エイヒロの「エイさんぽ」

エイヒロの「エイさんぽ」

PR

カレンダー

バックナンバー

2025.11
2025.10
2025.09
2025.08
2025.07

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

eihiroaz

eihiroaz

2023.12.24
XML
テーマ: 民謡(14)
【行徳みんよう勉強中!】行徳で昔諷われていた民謡を「日本民謡大観」収録曲を中心に紹介します。

【行徳音頭】

「主は沖へ出て」塩浜三番瀬公園

ハー 主は沖へ出てマタ わたしは田んぼナーエ
   夫婦揃って イッチャサッと 共稼ぎナーエ
  (ハア イッチャイッチャイッチャサッと)

   私ゃ行徳マタ 塩浜育ちナーエ
   色の黒いのは イッチャサッと 親ゆずりナーエ

   行徳名物マタ 自慢は無いがナーエ
   塩に新海苔 イッチャサッと 塩浜踊りナーエ

   沖の鴎にマタ 汐時聞けばナーエ
   私ゃ立つ鳥 イッチャサッと 浪に聞けナーエ

   清き流れのマタ あの江戸川にナーエ
   米とぐ娘の イッチャサッと 水鏡ナーエ

   行徳名物マタ あの海苔さえもナーエ
   好いた上なら イッチャサッと 身を焦がすナーエ

   行徳よいとこマタ 名所のところナーエ
   のぼる朝日に イッチャサッと 波が散るナーエ

「日本民謡大観」に収録。昭和17年7月7日千葉県東葛飾郡南行徳町にて録音。
1966年(昭和41年)に原田直之さんがシングル「新相馬節」のB面として発表しています。

元唄は安房地方の「いっちゃいっちゃ節」で、幕末~明治に流行っていたこの曲に当地の詞をつけたとされています。踊りの方は「塩浜踊り」と呼ばれ、塩田掻きから伝えられたとあります。
千葉県一帯と茨城鹿島地方・福島相馬地方辺りに同系の唄があります。「壁塗甚句」も似ていますね。

さて行徳音頭ですが、「大観」の方は演唱者は宇田川徳次郎・青山与五郎とありますが、女の人も含めて何人かで1コーラスごとに唄っています。さらに三味線(たぶん!)が1台伴奏していますが、何と言っても前奏と間奏の「いっちゃいっちゃ」ならぬ「ズンチャズンチャ」という音の適当に弾いている感じが大好きです。この三味線のリフが曲の個性に強いインパクトを与えています。日本の民謡でこのフレーズは他に思い当たりません。是非ともキース・リチャーズに聴いてほしいです。

一方の原田直之さんVerは、オーケストラも入って民謡というよりも「歌謡曲風お座敷唄」or「お座敷唄風歌謡曲」といった感じです。レコードに「流行民謡」と記載されている通り、昭和のこの時代に流行った音なのでしょう。歌詞は順番は違えども「大観」と同じで、「ズンチャズンチャ」も上品に演奏されています。現在は近所の公園の盆踊りソングとなっています。

(4人の会 田中さんからお借りしたドーナツ盤ありがとうございました。)

ただ歌詞が同じということは「大観」Verは、昭和17年時点においては既にかなり整理されていると言えないでしょうか。その意味で気になることが2点あります。

その1 「トコ」はどこへいった?

市川民話の会が発刊した「市川の伝承民話」(第1集は昭和55年)には、当時の市内の古老から伝え聞いた民謡が何曲か収められています(歌詞のみ)。その中に「いっちゃさ踊り」「塩浜音頭」という「いっちゃ節」と同系と思われる曲がありました。
そしてもう一つ、同じ頃文化庁が実施した「民謡緊急調査」があり、千葉県では教育委員会がネットで「房総の民謡」というタイトルで公開しています(音源のみ)。
それらに掲載されている中の市内の曲を3曲(音源からの聞き取りのため、歌詞が違っていたらすみません)

○いっちゃさ踊り(本行徳)(歌詞と音源)
前の流れはマタ あの江戸川でナーエ
裏で海苔打つ トコトントコトンと 音がするナーエ
千里寄せくるマタ 汐路を受けてナーエ
たけよたけたけ トコイッチャサッと 磯の花ナーエ

○いちゃいちゃ踊り(北国分)(音源のみ)
押せや押せさせマタ 二丁櫓で押せばナーエ
押せば港が トコイッチャナッと 近くなるナーエ

○いちゃいちゃ踊り(若宮)(音源のみ)
いちゃいちゃ踊りにマタ つい見初められナーエ
ハイと返事を こりゃまったくだよ せなならぬナーエ

下の句ですが、若宮の「こりゃまったくだよ」は、かなり独創的です。
元唄とされる「いっちゃいっちゃ節」には「トコ」はありません。推測ですが「トコ」とはおそらく1番の「トコトントコトンと」からの流用では。そして行徳音頭の歌詞を整理する過程で「トコ」が消えたのでしょう。しかし一方で、音頭は「いっちゃさ踊り」とは別の唄からの転用との可能性も否定できません。
当初は音頭が昭和17年、この2曲が昭和55年録音なので前後関係が混乱したのですが、唄い手は音頭以前の唄を覚えていたのでしょう。

「清き流れのマタ あの江戸川に」今井橋から

その2 「主は沖へ出て」何をしていた?

2番以降の歌詞を読んで、この点を説明している箇所がどうも見当たりません。ネットで踊りのサイトを拝見しましたが、見た限り動作は田畑作業と海苔作り、つまり「共稼ぎ」でいうところの奥さんの担当作業のみです。唄の主人公があくまでも「わたし」だからでしょうか。

さて以下はまた推測ですが、普通に考えれば「主は」漁師かと思います。海苔養殖を主にスズキやイワシのほか小魚・貝類を獲っていたのでしょう。
もう一つ製塩も考えられます。何と言ってもかつては行徳の中心産業でしたし、先述の「いっちゃさ踊り」の「たけよたけたけ磯の花」はまさしく塩焼を意味しているかと思います。

そこで気になるのは行徳音頭はなぜ「音頭」なのか?です。歌詞がかなり整理されていると申しましたが、それは整理する目的があったからではないか。当初から「行徳音頭」を作ろうという制作の意図があったからだと考えます。たとえば市区町村が後援する民謡大会でオープニングにその地の○○音頭を唄い踊ることがありますが、行徳音頭もそのような類の曲ではなかったか。
そうした曲の歌詞は大体、その時代の町の風景や四季の変化、未来へ向けての明るい希望を唄っていることが多いですが、であれば過去にすでに失われた風景を唄にするのは考えにくいです。
製塩業は事実上明治の半ばには衰退し、大正6年の津波により海苔養殖の比重が増したと言われています。さらに昭和25年には漁業権を得ています。

これらのことから、やはり「主は」漁師かと。ただ唄においては単に半農半漁という当時の生業スタイルを言い表したものと思われます。

その他にも気になる点として、安房地方の「いっちゃいっちゃ節」がいつ頃どのように生まれたのか、なぜ湾奥エリア、特に市川市内で同系の唄が多く伝わっているのか、その経路と速度等々あります。
特に伝播の速さという点では(ラジオ放送開始が大正14年)、例えばハイヤ節がおけさ節やアイヤ節になり、信州の追分が江差へ伝わった北前船ヒストリーとは異質な感じがします。ヒストリーというよりミステリーですね。
ただ、そのミステリーこそ民謡の魅力の一つであると付け加えさせて頂きます。
引き続き【勉強中!】です。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023.12.30 17:57:58
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: