の荒野を行くと言うよりは、踏みしだかれた道を行くような気分なのだが、今まで司馬遼太郎先生の本すらろくに読んだことがなかったし、時代劇もほとんど見たこともなかったし(歌舞伎は過去のハマりリストにあるにしても)知り様がなかったのだけれど。基礎編を読み終わり、今後は時代背景や、明治政府の方まで興味が湧いてる段階。あの時代が、今に直接繋がっているのを実感してる。ところで、香取信吾君の近藤勇役の凄さと言ったら。この一年費やして一人の人生をそのまま生きているような気分だったのだろうが、それがそのまま出てる。ドラマの底知れない力は侮れないなあって思った。
2004.11.28
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きっかけは、フルタのフィギュアつきお菓子を買ったこと。土方最後の戦いっていうのが当たった。馬の上でポーズをとっている。しかも解説つきだ。土方歳三が、五稜郭で戦ったなんて知らなかった。いつ死んだのかも知らなかった。新撰組のことを何も知らなかったのだ。今朝の四時まで検索しまくった。六時までしか寝てないのに異様に元気だ。それはともかく、大河ドラマ新撰組!のキャストが、顔かたち的に選抜されているのに気付いた。近藤役の香取信吾にしても、土方役も沖田役も、顔的に同形な人が選ばれている。当たり前か。調べまくったおかげで、頭の中は新撰組や幕末のことやらでグチャグチャ状態。まだいろんなことがわからないのだが、疑問に思っていたことがいくつか解決した。新撰組は、逆賊だったはずである。それがなぜ、こんなに人気があるのだろう?いつ頃からの人気なのだろう?今放映中の大河ドラマのせいばかりでもない。漫画や小説だっていくらでもある。幕末期の他の有名人達の人気に比べて多すぎる。まるで幕末の代表選手のようではないか?歴史に逆行しているラストサムライの群れのどこがそんなに人を惹き付けるのだろうか。司馬遼太郎や子母沢寛の歴史小説で有名になったらしいのが、最初の疑問の答えだ。きっとそれ以前は、一部の人にしか知られない存在だったのではないだろうか?(きちんと調べたわけではないから、完全に疑問が解消したわけではないが)(明治から大正にかけて生き残った隊士たちもいろいろ書き残しているらしい。新撰組の影響は明治の自由民権運動までも続いていたらしい。それは多摩地方を中心とした運動だったことで関係がある。そういう具合に、ブームにならなかったとしても、活動は常に語られ、書き続けられてきたということだ)まっすぐでひたすら自分の信じる方向へ向かう生き方は、やはり引かれる。ましてや歴史に逆行しているのだから悲劇しか待っていない。判官びいき的な感性も刺激される。彼等は武士階級ではなく、武士としての生き方あり方に憧れていたようだ。憧れた生き方を貫いたが、武士の終焉に立ち会ってしまう。新撰組年表を見てみると、毎年毎月のように、暗殺自刀切腹の字が並ぶ。なんと殺伐とした時代なのだろう。その後の明治時代も、私の中では暗黒だから、これからゆっくり調べる楽しみも増えた。けれど、大河ドラマの方は、ほとんど終わりになってしまう。今、ハマるなんて、自分でも訳が分からない。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^古い体制を頑固に守ろうとする彼等は、いわゆる保守派だったのだと思う。保守派を批判するのは簡単だけど、振り返ってみると自分でも古いものにしがみつくところはあると思った。サッカーの話。バレンシアがラニエリ監督というイタリア人になり、イタリア人選手が増えたことは、嬉しいことではなかった。一気にイタリア流の守りを全面に押し出したサッカーになるんじゃないかっていう危惧(前からそうだったと言うのはおいておいて)ところが、長い低迷を終えて勝つことができると、イタリア人の活躍でも単純に嬉しい。これがなし崩しっていうこと?------------------------------------------------------図書館に行って新撰組や幕末関係の本を借りてきた。さらにはまりそうだ。
2004.11.27
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今朝のNHKのテレビ「課外授業ようこそ先輩」では、昆虫写真家の人が、母校の小学校の臨時の先生役だった。テレビの画面一杯に昆虫の写真が写る。走っているようなバッタや働いているアリ、擬態状態で木の幹に張り付いているガ。生徒は、その昆虫たちの身になってマンガの吹き出しにして昆虫の発言を考える。「ハハハ、俺の姿が見えるかい?うまく隠れてるだろ?」とか、「俺は走らせたら昆虫ナンバーワンだ!」だとか、昆虫の息吹きまで聞こえてくるようなアイデアがどんどん出てくる。次は野原に出て実際に本物の昆虫を探す。ビデオでその様子を撮ったりして、昆虫達と交流を図る。この番組を見て思ったのは、これは感情移入の練習ではないかということ。虫の心の中の想像するなんて何の役にもたたないことだ。だけど、この授業を受けた子供達や番組を見た人は、次に昆虫に出会ったとき、虫の気持ちを考えたことを思い出すことがあるのではないだろうか。虫だけでなく、鳥も動物園の動物も、もしかしたら風や石などの無生物の心の中も。人によっては、他のにんげんたちの心の中をもうちょっと深く感じたり考えたりしようとするかもしれない。そういう練習というのは、軍隊やその他の洗脳的な訓練の対局にあるかもしれない。残虐なことができるということは、相手にも心があることを無視して、モノのように扱うことから生まれるのではないかって思うのだ。それはまた、自分を無感覚にして、無駄なことを考えないように、自分の思考の一部を殺して行うことでもあると思う。地球上で一番繁栄しているのは昆虫類であるという。優雅で滑稽で限り無い豊かさを感じさせる存在だ。あまり昆虫は好きでなかったけれど、これからはもう少し、親近感を持てるような気もする。
2004.11.26
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『華氏911』の、マイケル・ムーア監督が、巨大なエゴのせいで、今年のお寒い50人の一位に選ばれたと言うニュースを見た。巨大なエゴ。震撼する言葉だ。自分が自分でいようと思ったとき、まわりとの協調を失ったら、エゴと言われてしまうのだろうか。エゴと言われないために、自ら自分をコントロールする必要はあるのだろうか?必要はあるかもしれない。自分でも出過ぎているとき、目立とうとし過ぎているとき、小さな自分を満足させようとしようとしているとき、それはエゴの仕業かもしれない。どういうのが大きい自分(巨大なエゴではなく)か定義はできないが、それに対して小さな自分があるとしたら、それを利する行動がエゴと言えるだろうか。ただ、自分でもうっすら分かるものだと思う。何かをするとき、喜びの質が違うとしたら、エゴを満足させようとしているのかもしれない。このエゴというもの、もっとじっくり考えるてみようと思った。
