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金庫の話は置いておいて、上海より帰国して最近思うのは、物事はやはり実践から学んだほうが身に付くなあと今ごろになって気づいたことです。情けない・・・。語学然り、仕事然りです。基礎から学ぶのも大切ですが、実践してみて失敗したところは基礎に戻り、やり直すことが手っ取り早いなあと思いました。しかし、実践の成功と失敗を体系化したのが学問であり、マニュアルであるというのも否めませんが・・・。まあ人それぞれですがね。
2005年12月13日
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珠海に来た当時は、何処に何があるかさっぱり解りませんでした。私は特に総務もやっていたので工場の備品関係も管理しておりました。ある日、工場からよくICが盗難に遭うのでなんとかして欲しいという要望がありました。このようなことは日本では無い事なのでどうしようかと思いました。以前から盗難に遭うことが多かったので、それも踏まえて値段の高い部品は、鉄製ロッカーに入れて、周りを鉄格子で囲い、一応盗難対策はしているのですが、やはりよくやられました。そこで私は大きな金庫の中に入れてしまえば問題ないのではと考え、金庫を購入することにしました。しかし、売っている場所が解りません。そこで総務の中国人スタッフに聞いてみました。「ねえ、金庫って何処に売ってあるのかなあ?」「金庫ですか?百貨店にありますよ。」「百貨店って何処にあるの?吉大の免税市場は知っているけど、そこでは見なかったなあ。」「いや、あそこじゃなくて香洲の方ですよ。」「香洲って何処?」「うーん、何処かと言われても説明がなかなか出来ないんですが・・・。それなら今度、一緒に行って見ますか?市政府などがあるところですよ。でも金庫、何に使うんですか?」「うん、ちょっとね。じゃ、明日、行って見ようよ。」「いいですよ。昼過ぎが良いんじゃないですか。」「そうだね。僕も珠海の街をもっと知らなくてはいけないからね。」「なるほど、経理も中国語の勉強以外に覚えること多くて大変ですね。」「まあね。」
2005年12月03日
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「マヨネーズって何処にあるんだろう?」「海岸べたのスーパーで見たよ。」「へえー、仕事終わったら行って見よう。」「確かね、キューピーのヤツだったよ。」「解った。」仕事が終わり、そのスーパーに行ってみました。最近出来たらしく、奇麗ですが、何処に何があるのか、よく解りません。それらしきものがありそうなところを探して見ましたが、見つかりません。そこで近くに立っている店員に聞いて見ました。「マヨネーズ何処にあるの?」「マヨネーズ?何ですかそれ?」「サラダにかけるやつ。」「私、生野菜は食べたことないから、知らないんですよ。ねえ、ちょっと『マヨネーズ』って知っている?」と他の店員に聞いています。しかし、その店員も知らないとのこと、そうこうしているうちに何人か集まってきました。私は埒が空かないのでキューピーの付いたマヨネーズの絵描いて見せました。すると「ああ、それならあそこだよ。」と示されたのは、お菓子売り場。チョコレートの横に御座いました。瓶入りでキューピーの絵が書いてあり、確かに「マヨネーズ」と書いてあります。しかし、なんでお菓子売り場にと思いつつ、買っていきました。しかし、使ったのは1回だけ、その後は冷蔵庫の中で半年間眠りについていました。これとは関係ないのですが、店員さんに「あなた日本人だったのね。なんで中国語よく話せなかったのか理解できたよ。」と言われたのは何とも言えない気持ちでした。
2005年12月01日
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今日は、パチンコで8万円負けました。8万突っ込んだのに単発1回だけ・・。隣のおっさんも10万突っ込んだと怒っていました。おっさんは去り際に台をブッ叩いて帰っていました。私は紳士的なんでそのまま帰りました。5万円オーバーは久々です。でも、まだまだ序の口です。最高に負けたのは1日で35万円でした。5軒行って5軒とも負けた記憶があります。でも、大体、5日もあれば取り返せます。でも悔しいです。
2005年11月22日
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「キミ、どこの出身?」 「湖南から来たよ。」「何時、来たの?」「1週間前、ここには大体1ヶ月くらい居るつもりだよ。」「1人でいるの?」「違うよ。友達と一緒だよ。」「友達も同じところから来たの?」「彼女は四川だよ。」「ここで暮らしているの?」「もちろん、部屋代は老板が半分出してくれて、残りの半分は私達で折半しているよ。」「へえー、仕事大変だろう?」「結構大変、朝11時から翌朝3時くらいまでだもん。」「休みとかないの?」「特別な事情が無い限り休まないよ。」「大変だなあ・・・。お金とかどうするの?」「殆ど故郷の家族に仕送りしているよ。稼ぎは6割は老板に払うから、取り分は4割、でもチップは関係ないけどね。」「それチップ多くしてくれってこと?」「解る?ウフフ。」「しかし、風呂場凄いなあ?下着ばかりじゃん。旗みたいだ。」「そこしか干す場所ないもん。」「このぬいぐるみは。」「かわいいから買ったんだ。抱いて寝ているよ。」「やっぱり女の子なんだ。へえー。」「今日、どうするの?やるの?」「今日は頭痛いから、あんましてよ。」「服、脱がないで?」「もちろん、でもお金は払うよ。」「プライド傷つくなあ・・・?」「仕方ないよ。頭痛いときは、何もしたくないから。」「仕様が無いわね。」「よろしく。」マカオのホテルの部屋での会話の1つです。 つづく
2005年11月21日
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今日は当りが中々来ませんでした。検討の余地ありです。デーロボをもっと活用しなければいけませんでした。
2005年11月14日
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道1つ隔てただけなのにどうしてこうも世界が違うのだろう?私が最初に感じたマカオの印象です。歩いて20分足らずなのに見る物、聞く物そして言葉までも全然違うし、まるで白黒世界からカラー世界にきてしまったようでした。バスもタクシーも珠海に比べるととても奇麗で、まるで日本のようでした。当時は言葉や習慣にうまく順応できないこともあり、珠海にいるのが嫌で嫌でたまりませんでした。だから息抜きの為によくマカオに行っておりました。と言ってもこの頃、会社が設立間もないせいもあり、休みは月に2回の日曜日だけでした。だからいつもという訳にはいきませんでした。香港も近かったのですが、マカオに比べると船で約1時間余りで交通費だけでも360香港ドル掛かりました。おまけに1日掛かりなので、たった1日の休みではとても遊びきれません。その点マカオは歩いていけるし、こじんまりとしており、地理も把握し易かったので何かと便利でした。マカオに来ると先ず行くのが、ヤオハンでした。そこには少し割高ながら、日本食もあり、私はよくカップラーメンやフリカケを買っていました。前述したと思いますが、この頃の珠海には日本料理屋などなく、毎日中華料理ばかりでしたので辟易していました。だから、マカオからフリカケを買ってきては臭いご飯にそれをかけて味をごまかしながら食べていました。あまり食欲がないときは、1日の食事はご飯にフリカケだけで過ごしていたこともありました。食料品以外に買っていたのは日本の新聞でした。1部50香港ドルと日本の3倍以上の値段でしたが、日本の情報を知るために時々買っておりました。インターネットもありませんでしたので、日本の情報を知るのは当時住んでいたホテルのNHKの衛星放送と新聞くらいでした。しかも天候が悪くなると衛星放送が見れなくなるので、雨や曇りの時は困りました。その他には毎週日曜日に香港系のテレビで日本テレビのニュース録画放送を1時間ほど放送していたのでそれを楽しみにしていたくらいでした。来て1年程の珠海の生活は毎日、憂鬱な日々でした。だから、中国以外の場所(当時の香港・マカオはそうでした。)に行くことは私にとっては唯一の楽しみでした。マカオに行って買い物をして総督広場でボーっと座って街並を眺めているとなんだか気分が落ち着きました。
