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2010.08.22
僕が僕でなくなるとき・・・14
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「やっぱり。三津子なんだね」
彼女である。あの海で一緒に潜る前に見せた最後の笑顔が、目の前にあったのである。
「どうして君がここに」
そう話し出す彼は、またしても海の中に体が置かれた。水の圧力が彼の体を包む。あわてる彼は口元を手で押さえようとした。
だが今は息苦しくもない。不思議と呼吸が出来るのである。
そして何よりも、海の中だというのに話が出来るのだ。
「息が出来る……しゃべれるぞ」
妻はそんな稜を抱き寄せるがごとく腕を広げた。
するりと体を前に進ませる彼は彼女の前に漂った。
「あなた…私、死んだのよね。どうして…」
「分からない。君はあの時何かにとらわれたように前に進んだんだ。僕の合図も目に入らず。そして毒蛇に首を噛まれたんだ。それだけだった。たったそれだけのことで」
「僕は悲しかったよ。シュウもいなくなった君を探すように部屋を歩き回っていたよ。つらかった」
「シュウを見るたびに、涙がこぼれたんだ」
三津子はその時、確かに我を忘れて海の底を目指したことを思い出した。
「何かに呼ばれたのよ。底に埋まっているものを探し出して欲しいって。そう聞こえたの」
「僕らがよく耳にしていたものの正体だったのか?」
「さぁ分からないわ。気がついたら今こうしてあなたの前にいるんですもの」
「その間の記憶はないのかい?」
三津子は黙っていた。苦悶する表情は必死に思い出そうとしていると稜にもわかった。
「だめ、分からない。でもなんだか体が熱くなったのは覚えている」
「それって、冥界へのいざないってやつか?」
「あなたがよく船の上で話していたことよね。人は死ぬと冷たくなる。それは肉体の中にあった魂が温かさを伴って旅立つからって言っていたものね」
「ああ。肉体の温度は魂が抜ければ自然と下がる。魂はどんどん熱さを持つ。熱ければ熱いほど天を目指す。熱力学的に考えても熱の流れはそうさせる。」
「君が熱さを感じたのならばそれは冥界でも至極上等な世界に向かったんだろう。親父がいっていたようにね」
「うん。こうして現れるまで苦しむことがなかったことを考えれば、地獄に追いやられたのではないと思うわ」
二人は再び目を合わせた。
夫が妻の手を、妻が夫の手を互いに触れ合うように伸ばした。
「夢でも良い、このままずっとこうしていたい」
すると妻は急に下を向いて首を振った。
「それは無理よ。あなたが居なくなればシュウはどうなるの?私達のかわいい坊やを置いてあなたを連れて行くことはできないわ」
稜も分かっていた。分かっていたが、自分のこの高まる気持ちを抑えられないのだ。
そして、彼女は顔を上げて彼に言った。
「お願いがあるの」
「なんだい?」
「この湖のそこに丈夫なクバの木で出来た箱が沈んでいるの。それを引き上げて欲しいの」
「それはなんなんだい?」
稜はどうしてそのようなものがあるのか、またそれを知っている理由や何故引き上げる必要があるのか知りたがった。
「何も聞かないで。ただ、今言えるのは、私が甦るかも知れないってこと……」
「なんだって!そんなことが、そんな馬鹿なことが!」
「真面目よ。近未来と言える世界に育った私だって最初は信じられなかった……でも、もしそれが本当なら」
「わかった、君が、君が元に戻れるというのならなんでもする。どんなことだってしてみせる」
彼は疑わなかった。彼女のその言葉の真意を確かめるすべがないことと、何よりも彼を愛し自分も愛した者への信頼がそこにあったからである。
「丁度今いる場所から東に500メートルほどの沖合い。そこは水深が70メートルもあるの。そして、一番深いその湖底に石や木片の塊の下に探してほしいものがあるのよ」
「何か目印や特徴はないのかい?海と違って湖はその下が泥だから、一端視界が閉ざされれば、浮上しなければならないよ。一度きりの真剣勝負じゃないと」
「大丈夫。この場所は下から真水が噴出しているから視界は確保されるはずよ。そして、光の届かないくらい静かなそこに一際輝くものが見えるはず。だから心配ないわ」
またである。いくら彼女がこの世に存在しないとはいえ、そんな砂漠の上に落とした針を探すような、しかも的確に言い当てるようなことが出来るはずもない。
あの世といえるところに意識があるというのはそうした万物のあらゆる物を把握してしまうものなのであろうか。
稜は不思議に思いながらも、詮索はしまいと、返事をした。
「わかった。とにかく行ってみる。だけど、万事うまく引き上げたとしたら……」
「そのときはまた、来るわ」
そう意味深な言葉を残し彼女は消えていった。
稜の意識も深い底に落ちるように薄れていったのであった。
ボンネットの上にはまた一匹の蛇が現われていた。運転席で力なく窓に頭を持たれかけていた稜の方をジッと見つめていたのである。
シュウが京都に着いたのは午後八時を回っていた。
岡本という表札はすぐにわかった。
大きな門だ。真新しいつくりのそれは古都の中でも十分目立つ。
ベルを鳴らした。
「お久しぶり戸張君。よく来てくれたわ」
あの時、さようならをいった、大きな瞳が、シュウを再び見つめていた。
懐かしい思いではなく、昨日も会って分かれたような、不思議とそんな気持ちにさせられた。
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Last updated 2010.08.22 13:53:19
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