2004.11.25
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「宇宙の戦士」ロバート・A・ハインラインハインラインの本は昔よく読んだ。「夏への扉」は、さわやかでお洒落でとても好きな本だった。ハインラインにはそういうイメージしかなかった。ところが、この宇宙の戦士という作品は、全く違う。ファシズム礼賛の書とも言われ、ハインラインの軍人だった過去の影響が強く、過去から現在へと続く、アメリカの力の哲学というようなものを肯定するような、数々の言葉が並ぶ。「人間として耐え忍ばれる最も崇高な使命は、愛するホーム(祖国)と戦争の荒廃との間にその身命を投げ出すことなのだ」そういう言葉を否定することは簡単だ。この文庫本の解説にはこの本のそういう部分に嫌悪感を感ずる人たちの投稿が多数載せられている。だが、ハインラインの与えた文脈においては、そういう鏤められた言葉は、真実の輝きを得ているように思える。軍隊の世界では、その中での哲学があり、何としても戦争反対する人があればその中にも哲学があるのだ。私自身の感想は、とても面白い本に出会ったという単純なものだ。普通の甘やかされた青年が、数々の試練を超えながら一人前の戦士になっていく。否定する人もあれば、名著として持ち上げる人もいる。ちょっと前には『スターシップトルーパーズ」という映画の原作ともなった。日本の有名なアニメ「機動戦士ガンダム」に影響を与えたとも言われている。ハインラインのストーリィテラーとしての才能は、やっぱりずば抜けているなって思う。最近あまり読んでいなかったけど、もっと読んでみたくなった。-------------------------------------------------------映画を見て泣いてしまうっていうことはよくあることだ。けれど本を読んで泣くことは、覚えている限りあまりない。ところが、まだ初めの方の部分で、この本を読んで泣いてしまった。しかもかなり混んでいる電車の中だ。もっと悲しい系の本ならともかく。
2004.11.24
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何日か前の日記で書いた、俳優ジャック・ブラックのインタビューの言葉を何度も思い出してしまった。人生に大切なこと。喜びを見つけるっていうのはありふれているから、自分を理解するってことかな、っていう発言だ。喜びを見つけるっていう作業も、意志と訓練が必要なんじゃないかなって思った。簡単なのだけど、私の場合、すぐ忘れてしまいがち。不安や怒りやいらいらの種を見つけるのはこうもたやすいのに。何に喜びを見つけるかも、一人一人違う。ああ、こういうことが嬉しいんだ、ってわかることで自分も知ることができるのかもしれない。一石二鳥だ。喜びを見つけようって思うと、毎日の生活の小さな身辺を探ったり、見回したり思い出したりすることになる。大きい喜びは見つけなくてもすぐわかる。見つける態度を養うのは、身辺の小さなことに心を留める習慣にもつながるかもしれない。自分を知るっていうのは果てしなくて、一生楽しめる作業だと思う。一瞬ごとに自分は変わる。傾向や趣味や体質などの変わらない部分もあるにしても。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ジャック・ブラックはまさしく、自分を理解して大物になりつつある役者だと思う。膨らんだ体型。個性的(すぎる)顔。純粋なコメディアンで脇役ならよくあるタイプ。ところが、「愛しのローズマリー」では、ラブコメディに挑戦して、一躍注目を浴びた。普通でないけど、普通を飛び越えた個性って言えるだろう。「スクールオブロック」では、たまに忘れられないほど印象的な表情も見せてくれた。自分を知り尽くしているんだろうと思う。さらに常に自分を超えようと飛び上がる。これからも楽しみな役者だ。
2004.11.23
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生活は隙間の時間で満ちている。怒るのにも使えるし、落ち込むのにもちょうどいい時間。ちょっとした家事に手をつけていもいいし、活字中毒なら、新聞の切れ端を読んでもいい。その時間、フリーフォールにも使えるんだって、初めて知った。リンク先のakhilaさんのフリーページ、プチ座禅について書いてあるところで見つけた言葉だ。七分間のフリーフォール。今までは瞑想や座禅というのは、形を整えなきゃダメなんだって思い込んでいた。できれば15分間以上、時間は空気が済んでいる午前中。蛍光灯の下はダメ。昔誰かに聞いて、ずっと信じ込んでいたらしい。ただ座る、あるいは内面に意識を向けると、だんだん体感覚がなくなってきて、一種無重力。空間に溶け込むようになる。フリーフォール。確かにそうだ。朝の隙間にやってみる。夜でも昼でもどこでもいい。考え過ぎなくていい。
2004.11.22
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NHKスペシャルでローマ帝国のことをやっているのを知らなかった。夜中にテレビをつけたら、第一集の再放送だった。広大な地域で200年間戦乱にさらされなかったというのは、よく考えてみればすごいことだ。そのために、奴隷の存在や皇帝が練り上げた、市民に不満を抱かせないための剣闘士たちの出し物のイベントがあったとしても。人の生死をイベントとして目撃させるというのは、カタルシス的には最高のものだろう。スポーツ観戦の熱狂と映画を見る以上に極上の目の前で繰り広げられる命をかけた闘いのドラマ。座席は厳密に身分によって分けられていたと言う。常に身分を意識させるというのは、日本でも長く太平が続いた江戸時代の士農工商のように立場をわきまえさせ、だいそれたことを考えさせないための装置だったのだという。北アフリカの遺跡に残る市民の落書きの言葉が、番組の最後に紹介されていた。「人に会い、風呂に行って、ゲームをして、ごちそうを食べる。これこそ人生」贅沢な生活。戦乱が何世代も前の朽ち果てた記憶になったとき、そういう優雅な人生観が当たり前のものになるのだろうか。私達の200年は戦乱の繰り返しだった。世界は広くなったけれど、常にどこかに戦乱があり、避難民がいる時代。今の日本は50年以上平和だけれど、どこかで起きている戦闘はやっぱり影を投げかける。これからの200年。どうやってローマ人が謳歌したような平和を打ち立てられるのだろうか。一歩一歩一日づつ、現在を大切に生きて、何よりもまず自分の心の平穏から始めなければいけないのだろうか?