2005年11月12日
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初めてマカオに行ったのは、珠海に来て一週間目の日曜日でした。一人では行けなかったので、当時、会社に居た人と行きました。3人で行ったのですが、私を除く2人は金などの貴金属が好きでマカオはそのような店も多く、安いとのことでした。私を含む3人で国境を越え、といっても歩いて10分くらいですが、マカオに行きました。マカオ側のイミグレーションの前にバス停があったのでそれに乗り、マカオ中心部の「centro」と言われる地区に行きました。マカオは一部を除けばバスはすべて2.5香港ドルでした。マカオ通貨の「ペセタ」というのもありますが、一般的には香港ドルです。当時は返還前でしたので人民元は通用しませんでした。通用するようになったのは、1999年からでした。「centro」でバスを降りると金や時計の店がズラリと並んでおり、そこがマカオのメイン・ストリートのようでした。我々はそのうちの一軒に入ると私を除く2人は金のネックレスを物色し始めました。店の店員さんも2人と顔見知りらしく、いろいろな種類のネックレスを出してきました。2人はネックレスを手に取りながら値切りをし始めました。(そのことは後ほど述べます)値段が折り合わないと見るや2人は「いらない」と言って店を出ようとします。しかし、店員さんは2人を引き止め、2人の言い値に近い値段で折り合いをつけました。これで商談成立です。2人は勝ち誇ったように喜んでいます。しかし、私から見ると妥当な値段かなと思いました。最初にフッかけて、結局は少し高い値段で売りつける。さすがだなあ、と感じました。そのようにしてだまされる日本人の多いこと、しかし私もその中の1人になってしまうのにはそう時間は掛かりませんでした。
2005年11月06日
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昨日で仕事も一段落し、やっと一息ついたところです。ところで去年の今頃は上海で留学生活していたんですな。年のせいでしょうかなんか遥か昔のことのように思えます。なんか日本にいると色々気遣いが多くて疲れてしまいます。
2005年11月02日
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4・5日中に日記を再開します。今、構成を考えています。パチンコできません。
2005年10月23日
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文字ばかりのブログを書くのも疲れるので写真でも付けてみようかと考えています。でもやり方が解りません。誰か教えて下さい。先日、EOSなるものを買ったのですが、面白がって遊んでいたら、1週間で壊してしまいました。約15万円の損失です。ついておりません。
2005年10月09日
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「出てますね。もう10連荘ですね。」「今日はツイてるたい。朝からだもんね。もう連荘2回目タイ。」「本当ですね。25回目ですか?いくらつっこみました?」「なんの、千円タイ。それから切れ無しでずっとタイ。」「すごいですね。俺なんか、昨日の勝ち全部飛びましたよ。」「人生、山あり谷ありたい、あんたも次は当るよ。」「そうですかね。あーっ、魚群だ。」「当るかいねえ、当ればヨカねえ。」「あーっ、外れた、ダブルのマリンちゃんリーチですよ。信じられん・・・。」「おしかったねえ。おっ、俺もリーチきたバイ。でもノーマルだもんね。ドぎゃんかいねえ。」「あっ、当った。26回目ですよ。すごい。」「面白かごて当るね。最近はこがんことばかり。」「いいなあ、あやかりたいですよ。」「あやからんがヨカよ。俺先週カミさんと離婚したばかりだもん。そぎゃんなったらイカンばいね。でもカミさんと別れてから勝てるゴテなったとよ。慰謝料払わないかんバイね。」「・・・・・・・・。」「ニイちゃん、人生いろいろあるバイ。パチンコに負けるくらいはまだ大したことナカよ。あっはっは。」以上ある日のある場所での会話でした。
2005年09月22日
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木曜日の夕方、父親と仕事帰りにパチンコに行きました。私が打ったのは「CR大海物語」超人気機種です。まず、前日9回当り、当日12回当りで365回転まで回っている台を打ちました。トレジャーモードで425回転目約4K投資、泡+クラゲ、そのあと魚群黒潮で7の確変ジュゴンで当り。その後8回転目3x4のクロスから泡予告でマリンリーチで3の確変カメで当り。75回転目のノーマルで裏サメで当り。そのあと時短モードへ、モードをラグーンに切り替えて打っていると43回転目で初リーチ、4のノーマルリーチだったのですが、それが揃い、そのまま確変1のタコに昇格しました。その後、確変中の13回転めで8x9のダブルノーマルリーチでそのまま終わりかと思ったのですが、それが走り、確変9のカニで当り。時短を入れて5連したので、大久保麻里子ちゃんを拝むことができました。そのあとアトランティスモードに切り替えて確変中25回転目で魚群後1x9のマリンリーチで1、2回転目でめったに当らない女神リーチで9、その後150回転まではまり、ノーマルリーチで3、そして4回転目で6のチョウチンアンコウの通常当りで終わりました。その後、時短中に魚群リーチが一回掛かりましたが、その後は掛からず、結局時短100回転目+6回転で終わりました。10連荘していれば、3人の実写のマリンちゃん達が見れたのですが、トータルで13546発とって約51000円取りました。投資分を除けば、約47000円の収益でした。父親も11箱出して60000円超取ったと言っていました。この日は親子で勝ったので良しとして置きましょう。
2005年09月17日
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話が前後してしまいますが、私がマカオに行ったのは大学のゼミの卒業旅行のときでした。その時は香港・マカオのみで大陸には行きませんでしたが、マカオから見た中国の街は目の前にありながら遠くに見えるように感じたのを覚えています。その時はこの街に来るとは思いも付きませんでしたから、巡り合わせとは不思議なものです。私が居た頃はマカオに行く時は外国人用の出国窓口に行かなければなりませんでした。大陸の人の出国窓口は隣にあり、そこはいつも人でごったがえしていました。反対に外国人用の窓口はあまり人がおらず、大抵は閑散としていました。外国人出国窓口は小さなビルの二階にあり、公安にパスポートを提示し、そこで出国カードをもらい、書き込んでから出国審査を受けます、無事通過したらまた階段を降り、今度はマカオの入国窓口に行くために延々と歩きます。大体300Mくらいの狭い道路を歩くのですが、道路の右側には免税店が観光地のお土産やの如く連なっていました。そこには大陸の人たちも出国審査を済ませて来ています。それにマカオから大陸に戻る人たちも加わり人で一杯です。これが夜なら祭りの夜店の光景とそっくりです。人並みを分けながらようやくマカオの入国窓口に入ります。土日の午前中ならいいのですが、昼過ぎに行くと人が多いため、入国窓口の事務所に入りきれず、外まで並ぶことになります。雨でも降れば文字通り「泣き面に蜂」です。しかし、並んでいる時にマカオから来る人をみると殆どの人が荷物を沢山持っており、中には自分の身体より大きい荷物を3つも4つもキャリーに積んで運んでいる人もいました。おそらく大陸で商売する為に仕入れてくるのでしょう。マカオの友人に一度聞いたら、大陸の人はマカオで家電なんかを買い、マカオの人は大陸で食料や漢方なんかを買って戻るそうです。それにしても彼らの荷物の多さには驚きました。ところで一度奇妙な光景を見たことがあります。マカオに入国するために国境(当時マカオはポルトガル領でした)の安全地帯を歩いていました。当時約30M隣に車両専用の出国口があり、そこを出たところに一台のバンが止まっており、何人かが車から降りて、大きなビニール袋を車から降ろしいるのを見ました。よく見るとその袋には100人民元が一杯入っており、彼らはそれをゴミのように別の袋に詰め替えていました。税関の目と鼻の先でこんなことを堂々とやっているなんてここはなんでもありだなと思いました。しかし、あのお金はなんだったのか未だに不思議に思っています。見てはいけないものを見たのかなとも思っています。
