全105件 (105件中 1-50件目)

市の公報で見つけて5月16日に自然を守る会主催の海岸の生き物観察会に参加しました。参加者は約20名でした。会場は児島大畠釣り公園付近の海岸でした。干潮の時刻に合わせて午後の少し遅めの時間に観察会はありました。まだ小さいハクセンシオマネキ 観察会は主に鷲羽山の東側の自然海岸の波打ち際や岩場を中心に生物の観察をしたり、ワカメなどの海藻を茹でて、褐色から緑色に変わることを観察したりしました。水内際の岩場にはワカメが生えています岩の隙間にはカメノテが密集していますタテジマイソギンチャクヒトデその他にも名前が分からない生き物が沢山いました。なお、8月には鷲羽山ビジターセンターで海岸で集めたきれいな貝殻を使ってアクセサリー、写真立て、リースなどのクラフト作りをするそうです。
2026.05.17
コメント(0)

陸地から100mくらい沖にある小島がシラサギのねぐらになっています。陸地から小島までこのくらいの間隔があると猫や野犬などの外敵が泳いで渡っていくのが難しいのでしょうか。それで安全なねぐらになったのでしょうか。2020年7月の様子2024年7月の様子2026年5月の様子2026年5月 別の方角からの様子2年前まではこんもりと樹木が茂っていましたが、今年の島は背の高い樹木が枯れたのか木がまばらになっているようにみえます。この2年間に何があったのかは定かではありませんが、シラサギの糞のせいで樹木が枯れたのでしょうか。別の方角から見ると糞で白くなっているように見えます。
2026.05.09
コメント(0)

3月に開花したサクランボはGWに入って雨模様の天気ですが実が熟してきました。鳥やアリに食べられたり、このところの雨で大量に落果したりしていますが、熟して食べごろになってきました。手が届くところの実を採って食べてたり親戚におすそ分けしたりしてます。
2026.05.03
コメント(0)

地元の道の駅の花畑のポピーが開花しているそうなので見に行きました。当日は雨が降ったりやんだりの天気で、家を出てからしばらくするとかなり激しい雨になったので、どうなることかと心配していました。到着するころには雨は上がって少し青空が見えるくらいになっていました。地面は濡れていましたが、水たまりが無くてよかったです。花は5分咲きくらいでした。
2026.05.02
コメント(0)

下津井城跡は南側に下津井の町並みを見下ろす丘陵の上にある。連郭式の平山城であり、西より西の丸、二の丸、本丸、三の丸、中の丸、東の丸が直線的に配されている。また、小さいながらも本丸には天守があった。城の北側の丘陵に侍屋敷が配されていた。江戸時代初期に廃城となったため遺構としては石垣、土塁が残っているのみである。文禄年間(1592年 - 1596年)に、宇喜多秀家により小さな砦が築城され、城主に家臣の浮田家久が入る。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で西軍に属した宇喜多秀家は改易となり、代わって小早川秀秋が岡山に入封すると、その重臣平岡石見守頼勝が下津井城代となった。慶長7年(1602年)小早川秀秋が急死し、慶長8年(1603年)池田忠継が岡山藩主となり、赤穂城代池田長政を普請奉行となり改修を行う。寛永16年(1639年)一国一城令により廃城となる。なお、城主であった池田由成は岡山藩家老として天城に陣屋を構え移った。子孫は天城池田氏として明治まで続いた。 現在は瀬戸大橋架橋記念公園の一角にあり散策路が整備されている。瀬戸大橋架橋記念公園の案内図本丸跡の石垣本丸跡三の丸跡石垣
2026.04.28
コメント(0)

地元の酒蔵の新酒まつりに行ってきました。酒蔵の見学ツアーや酒蔵でのコンサートもやってました。5種類のお酒の利き酒をして当たったら景品がもらえるイベントもありたくさんの人が挑戦していました。やはり皆さんの楽しみはお酒の試飲をしながら屋台での食事のようでした。もちろん今年の搾りたての新酒の販売もやってました。受付に案内のはがきを渡すと、三種類のお酒の試飲か酒かすの詰め放題かどちらかのチケットがもらえます。車で来ていたので、お酒の試飲はあきらめて酒かすをもらいました。歴代総理の揮毫のレプリカを展示していました。書いた人のいろいろな個性が出ているので見ていて面白いです。
2026.04.20
コメント(0)

今年初めてツバメが飛来してきているのを観察しました。ツバメはわずか20g程度の体重で何千キロもの渡りをするのは驚くべきことです。畑の上などを低空飛行して虫を捕まえようとしているようでした。ツバメは飛行速度が速く写真を写すのが難しく何度も挑戦して、やっと1枚撮れました。しかし残念ながらピンボケしています。
2026.04.17
コメント(0)

猿掛城跡の矢掛側の登城口から土手を川下に向かってしばらく進むと倉敷市真備町側の登城口がありました。矢掛町側からすでに登城した後なので、こちらは眺めただけで帰りました。猿掛山にはヤブツバキが多く、ほかの城跡と違って落葉樹が少ないのが特徴的です。日本の南西部は大部分は照葉樹林帯に入るので人の手が入らなければヤブツバキなどの照葉樹が有るのは不思議ではないのですが、近隣の山城跡は落葉樹が多かったり、植林された杉やヒノキが多かったりで、なぜかなと思います。ひとつ考えられるのは杉やヒノキは木材として価値が高く、殖産の意味で植林が奨励されたことがあるかもしれません。落葉樹は落ち葉や木の枝を燃料として活用するために照葉樹を伐採して、増やしていったのかもしれません。
2026.04.10
コメント(0)

椿寺として有名な圀勝寺に椿を見に行きました。明日がつばき祭りで寺の境内や駐車場にテントが張られていて祭りの準備が始まっていました。今年は開花が少し早かったようで、木の下に落ちている花が少し枯れていました。それでも八重の花びらがまるで絨毯のように椿の木の下一面に敷き詰められて見ごたえがあります。この椿は樹齢350年の古木で町の天然記念物になっています。
2026.04.10
コメント(0)

先日と同じ池の土手にまたワラビ採りに行きました。採っているときに会った人はお年をめしていて、土手の勾配が大きくて危ないので、ここでは採れないと言ってました。ワラビはたくさん生えていたのですぐに袋にいっぱいになりました。
2026.04.06
コメント(0)

4月5日は日曜日で、前日からの雨はやんで朝から晴れていました。桜の花は少し散り始めていましたが、まだ満開で見頃だったので家族で昼食を兼ねて花見に行きました。スーパーで買ったサンドイッチでしたが、家族一緒に桜の花の下で花見しながら食べました。特別なものではなくても外で食べるとおいしいですね。晴れて穏やかな天気だったので公園には花見客が多くてにぎわっていました。山の上の公園でほとんどの人が家族連れで、車で来ていたので、酒を飲んで騒ぐような人はいなくて、静かな花見でした。
2026.04.05
コメント(0)