2004.11.21
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「エデンより彼方に」ジュリアン・ムーア主演この映画、50年代ファッションが忠実に再現されていると聞いてみる気になったのだが、テ-マが難物だった。崩壊に瀕する結婚と、肌の色が違う人との恋愛。ジュリアンムーア演じる主婦のキャシーは、誰からも羨まれる境遇にいた。美貌とハンサムで重役の夫と二人の子供と美しいお屋敷。良き妻であり、誰からも好かれる素直な性格。だが、歯車が少しずれると、瞬く間にすべてが崩れ去ってしまう。これほど手厳しい悲劇は初めて見ると思えたほどだ。その小さな街には、黒人はいないとみんな思っている。いるのに見えないのだ。そして黒人の社会でも白人は目に見えるけど存在していない。キャシーは黒人の庭師と言葉を交わす。偶然に現代美術展で再会し、彼の気高さが見かけだけではなく、たいがいの白人よりも本質を見通す目を持っていると知る。ミロの絵を彼はこう解説する。「これは、古典的な絵と同じに神性を表している。すべてを剥ぎ取った色や形の本質」キャシーは、偏見を心に持たない純粋さを持っていて、自分の心にも素直に従う。そういう人間はラジカルで危険過ぎる。みんなが隠し持っている偏見をあぶり出してしまうからだ。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ファッションは見る価値あり。驚きました。50年代にはあんなに胸と腰を強調したたっぷり膨らんだスカートだったなんて(今ではああいうのを着るのは社交ダンスを習っている人だけだろう)しかも家の中でもハイヒールなのだ。いつもいつもハイヒール。ジュリアンムーアを見てはじめて素敵だと思いました。デニスクエイドも笑顔があっけらかんと明るいアメリカンな役のイメージだったのに、ハンサムで繊細で悩める役もちゃんとはまっていた。それにしても、庭師役の人。「24」の大統領候補役のデニスヘイバートでした。彼の演じた大統領は、無意味な戦争は避けようとして、周りの人全てを敵に回すのさえ厭わない、信念の人だった。早く黒人大統領の時代になってほしい、って自分の国ではないのに思ってしまいました。
2004.11.20
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「スクールオブロック」ジャック・ブラック主演ロックは反抗の音楽だっていうことを小学生の子供たちに教える二セ教師。ジャックが演じるのは自己陶酔しきって、バンドを追い出されたロックの情熱だけで生きている男だ。怒りを歌え、ロックしろ。相手は名門私立のおりこうさんな小学生。彼等はおりこうにすることと、学問をおさめることだけを期待されて生きている。たいがいの子供なら、親に期待されようが、学校で教えられようが、やっぱり自分のすきなように生きてしまうか、反抗してしまうだろうかもしれない。彼等は、余りにも素直だ。教師がロックしろというなら、彼等もロックする。やがて物まねが本物になっていく。その過程は感動的だ。ロックが反抗の音楽だってすっかり忘れていた。確かにそうだ。クラシックが世の権力者のものだったとしたら、ロックは行き場のないはけ口しかない若者の音楽。今は、そのロックもほとんど瀕死状態。飼いならされ、反抗を忘れた時代なのだ。怒りは弱い者に向かい、喜びも物欲に振り回される。ほんの少しの反抗、自分であること、自分を理解すること、それをこれからでも習うのは難しいことかな。反抗は、とにかくいけないことだと教えられる。わたしたちは、素直で言われたことを疑わず受け入れることを求められる。この映画は、逆転の思想があると思う。反抗することはかっこいい。怒ることも大切だ。歳とったロッカーたちが今も変わらずかっこいいのは、いつまでも反抗小僧だった心を忘れないからなんだと思う。ジャックブラックは、愛しのローズマリーで目立つ存在になった役者。太っているけど、食べるのがすきだからそれでいい、って映画の中で言ってるけど、多分本音じゃないかと思わせる。人生で大切なこと。喜びを見つけるって言うのは、あたりまえすぎるから、自分を理解することかな、ってインタビューの中で言っていた。
2004.11.19
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「ミドルセックス」という本は、730ページの大作。容量も多いが、その中にあらゆるテーマがモザイクのように鏤められていて、何日分でも日記が書けそうなぐらいだ。その冒頭に近い部分に、スミルナの事件について書かれている。1922年。主人公のカル(カリー)の祖父母のなれそめ編なのだが、ギリシャとトルコの戦争の最中、アメリカへと脱出する道筋のスミルナ(現トルコ、イズミール市)で、祖父母はその事件に巻き込まれる。そのあたりの歴史的事実に関して、私は全く知らなかった。国際都市として香り高く隆盛を極めた都市スミルナ。読んでいるだけでも、その街に対する郷愁が押し寄せてくるような考え得る限り最高に美しい都市だったようである。だが、その街は端から端まで燃えてしまった。殺人、火災、処刑の犠牲者の数ははっきりしない(アメリカの役人は二千人を超えないと声明を発表したという)。だが、火災前そこには四十万人のキリスト教徒がいたが、火災後、19万人が行方不明となっていたという。いつでも人為的に大量の犠牲者が出るとき、その数ははっきりしない。そして犠牲者の数のはっきりしないいわゆる虐殺は、ごく最近でも何度も起きてきた、あまり頻繁に起きているので、誰もがいちいち驚かないほどである。虐殺慣れしてしまっているかのように。人為的だとしたら、必ず首謀者がいるはずなのに、それが政治的に強い側の場合は、数などうやむやにされるのだ。だからいつも数字は立場によって変わってしまう。旅行でとても美しい街に滞在したことがある。水車で有名なシリアのハマというところだ。ところが、旅行ガイド本によると、そこは反体制派が大量に虐殺された場所だという。その美しい郊外の街の土の下には、無数の数知れないほどの死者が埋められているというのだ。のどかで平和で眠たい午後の散歩にうってつけの場所と、対照的な地面の下と歳月。人間の歴史は大量の死者の上に成り立っているのに違いない。虐殺もまた、歴史の成り立ちにかかせない風物ということか。だからあっという間に風化し、あっという間に忘れ去る。来年の今頃、ファルージャについて語られることがあるだろうか。