2005年09月14日
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ある日曜日、私は買い物にマカオに出かけました。珠海とマカオは隣同士、歩いてすぐ行けます。マカオの税関を出て、ヤオハンに行く為にマカオ港行きのバスに乗りましたが、いつもは大きいバスに乗るのですが、この時は大バスがなく、時間も夕方で早く終わらせて珠海に帰ろうと思い、たまたま止まっていた小バスに乗ってしまいました。最初は客は私以外3人くらいで何事もなかったように進んでいたのですが、リスボアあたりで私以外の客が降りてしまい、入れ違いに4人くらいの兄ちゃん達が乗ってきました。今思うとチンピラぽっい連中でした。私は彼らをチラと見て、別に気にもせず、窓の景色を眺めておりました。暫らくすると通路を挟んで横の席に座っている兄ちゃんが私に向かって腰に挿している携帯電話を指差し、「この携帯見せてくれ。」と言って来ました。私は「なんだこいつ?」と思いながら無視しておりました。すると今度は後ろに座っている3人が同じようなことを言って来ました。私は「やばいな、こいつら物取りだな。」ということに初めて気付きました。それでも無視していると後ろの1人が私にナイフのようなものを突きつけてきて「携帯と金を寄越せ」と言って来ました。私は「どうしようかな。」と思いつつも回りを見回しても、客は私以外はこの4人組と運転士しかいません。運転士は当然のことながら知らん振りです。大体こんなものです何かあっても・・・。私は「ここで金渡してしまうと余計に調子にのるし、かといって渡さないと刺されるかもなあ。やだなマカオで刺されたら・・・。」と悩んでいました。するとすぐそこに次のバス停が見えました。そこでベルを押し、バス停に着いたところですばやく降りました。バスは私を下ろすとすぐに行ってしまいました。4人が追いかけてきたらどうしようかと思いましたが、4人は結局降りてきませんでした。降りてきたら私も観念していたでしょう。運が良かったというか、からかわれていたのか、(恐らくからかわれていたのでしょう。)何か複雑な心境で、拍子抜けの感がありましたが、いずれにしても何事もなかったのは幸いでした。マカオでこのような目に会うのは3回目でした。バスで遭うのは2回目でした。このことはまた後ほど述べたいと思います。1人・2人くらいなら、相手が拳銃を持っていない限り別に問題ないのですが、3人以上だとやはり厳しいです。やはり日本だろうが、外国だろうが用心に用心を重ねて行動しなければと思いました。自分自身の行動には自分で責任を持ち、守るべきです。他人は助けてくれないのですから。
2005年09月13日
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お金に纏わることでもう一つ困ったことがありました。中国では春節(旧正月)というものがあるのですが、その時に「紅包」というものを配る習慣があります。日本でいうと「お年玉」みたいなものですが、普通、日本では子供達に配るのですが、中国では役所を始めとして大人にも配ります。当然会社でも社員の人達に配るのです。通常は春節の休み前に準備して配ってしまうのですが、この年は春節の休み明けに社員の人達に配ることになりました。理由は休み明けに帰省した社員の人達が戻ってこないことがあるのでお金が勿体無いという理由からでした。考えてみればせこいのですが、経営から見ればあながち間違った考えでもありません。役所関係には例年通りに休み前に配布し終えましたが、社員の分は金額が大きく10元札がすぐに準備できないという銀行からの連絡があり、最終的に銀行から連絡があった時は会社の休み前という慌しさでした。おまけに日本人は私以外は全員日本に一時帰国するので珠海に残るのは結局、私1人という悲惨さでした。人に任せると盗難の恐れもあるので社員1300人分の「紅包」は私1人で準備しなくてはならないことになってしまいました。社員1人あたり20元として1300人分、人民元で26万元でございます。給与よりは少ないとしてもやはり、かなりの量です。ホテルの私の部屋にお金と紅袋を運んでもらい、翌日から部屋に缶詰めで袋詰めを行いました。最初は手間取りましたが、100人を越えた辺りから慣れていき、全部終わったのは翌日の夜には終わりました。詰めたのはいいのですが、問題は保管場所です。部屋に置いて置く訳にも行きません。1300人分の紅包は大きいダンボールで3つありました。それで私は中国銀行に直接行って保管してもらうように交渉しました。言葉がうまく話せなかったのですが、身振り手振りで相手に理解してもらい保管させてもらうことにしました。今考えると恐ろしい話ですが、この時は必死でした。幸い銀行はホテルの近所だったので銀行の人に手伝ってもらい銀行の金庫室みたいなところに保管することになりました。保管の前に中身を確認されたのですが、中身が「紅包」でしかも大量にあるので、銀行の人が「これあんたが一人でやったの?」みたいなことを聞いてきたので、私は「そうだよ。」というと、銀行の人は驚いているのやら、呆れているのやらなんとも言えない顔をしていました。パスポートを出して私の身分確認をした後に「保管証明」みたいなものをくれました。「発票」みたいな薄い紙でなんとなく頼りないような感じでしたが、これが26万元だと思うと震えました。これでなんとか安全は確保できたのですが、やはり休み明けに「紅包」を配り終えるまでは気が気ではありませんでした。結局、この年の春節は休んだ気がしませんでした。紅包のほうは私の苦労(?)もあってか、トラブルなく無事に配り終えました。その時初めて私はホッと胸を撫で下ろしました。 つづく
2005年09月08日
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珠海に居た頃に一番嫌だったのは給料日でした。もちろん自分のではなく、会社の中国人従業員に支払う給与です。当時はすべて現金支給でした。私はここに来る前は中国でもてっきり日本のように銀行振込だと思っていたので実際に現金支給と聞いた途端、驚きました。10人20人ならまだしも、1000人を超える人たちに払う給与となると総支給額も半端ではありません、当時(1996年)で約100万元前後で日本円で約1300万円程でした。準備としてはまず25日締めの翌月10日払いでしたので25日までに大体の総額を出し金種でいくら必要かということを計算します。それを主要取引先である中国銀行に連絡して準備をしてもらうのです。特に1元・2元・5元・10元の必要数を早めに連絡しておかないとお金を取りに行く段になって「ない」と言われたらおしまいです。それこそストライキになってしまいます。一度そのようなことがありました。その時は中国人スタッフと珠海市内の銀行を駈けずりまわりました。挙句は信用合作社まで行ってかき集めたことが多々あります。そして給与支給日当日に会社の保安3人と経理スタッフと私で朝一に銀行にお金を取りに行きます。銀行に着くと金額と銀行の用意したお金を確認し、お金を積み込みますが、それが大変重く、骨が折れるのです。日本円で約1300万ほどですが、日本円では大した量ではないのですが、人民元の最高金額は100元で日本円の10分の1の額面ですから、量も日本円の10倍と単純に考えればいいのです。しかし、少額紙幣などもあり、重さで換算すると70kg以上はありました。これを会社に運び従業員の明細表を見ながら、経理・総務殆ど総出で行うのです。終わるのは終業直前の4時前そして給与袋を各部門に区分けして配布するのですが、所詮人の手作業、いつも金額が1元・2元合わないというトラブルがありました。一生懸命働いて手にしたお金です。例え1元でも足りないと腹が立つのは当然です。このような訳で毎月の給料支給日はいつも頭痛の種でした。こんなことが毎月続くので以前、K統括経理に銀行振込にしたらどうですか?と言った事がありましたが、答えは「NO」理由は中国人は現金しか信用していないし、銀行には預ける習慣はないとのことでした。そして当時は珠海の他の日系企業でも大体が現金支給が主流でしたので、そのようにせざるを得ませんでした。背景には銀行をあまり信用していなかったことと、お金のことでトラブルを犯したくないという考えがあったのかもしれません。今、考えてみればおかしなことですが、当時はみんな手探りでおっかなびっくりしながらやっていました。 つづく