斉田(佐井田)城は岡山県真庭市下中津井の標高332mの山上に有った山城で戦国時代の備中北部攻防の中心城でした。築城年代は定かではありませんが、文治3年(1187年)山田重英により築城されたとの説や、永正年間(1504年~1521年)に植木秀長により築城されたなど諸説あり定かではありません。 城主と伝えられる植木氏は、備中国守護代を務める庄氏の一族で、天文年間(1532~1555)に砦部〈あざえ〉庄(真庭市下呰部・上呰部付近)を支配していたことが史料にみえます。 永禄2(1559)年の猿掛城合戦で毛利氏に敗れた庄氏とともに、植木氏は尼子氏を頼って出雲に遁れますが、永禄12(1569)~元亀2(1571)年頃に宇喜多氏の助力を得てこの城に入ります。元亀2(1571)年9月の佐井田合戦では毛利氏を撃退しますが、翌年に結ばれた講和によって、この城は毛利氏に引き渡されることになりました。 天正2~3(1574~1575)年、備中松山城主の三村氏が毛利氏に叛いて戦った備中兵乱が起こると、毛利氏はこの城に籠もる三村方の部将を逐って城番を置きます。そして、天正7(1579)年には、毛利氏と断交した宇喜多氏の勢力をこの地域から一掃し、以後、両氏の争いの舞台は美作西部へと移ります。 別の説では永禄11(1568)年、岡山城主宇喜多直家が佐井田城を攻撃し、植木氏は宇喜多氏の軍門に下りました。その後の戦乱を経て、天正8(1580)年に植木秀資が佐井田城主に返り咲き、慶長5年の関ヶ原の役後は廃城となりました。 山頂から東西に延びる尾根筋に築かれたこの城は、東西240m、南北90mで、旧北房町でも屈指の規模を誇ります。城山神社が建つ主郭の西側には2条の堀切を設けて尾根筋を遮断し、東側には高く急峻な切岸を備えた曲輪を何段にも連ねた連郭式の山城です。また、南斜面には城井戸と伝わる遺構も残っています。 斉田城主郭跡 右の建物は稲荷神社 斉田城跡へは高梁方面から願成寺を目指して国道313号線を行くと途中の国道沿いに斉田城跡の案内板があります。そこで左折して寺を過ぎた先を南へ曲がると鳥居が見えますが、ここが登山口です。登山口前に駐車場と休憩所が設けられています。現在は主郭に稲荷神社が祀られていて登山道が整備されています。
2026.04.03
コメント(0)

近くの貯水場の周囲に植えてある桜が満開になり、見頃です。岡の頂上にあるので遠くからでも見渡せますが、今日は近くまで見に行きました。桜は子も大きくなって見事ですが、柵の中に植えてあり、周りは藪になっているので、ここまで花見に来る人は見かけません。
2026.03.31
コメント(1)

散歩していたら、近くの池の土手にワラビが生えているのを見つけました。日当たりがよい場所だったので早く生えてきたみたいです。短時間でしたが採って帰宅して重さを測ったら865gもありました。近くで会った人の話では近くに養鶏場が有ったのでそこでワラビを採らないと言っていましたが、養鶏場は20年位前に閉鎖になって、今は建物もなくなっているのでもう気にすることはないと思います。
2026.03.31
コメント(0)

鶴首城(かくしゅじょう)は、備中国川上郡成羽(岡山県高梁市成羽町)にあった城で、別名・成羽城とも呼ばれる。鶴首城は成羽川南岸に聳える標高331mの鶴首山に築かれている。平安時代終わりの文治5年(1189年)に奥州合戦に功績のあった河村四郎秀清が築城したと伝えられている。天文2年(1533年)、美星町星田を本拠としていた備中の戦国大名の三村家親が城郭を整備拡張して拠点を鶴首城に移し、備中国内で勢力を拡大していった。永禄4年(1561年)三村家親、元親父子は、毛利氏と結んで庄高資の居城の備中高松城を攻め落とし、本拠を備中松山城に移した。その後、鶴首城は一族の三村親成、親宣父子が城主となった。永禄9年(1566年)宇喜多直家によって家親が暗殺された。毛利と宇喜田が結んだことに反発した三村元親は毛利に反旗をひるがえし、1574年に備中兵乱が起きた。元親は織田信長に味方し、これに反対した親成父子は三村一族から離反して毛利氏に味方し、鶴首城は三村親重が城主となった。天正3年(1575年)毛利軍により攻略され備中松山城は陥落し、元親は戦死した。そして鶴首城も落城し、城は再び親成、親宣父子に安堵された。しかし元親の毛利氏からの離反を止められなかったため、所領を削減された。三村一族の当主の元親が戦死したため、親成が当主になった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、毛利家は所領を減らし備中から去ったため三村親成は鶴首城を失った。それに代わって、関ヶ原の戦いの功績により成羽の地で7千石を得た岡家俊が入城した。だが慶長19年(1614年)大坂の陣で家俊の長男岡平内が大坂方に味方したため、大坂落城後、家俊は切腹させられた。元和3年(1617年)、成羽に移封された山崎家治が入部したものの鶴首山麓に成羽陣屋を築いて入ったため、鶴首城は廃城となった。親成の子孫は、江戸時代に入り、備後福山藩水野氏の家老職(1,500石)を務め、水野家藩主逝去に際し遺言を託されるなど要職にあった。これは家親の娘が水野家に正室として嫁いでいた縁で実現した。鶴首城本丸跡鶴首城跡へは成羽美術館の駐車場に車を止めて成羽小学校の近くを山側に入ると道のわきに鶴首城跡への登城道の看板がある。そこから山へ登る道が整備されている。城跡には本丸、虎口などの表示がされていてわかりやすい。
2026.03.28
コメント(0)

散歩の途中で自宅の近くで土筆が生えているのを見かけたので、いったん家に帰って袋を持って土筆採りに行きました。30分足らずで結構たくさん採れました。土筆の丈が伸びていたので袴を取るのも思ったほど時間がかかりませんでした。袴を取ってから重さを測ったら約300gありました。そろそろ土筆も終わりで、取りに来る人が減ったので、残っていたのかもしれません。
2026.03.26
コメント(0)

彼岸を過ぎて一雨ごとに暖かくなってきています。雨上がりで地面が濡れているので動きやすいのかカタツムリがどこからともなく出てきています。
2026.03.25
コメント(0)

有漢常山城の築城年代は定かではありませんが鎌倉時代初期に秋庭重信によって築かれたと云われています。 重信は相模国の三浦党の一党で承久の乱の功によって有漢郷の地頭職に任ぜらました。秋庭氏は最初は台が鼻城を築き、次に有漢常山城を築き、向かいの土井に屋敷(正尺屋敷)を構えていました。治元年(1240)に臥牛山・大松山に大松山城(備中松山城の前身)へと移りました。1509年(1504年の説もある)秋庭元重は松山城を去って、有漢郷に帰って土着し、武将としては歴史から消えました。有漢常山城は有漢ICのすぐ近くにある有漢常山公園の一角に築かれています。有漢常山公園に広い駐車場があり模擬天守があります。模擬天守から北へ降りて行くと東屋があり、その脇に案内板があり、城山へ登る階段はその先にあります。常山城は小規模な単郭の城です。天正年間(1573年〜1592年)には三村方の新山玄蕃允家住が在城していたといわれています。その後肥田五兵衛が居城したといわれています。有漢常山城主郭跡
2026.03.25
コメント(0)

散歩の途中で出会った光景です。大根の葉を切り取って、大根がまるで行列をしているような光景に出会いました。家庭菜園で食べきれない大根の葉を切り取って葉を伸ばさないようにしています。後は耕して畑にすきこんで有機肥料の代わりにでもするのでしょうか。
2026.03.24
コメント(0)