2004.11.18
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何かを得たら、それで上手くいくっていうのは、大間違いだって今さら初めて気がついた。もっと欲しくなるのだ。モノなら一回買っておしまいってことにはならない。また買いたくなる。お金だって、これぐらいあればいいんだな、って思ってもやっぱりもっと欲しくなる。本だって服だって靴だってそうだ。これが、欲望の連鎖ってやつなのか。今までこれほどはっきり気がついたことがなかった。ちょいと、自分に自信があったのだ。あんまり欲があるほうじゃないって。それって今まで持てなかったからだったのだ。あきらめもあったかもしれない。欲望は決してなくならないものなのかもしれない。いつもあるのだ。ないと思ってもある。ないなんて思ったら一番危険かも知れない。知らずに踊らされてしまうのかもしれない。きのう読み終わった本「ミドルセックス」(これについてはじっくり書くつもりだが)に全くその通りの人が出てくる。神父さんで、穏やかで、愛情深い。家族にも恵まれ、仕事も順調。ところが、突然トチ狂ってしまう。あり得ないことをしでかすのだ(莫大なお金をだまし取ろうとする)この本には、そういう人の出てくる確率が多いかもしれない。他にも、順調に来た晩年にナンバーズくじに狂って、家も財産も失ってしまう人がいる。ないと思うのが危険なら、あると知って対策を取るしかない。欲望自体は、エネルギーにもなるし悪いだけのものではない。どんなものも、長所と欠点があると思えば、欲望の果てに転落することなく、欲望を上手く操って、道具として使うこともできるのだろうか?
2004.11.17
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夜中にぼんやりとテレビをつけていたら、面白い番組をやっていた。初めから見てたわけではないので実はタイトルも確かめていないのだが。若手芸人の実家に出向き、そこでプロファイルしながら、その実家が誰のものなのかを当てるって内容なのだ。見始めたら中々止められなくなってしまった。誰の家なのか知るまでは絶対寝られない。そこは広島にある、古くて小さい普通の家である。狭い庭には、お父さんが端正こめた家庭菜園、人嫌いの犬。ちゃぶ台のある家具がぎっしり詰まった居間。兄の家族と老夫婦がそこに暮らす。お父さんが朴訥ながら気楽に、聞かれたことは何でも話す。若手芸人A(とする)が、ブレイクダンスを習っていたこと。でも長続きせずに止めてしまったこと。今まで何一つ長続きしたことがないこと。かつてAの部屋だった、今は兄夫婦の子供の部屋には、特別に優れた結果でもない成績表が大切にしまわれていた。中学時代には、常に同じ問題点が指摘されている。それは手癖が悪い、手遊びが多い。回答者の男性も女性も、見たことがない人だ。男性の方は家族の人のよさに乗じて、だんだん好き勝手なことを始めてしまう。五エ門風呂が珍しいからと入ってしまう。お父さんを呼びつけて、体の隅々まで洗わせる。お父さんのパジャマを着て、ビールや食事の用意をしろという。その態度には、どうせAは、若手芸人だからと、相手をなめている態度が見え見えだ。しかも夜中のささやかな番組。大物の実家であるはずがない。そこで解答タイム。男性は、ダンディ坂野ではないか、という。女性の解答は忘れた。そのころ、当のAが実家のそばまで来ている。話の中では、彼はそんな番組が、自分の実家で行われていることを、今さっき聞いたばかりだ。現れたときは、驚きときまり悪さで素の顔になっている。回答者も、とっさにいずまいを正して、神妙な顔になる。男の方は、先ほどまでの狼藉の影すらない。なぜなら、Aは、今波に乗るマジシャンのふじいあきらだ。マジシャンも芸人だけど、お笑いとは違う。ミステリアスで不思議で、ただの人ではないのだ。その場で、カードマジックを披露することになる。まだついて間もなく、息を整える暇さえないマジシャンは、いつもの顔ではない。それなのに鮮やかな手さばきは変わらず、見ている側のため息を誘う。家族もやはりため息だ。マジシャンの後ろに後光が差しているように見えた。誰にでもそういう瞬間ってあるんじゃないだろうか。本人は夢中で何かをしていて、自分がどう見えるかなんて考えない。それでも彼の顔に、紛れもなく神々しさが現れている瞬間だ。そう思うと、人間の奥深さや興味深さは果てしないって思ってしまう。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^またまた間があいてしまいました。書くことはたくさんあるけど、一気に書くのはなあ。少しづつ埋めます。
2004.11.16
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昨日の出来事(一昨日の日記だが)で一番堪えたのは、脅しともとれる言葉の攻撃だった。臆病なのでそういうのには弱い方。さらりと受け流せるようになるには、年季が必要なのかもしれないな。そういうのは気を取り直せば、すぐ落ち着く。あれも洗脳の一種なんだろうなって思う。面白い経験をしたって今は思う。異なるものとの出会いの衝撃だ。排他的で、自分たちのみが正しいと強く思っている人々っていうのは、ニュースの中では当たり前に出てくる。人数的にはありふれているのかもしれない。彼等が間違っているとは、言えない。ただ、日頃私が思ってきたこととは、大きく違う。例えば、宗教的には、日本は世界でも珍しすぎるぐらい寛容だ。その中で育ってきたためか、あらゆる宗教の差異って、その地に根ざした気候や養われてきた文化の違い以上のものはないって思うのだ。所詮、宗教は見えないものを扱っているのだから、正しさの証明もできない、由緒で争うものでもない。現世利益が一番わかりやすいかもしれないが、それでは精神を扱う矜持を捨て去る。かといって、彼等の心根(多分善意に溢れているのだろうな)を認めないわけではない。正しさや真実というのは、幾つもあって、見方や立場が違えば、折り合えない地点まで異なってしまうのは致し方ないことだと思う。彼等に出会ったことで、わかったことは、多分こっちの立場の方が弱いなってことだ。なるべく広く浅い視野で、いろんなものを見たいって思うのは、一点集中の気力にかなわない。だから、アメリカでもリベラルは流行らない。ただ、振り子は揺れると思うのだ。いつどうやって変わっていくのかわからない。だから、望みは捨てずにいたいなって思う。どういう望みかと言えば、違いをお互いに楽しんでいけるような自分自身の余裕の獲得かな。------------------------------------------------------そういえば、久しぶりにビデオを借りました。見てないのが増えてるから選ぶのが楽しくて。
