・嶋津輝の『カフェーの帰り道』は、華やかな「カフェー文化」の陰にいた女給たちを通して、大正から昭和へ移り変わる東京と、そこに生きた女性たちの人生を描く連作短編集。2025年11月に東京創元社から刊行され、第174回直木三十五賞を受賞した作品だ。全5編が一つの店と人間関係を軸にゆるやかにつながっている。)
・『カフェーの帰り道』の舞台は、東京・上野の片隅にある、あまり流行っていない「カフェー西行」。食堂や喫茶店の役割も兼ねたこの店には、個性豊かな「女給」たちが働いている。竹久夢二風の化粧で人目を引くタイ子。小説家を夢見ながら思うようにいかないセイ。嘘つきだが、人の面倒を見ることには長けている美登里。そこへ年上の新人・園子も加わる。彼女たちは西行で働き、笑い、恋をし、悩み、それぞれの人生へ戻っていく。物語の中心にあるのは大事件ではない。むしろ、誰かにとっては取るに足らない一日、誰かにとっては人生を変える一日。その小さな時間の積み重ねだ。
本作は5編、
から構成される。つまり、独立した短編集に見えて、実際には「カフェー西行」という場所を中心に人々の人生が交差していく連作小説になっている。
・本作を理解するうえで重要なのが、「女給」という職業だ。現代の感覚だけで考えると、女給は単なるウェイトレスのように見える。しかし当時のカフェーでは、料理や飲み物を運ぶだけではなく、客との会話や店の雰囲気づくりも重要な仕事だった。つまり女給は、 商品を提供する人であると同時に、店そのものの魅力をつくる人間 だった。
・物語の入口となる「稲子のカフェー」では、カフェー西行という場所と、そこで働く女性たちの空気が提示される。ここで重要なのは、カフェー西行が決して華やかな一流店ではないことだ。むしろ流行から取り残された、少し寂れた場所。
しかし、その「流行っていなさ」が、この店の魅力でもある。上野・湯島・本郷の境界付近という土地柄も含め、そこには大都市東京の中心から少し外れた人々が集まる。華やかな都市文化の表舞台ではなく、その裏側。そこで女給たちは働いている。本作は最初から、歴史の中心人物ではなく、 「歴史に名前を残さない人々」 を主人公に選んでいる。
・本作の最大の特徴は、5編が「一つの物語」として直線的に進まないことだ。一つの短編で脇役だった人物が、別の短編では主人公になる。ある出来事を最初は何気なく読んでいたのに、後の物語で別の意味を持つ。この構造によって、読者は「人間には一つの顔しかない」という考えを崩される。ある人にとっての脇役は、別の人の人生では主人公だ。これは非常に文学的な発想だ。
・この本が最終的に語っているのは、「昔の女性は大変だった」という単純な話ではない。もっと普遍的な話だ。人は誰でも、人生の途中で誰かと出会う。同じ職場で働く。同じ店に通う。同じ時間を過ごす。そして、いつか別れる。そのとき、その関係が終わったように見えても、相手から受け取った何かは残る。それは言葉かもしれない。親切かもしれない。笑いかもしれない。あるいは、自分の人生を少し変えた考え方かもしれない。だから「帰り道」とは、別れの道でもある。しかし同時に、
誰かと過ごした時間を抱えて、自分の人生へ戻っていく道 でもある。
・『カフェーの帰り道』は、派手な成功譚ではない。むしろ、歴史の大きな流れからこぼれ落ちてしまいそうな女性たちを、一人ずつ拾い上げる小説だ。そこには、現代のビジネス書があまり語らない「働くこと」のもう一つの側面がある。カフェー西行で働いた女性たちは、やがて店を去っていく。時代も変わる。店も、人も、街も変わる。それでも、あの場所で交わした言葉や笑いは消えない。だから『カフェーの帰り道』は、古い東京を懐かしむだけの時代小説ではない。 「人は仕事を通じて誰かと出会い、その出会いを抱えて、また自分の人生へ帰っていく」 という、きわめて現代的な人生小説だ。そして、その帰り道にこそ、人間の本当の人生がある。
カフェーの帰り道 [ 嶋津 輝 ]
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