馬入堂山城は、別名を馬場入道山城といい、総社市八代の鬼邑山(木村山)城と並んで市場の馬入山頂にあった城で、築城年や築城者は不明ですが、旧山陽道や河辺の渡しを間近に見下ろし備中の要所を占める城として、かなりの規模のものであったと伝えられています。永正6年(1509年)、室町幕府第10代将軍・足利義稙の命により備中に遣わされた上野信孝に伴ってきた一族の白神果春が、曾能郷近郷を知行してこの城に入り、その嫡子・白神帯刀が、備中兵乱ともいわれた天正2年から3年(1574年から1575年)の争いに加わることを避けてこの城を下りるまで、二代六十有余年に亘り居城としていました。天正3年(1575年)、小早川隆景率いる毛利軍の鬼身城攻撃にあたり、伊予部山城に隆景、鬼邑山(木村山)城に毛利(穂井田)元清が、また馬入堂山城に毛利元就の娘婿の宍戸隆家が陣を布いたなどという説がありますが、これについては、実際の立地や地形を何ら承知しない後人が史実に絡めて脚色した虚説であるともいわれており、事実かどうかわかりません。その後、この城は再び利用されることは無く廃城となり、城址(馬入山)は、嵯峨野村(市場村)の管理となりました。馬入堂山城跡に登城するには、総社市八代の神(みわ)神社に駐車します。そこにハイキングコースの案内板があります。登山道はしばらく舗装された林道が続き、未舗装路に変わるところまで車で行くこともでき、駐車スペースもあります。途中に分岐があり、左に進みます。右に進むと途中で笹やしだに覆われて道が分かりにくくなるので、避けた方がよいでしょう。左の未舗装路を進むと「薬師」の道標があり、その方向に進むと薬師に行く途中に木村山城跡への矢印があります。矢印で曲がらず道標をそのまま真っすぐ進めば馬入道山城跡に行くことができます。主郭跡には城跡を表示する木柱があります。そこから木村山城跡に行くことができるようです。木村山城跡からは馬入堂山城跡に行く案内の矢印があり、尾根伝いに行くこともできます。今回は木村山城跡から西に尾根伝いに馬入堂山山城跡に行きました。木村山城跡から25分程度で到着しました。馬入道山(馬入堂山)城跡木村山城跡より馬入山を望む帰りは南に尾根伝いに下って行きました。どうやら途中で道に迷ったようで、真備町園地区に降りてしまったようで、山裾を大回りして神神社に戻るのに100分程度かかってしまいました。途中に順路表示が地面に置いてあった十字路があり、ここで左に行くのが正解だったようですが、直進したのが間違いでした。
2026.03.22
コメント(0)

馬入堂山城跡を訪問した帰りに山裾付近の林道のわきで春蘭が蕾を出しているのを見つけました。かつては里山でよく見かけましたが、最近はあまり見かけなくなりました。少なくなった原因は諸説あるようですが、光が当たる場所を好む植物なのに、最近は里山の手入れが不十分で、藪が深くなり生育しにくくなったという説もあるみたいです。
2026.03.20
コメント(0)

麦飯山城の築城年代は定かではありません。浦上氏の家臣明石源三郎が麦飯山城主となり天正4年(1576年)に毛利軍と戦って敗れたと伝えられていますが、天正4年(1576年)時点では毛利と宇喜多は同盟関係でした。天正9年(1581年)毛利軍は八浜城の宇喜多軍と戦うため麦飯山城を中心に布陣、八浜合戦となりました。この戦いで庄氏当主の庄勝資が戦死したと伝えられています。麦飯山城跡への登城は宇野線の八浜駅近くの線路近くに有る横田公園の駐車場に車を止めて、山裾を迂回して国道30号線近くまで行き、登城口の表示がないのでわかりずらかったですが、イノシシ除けの柵を通って麦飯山城(西城)跡まで登りました。垂直に近い登りだったのできつかったです。主郭には城跡を示す木の杭と三角点がありました。周囲は藪になっており、一見したところ遺構が有るようには思えませんでした。ここから稜線沿いに500mぼど東の雨乞山に東城跡があります。ここも一見したところ細長い平地としか思えないような場所でした。麦飯山城は毛利と宇喜田の戦いの為に2か月程度使われただけのもので本格的な普請はさてていなかったと思われます。麦飯山城主郭跡
2026.03.19
コメント(0)

猿掛城(さるかけじょう)は、備中国下道郡・小田郡境(岡山県倉敷市真備町妹と小田郡矢掛町横谷の境)にあった日本の城(山城)で、倉敷市側は市指定史跡、矢掛町側は町指定史跡にそれぞれ指定されている。倉敷市から矢掛町にまたがる標高243メートルの猿掛山に存在した連郭式の山城である。その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国穂田郷(穂井田郷とも)に領地を与えられ、猿掛山に城を築き、麓の御土居に居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。戦国時代中期の天文2年(1533年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には為資の弟の穂田(穂井田)実近が入った。その後、尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略した。同22年(1551年)に、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣に猿掛城を攻めたが、穂井田実近は勇敢にも城から打ち出すと、家親を追い立て毛利勢に打撃を与えた。その上で庄氏は毛利氏に講和を申し入れ、毛利氏の仲介で三村氏が有利な状況で和解し、三村家親の長男の元佑が荘為資の養子となり、穂井田実近が隠居して元佑が穂井田元資と名乗って、猿掛城主となった。別の説では元佑は穂井田実近の養子となり穂井田元資と名乗ったとも言われている。猿掛城は三村家の支配となり、この近辺の庄一門は三村氏の支配下になった。この結果備中の大半は毛利氏の幕下に入ることになった。永禄11年(1568年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は四男の元清を遣わし猿掛城を奪取する。この年、毛利氏の援軍により家親の子の元親が高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えた。穂井田元資は1567年の宇喜多直家との明禅寺合戦で戦死した説や、1571年の斉田城の戦いで戦死した説や、1575年の備中兵乱で戦死の説もあるが定かではない。天正2年(1574年)三村元親が織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった。天正3年(1575年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、元親は自刃した。この時の戦功と元清の愁訴によって、元清は猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中国小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清はそれまでの居城であった安芸桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。この際に元清は穂井田元資の養子となり跡を継いで穂井田元清と名乗ったようである。元清自身の書状によれば、在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字としたと述べ、庄氏との関係を否定しているためどちらが正しいのか不明である。天正10年(1582年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、猿掛城は毛利輝元の本陣となった。天正11年(1583年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移った。猿掛城には毛利元就の娘婿の宍戸隆家を城代として置いた。天正17年(1589年)、広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。慶長5年(1600年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封された。城の周辺は幕府領となり、猿掛城は廃城となった。猿掛城本丸跡猿掛城跡登城口から猿掛山を望む
2026.03.18
コメント(0)

西の谷12号墳の後円部頂伊予部山城跡の西方で新たに発見された西の谷12号墳があります。全長約32m、後円部径約17m、後円部高訳3m、前方部長約15mです。立地や墳形から古墳時代前期に属すると推定されています。古墳時代前期のものとしては真備地域で初の前方後円墳です。後円部頂には盗掘屈孔がありますが、埋葬施設は不明です。埴輪なども確認されていません。今後発掘調査が行われる予定です。
2026.03.15
コメント(0)