2004.11.15
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おまえをきちんと愛したい。毎日毎夜愛したい。俺たちの頭の上、この屋根の下に一緒にいよう。シェルターのシングルベッドを共有しよう。同じ部屋を共有しよう。食べるものも住むところも、ジャーが祝福して与えてくれるから(何の心配もいらない)ボブ・マーリィの曲を聴くのは久しぶりだった。本を読んでいたら、この曲の原詩が載っていた。すぐにCDを探し出して、ずっと聴いている。昔かなり聴いたものだけど、完全にバックミュージックとして聴いていた。詩の単純な美しさに触れるのは初めてだ。こんな暮らしもあるのだ。愛する人とただいる喜び。ジャーに守られている確信。時が流れ過ぎるのを視線の片隅で捕らえながらも意識せず、今の喜びに全てを任せる単純。マーリィ&ウェラーズの曲は、世界がただ美しさと安心に満ちあふれていることを歌っているだけではない。シェルターから一歩外に出れば、外はバビロン。破壊と喧噪と憎しみと怠惰で一杯。だからこそ、今の時間が大切なのだ。愛する人といる時間、苦しみから逃れられるひとときの、希有な価値が浮き上がる時間。そうだったのか、難しいことばかり考えてなくてもいい。もっと無邪気に素直に心を任せなきゃ。って思ってしまった。
2004.11.14
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安全で快適な家から一歩出ると、外にはジャングルが広がっているってことをすっかり忘れていた。今日起こった出来事は全く私がうかつだったせいなのだけど、中々頭から去らないので、日記で吐き出すことをお許し願いたい。ちょっと感情的になるかもしれないけれど。知り合ったばかりで、あんまりしゃべったこともない人に、メールでしつこくランチに誘われていた。それがいつも、家庭持ちにはあり得ない時間帯なのである。だから五回ぐらい断っていた。久しぶりにメールが入り、たまたま少し空いてる時間だったのでつき合うことにした。それが大間違いだった。友達が来たから、同席してもいいかしら?っていうから、もちろん、と答えた。ちょっと見には素敵なご夫人である。二人とも家も近所。近所の話やら、店の話やら、最近物騒なことが多いねなんて当たり障りのないところから会話は始まった。ちょっと変だなって思ったのは、受けること間違い無しの、知り合いが出会った露出狂の話のときだった。全然受けない。にこりともしない。そして、あなたは、運がいい方?って聞かれた。もちろんって答えたけれど。どうやら、それも受けが悪かった。薄々分かってきたのは、どうやら宗教の話をしたいらしいってことだ。二人ともかしこまり、目がすわり、今までの何気なさをぬぐい去り、とうとうと演説が始まってしまったのだ。新興宗教って聞くと、そうじゃないっていう。**学会でも、**協会でもないという。一応、仏教。それでもお釈迦様の理論は死んでいるそうなのだ。わたしは実は宗教研究には血道を上げているところがある。これは嬉しいかもしれないって思ったのもとんだ大間違いだった。迫力で遥かに向こうが勝っていたからだ。「疑いは持たないの?」とか「理性や自由意志はどうなの?」とか、「探究心とかないの?」とか尋ねる私の疑問は、二人のやれやれっていったような首ふりの動作で消えていく。多分百回ぐらい見たと思う。天変地異は、末法の徴で、今すぐ彼等の提唱する言葉を唱えないと、地震で死ぬことになる(あらゆる宗教が似たことをいっているって指摘しても彼等は無視して喋り続けた)それを唱えて、仲間に加われば、今すぐ幸せになるっていうばかり。「あなたにとって、幸せって何?」って聞いても首を振られる(二人同時に)命を生きることが大切なのよ、とかいう。キリスト教やイスラム教は、架空のものを敬っているから大間違いなんだそうだ。確かに神の存在は証明できない。だけど、信じている人にとっては、心の中でいきいきと生き続けているものなのだと思うのだけど。私たちは、押し付けをしているわけではない、例えば子供が毒を飲もうとしていたら、それを止めるよね?私たちはそれをしてるの、と何度も聞かされた。反論の限りを尽くしたつもりだけど、相手の強さはゆるぎなく、会話でなく演説を聞かされるばかり。だんだんつらくなってきて、つまらないから、この話やめようよ、っていっても毒を飲もうとする子供の話の繰り返しだ。その果てしなさにうんざりしてくる。こっちも乱暴な口調になってきた。すると、脅しである。私は、精神が腐っているってとか言い出す。絶対に幸せにならない。地震で死ぬことになるとかだ。一人はふてくされ、もとから少しはなしたことのある方は、自分の宗教の歴史的由来を、目を宙に浮かせたまま喋り続けていた。次の予定がつまっていたので、さよならを言うと、ため息をついて首を振る。悪いものをたくさん食べた気分になって街を歩いた。どうしてあそこまで、自分の言っていることが揺るぎないって思えるのだろう?そして、自分の属さないグループに対して厳しいのだろう。多分カルチャーショックを受けたようなものかもしれない。誰でもどこかしら独善的な部分を持っているに違いない。だが、上には上がいる。街をいく人は、みんなもっと頼りなくて、弱々しくて、気楽そうで、楽しそうだ。その当たり前の人々を見ているうちになんとなく愉快な気分が戻ってきた。強くなくて、悩みがあって、つらいことがあって、それでも楽しいことがある普通のことって、なんて当たり前に人間的なんだろうって思う。空はだんだん雲が薄くなってきていて、その雄大な広さは、見ているだけでホッとする。後で気付いたことなんだけど、彼等の目には輝きや表情がなかった。書いた目のように虚ろで空なのである。それに初めから気付いていながら、うかつに参加してしまったことがちょっと悔しい。