2005年09月07日
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日本に帰国して1ヶ月半が過ぎました。仕事も慣れてきましたが、日本に帰ってきて困ったことがあります。それは「パチンコ」です。上海に居た時は「パチンコ」などなかったので、自制することができましたが日本ではそうはいきません。勝つときは勝つのですが、負ける時もとことん負けます。負ける雰囲気というものを感じ取ればいいのですが、それがなかなか・・・。ギャンブルにはまる人の気持ちが良くわかります。それにパチンコ店に行くと「リーチ」がかかり、絵柄が揃う瞬間によく台を叩く人(特におばさん)がいますが、そんなことやっても当るわけありません。そんなことやって当るなら私は台を壊しています。でもギャンブルほど人間性が解る物もありません。やはりお金が掛かるからでしょうね。でもパチンコ店で隣の人と話が盛り上がったりするのもなかなか面白いです。店によっては客層が違うのでいろいろな人がいます。よくアッチ系(暴)の人もいます。最初は少し怖いですが、話して見ると面白いです。熊本人は人間性はいいのですが、気の荒い人が多いです。かく言う私もその一人でしょうが・・・。でも飲み物やご飯をおごってもらったりする時もあります。その時は球を少し分けてあげたりもします。その時に当ったときはとても感謝されます。ただ奇麗なお姉さんと知り合いになることはあまりありません。知り合いになる奇麗なお姉さんは大抵は夜のお仕事の人で、勤務前に一打ちという感じです。しかし、裏話を聞けるのでそれもなかなか面白いです。しかしそのようなことはあまりないのでそれが少し残念です。まあ、何事も程ほどが宜しいようです。次回は珠海の思い出を続けていきます。
2005年09月07日
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給与体系の雛型が出来たには出来たのですが、他の日系企業はどうなっているんだろう?と気になった私はK統括経理に相談してみることにしました。以前述べたとは思いますが、給与が他社と開きがあるとストライキの原因になったりするからです。当時の私は中国のそのようなところがとても怖かったので、同業他社はどうなっているのか非常に気になっていました。そのようなこともあってかK統括経理のところに行ってその話を持ち出しました。私「あのう。」K氏「何?どうしたの?」私「作成した給与の雛型なんですが・・・。」K氏「雛型がどうしたの?」私「いえ、他の日系企業はどうなっているのかと思いまして・・・。」K氏「ウチはあれでいいよ。」私「他の会社と比較できないかと・・・。しかし、私は他社とはお付き合いがありませんので・・・。どうしようかと・・・。」K氏「なるほどね。しかしどうかなあ。給与体系はある意味では企業秘密だからね。」私「ええ、確かに。私としてはもう少し細分化して運用に弾力性を持たせたがいいのではないかと。先日のはあくまで雛型ですから・・・。どこか会社をご存知ないですか。すいません。」K氏「そうだね。じゃあ、私が以前いた会社に聞いて見よう。」私「すいません。お願いいたします。」と私はK統括経理にペコリと頭を下げました。3日後、私はK統括経理に呼ばれました。行って見ると、「忠君。はい、これ。」と言ってA4版程の紙を2枚私にくれました。紙にはK統括経理が以前いた会社の給与体系の仕組みが書かれていました。よく見て見ると非常に細分化された仕組みで私1人ではとても考えられないほどキチンとしていました。K統括経理は渡し際にこう言いました。「これ、あまり人に見せないでね。最新の物ではないけど、仕組みはそのままだから。」私は礼を言って自分の席に戻り、自分が作った雛型と見比べました。やはり自分が作った雛型は穴がかなりありました。そしてそれを参考に再度修正し直しました。特に役職別の基本給差が私が作った仕組みは大雑把だったので少し、細分化してみました。おかげでずいぶんマシになりました。今度は導入時期が決まったら、その前に再度、各部門の責任者も交えて検討すればよいと思いました。取り敢えず、私の初仕事は不完全ながらも何とか終わることができました。 つづく
2005年08月22日
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給与がみんなバラバラなのでまずは階層別に統一しなければいけません。それでまず工員を5段階・組長を3段階・班長を3段階・主任を3段階にしました。組長以上は上から1級・2級・3級とし、班長、主任も同様にしました。まず、皆勤手当・医療補助・食事補助はどの階層でも同じ金額で固定なのでいじれません。そこで基本給を決めていきました。工員は5級から始まるので、前に算出した工員の基本給の最低金額を置きました。そして工員の5段階には基本給に15~35元の幅を持たせました。組長の3段階には20元~30元、班長は25元~35元、主任は45~65元というように基本給の差をつけて行きました。そして組長以上はそれにプラス役職手当、それとこのシステムが運用された場合、今までの給与から減少してしまう人も出てくるので、運用後1年間の間は特別補助という名目での調整手当を追加し、極端な減少することを避けました。また、運転手や専門職(技術者)などもいましたので、資格手当という項目も追加しました。大体、100元~200元の間で決めました。このようにして新しい給与の仕組みを決めて行きました。本来は上述のように大雑把なものではなく、もっと複雑なものなのですが具体的に書いてしまうといろいろ問題があるので、このくらいにして置きます。何とか仕組みを作り、何度も修正した挙句、それなりのものが出来ました。当時はEXCELなどもなかったので、「マルチプラン」というグラフ計算みたいなもので表を作りました。恥ずかしい話この頃初めてパソコンという物に触れました。私は中国でパソコンを覚えました。最初は大変でしたが、何とか慣れました。仕組みの作成はK統括経理から言われて約2日間掛かりました。総務や人事の知識があればよかったのですが、なんの予備知識もなかったのでなかなか骨が折れました。後は、統括経理に見せるだけです。出来て翌日、確認してもらう為にK統括経理のところへその資料を持って行きました。そして、解らないながらも統括経理に説明をして何とか理解して頂き、OKを頂きました。ただその仕組みの導入は暫らく待って欲しいとのことでした。確かに早く導入した方がよいのだけど、導入のタイミングを誤ると面倒なことになります。私はもう一度他の日系企業の給与などを参考にして金額を修正するべきか考えました。しかし給与は会社にとってはおいそれと漏らせる情報ではありません。私はどうやって調べたらよいかまた悩んでしまいました。K統括経理に後日、相談してみることにしました。 つづく
2005年08月12日