寒の戻りと強風で寒かったですが、確実に春はやってきているようです。川土手に土筆を採りに行ってみました。30分くらいの間に、200g程度の土筆が採れました。帰宅後、土筆の袴を採りました。袴取は時間がかかるし、灰汁で指が黒ずむしで楽しい作業ではありません。卵とじにして春を味わいたいと思います。去年まではあまり土筆を採る人は多くなくて、短時間でも割とたくさん採れましたが、今年はどういうわけかわかりませんが、土筆を採る人が多いようで、毎年採りに行っていたところではあまり採れませんでした。まさかこんなところにもアメリカとイスラエルがイランを攻撃して石油危機が発生して景気が悪くなっている影響が出ているということが有るのでしょうか。
2026.03.13
コメント(2)

幸山城(こうざんじょう)は、岡山県総社市西郡(にしごうり)にあった日本の城。城は山頂に福山城のある福山の北にせり出した標高164メートルの尾根上にある。眼下に山陽道を見下ろす要衝である。城跡は1975年(昭和50年)年2月3日、総社市指定史跡に指定された。一説では、延慶年間(1308年-1311年)前後に、庄資房によって築城されたらしい。庄資氏が継いで在城したが、庄資政以降、応永年間(1394年-1428年)には、石川氏へと城主が替わった。石川氏は備中守護・細川氏の被官となり、備中南部で庄氏と並ぶ有力な勢力となっている。石川久式が備中兵乱で死去した後は毛利氏の管理下になり、江戸時代初期に廃城となった。別の説では、関東児玉党の庄氏5代目の家長が1184年の一の谷の合戦で平重衡を生け捕り、報償として備中の山方の荘、二万の荘、穂井田の荘、草壁の荘を賜り、後に備中に西遷し、山方の荘に幸山城を築いたという説もある。幸山城主郭跡幸山城跡には備中福山城跡への登城道の途中に幸山城跡に行く案内の矢印が有るのでそこから曲がって行くと到達できる。
2026.03.09
コメント(0)

流山城は別名八幡山城とも呼ばれています。流山城は高橋氏累代の城でした。高橋氏は1331年頃から1355年頃まで備中松山城の城主だったようです。備中松山城を追われた後は、一族の末裔は備中窪屋郡流山(るざん)の城に移りました。天文(1532年から1555年)、永禄(1558年から1570年)年間は高橋玄蕃、行友兄弟が居城としており、大内氏、後は毛利氏に属していたようですが、毛利氏の九州遠征に従軍した際に留守を尼子軍六千に攻められ、留守を守る高橋庄九郎らが防戦したものの落城し、残兵は幸山城へと逃れたそうです。ただ、永禄年間頃には尼子氏の勢力は衰退してきており、備中南部まで遠征してこられる状況かは疑問もあり、この伝承の真偽はわかりかねます。城跡は山陽自動車道が貫く八幡山の頂上部にあり、酒津八幡山山頂遺跡の一部となっていますが、破却後の現在では、曲輪も殆ど型を留めていません。倉敷方面からは倉敷大橋を渡ってすぐに右折して水江の渡し跡を通り過ぎ、未舗装のでこぼこ道を行くと、山腹に八幡宮の石段が見えてきます。この石段の麓に八幡宮参拝用の駐車場所があります。階段を登りきると八幡宮に到着します。参拝を済ませたら社殿右奥に山頂への登城道があります。道は整備されており、八幡宮から10分程度で到着します。途中に岩肌がむき出しのところが有るので滑らないように注意が必要です。主郭と思われるところには三角点があり木が茂って見晴らしは悪いですが、城の南側を少し下った曲輪(?)は見晴らしがよく、高梁川の対岸には倉敷市街地が見え、東にはマスカットスタジアムも見えます。八幡宮の背後の山に流山城址が有る流山城主郭跡 三角点が有る
2026.03.08
コメント(0)

我が家のサクランボの木は花がもうすぐ満開になりそうです。花の蜜を求めてミツバチがやってきて盛んに飛び回っています。ゴールデンウイーク頃にはサクランボの実が熟します。静止画像をアップしましたが、ミツバチが動き回っているのでスマホでの撮影ではやはりピンボケしてます。
2026.03.06
コメント(0)

伊与部山城は周囲を見渡せる守りやすい山頂を平らにして作られており,1575年に鬼の身山城を攻撃するために伊与部山の山頂に建てられた城です。八代の木村山城とともに総社市内28箇所の山城の一つです。 三村氏は毛利についていましたが, 宿敵である宇喜多氏が毛利と手を結んだので,これをよろこばず,毛利に反抗し, ひそかに近畿の織田氏につこうとしたため,毛利に攻められることになりました。 三村氏は備中の国々に命令して毛利との戦いを準備させました。三村氏は,猿掛城(矢掛)に穂井田元祐(三村家親の長男),松山城(高梁)には当主の三村元親,新見楪(ゆずりは)城に三村元範, 鬼の身山城に上田実親(三村元親の弟)が城を構えて毛利を迎え撃ちます。 これに対して毛利軍は, 山陰・山陽・四国・九州から集めた八万人の大軍をもって笠岡に集まり, 三村の軍に総攻撃をかけます。 鬼の身山城を攻撃するために、伊与部山城には毛利の武将 小早川隆景が, 陣をしきました。城主は明石兵部少輔でした。八代の木村山城には毛利元清が陣をしき,馬入山(馬入道山)城には宍戸隆家が陣を敷き、総勢1万5千 を差し向け攻撃に当たりました。 大軍に攻められた三村軍の城は次々に落ち,当主の元親は討ち死にして三村宗家は滅びました。この戦いを備中兵乱(1574年から1575年)といいます。伊予部山城主郭跡伊予部山城へは総社方面からは総社大橋を渡って左折し県道278号線を少し進むと、登城口があります。登城口の駐車場に駐車して登城します。伊予部山及び近辺には弥生時代から古墳時代の古墳が多数存在します。昭和天皇臨席の下で行われた昭和の陸軍演習では伊予部山に指揮本部がおかれました。
2026.03.05
コメント(1)

鬼ノ城は標高約400mの吉備高原の南縁に位置する古代山城で、吉備津彦命の鬼退治の舞台としても有名です。鬼城山はすり鉢を伏せたような形の山で、この山の8合目から9合目にかけて城壁が約2.8kmにわたって鉢巻状に巡っています。城壁は、一段一列に並べて置かれた列石の上に土を少しずつ入れてつき固めた版築土塁と高い石垣で築かれ、数m〜数十mの直線を単位として地形に応じて城内外へ「折れ」ているのが特徴です。城壁で囲まれた城内は約30ヘクタール(東京ドームの約6.4倍)に及ぶ広大なもので、水門が6か所、城内の出入口となる城門が4か所、食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡などが確認されています。城門の「西門」と城壁の死角を防ぐ施設「角楼」周辺については復元しており、当時の堅固な古代山城の一部を目の当たりにすることができます。7世紀後半に朝鮮半島の百済に援軍を送っていた日本は、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。その後、唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、北九州から瀬戸内沿岸にかけて、国土防衛のための城砦群を築きました。鬼ノ城も大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城で、日本でも珍しい神籠石式山城(こうごいししきやましろ)です。神籠石式山城というのは古代の西日本(主に九州北部)に築造された遺跡で、現状『日本書紀』『続日本紀』などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城のことを指します。鬼ノ城も歴史書には一切記されておらず、その真相は未だに解明されていない謎の山城です。日本100名城のひとつで、1986年(昭和61年)3月25日、国の史跡に指定されています。現在も史跡の調査や整備が行われています。ビジターセンターの鬼ノ城ジオラマ鬼ノ城遠景鬼ノ城列石鬼ノ城へは砂川公園を通り過ぎ細い山道を通ってビジターセンターの駐車場に車を止めて、15分弱で行くことができます。鬼ノ城は今では海から遠い山の中に有りますが、城が作られた当時は吉備の穴海がもっと近くまで広がっており、沖を通過する船が見えたと思われます。
2026.03.04
コメント(0)