2004.11.13
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当たり前のことなんだけど、最近空の存在が自分の中で大きくなってきて、例え天井があっても、その先に空があるって思うだけでほっとしたり、嬉しくなったりする。夜ふとんの中にいてもそうだ。仰向けに寝る視線の先に空があるっていつも意識してしまう。考えてみれば、空を切り取るビルや山がなければ、視野のほとんど半分は空になるはずだ。空の容量は大きく、実は無限に近いものだと考えると、私たちの世界のほとんどが、空=宇宙なんだって思うかしかない。普段私たちの世界だと考えている地上のものは、地衣類のように薄い範囲にへばりついているだけにすぎない。新月の夜、友達と公園を散歩した、上を向けば、ほとんど夜の空が広がる、あたりまえのことだけど。都会の空なのに、驚くほどたくさんの星が見えた。想像したのは、星の一つで誰かが空を見上げていたら、見えないけれど、こちらと視線があってるかもしれないってことだ。こちらは恒星ではないから、光らないにしても。今年は天体ショーが盛んだ。詳しく知らないから申し訳ないが、近々流星群も見えるらしい。
2004.11.12
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希望っていうのは、使い古された毛布のように陳腐で野暮ったく感じるのはなぜなんだろうか。希望って言った途端に、そんなものに騙されるなって皮肉なため息なんてもらしてしまわないだろうか。こんないい言葉なのに。もっと、大胆に使ってしまっていいんじゃないだろうか。例えば、嵐の海の前方に、雲が切れて日が差し込んでいる部分があったとする。その光がうっすらこちらに届いていると考えてもいい。あるいは、その光が、自分の中の光の場所に呼応していると思ってもいい。自分の中のその場所が、明るい世界に手を差し伸べていて、そこに救命船が近付いてきている場面を浮かべてみてもいい。いつか嵐の海原から脱出できる、浮き輪を手に手繰り寄せるように、その言葉は命綱のような価値を持っているかもしれない。自分の中の光の場所っていうのは、文字どおり明るくて、楽しくて、愉快で、優しい部分だ。誰だって持っているのに忘れてる、前方に光を見出して呼応する部分。その部分を照らしだしてくれる役割を、希望って言葉に担わせてみるのはどうだろうか。あるいは、自分をもっと信頼しようって思う気持ちを。そしてたまには、身体にシャワーを浴びせるように、取り出して洗い出す。
2004.11.11
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これも、前に書いた三輪明広さんとミッチーこと及川光博さんとの対談で出てきた言葉(今調べたら、個は孤独のコだった。孤高というのはかっこ良すぎるけど、ま、書いちゃったからこれでいいかな)人は、一人で生まれてきて(双子も三つ子もいるにしても)一人で死んでいく。誰でも個である条件は持っているはずだ。でも、いつかしら、周囲や社会と折り合いを付けていくのにあくせくして、独りの感覚を失っていくのではないだろうか。失うというよりは、敢えて捨ててるのかもしれない。あるいは、逃げようとしているのかも。一人で考えていても、ほんとはひとりではないかもしれない。悩みがあっても、苦しんでいても、その苦悩は他の人と同じかもしれない。人の悩みの数なんてたかが知れているのだから。自分でしかないもの、自分でしか表せないものを探究するのも、ひとりでやるしかない。人まねから初めても、いつかは暗闇を手探りでいかなくてはならない場面に出会うのだと思う。一人でいること、一人で考えることは、芳醇で他に換えがたいほど貴重だと思う。続けていけば、他の人と違う苦悩の段階に至るかもしれない。もし、そこまで行けたら、きっとそれが本物の「個」になるのかもしれないとも思う。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^心配おかけしましたが、復帰しました。これからもよろしくお願いします。
2004.11.10
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古くて可愛いマックが死んでしまいました。せっかく、調子よく復帰しようと思っていたのに。申し訳ないですが、完全復帰までは少し時間がかかるかもしれません。今カフェで書いていますが、ログインにめちゃくちゃ時間がかかってしまいました。また来れるまで、しばしのお時間をいただきます。
2004.11.09
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日記を書きあぐねてる。休み過ぎたからかな。一時は、全く直さないでOKだったのに、昨日の日記ときたら、ほんとは削除したいくらいだ。それはともかく、まだ起きてるからには、書いてしまわなくては寝られない。だから、是非身につけたい美徳の謙虚について書くことにした(ほんとは毎日聞いてるU2について書こうって思ってたけど)謙虚の反対は、多分傲慢。傲慢な人ほど鼻につく人はいないから、謙虚は絶対良き人にとっては条件になるのではないだろうか。謙虚があって、自信があれば鬼に金棒。だけど、学校で習うこともできないし、本で読んでもよくわからない。実生活で揉まれることでしか身につかないようなもの。謙虚を是非とも身につけたければ、不断なチャレンジが必要なのではないかと思った。何かで上手くいっていっていても、別分野は暗闇だ。ちょっと舳先を変える気持ちで、いろんなことに挑戦していくのはどうだろうか。新しいことに奮闘している間に傲慢にあぐらをかいていることはできないし。自信があれば謙虚になれるのだろうか?そうとも言えないと思う。自信が傲慢にすり変わってしまうこともあるだろうし。自信は謙虚の必要条件であっても、十分条件でないってことだろうか。自信を持てる方法について考えてみたことがある。まるっきり思いつきだから、あてにならないけれど、何か自分で決めた予定なり、ルールなりを自分で守っていくことで自信を養うことができるのではないだろうか。決断と行動を直結させること。手紙を出そうと思ったら、書いて出す、庭を掃こうと思ったら、掃く。自分で決めた行動を淡々とやっていく、一つ一つの積み重ねが、自分を信頼することに繋がっていくのでは?難しいことに初めから挑戦するのではなく、まずは、掃除。私の場合は、またそこに戻っちゃうけど。