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会社で働く人達にとって敏感な問題の一つは「お金」でしょう。所謂「給与」なんですが、それがはっきりしないとやはり働く人達にとっては不安なものだと思います。私もそうです。多い時はいいのですが、少ないと1円でも腹が立つと思います。その仕組みを作れと言われたのですから、その当時の私はとても不安になりました。まず、私は給与システムの仕組みを作る前に1つの決め事を自分の中で決めました。それは「誰でも解る様な仕組み」です。誰でも解る仕組みをまず作ってしまえば、問題があった場合でも説明できるからです。その前にまず現状確認です。そこで去年1年の会社の給与明細を出してもらい、小会議室を借りてそこで1人で1人1人の役職・勤続年数・基本給・手当などを確認して行きました。当時従業員は日本人を除くと1,200人ほどいましたので、なかなか大変な作業でした。人数が居ればいいのですが、おいそれと他の人には任せられません。話が漏れたら大変です。そのようなこともあり、1人でやることになったのです。このようなことは初めてだし、やり方も解らないので取り敢えず全従業員の給与明細を確認した後、一般工員・管理職の2つに分類し、一般工員の最高金額と最低金額、そして管理職では当時は上から主任・班長・組長とありました。そこでその階層ごとに最高金額と最低金額を分けていきました。そしてそれぞれの階層の平均基本給を出しました。解ったことは、基本給や手当ともに統一されてなくバラバラだったことです。特に最初からのメンバーはその時の日本人駐在者が、適当に決めていたようで、それが、まだ続いているということです。勤続年数は同じで、給与も同じなのに給与の内容を見てみると、基本給が100元も違っており、その基本給の差額を訳の解らない名目の手当で補っているのです。結果的には金額が同じでいいじゃないかとは思うのですが、人は次から次に入ってくるのです。今のままのやり方を続けていれば、会社の収益が落ちた場合に大幅減給などで混乱に陥る可能性があります。ですから、仕組みの整理は急務のことだということがこの時解りました。工員がそうですから、管理職はもっと複雑でした。中には主任より、基本給が高い組長もいました。実力主義ならそれでもいいのですが、当時のウチはそういうことはやっておりませんでした。私は書き出したメモを見ながら、どうしようかなあ・・・。と考え込んでしまいました。 つづく
2005年08月05日
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7月25日に日本に帰国致しました。その前に約10日以上、日記の舞台である珠海市に滞在しておりました。今回は上海留学時の同学2名と一緒です。その時のことはいろいろ面白いことも聞いておりましたので、後日披露するとして、上海に来て1年の間、都合3回行きましたが、行く度に変わっています。まあ、物事は日々変わり行くもの当たり前と言えば当たり前なんですが、やはりここに住んでいた者としては自分が居た頃の景色が変わって行くのは少し寂しい感じがします。このように感傷的になるのも年のせいでしょうかね。しかし、古い友人にも会えたし、新しい友人も出来たことですし、良しと致しましょう。次に来るのは何時になるか分かりませんが、また来たいと思います。そしてまたここで仕事をやってみたいです。ここは大げさに言えば、第二の故郷のようなものです。当面は日本で地味に仕事をやって行くつもりです。次は約1ヶ月近く中断していた珠海奮戦記を書いて行く予定です。ああ、疲れるなあ。仕事。
2005年08月04日
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昨日(7月10日)、HSKの試験がございました。前回が6級だったので、今回はもう少しステップ・アップをと臨みましたが、恐らく結果は「・・・・・。」でしょう。一昨日が終了式で留学生活は昨日で終わりだったのですが、自分としては昨日のHSKで留学生活の最後を締めくくりたいと思っていました。上海に来て約1年、長いようで短かった日でした。本当は勉強以外に色々なことをやりたかったのですが、これは恐らく来年あたりになるでしょう。この時は上海ではなく大陸の別の場所だと思います。ところで初めて上海で長期生活を営んだ訳ですが、現時点の私にとってはかなり物足りなかったです。これは自分の責任です。今後はこのことを糧として中国での業務展開を考えて行くつもりです。しかし、色々な人に知り合えたこと、特に日本の現役学生さん達と対等に話せたことは自分にとってもいい刺激になりました。仕事上の人間関係とは違った人間関係が作れたし、それは無駄ではなかったと思います。そのことが唯一の救いです。今はそのことしか頭に浮かびませんが、暫くすると留学生活の色々な思い出が頭を交差してくることでしょう。その時に留学生活の良さが解ってくると思います。最後に復旦大学の老師の皆様・同学の皆様ありがとうございました。
2005年07月11日
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珠海滞在4日目、第三工場に出勤致しました。何時もの様に財務の空いている机に座り、そこにある資料などを何気なく見ておりました。しかし、中国語は当時は殆ど解らず、漢字で辛うじてどんな内容かがなんとなく理解できる程度でした。暇つぶしにそれを見ていると、Kさんから呼ばれました。Kさんの当時の役職は「統括経理」総経理の下の役職でしたが、総経理は叔父で、親父は副董事長でしたが、2人は日本におり、時折出張してくるくらいでしたので、Kさんは実質は工場責任者で総経理みたいなものでした。その人から直々に呼ばれ、私は緊張しながら彼のところに行きました。この時の会話は以下の通りです。K氏「忠君、今度来るときは君に総務・財務を見て貰いたいと考えているんだけどねえ。」私「はっ、私がですか。やったことはないんですけど・・・。」K氏「大丈夫だよ。みんな最初は初めてなんだから。」私「で、今は何をやればいいんですか?」K氏「いやね。ウチは立ち上げが早かったのはいいんだけど、製造中心でやって来たから、総務・財務が手薄でね。特に中国人従業員の給与システムが未だに少し不明確なんだよ。」私「まず、給与の仕組みを作ればいいんですか。」K氏「そうそう、手始めに作ってみてよ。君の思い通りにね。まあ直ぐには使わないけど、所謂ひな型をね。」私「はあ、それはいいんですけど。本当にいいんですか。」K氏「いいよ。2日くらいあれば出来るでしょう。これが君の初仕事ですよ。ははは・・。」私「はあ・・・・。やってみます。」K氏「大丈夫。大丈夫。リラックスしてやりなよ。親父さんから君のことは聞いているから・・・。」「何をですか?」とは敢えて聞きませんでした。聞いてどうなると言うものでもありませんでしたから・・・・・。とこんな具合で最初の仕事は会社の給与システムを作ることになりました。システムを作るのはいいのですが、まず基準の数字が無ければいけません。私は辛うじて残っていた立ち上げ当初の「給与の取り決め」なる文章を探し出し、それを基にシステムを作ることに決めました。最初は日本の本社の給与システムを基準ににしようと思いましたが、複雑で給与計算の時にも中国人従業員が混乱するとまた問題なので、ほぼ一から作ることにしました。先ほどのK氏の言葉ではないのですが、恥ずかしい話、製造部門はある程度組織が纏まっていましたが、総務・財務の組織は殆ど整備されていなかったのです。会社立ち上げの際は本来は財務・総務をキチンと整備してから製造・営業などの専門部門をやっていくのですが、ウチは本末転倒の状態でした。大会社ならいざ知らず、中小の会社は大体そうでした。ですから賃金トラブルなどのストライキなどが当時はよく発生していました。ストライキになれば工場稼動が停止して、収益に影響します。それを防ぐ為に総務・財務という大袈裟に言えば要ともなる部門を整備していくのが私の今度の仕事でした。その手始めが、給与システムの整備だったのです。 つづく
2005年07月09日