今日はひな祭りです。地元の商店街でも店頭に雛人形を飾っているところがありました。ふつうはお内裏様が左でお雛様が右ですが、時代や地域によってはそれが逆にして飾ることがあるようです。そんな違いを見つけるのも面白いです。
2026.03.03
コメント(0)

今日は地域の環境衛生協議会主催の一斉清掃がありました。朝7時から道路や溝などのゴミを集めて回りました。集積所までゴミを持って行って、パッカー車で回収してもらいます。ゴミは缶、ビン、ペットボトル、燃えるゴミに分けて集めます。私達たちの小学校の学区内では約1000名が参加しました。秋は市内全域で行われ、春は市の支所単位で行われます。
2026.03.01
コメント(0)

我が家のサクランボの花が開花していました。例年は3月上旬に開花していましたが、例年以上に寒い冬が有り、花芽の休眠打破が有った後に、こここ数日は暖かい日が続いたので、今年はまだ2月ですが花が咲いたのかなと思います。
2026.02.28
コメント(0)

散歩の途中で久しぶりに雄の雉を見かけました。鳴き声を聞くことは時々ありましたが、実際の姿を見るのは何年ぶりのことでしょうか。過去の記録をたどると4年前の1月に見て以来でした。雄はたまに見かけますが、メスを見かけることはほとんどありません。スマホのカメラの倍率を最大にしているのですが、遠くにいるのであまりきれいには写ってません。
2026.02.26
コメント(0)

河内源氏出身の源貞光が平治の乱以降、河内石川荘を得て石川美作守朝臣貞光と名乗り石川家初代となった。明徳4年(1393年)ころ備中守護となった細川満之に従って備中国にやってきた。備中、伊予などの守護、細川氏の被官として一族は備中守護代となり、やがて応永年間(1394年-1428年)には、庄氏に代わって山陽道の要衝である窪屋郡西郡(現在の総社市山手)の幸山城の城主になっている。 幸山城の築城については庄氏5代目の家長が1184年の一の谷の合戦で平重衡を生け捕り、報償として備中の山方の荘、二万の荘、穂井田の荘、草壁の荘を賜り、後に備中に西遷し、山方の荘に幸山城を築いたという説と、延慶年間(1308年-1311年)前後に、庄資房によって築城されたとの説もある。 石川氏は備中守護代官、吉備津神社社務代官として戦国時代を迎え、備中石川本家は庄氏と並んで勢力を伸ばし備中半国を支配していた。 石川源左衛門尉久智が1567年に戦われた明禅寺合戦で戦死しその子石川源左衛門尉久式が跡を継いだ。久式は毛利幕下の備中軍の指揮をとり九州大友攻めに参戦し備中を空けることが多くその間に、配下の高松城主清水宗治、経山城主中島元行など主だった武将は小早川隆景の幕下に入っていた。1574年から75年にあった備中兵乱と言われる三村一族の戦いで、石川久式は義兄(妻竹姫の兄)の松山城主三村修理亮元親に武勇の義理で呼応し毛利軍と戦ったが、8万と圧倒的な毛利の兵に囲まれ、利ならず幸山城下の岡谷城に逃れたが、岡谷城主で石川家家老の友野将監友盛が通報で小早川兵に囲まれてあえなく自害した。ここに8代続いた備中石川氏は滅亡した。幸山城跡
2026.02.23
コメント(0)

最近暖かくなって冬の寒い間どこかに隠れていた亀が流木に上って日向ぼっこをしています。音に敏感ですぐ逃げるので、そっと近づいて写しました。
2026.02.22
コメント(0)

今日は不法投棄パトロールに参加しました。市役所の支所に集まって出発式をして各地域にパトロールに行きました。葦の生えた水路にはペットボトルなどのゴミがたくさんありました。水路が高低差があり、降りていけないのでひっかけ棒を使って引き上げましたが、難しかったです。
2026.02.22
コメント(0)

まもなく雛祭りです。市内の様々なところに雛人形が飾られ華やかな雰囲気になっています。この画像は市民学習センターのロビーに飾ってあったものです。この雛人形は50年位前のものです。
2026.02.21
コメント(0)

高釣部城の築城年代は定かではないが天正年間(1573年~1592年)頃に庄氏によって築かれたと云われる。衰退していた備中庄氏嫡流の城で、庄勝資が出雲より帰還してこの辺りを領し、城を築き始めた。勝資は1576年に毛利方として宇喜多氏との麦飯山城での戦いに参戦したが討死したと云われている。家督は嫡男宮若丸(信資)が継いだが朝鮮の役で戦死してしまった。庄氏の宗家の家督は勝資の弟資直が継ぎ、子孫は英賀郡津々村(現在の高梁市中井町津々)に帰農し代々庄屋を務めたという。 庄氏は武士としては歴史の表舞台から去ったのである。高釣部城跡の裏山頂上高釣部城跡の裏山頂上初回訪問は高鶴部集落から杉を切るために作った林道を上り道が切れてからは左に曲がって木々の間を縫ってひたすら頂上を目指して登った。頂上に到着するのに1時間近くかかった。頂上には城跡を示すような目印のようなものは何もなく、調査をしたことを示す赤テープを巻いた木や目印の赤スプレーをした木が有るだけだった。どうやら道に迷って違うところに登ったようだ。高釣部城跡遠景再度高釣部城跡を目指して登城に挑戦しました。麓の高鶴部集落の道路わきに車を止めさせていただくようにお願いしたお宅が高釣部城跡の所有者で、城跡の場所を教えていただいてから、杉を切るために作った林道を上り、道が切れてからは右に曲がってしばらく行くとヒノキ林の中にある主郭跡に到着します。麓から10分余りで到着します。主郭跡には小さな祠と供養塔がありました。主郭跡はヒノキ林の中に有り、小さな祠と供養塔があります。高釣部城跡の北側には高い山があり、城址はその山のすそ野近くの少しこぶのように膨らんだところにありました。背後の山と城跡の間には少し窪んだ堀切のようなものがありましたが、城の防御となるほどのものとは思えません。背後の山から攻められたらすぐに落城しそうで、近くにある斉田城と比べても城としては貧弱で中途半端なものでした。
2026.02.20
コメント(0)