2004.11.08
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日記を書いていないときは、ろくなことを考えなかった。例えば、お金のこと。研究する価値はあるけど。そして思ったことは、お金を使うのはたやすいことだなってこと。同時にお金を得るのもたやすいとも思う。方法や手段を選ばないで、エネルギーや時間を使えば、多少のお金は手に入る。お金によって、嬉しくなったり悲しくなったりするのもいとも簡単だと思う。感情が簡単に操られてしまう。前にもお金と愛を比較した日記を書いたことがあるけど(比較できるものではないにしても)お金に比べると、愛の方がずっと厄介なものではないだろうか。特に恋愛について考えれば。エネルギーや時間を費やしても、必ず手に入れられるものではないし、偶然や運命などの、人知の及ばない部分に左右される。出会いやチャンスがいつどこに転がっているか、前もってわからない。お金が物質を代表する道具だとすると、恋愛は見えない世界なのかも。幸福な気持ちを持ち続けることも案外たやすいことかもしれない。現実を受け入れ、感謝を忘れなければいいのだから。そう心を訓練しようと心掛ければ、できないものではないと思う。
2004.11.07
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「夜の闇を待ちながら」レニー・エーアース著「天球の調べ」エリザベス・レッドファーン著歴史ミステリを二つ読んだ。前者は第一次対戦の傷跡が深く残る20世紀初頭のイギリス。後者はフランス革命のまっただ中、フランス貴族の亡命者がなだれ込むロンドン。歴史ミステリのおもしろさは、犯罪がからむことにより当時の世相や文化や政治の特徴が深く浮かび上がり分かりやすいことだと思う。謎解きや人間模様も悪くなかったが、一番楽しく読めた部分が重なっていたのがおもしろかった。職場の権力争いだ。現在にも通じるところがある。前者では、犯罪捜査方針の対立で、主人公のマッデン一派の捜査権が危機に瀕する。相手は人気と政治力を兼ね備え強大な力を持つ。謎の解明が遅れれば、今までの捜査の結果が水の泡。一番はらはらしながら読んだ。後者は、省庁に勤める役人のジョナサンが主人公。かつて事務次官になるのも時間の問題と見なされた切れ者で出世頭だった彼も、3年前に女優を目指して家出した娘が、娼婦となって殺された事件以来、下手人を探して夜の街をさまようようになり出世の道も閉ざされる。赤毛の娼婦の殺害が連続して起こり、娘の事件との関連を見つけた彼はさらに、街を駆けずり回るようになり、仕事の方はさらに閑職へと追いやられるようになってしまう。ジョナサンの為すところは上司は全てお見通しだ。彼を追いやって得をするものがいるのだろうか?職場にスパイがいるのだろうか?いつの時代でも、職場での地位や政治力は仕事人にとっては一大事なのだな、って思ってしまった。仕事が時間のほとんどを占めているのは、常に同じだ。次の関心事は女性、趣味とくるのだろうか。また美輪さんの話に戻るが、ミッチ-との対談でおもしろい発言があった。美輪氏にとって「フランス革命はちょっと前」というのだ。歴史感覚というか、いつの時代を元に考えているかってことだろうと思う。美輪氏には、フランス革命の時代も、その後に続く時代も感覚的に手に取るように身近なのだろう。時間感覚の幅が広いといってもいい。長いレンジで考えられるということでもある。自分はどうなんだろうって考えてしまった。どの時代を身近に考えられるだろうか。物指しになる時代を持っているだろうか。ここで話はまたずれてしまうけど、親近感を感じる時代、好きな時代について考えてみた。身体のどっかで懐かしさを覚える時代っていってもいい。歴史を知るのはそもそも好きだけど、親近感的にいえば、中世ヨーロッパだなって思った。行ったこともないし城に足を踏み入れたこともないのだけれど、感覚的に。だから、阿部謹也氏の「ハーメルンの笛吹き男」などの一連の著作を読んだときほど楽しかったことはない。逆にいえばそれだけ阿部謹也氏の著作が素晴らしかったことだということかな。
2004.11.06
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前に人は光の塊って書いたとき、忘れていたのは自分もそうなんだってことだ。それを思い出したのは、前述した美輪明宏さんの本なのだけど、信仰と宗教の違いっていう章の、 宗教は、拝み方の方法を教えてくれるもの、信仰は、清らかで、温かで、美しく、厳しく、強いエネルギー体である神仏にお力を与えて下さいと仰ぎ、日常生活のさまざまな出来事の中で、自分自身もまた神仏と同じレベルの魂まで高めていく作業だ、という言葉。だが、身体を構成している要素、普通に見える部分は紛れもなく存在していて無視できるものではない。光と対立しているわけでないかもしれないのだが。両方視野に置いておく視点が欲しいと思った。片目で物質を見て、片目で見えないエネルギーを感知するのだ。囚われることのない澄み切った視線で。
2004.11.05
