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朝日新聞出版、マンが日本史「黒田官兵衛」。
1546(天分15)年、播磨の国に生まれた黒田官兵衛は、優れた軍師として有名ですが、実は、おじいさんもお父さんもすごいのですね。
もとは、宇田源氏の流れ~天皇の末裔かも?~だそうですが、祖父の重隆の代に播磨国に住み始めます。
当初は、たいした財力を持たなかったようですが、播磨国の広峰山の山頂にある神社のセールスマンとして~当時、全国各地にお守りやお札を配りながら神社の御利益の宣伝回りをする人々がいたそうです。~神社のお札に黒田家に伝わる目薬「玲珠膏」をつけて配ったところ、大評判。
その目薬を売り出して、たちまち大金持ちに。
そして今度は、そのお金で土地を買い、当時としては破格の低い利息で、農民たちに貸し付けました。
また、米も貸し与えて、その米を借りた者を家で働かせて、多くの奉公人を抱える大富豪に。
父の職隆は、播磨国の豪族・香山重道を襲撃し、その首を香山家と敵対する小寺政職に差し出し、家臣団に加わります。
それからわずか2年後、実力を買われて、上席家老へと大出世。
黒田官兵衛自身は、16歳で小寺家に仕え、武功を重ね、家督を継いで姫路城代になります。
織田信長が天下を取ると確信していた官兵衛は、小寺氏を説得して、織田家に従属を決めさせ、自らが使者となりました。
その後、豊臣秀吉に仕え、鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻め、そして、信長の死後の「中国大返し」などは、すべて、官兵衛の策。
しかし、秀吉が天下を取った後は、その才能を秀吉が恐れるの察知したのか、44歳で隠居します。
そして、やはり、官兵衛の息子もえらい。
関ヶ原の戦いでは、東軍(家康軍)につきました。
西軍の小早川秀秋の寝返りの説得に成功し、東軍をあっという間に勝利に導きました。
ですが、これ、官兵衛にとっては誤算だったようです。
関ヶ原の戦いが徳川軍が勝つとしても、数か月は長引くと考えた官兵衛は、息子を東軍に参加させ、自身は、援軍と称して九州に向かいます。
九州を制しておいて、そのまま上方に上って天下を狙おうとしていたようなのですね。
残念でした。
最近の黒田官兵衛といえば、やはりこの人でしょうか。
わかぎみ 2022年08月19日
北条義時と鎌倉幕府がよくわかる本 2022年03月09日