元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺し、それまでの居城である亀山城(沼城)からこの地に進出しました。当時石山の丘に中心があったという岡山城(石山の城)に進出します。付近は旭川河口の港町として栄えていたと伝えられていました。城の改築を行い、天正元(1573)年頃入城ます。直家は北方の山裾にあった西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導き、備前福岡、備前西大寺などから商人を呼び寄せ、いわゆる城下町の整備を行うなど積極的に流通主導による経済振興とも言うべき政策をとりました。その後直家は、東備前中心に勢力を誇った浦上宗景を破り、備前・美作の覇者となりました 宇喜多秀家が築城した岡山城と区別するため、秀家の父・宇喜多直家の城は「石山の城」と呼ばれます。 その後、直家の息子の秀家は、豊臣秀吉一門の大大名となり、石山の隣の丘である岡山を本丸として天守を持ち、石垣に覆われた新たな城を築き、城下町の整備を進め、堀に囲まれた総構の城が出来上がりました。築城開始は、天正18(1590)年とされていますが、近年の研究では天正16(1588)年の説もあります。岡山城の場合、天守が完成したという慶長2(1597)年を築城年としています。 秀家が築城をした頃は城郭の姿が変化した時代でした。織田信長の安土城以降、それまでの険しい山などの地形を活かした要塞である山城から、平野に城を築く戦い方に代わっていく中で戦のための軍事施設としての機能だけではなく、天守を持ち石垣に覆われた治世の象徴として大名の力を示す機能を持つ城が求められたのです。ライトアップされた岡山城
2026.02.17
コメント(0)

庄一族の当主の庄為資が備中松山城主になったため、代わって猿掛城主となった一門の庄実近(為資の弟?)が穂井田姓を名乗ったことより穂井田氏は始まる。実近が三村氏と争いを起こし、1551年に毛利氏の加勢を受けて三村氏優勢となり、毛利氏の仲介で三村氏が有利な状況で和解し、三村家親の長男の元佑が荘為資の養子となり、穂井田実近が隠居して元佑が穂井田元資と名乗って、猿掛城主となった。猿掛城は三村家の支配となり、猿掛城付近の庄一族は三村氏の配下になった。三村家親は備中松山城に庄氏の監視のため城代のような立場で入り、備中全土を支配化に置いた。この結果備中の大半は毛利氏の幕下に入ることになった。 穂井田元資が1567年の宇喜多直家との明禅寺合戦で戦死した(一説には1571年の斉田城の戦いで戦死や、1575年の備中兵乱で戦死の説もある)後は、1575?年に毛利元就の4男の毛利元清が元資の養子となり穂井田元清と名乗って猿掛城主となった。別の説では毛利元清は穂井田元資の養子にはなっておらず、備中兵乱の褒章で猿掛城主となり、領有した地名を取って穂井田元清と名乗ったとも言われている。永禄12年(1569年)11月、三村元親は毛利へと援軍を要請し毛利元清・熊谷信直らを加えた軍団で佐井田城(斉田城)攻略を狙った。三村・毛利軍の包囲を受けた佐井田城では徐々に兵糧が欠乏し、窮地に立たされた植木秀長は夜陰に紛れて脱出させた嶺本与一兵衛を使者として宇喜多直家に援軍を要請した。これを受けて直家は戸川秀安を派遣し、12月に城を囲む三村・毛利軍と交戦し、穂井田実近を討ち取り三村元親を負傷撤退させるなど快勝し、首級を多数挙げた。 毛利輝元に子が無く、元清の次男の秀元が養子になったため、元清は1588年から1592年の間には毛利姓に戻り、毛利家の家臣の筆頭格になった。秀吉の朝鮮出兵の際には毛利軍を率いて海を渡った。元清は後に長府藩の藩祖になった。1597年に桜尾城で死去。桜尾城は現在の広島県廿日市市桜尾本町に有った。 元清が去り、穂井田氏は当主不在となり、歴史の表舞台から去ったのである。穂井田姓はその後も残っており子孫は帰農したようで、本家は現在の真備町にいるようだ。猿掛城跡
2026.02.16
コメント(0)

岡山県矢掛町にある曹洞宗の寺院の洞松寺は飛鳥時代、天智天皇の行幸の時、洞松の司の松は天覧をうけ、興福寺の光照菩薩を勧請し、仏閣を建立、法相宗舟木山洞松司院として創建されたと伝えられている。中世期には衰退していたが、室町時代になり、応永19年(1412年)に遠州大洞院の喜山性讃が猿掛城主庄駿河守(頼資?)の依頼により中興し庄一族の菩提寺となった。洞松寺毛利元清のものとされる宝篋印塔 庄一族の菩提寺の洞松寺の裏山には毛利元就の四男の毛利元清のものとされる宝篋印塔がある。これは桃山から江戸時代初期の形式になっている。 宝篋印塔は毛利元清のものとされているが、元清は数年猿掛城主を数年しただけでこのこの地を去っており、長く猿掛城主であり洞松寺を中興し、寄進を続けていた庄一族のものではないことは不思議である。
2026.02.15
コメント(0)

備中全土を支配下に置き備中で唯一の戦国大名となった三村家親は永禄9年(1566年)に備前に進出するために出陣していた美作の興善寺で宇喜田直家の放った刺客の鉄砲で暗殺された悲劇の武将でもありました。大将を失った三村の軍勢は勢いを失って国許へ退いてゆき、宇喜多家は大敵の圧迫から逃れることに成功しました。暗殺場所の興善寺跡には三村家親を弔った宝篋印塔があります。成羽の源樹寺は永禄9年(1566年)三村元親が父家親の菩提を弔うために建立した寺院です。境内の北東側の墓地の一角に三村家親と三村元親の墓碑があり案内板が設置されています。三村家親と元親の墓は高梁の頼久寺にもあり、ここには元親の子勝法師丸の墓もあります。
2026.02.14
コメント(0)