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禅には、軟蘇の法っていうのがあるらしい。軟蘇というのは、色もきれいで匂いも素晴らしいクリームで、座禅しながら、その固まりが頭の上にあるのを想像する。それが、溶けながら身体を浸していくのを想像するのだという。誤解していて、甘い生クリームのふわふわした固まりだと思っていた。それで、ある日そのソフトクリームのようにも見える固まりが、目の前にあるのを想像した。その泡のような固まりに手を差し入れると、一瞬にして癒される。どんな願いもすぐに叶うようなマジカルなイメージである。プラスの力の凝縮したもの。それほどマジカルでなくても、パワフルな球っていうのは実はいつも身近にあるのではないだろうか、って今日思いついた。そして、その反対のもある。負の球だ。暗くてフワフワ感もなく、鋼鉄の冷たさで前方にぶら下がっている。ネガとポジの球、あるいは可能性、選択の幅は、いつも私たちの前方に並んで浮かんでいるのではないだろうか。どちらを選ぶかは、そのとき次第。
2004.11.04
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先日古本屋へ行って買った本のうちの1冊は、美輪明宏氏の「愛の話 幸福の話」。ピンクで耽美たっぷりな装丁、だけど中身は硬派で抑制が効いていて甘さがない。例えば「哲学する」の章。「ああでもない、こうでもないと思いめぐらせる。行き止まりにぶちあたっても、もっともっと考えてみる」その行為が、哲学することであるという。自問自答の大切さ、考え続けること、さもなければ自分も世界も見失ってしまうだろうという。「あなたは弱くない」の章では、「地球上のさまざまな知識を得る努力をすること。360度の中のたった一度の幅で考えていても答は出ない」一日を大切にするってことでも、究極の指針を授けてくれる。「大切なことは一つだけ。明日の朝、目がさめなくても後悔しないと思える毎日を送れればいいのです。明日があるなんて思ってはいけません。今日という日がおろそかになってしまいます」さらに、美意識、ロマン、誇りや恥の心について語られる。今の我々の周りでは、滅多に聞かれないし語られない言葉だ。このカッコよさ。一つには氏のきっぱりとした生き方から生まれてくるのだろうが、別の観点から見ると、戦前生まれという氏が生き抜いてきた時代の違いもあると思う。かつて日本が持っていた、シンプルな生活と価値観が氏の思想とあり方に1本の筋を持たせてくれるのだ。それに、憧れに近い思いを抱かせられる。失われてしまったものはなんてたくさんあるのだろうと。
2004.11.03
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鏡を見るとき何を見るだろうか? 女性だったら、お化粧の具合とか、顔色とか、可愛らしく見えるかどうかを気にして見る。何日か前にNHKで深夜、「よい上司になる方法」というようなテレビをやっていた。初めから見ていたわけではないので、正確なタイトルはわからないが、セミナーに参加し、自分を分析し、よりよい上司になるのを目指す人たちの話だ。会社の売り上げに上司の能力は大いに影響があるという。一人の管理職は、デスクの上に鏡を置いていた。部下が報告に来るとき、固い顔をしていたら、気楽に報告してもらえないという理由で、いつも自分の顔を確認しているという。そんな鏡の使い方もあるのか、と驚いてしまった。次の日に斉藤一人さんの言語録を見ていたら、よい人相は顔にまるがある、っていう箇所があった。顔に丸っていうのは、笑顔でいようっていうより、イメージが湧きやすい。口の端が上がっていて、まゆ毛が下がっているってことらしい。それを読んで以来、自分の顔に丸があるかどうか、気にすることにした。今まで容姿に振り向けていた関心のいくばくかを、丸があればいい、に変えることにしたのだ。途端に気分が明るく落ち着いたような気がしてきた。
2004.11.02
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これは、負け続けている贔屓のチームの試合を見ているとき、アナウンサーの倉敷氏が言った言葉だ。CLリーグのグループリーグ。これに負ければ後がない試合で、せめ続けられている。シュートが雨あられのように放り込まれ、岸壁で持ちこたえているような具合。(その前の試合では、持ちこたえられず五点も入れられてしまったらしい。実はわたしは最後まで見ていられず、結果を知ったのはつい最近)この言葉にハッとしてしまった。耐え難い場面っていうのは、サッカーに限らず、生活のあちこちでも出会ってしまうものだ。耐え難いって思っても耐えるしかないとき。倉敷氏の言葉で、それを初めて認識させられたような気がした。耐え難きを耐えるって思えば、もう一歩自分を掘り下げられるのかも知れない。たいしたことではないのかも知れない。誰でも知らずにやっていることかもしれない。きのう一晩で読み終わった「ハドリアヌスの長城(ロバート・ドレイパー著)」っていうミステリ本は、究極的な耐え難きを耐える人が主人公の本だった。15歳の時に人を殺し15年後仮釈放が認められる。ところが、釈放の前日、牢獄で人を殺し脱獄を余儀無くされる。そして八年間逃げ回り、特赦が認められ、故郷に戻ってくるところから話が始まる。読みはじめはつまらなかった。耐えながら読み続けたってところだ。だが、やめられなくなった。主人公があまりにも魅力的だからだ。悪の魅力ではなく、善の魅力。善と言うのは、耐え難きを淡々と耐えることから生まれるのではとまで思ってしまった。責任を引き受けるって言ってもいい。別の本の主人公で、今思いついたのは、ダレンシャンだ。子供なのに、耐え難きを耐える立場を引き受ける。ハリ-ポッターより抜群に魅力的ではないだろうか。ハリーのように、生まれながらに特別なわけではない。ごく普通の少年が、耐え難いことを自ら受け止めることで、生まれ変わる。(まだ一巻しか読んでないので、これからどうなるのかわからないが)アイマールの事故について知ったのも実はきのうのこと。復活と怪我の繰り返しを耐え抜いていく姿にショックだった。サッカーは危険なスポーツなんだろうか?ほとんどK1のような世界ではないか。さらに上を目指そうって思うなら、耐え難い状況は普通より多くなるのだろうか。だから、耐えろってことなのだろうか?
2004.11.01
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