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出勤3日目、この日は管理部門のある通称第三工場に行きました。実を言うとこの時は私はここでどんな仕事を担当するのか決まっていませんでした。親父殿に聞いても「俺は知らん。Kさんが決めることタイ。」と言われ相手にしてくれません。特に何もすることがないので、財務・総務部門の空いている机に座って日本の新聞などを読んでおりました。しかし、周りが仕事で忙しい中、自分1人だけが新聞なぞを読んでのんびりしている訳には行きません。周りの中国人社員からの視線をひしひしと感じます。別に悪意があるような視線ではありませんが、やはり私が「社長の息子」という特別な意味で見られているのかなあ、と勝手に思ってしまいました。少し居た堪れなくなり、外に行こうとした時、親父殿が「忠、こっちに来い。」と私を呼びました。会社の中くらいは家の中みたいに名前で呼ばなくてもいいのに・・・。と思いつつも親父殿の所へ参上致しました。この時初めて気づいたのですが、工場事務所の奥にパーテーションで区切られた一角があり、どうやらそこが総経理の執務空間(部屋とは呼べませんでしたので)のようでした。約20平米位の場所でした。そこには執務用の机と椅子があり、他には本棚と椅子がもう一つと言う様な質素な場所でした。親父殿がもう一つの椅子に座り、向かい合って執務席には初日に対面した工場の実質的な責任者であるK氏が座っておりました。「その辺の椅子を持ってきて、ここに座れ。」と親父殿は自分の隣を指しました。私は言われた通りに椅子を持って来て指定の場所に座りました。そして、「これが家の長男の忠です。今度ここで仕事をするかもしれませんので、よろしく。」とK氏に私を紹介しました。この時の会話:私「初めまして、楓忠です。よろしくお願い致します。」K氏「あっ、Kです。初めまして。社長からお話は伺っております。よろしく。」私「あっ、そうですか。」と私は緊張して答えました。K氏が話しを続けました。K氏「海外は初めて?」私「そうでもないんですが。珠海は初めてです。」K氏「そう。君の仕事はここに来るのはっきり決まった時に考えるとして・・。ところでね。忠君・・。海外で仕事をしようと思うなら、人は信じちゃいけないよ。」私「はあ?人をですか?」K氏「そう。信じると必ず騙されるよ。これだけは気をつけて。」私「そうですか・・・。」この時の会話はこの位で終わりました。会話の際の内容はK氏の鋭い眼つきが印象的であまりよく覚えておりません。しかしK氏の「人を信じるな。」と言う言葉だけは約10年経った今でも良く覚えています。この時はこの言葉の意味がよく理解出来ませんでしたが、言葉では巧く言えませんが、今になって少し解ってきたような気がします。 つづく
2005年07月06日
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出勤第2日目、この日は翠珠という場所にある基板製造工場へ行きました。基板というのはICやら電子部品などが付いた板(?)のことでテレビやエアコンなどの制御などを行う電気製品の中心となる物です。その工場ではこの基板を製造しておりました。前山の工場から車にて約10分の場所にあり、『国泰家具』という大きな家具店の裏にあり、そこ一帯は当時工場地帯でした。工場の裏手には建設中の建物が幾つかあり、その周辺には現場作業者のバラックが点在しており、近くにはゴミの山があちこちにありました。日本の工場はウチを含め約2~3社あり、一つは大手部品メーカー、もう一つは豆腐や納豆の製造メーカー、そしてウチだったと記憶しております。ウチの工場はと申しますと、7階建ての建物を借り受け、そこに基板製造工場を置いていました。当時私が来た頃は1階は事務所兼材料検収所、2階はAF工程・3階はRH工程・4階はRF工程・5階はCM工程及びDIP・チェッカー工程・基板完成工程、6階は材料倉庫、7階は廃材置場となっておりました。工場にはエレベーターもありましたが、材料の搬出入に使っておりましたので、私は階段を登って工場を見学することにしました。ここの工場長はM氏です。親父はその日は前山の工場にいるとのことで私だけ会社の車でここにやってきました。ところで1階から順番にM氏が案内してくれたのですが、久しく階段を登っていない私には久々に堪えました。しかし、どうしてこんな不便な建物に工場を置いたのかよく解りませんでした。M氏が言うには「時間が無かった」とのことでしたが、いやあ、これは大変だ。と思いました。しかも建物自体が本来安普請な為、上に置いてある機械の振動で1階の天井には少しづつヒビが入っております。「これは崩壊は時間の問題だな。」と思いつつもM氏に付いていきながら一通り案内して貰いました。案内後工場で昼食を済ませ、午後には何もすることがないのでこれ以上お邪魔しても仕方ないので前山の工場に帰ることにしました。私「M部長、私、前山に戻ります。」M部長「よかばってん、会社の車な今無かよ。もう少ししたら戻ってくるけん、待っとくたい。」私「いやあ、いいですよ。タクシーで行きますから、場所の名前は覚えましたから。」M部長「大丈夫ね。中国語の勉強の意味でヨカばってんが、気を付けてね。」というような言葉を交わし、私は工場を出て工場から少し離れた大きな道に行きました。歩いてみると、この翠珠地区は外省人が多く、土地柄がよろしくないとのことでよくトラブルがある場所でした。まあ、拱北とはまた異なり色々な人が沢山います。みんな何をしているんだろう。と思いつつもタクシーを拾い、無事前山の工場へ戻りました。まあしかし中国は歩く機会が多いこと多いこと、これからも増えていくだろうな。と思いつつ夕方になって親父殿と前山工場を出てホテルに戻り、夕食後は街で小姐の「チュッ、チュッ」攻撃にさらされながらも無事に一日を終えることができました。 つづく
2005年07月03日
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なんとか出勤(?)第一日目終了。親父と共にホテルに戻りました。今日も会社の人達と夕食とかでまあ大体夜8時前後ということなので、まだ時間がありました。親父が珠海の街を見てきたらというので、言葉に甘えてホテル周辺を散策致しました。ホテルのあるところは拱北という場所でマカオとは目と鼻の先です。「あっちに行けばマカオたい。」という親父の言葉に従ってホテルの前の「蓮花路」という通りを東南に向かって歩き出しました。通りは色々な商店や色々な人々が行き交っており、賑やかでした。中国側の出国所に向かって歩いている途中に若い女の子から声を掛けられました。「チュッ、チュッ。」と言っているようでした。「チュッ、チュッ?」私は彼女が何を言っているのか解りません。無視して通り過ぎようとすると、再び「チュッ、チュッ」それが何度か続きました。私はスリなのかなと足早に歩いていきました。この女の子は暫く私に付いてきましたが、ある場所まで来ると居なくなりました。中国側の出国所の前に来ると人でごった返していました。そして隣の建物を見ると「パスポート所持者・外国人」という立て札があり、そこが外国人専用出国所らしいようでした。人でごった返しているところは中国人専用の出国所のようでそこからマカオに出入りしていました。今では同じ場所になっており、土日や祝日の際は当時以上に人で一杯です。約300m向こうにはマカオの街が見えます。当時の私には違う世界のようでした。出国所を見た後、ホテルに戻る為に元の道を引き返していくと、また違う女の子が来て、さっきの女の子と同じような言葉を掛けて来ました。何を言っているんだろうと私はつたない英語で聞いて見ました(当時は中国語よく解りませんでした。)私「何言っているの?」女の子「??????」私はちっとも解りません。それでホテルは何処だと行ってホテルの名刺を出すと女の子は「あっち」と指差して教えてくれました。そして何かを言っていましたが、私やはり解りません。とりあえず「謝謝」だけは知っていたのでそれを言って足早にホテルに戻りました。夕食の時にM氏に聞いて見ました。私「今日、女の子がやたらに『チュッ、チュッ』言って声掛けてきましたけどどんな意味ですか?」M氏「ああ、それは小姐たい。『チュッ、チュッ』じゃなくて、『去不去』たい。」私「なんですかそれ?」M氏「つまりたい。『何処行くの?行くなら私も連れて行って』つまり『私、如何?』ていう意味たい。」私「ああ、それですか。なるほどね。」M「これからいろいろ経験して行くタイ。変なのに引っかかったらいかんバイ。」そこで親父が口を挟みました。親父「忠、MやNからよく聞いとけよ。お母さんには言うわんケン。」M「また、社長な変な事ば言って、ガッはは・・。」と2人でふざけあっておりました。この日は中国の風俗の一つを知って利口になった私でした。明日は出勤第2日目でございます。 つづく