植木氏については諸説あるが、庄一族の庄北家の庄資信が現在の北房町の呰部庄植木(えき)に居住し植木殿と呼ばれ、子の秀長の代から植木姓を名乗ったことに始まるという説が有力になっている。天文2年(1533年)に尼子晴久が備中に侵攻してきた時は尼子に対抗し、庄為資と共に尼子に付いた上野頼氏の拠る備中松山城を攻め立て頼氏を討ち、秀長の弟・若林資行は大松山を攻略し上野右衛門を討った。これ以後、備中松山城は為資が、猿掛城は穂井田実近が領する事となった。どの時点かはっきりしないが、やがて庄一族は尼子の配下になったようである。毛利元就の支援を受けて備中で日の出の勢いの三村家親と尼子方の為資との対立が表面化すると、天文21年(1552年)に矢掛合戦が勃発し、三村・毛利連合軍とこれに対抗する為資ら反毛利勢力が衝突し、緒戦は為資が勝ったがやがて追い詰められ和睦。和睦の条件として猿掛城の穂井田実近の養子に三村家親の長男の元祐が入って穂井田元資と名乗り猿掛城主となり、松山城は名目上は庄為資の持城であったが三村家親が入城して、今後の尼子の戦いを見越して庄一族の動きを監視しながら滞在する事になった。これにより、草壁庄やその周辺の庄一族は三村一族である元祐の指揮下に入れられ、庄一族の勢力は大幅に衰退した。ただ、秀長は三村氏には臣従していなかったようで、天文21年(1551年)10月5日に室町幕府13代将軍足利義輝の側近・細川藤孝より天文20年(1550年)に戦によって得た700貫文の所領の安堵を受けており、この頃には備中を含めた8ヶ国守護となった尼子晴久の家臣であると中央にも認識されていたようである。天文23年(1554年)8月の時点でも植木氏と縁の深い大森神社が尼子誠久の寄進を受けている。しかし、尼子の衰退が著しくなると植木氏も三村氏の傘下に入ることになった。この後、秀長は新たに佐井田(斉田)城を築いて以後の植木一族の本拠としたようだが時期は不明である。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では三村元親が備前国の宇喜多直家と戦ったが秀長も『備前軍記』には三村方に交名が有り、これに敗れた後に佐井田城に籠城したものの宇喜多忠家率いる9,000の兵に囲まれた為、永禄11年(1568年)松山城の庄高資や斉田城 (佐井田城)の植木秀長らは、本領安堵を条件に降伏し宇喜多氏の幕下となった。永禄12年(1569年)11月、三村元親は毛利へと援軍を要請し毛利元清・熊谷信直らを加えた軍団で佐井田城攻略を狙った。三村・毛利軍の包囲を受けた佐井田城では徐々に兵糧が欠乏し、窮地に立たされた秀長は夜陰に紛れて脱出させた嶺本与一兵衛を使者として宇喜多直家に援軍を要請した。これを受けて直家は戸川秀安を派遣し、12月に城を囲む三村・毛利軍と交戦し、穂井田実近を討ち取り三村元親を負傷撤退させるなど快勝し、首級を多数挙げた。しかしながら、この後より各書物で秀長の名は出なくなり、嫡子・秀資が佐井田城主に切り替わっており、秀長は佐井田城の戦いの後ほどなくして死去したと推測される。この戦いの後、城は毛利氏に引き渡された。 元亀2年(1571)荘高資は三村元親と毛利元清の連合軍に破れ戦死、毛利元清は備中中部で反撃を開始し、松山城を落城させると、元亀3年(1572年)に戦功のあった三村元親を松山城主とした。備中の覇権は完全に庄氏から三村氏に移ったのである。この後備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。尼子・宇喜多側として没落の憂き目にあった庄氏一門であったが、備中兵乱では毛利氏の協力者としてなんとか復権を果たし、荘高資の息子の庄勝資は高釣部城を、天正8年(1580年)に植木秀資が佐井田(斉田)城主に返り咲いた。植木氏は毛利氏の下で備中兵乱以降は関ヶ原の戦いまで斉田城を維持していたが、関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は減封され備中を去ったので、植木氏も斉田城から去り廃城となった。庄勝資の居城があった高釣部城跡に行った時、麓で道を尋ねたお宅が植木さんだったので北房の呰部地区には子孫が現在もいるようだ。庄一門の植木秀長・秀資の居城 斉田城跡斉田城の築城年代は文治3年(1187年)山田重英、永正年間(1504年~1521年)の植木秀長など諸説あり定かではない。戦国時代の城主は庄氏一族の植木氏で、この城は浦上、尼子、毛利などによって争われた。斉田城跡へは願成寺を目指して国道313号線を行くと途中に案内板がある。寺を過ぎた先を南へ曲がると鳥居が見えるが、ここが登山口である。登山口前に駐車場と休憩所が設けられている。現在は主郭に稲荷神社が祀られていて登山道が整備されている。 なお、真庭市の北房の下呰部の植木(えき)地区に資料では植木館跡があるようで行ってみたが、付近の人に尋ねてもわからないとのことで見つけることはできなかった。植木館が有ったと思われる場所?植木館を調べなおしてみると前回は1kmほど手前を探したようで、再度探しに行った。標識が無く断定はできないが、北房ほたる公園付近で、高速道路の岡山自動車道わきに有ったようだ。
2026.02.14
コメント(0)
庄氏のうち、地元(現在の本庄市)に残った分家が本庄氏を名乗り始めた。庄氏が本庄氏を名乗るようになったのは12世紀末から13世紀中頃、つまり鎌倉幕府が創立した頃と考えられている。正確には、庄小太郎頼家(児玉党本宗家6代目)の弟である時家が本庄氏を名乗り始めている。現在の埼玉県本庄市周辺がかつて居館・居城を構えていた地域である。本庄氏は児玉庄氏の本宗家を継ぎ、児玉党の本宗家となった。氏の意味は「本宗家の庄氏」と言う意味ではなく、「本拠地(本=元=地元)に残った庄氏」と言う意味で、本庄を名乗ったものと考えられる。ここで記す庄氏分家とは、直系の本宗家に対してであり、本庄氏は歴とした庄氏本宗家の子息であるため、児玉庄氏の宗家を継ぐことができた。
2026.02.11
コメント(0)

庄氏は備中に勢力を拡大してきた尼子氏と結んでいたが、尼子氏は天文10年(1541年)に吉田郡山城を攻めきれず兵を引いてしまうとその威光にも翳りが見え始めた。すると備中では、庄氏の一族である穂井田(穂田とも)実近が、三村氏と争いを起こした。三村家親は毛利元就に助けを請い、これが毛利氏の備中侵入のきっかけとなった。毛利氏は備後平定を図り、天文18年(1549年)には神辺城を支配下に置いた。三村家親もまた一門を糾合し、次第に勢力を増していくのである。同22年(1551年)に、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣に猿掛城を攻めたが、穂井田実近は勇敢にも城から打ち出すと、家親を追い立て毛利勢に打撃を与えた。その上で庄氏は毛利氏に講和を申し入れ、毛利氏の仲介で三村氏が有利な状況で和解し、三村家親の長男の元佑が荘為資の養子となり、穂井田実近が隠居して元佑が穂井田元資と名乗って、猿掛城主となった。猿掛城は三村家の支配となり、この近辺の庄一門は三村氏の支配下になった。この結果備中の大半は毛利氏の幕下に入ることになった。 穂井田元資が1567年の宇喜多直家との明禅寺合戦で戦死した(一説には1571年の斉田城の戦いで戦死や、1575年の備中兵乱で戦死の説もある)後は、1575?年に毛利元就の4男の毛利元清が穂井田元清と名乗って猿掛城主となった。元清は1588年から1592年の間には毛利姓に戻り、毛利家の家臣の筆頭格になった。元清は後に長府藩の藩祖になり、毛利輝元に子が無かったので元清の子が養子に入り、毛利宗家を継いだ。 為資の死後は息子の高資が備中松山城主となった。1561年三村家親に攻められ、高資は敗北し、松山城を去る。1566年三村家親は宇喜多直家の刺客に暗殺されたのちは家親の息子の元親が松山城主になったが、1567年に一時、荘高資が松山城を奪還した。永禄11年(1568年)松山城の庄高資や斉田城 (佐井田城)の植木秀長らは、本領安堵を条件に降伏し宇喜多氏の幕下となった。元亀2年(1571)荘高資は三村元親と毛利元清の連合軍に破れ戦死、毛利元清は備中中部で反撃を開始し、松山城を落城させると、元亀3年(1572年)に戦功のあった三村元親を松山城主とした。備中の覇権は完全に庄氏から三村氏に移ったのである。この後備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。尼子・宇喜多側として没落の憂き目にあった庄氏一門であったが、備中兵乱(1574年から75年に有り、毛利勢が三村勢を破った戦乱)では出雲より帰還して毛利氏の協力者としてなんとか復権を果たし、荘高資の息子の庄勝資は高釣部城を、植木秀資は斉田(佐井田)城を領したのであった。以後、天正7年から9年にかけて毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入し、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開した。高釣部城主郭跡荘勝資は、これら宇喜多氏との一連の対峙において1576年の児島麦飯山城攻めの戦闘で落命したようで、勝資の死後、嫡男宮若丸(信資)が家督を継いだが朝鮮の役で戦死してしまった。結局、勝資の弟資直が家督を継ぎ、子孫は旧領の英賀郡津々村(現在の高梁市中井町津々)に帰農し代々庄屋を務めたという。 荘氏は歴史の表舞台から去ったのである。荘勝資が戦死した麦飯山(むぎいいざん)城跡麦飯山城の築城年代は定かではありません。浦上氏の家臣明石源三郎が麦飯山城となり天正4年(1576年)に毛利軍と戦って敗れたと伝えられていますが、天正4年(1576年)時点では毛利と宇喜多は同盟関係でした。天正9年(1581年)毛利軍は八浜城の宇喜多軍と戦うため麦飯山城を中心に布陣、八浜合戦となりました。宇野線の八浜駅近くの線路近くに有る横田公園の駐車場に車を止めて、山裾を迂回して国道30号線近くまで行き、登城口の表示がないのでわかりずらかったですが、イノシシ除けの柵を通って麦飯山城(西城)跡まで登りました。主郭には城跡を示す木の杭と三角点がありました。周囲は藪になっており、一見したところ遺構が有るようには思えませんでした。ここから稜線沿いに500mぼど東の雨乞山に東城跡があります。ここも一見したところ細長い平地としか思えないような場所でした。麦飯山城は戦いの為に2か月程度使われただけのもので本格的な普請はさてていなかったと思われます。
2026.02.10
コメント(0)