2005年07月01日
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製造工場を一通り案内して貰ってから、親父は伯父の所に挨拶がてら行ってくると言って工場の4階に行きました。お前も来るか。と言われましたが、色々仕事の話が出てくれば拙かろうと思い。資材部長のN氏に製造工場の向かいにある資材倉庫に案内して頂きました。倉庫と言いましても、7階建ての建物を借り受けそこを倉庫として使っているもので、日本のように立派なものではありません。倉庫の内部は1階が梱包材などの大物材料、2階がキャビという外観材料そして上に上がっていくにつれて材料単価の高い材料を置くようになっていました。そして5階の一部が資材部の事務所となっておりました。ここにもICなど一番高い材料を鉄格子に囲まれた部屋の中にさらに金庫を置いてその中に入れて保管しておりました。信じられないかもしれませんが、盗難を防止する為には当時はその方法しかないと考えていたのです。この時は当月生産の方もほぼ終わりつつあり、棚卸しも大体終わっていましたので、次月度生産分の材料がぼちぼち入ってくるだけで倉庫の材料の在庫自体は少なく、ガランとした印象でした。これが月度生産の初めの時期になると材料が多く倉庫だけでは置けなくなり、材料を運んできたコンテナ自体に保管するとのことでその時はまた盗難防止の為の対策をしなければならないとのことでした。材料倉庫の中自体もエレベーターや階段には二重の鉄格子を各階の入り口に設けてあり、鍵も3~4つ掛けておりました。鍵の保管は各部門の責任者の仕事なのでN氏の腰にも鍵の束がジャラジャラなっておりました。私もその後は同じことになってしまうのですが・・・・。資材倉庫を見終わり、親父もまた3階の事務所に戻ってきてたので2人で暫くうちの会社から出張している人達と話した後にホテルへと戻りました。出勤第一日目はそんな感じで終わってしまいました。 つづく
2005年06月28日
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ところで工場の中ですが、我々は管理部門と生産部門のある3階に上がりました。3階は全フロアが横100mX縦30mの約3000平米位だったと思います。その内の5分の一程が壁で仕切られており、そこが管理部門でした。管理部門といっても大部屋所帯でそこに、入り口から順に財務・総務部門、貿易、生産管理、製造部門となっており、まだ勤務が始まって間もなかったせいか。ガヤガヤしておりました。各部門の長は日本人、それを補佐する形で中国人社員がいました。うちの会社はいわゆる独資企業で役員は全員日本人(と言っても私の親族ばかりですが)で中国企業とは合弁はしておりませんでした。企業内部の活動に関しては外部からの干渉はないのですが、やはり中国にコネなどがないので外部の情報を取るのに苦労していたようです。いずれにしても、うちの会社にとっては初めての海外進出で操業から1年程経っていましたが、まだ製造部門以外の組織がうまく固まっていませんでした。私も後でそのことで苦労することになります。ところで工場内を案内して貰うことになりました。まずは製造部門・・・。生産ラインが2本ありそこで材料投入から組立・検査・完成とやっておりました。私が目に付いたのは天井の低さです。なにか圧迫されそうでそのせいで実際の広さより狭く感じました。生産ラインに平行して品質管理の検査部門があり、そこで完成品の最終検査をやっておりました。そこは製品の盗難を防止する為に鉄格子で囲まれており、大きな南京錠が2つありました。工場の中は、製品とか高価な材料(ICなど)など金になりそうなものは金庫は鉄格子の部屋の中などに保管して盗難を防いでいるつもりでしたが、やはり時々は盗難に遣られていました。まるでイタチごっこのようでした。当時はこんなことがしょっちゅうあり、実際の本業以外で頭を悩ませることの方が多かったのです。 つづく
2005年06月26日
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翌朝7時半私と親父とM氏・N氏の3人はホテルロビーに集合、会社の迎えの社用車に乗り込み、会社(工場)へ向かいました。昼間に眺める珠海の街並みは夜とは異なり、別の意味で活気があるように感じました。特にやたら建築中の建物が多かったことが印象的でした。車は工場のある前山金鶏口という場所に向かいました。この周辺も当時はまだ開発中で外省から来た人達のバラックが集落となって点在していました。それと道にやたらに穴があるのが目に付きました。どうやらマンホールのようです。どうして蓋がないのかを隣のM氏に聞くと、こう言いました。「これは近くのヤツが持って行って売りよるごたるよ。だけんが夜は気をつけんと、落ちてしまうバイ。ガッハハハ・・・。」とのたまっておられました。あとでその穴を覗いて見るとたしかに深く、内側には鉄筋がむき出しになっており、ベトナム戦争の時のべトコンの落とし穴のようです。「ここに落ちたらタダでは済まないな。」思いました。それはあとの話として門を潜り、工場に入りました。工場は伯父の工場の半分を間借りしており、5階建で1階との半分と2・3階を内の会社が借り、1階の残り半分は別の台湾の会社・4・5階は伯父の会社と一つの建物に3つの会社が入っているという複雑なところでした。内の工場は1階が製品出荷と検品場所・2階は製品保管倉庫・3階が管理部門と生産ラインでした。当時の私は製造のことはよく解りませんでしたが、こんな効率の悪い場所で生産して大丈夫なのか?ということくらいは理解できました。ここは第3工場と呼ばれており、その第3工場の前に資材倉庫の7階建ての第一工場・翠珠という場所に基板生産工場の第2工場・そして更に別の場所に材料倉庫の第4・第5工場と工場が5箇所点在しておりました。なぜ一箇所に集約しないのかと聞くと、工場の立ち上げから操業までに3ヶ月しかなかったのでこのような形にしなければならなかったとのことでした。私はこれはえらいところでえらいことをしなければならないのかも。と頭が少し痛くなってきました。 つづく
2005年06月24日
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ホテルにチェックインしたあと、我々は食事に行きました。といってもホテルの9階にあるレストランです。ここには日本食(もどき)があるというので当時の日系企業の人達はここにばかりきていたようです。というのもこの頃は珠海は開発途上で「経済特別区」というのは名ばかりの田舎街だったのです。その為に日本料理の店も無く、日本人の駐在員の人達は食事で結構苦労していたようでした。ともあれ親父・と出迎えの4人と私の5人は9階のレストランへ向かいました。来て見ると照明はオレンジ系で薄暗く、レストランというより場末の酒場のような感じでした。レストランで親父が誰かを見つけたようです。私を呼んでいます。私が行くと伯父の息子つまり私の従兄がいました。約20年ぶりでした。20年ぶりなので何か他人のような感じで従兄のような感じがしません。一緒に中国人の女性がいました。何でも通訳兼家庭教師らしく、日本語はとても上手でした。この女性と後に親戚になるとは夢にも思いませんでした。従兄は2人いて私が会ったのは弟で租の上の兄は台湾に居るとのことでした。最初はぎこちない会話でしたが、従兄同志なのですぐに打ち解け、中国ではなになになどいろいろ話してくれました。「食事は?」と聞かれ、メニューを見ると変な日本語で日本料理らしき物が書かれてありましたが、殆どは当時の私には判別不能でした。とりあえず「カツ丼」と言う文字が判別できたので「カツ丼」を頼みました。約20分後、出てきた「カツ丼」は日本のカツ丼と同じだったので、これなら安心だ。とカツの一切れを口に入れ噛むと・・「ガリッ!」と固い歯ごたえが・・・骨です・・。カツの肉が骨付きだったのです。「本当かよ!」と思いました。そして向いに座っている従兄に「これ骨付きだよ。マジかよ。」とぼやきました。従兄いわく「そんなの当たり前だよ。これからもっといろいろあるよ。ははは・・。」と言って笑っていました。そして「忠君もすぐ慣れるよ。」と慰めか励ましか解らないような言葉を掛けてくれました。夕食後にホテルの窓から通りを見ると、人が絶えず行き来きしています。下の景色を見ながら、「本当に大丈夫かなあ・・・。」と少し不安になりました。翌日は珠海の会社へ初出社です。 つづく