時代は下り延徳3年(1491年)10月、庄元資は、備後衆、備前・松田(管)勢に与力を頼むと、備中守護方の倉(河邊之倉・宮内之倉)に討ち入り、守護の郎党、被官、五百余人を討ち取った。ここに備中大合戦と呼ばれる戦乱が始まったのである(蔭凉軒日録)。在京していた備中守護細川勝久は、翌年の明応元年(1492年)に軍勢を引き連れて備中に入国し、備前の援兵(浦上氏)を受け、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破った。延徳4年(1492)4月6日の記載では、元資捨城没落。元資に合力した香西五郎左衛門尉は切腹の顛末(てんまつ)となった。勝久は元資らをいったんは国外へ追い出したが、庄氏一門や彼らにくみする者たちは侮りがたく、さらに細川京兆家の要請もあり、6月頃両者は講和したようである。そして勝久は乱後の鎮撫(ちんぶ)に努めていたようだが、 明応2年(1493年)頃に死去したようである。勝久の死去で備中守護家には後継者が無く断絶し、阿波細川家が備中守護を兼務したが、実質的に守護不在となり、下剋上の時代が始まった。荘氏は16世紀初頭の荘元資の時代に勢力を拡大していったが、息子が戦死したため分家の北家より為資を養子に迎え惣領家を継ぐ。庄為資の時代に、備中庄氏は最盛期を迎えたと言って良いと思われる。 天文2年(1533年)になると、為資は出雲の尼子氏と結んだ。そして庄氏一門である植木秀長の協力により、松山城(高梁)の上野頼氏を打ち破り拠点とし、諸氏と姻戚を結ぶと、備中では抜きん出た存在となる。 為資は備中守を称し、備中半国を領有して一万貫を得たという。現在の備中松山城猿掛城は弟の荘実近を城主とした。実近は後に穂井田実近と名乗った。(文中 荘 と 庄 が混在しているが、もともと両方使われ、どちらかが間違いとは言えないようである)
2026.02.10
コメント(0)

やがていわゆる国人として次第に成長した備中荘氏は、南北朝時代の動乱に際して、 細川氏の指揮下で一層勢力を伸張させた。室町時代には、一門のうち惣領家は京兆家内衆に、庶流家も備中国守護代を出すなど重きをなした。惣領家当主は基本的には在京し、領国は一門などに任せていたようだ。戦国時代には備中国戦乱の主役となる。別の説では荘家長が草壁の荘を報償で賜り、猿掛城を築き、幸山城は延慶年間(1308年-1311年)前後に、荘資房によって築城されたらしいともいわれている。幸山城は荘資政以降の、応永年間(1394年-1428年)には、備中守護細川総州家の配下であった石川氏へと城主が替わっている。石川久式が備中兵乱で死去した後は毛利氏の管理下になり、江戸時代初期に廃城となった。幸山城跡幸山城跡は岡山県総社市西郡に有り、山頂に福山城のある福山の北にせり出した標高164メートルの尾根上にある。備中福山城跡への登城道の途中に幸山城跡に行くように矢印が有るのでそこから曲が行くと到達できる。
2026.02.09
コメント(0)

荘氏(庄氏とも呼ぶ)は藤原氏 北家 関白藤原道隆の子伊周の子孫とされ、五代の孫維行の子弘行に始まるといわれている。伊周は父親の道隆が伝染病で早死にしたため、まだ若くて藤原一門の当主の地位を確立できておらず、藤原氏の当主の座を叔父の道長と争って敗れ、次第に勢力が衰えて、子孫が関東に移ったようだ。関東児玉党の本宗家4代目 家弘(又は弘高)が現在の埼玉県本庄市に土着して荘氏を名乗る。5代目の家長が1184年の一の谷の合戦(かつては源平合戦と呼ばれていたが、単純に源氏と平家の戦いとは言えないので、近年は治承・寿永の乱とも呼ばれるようになっている)で平重衡を生け捕り、報償として備中の山方の荘、二万の荘、穂井田の荘、草壁の荘を賜り、後に備中に西遷し、山方の荘に幸山城を築く。1205年に猿掛山に支塁の猿掛城を築き、やがて猿掛城が荘当主の居城となり、麓の横谷の御土井に居館を構えた(備中庄氏)。別の説では幸山城は延慶年間(1308年-1311年)前後に、荘資房によって築城されたとの説もある。猿掛城本丸跡小田川堤防の猿掛城登城口から猿掛山を望む猿掛城は小田川南岸に聳える標高234mの猿掛山に築かれている。北の眼下には山陽道が通っている。猿掛城跡へは矢掛町横谷の福頼橋近辺の小田川堤防のゴミステーション近くにある登城口から民家の間を抜けると大手方面と搦手方面の登城口の分岐があるので大手方面に登城する。搦手方面は道が傷んでいて通行困難。矢掛 横谷の御土井の居館跡 (福武家住宅正門側の桃果樹園の隅に石碑がある)
2026.02.09
コメント(0)

1567年(永禄10年)に備前国上道郡沢田村(現:岡山県岡山市中区沢田)付近で戦われた戦いを明善寺合戦と呼ばれており、明善寺城が主な舞台となっています。明善寺城(明禅寺城とも呼ぶ)は宇喜田直家によって備中国への備えとして1566年に築かれました。1567年に父親の三村家親を殺された報復をもくろむ三村元親に城は奪われました。これを奪還しようとして宇喜田直家は五千の兵で、三村元親勢一万(二万ととの説もある)と戦って勝利しました。この合戦で、宇喜多氏は、最大の対抗勢力であった三村氏を備前国西域から撃退し、鉄砲鍛冶場として有数の福岡(現:岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地を握ったことにより、浦上家中におけるさらなる発言力と独立性を確保しました。この後、宇喜多氏は、浦上氏の被官の身でありながら戦国大名としての地位を備前に確立していくこととなります。操山公園里山センターの駐車場から明禅寺山を望む操山公園里山センターの駐車場に車を駐車してから登城しました。尾根の背後の操山方面にのぼり、途中で明禅寺城跡と表示されているところから明善寺城跡方面に向かいます。明禅寺城主郭跡
2026.02.04
コメント(0)
全105件 (105件中 1-50件目)
![]()
![]()