2005年06月21日
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話が前後しますが、私は日本円の両替をしたいと思い、車の中で隣にいるM氏に聞きました。私「日本円の両替は何処でやっているんですか?銀行ですか?」M氏「銀行じゃなか、闇の両替屋のあるけん。そこでしたらヨカよ。」私「闇ですか?ヤバクないですか?」M氏「怖がんちゃヨカ。みんなやっとるけん。」そこに親父が口を挟みました。親父「忠、MとNに生活のことは教えてもらったらヨカ、もう1年もおるけん。仕事はKさんに教わるとヨカ。」M氏「社長、またあ。それじゃ、俺たちが仕事を知らん見たいじゃナカですか。あっはは・・・。」とM氏は豪快に笑って親父と話していました。「忠君、まあ心配せんちゃヨカよ。みんな生きとるけん。」私は少し不安ながらも「そうですか・・・。」と会話しているうちにホテルに到着、私はM氏に促されてその「闇」の両替屋へ・・・・。M氏「忠君、ここたい。」私「へっ、ここ?本当にここですか?タバコ屋ですよ。」M氏「そぎゃんタイ。いつもここで両替してるとよ。大抵の外貨は大丈夫のごたるよ。贋金も無かし、ここなら安全タイ。試しに両替してみよか?」とM氏は1万日本円を取り出し、「レンミンビー。」と言ってタバコ屋の兄ちゃんに渡しました。タバコ屋の兄ちゃんは電卓でレートらしきものを計算し、M氏に見せました。M氏が頷くと、馴れた手つきでお金を数え、M氏に人民元を渡しました。両替の最中に私は何気にその兄ちゃんの手元を見ると、米ドル・フラン・香港ドル・日本円といろいろな国に通貨があり、なぜかTC(しかも無記名で!)までありました。M氏に両替するかと言われ、私は「明日にします。」と言って、ホテルに入りました。しかし、ホテルは珠海の繁華街にあるせいか、老若男女の果てはまだ5歳くらいの子供の乞食、売春婦のお姉さん方、または色々な国の人達でごった返していました。日本で例えたら、歌舞伎町でしょうか。そんな感じがしました。この時はこの街が好きになるとは夢にも思いませんでした。 つづく
2005年06月16日
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イミグレを2人で通過し、出口のところまで来ると人だかりがしており、その殆どは白タクの運ちゃんでした。入ってくる人にしきりに「タクシー、タクシー」と言っています。その人だかりを掻き分けて「社長、社長」と1人の初老の人が来ました。この人が、香港の子会社の総経理T氏でした。一見するとタヌキのような風貌でしたが、名門J大学を卒業後、何処かの大学でドイツ語の教鞭を採っていたという前歴があるとのことでした。もう海外生活が20年以上に及ぶとのことで私は海外で仕事をしている人はこんなものか。と思いました。彼の案内でちょっと離れた場所の駐車場に社用車であるミニバスが停まっており、その前で3人の作業服を着た日本人がいました。M氏・N氏・そしてもう1人は初めて見る顔で、とても目つきの鋭い人でした。M・N両氏は親父の左右の腕とも言われる人で、私も子供の頃から見知っておりました。もう1人はK氏でウチの珠海工場の実質的な責任者をやっておられ、1年前に伯父のツテでやって来られたと後で聞きました。この人も台湾・大陸と渡り歩いてこられ、海外生活も20年以上とのことでした。後で聞いたのですが、T氏とはかつて同じ会社で同僚だったそうです。見た目はK氏・T氏とも凄く対照的で人生長いと、まあいろいろあるもんだなあと思いました。後にK氏からは教育の意味で毎日仕事で怒られることになるとはこの時は夢にも思いませんでした。3人ともやつれたような顔をしていたので、此処の仕事が大変そうなことはなんとなく解りました。親父は私以外の4人に労いの言葉を掛けながら、私と共に車に乗り込みました。そして車は珠海市の中心の拱北と言う場所へ向かいました。車で通る珠海の街は暗く、オレンジ系のネオンが所々にケバケバしく光っており、私が感じた珠海の最初の印象は品の無い所だなあ、と言うことでした。それと「とんでも無いところに来てしまったなあ。」と云う後悔の念がありました。ホテルに着いた私達、特に私は此処で20年ぶりに従兄達に会うことになります。 つづく
2005年06月15日
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珠海行きの船に乗り、約1時間半後、親父が「見えてきたぞ、アレたい。」と珠海の港を指差しました。夕方5時発の船に乗ってたのでもうあたりは真っ暗でした。親父の指差す方向を見ると港の明かりがポツポツと見えます。港の周りには街らしき明かりもポツポツと見ることが出来ました。しかし、私は香港やシンセンの煌びやかな風景を想像していたのでいささか驚きました。「ここ、本当に経済特区かな?田舎だ・・・。」驚きと共に失望も感じました。そう思っているうちに船は珠海の港に到着、我々2人、特に私は初めて珠海に上陸しました。港に下りるとすぐに出入国事務所らしきところに行き、1ヶ月のビザを取りました。今は中国はノービザで2週間滞在できますが、当時は中国に入国する前に1ヶ月のビザを取らなければ中国に入ることができませんでした。ビザが出来るまで私は不安で一杯でした。「本当にこんな田舎で仕事するのかな?言葉は?どんな仕事するのかな?」という不安です。ビザが出来上がり、そのビザを見るとパスポートのページ一杯に印鑑が打ってあり、手書きで日付が書いてあるだけでした。こんな簡単な物の為に30分以上も待ったのか。と思うと少しムカつきました。なにはともあれ、これで中国に入れることが出来るようになったわけです。イミグレ-ションで入国手続きをやっていると出口あたりに会社の人が5人ほど親父を出迎える為に待っているのが見えました。私も見知っている顔でした。初めての土地で知っている顔に出会うと安心するものです。親父はこんなところでよせばいいのに手を振っています。こういうところは子供っぽいのです。入国手続きを済ませ、いよいよ親子で珠海経済特別区に入ることになりました。 つづく
2005年06月14日
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私の海外生活の本格的な始まりは1995年の末、丁度クリスマス・イブあたりだったと思います。当時私は会社を退職後、公務員を目指して勉強しておりましたが、運悪く最終試験に落っこちてしまい、来年も受けようか。と思っていたときでした。毎日家でブラブラしていたのでそれを見かねた親父と弟が私に「中国に行ってみたら?」と言いました。で私は「中国の何処?」と聞いたら、「珠海経済特別区」という聞きなれない都市の名前が返ってきました。「経済特別区」と聞くと私は「シンセン」のイメージがあったので、香港のような所を連想してしまいました。言葉の不安があったものの、軽い気持ちから二つ返事でオーケーしました。折しも親父の経営している会社が丁度そこに進出していたので、親父の海外視察にぶら下がっていくことにしました。先に会社に入っていた弟も少し安心していたようでした。そして95年のクリスマス・イブに親父と共に香港へ行ったのです。約3時間余のフライト後、私達2人は香港(当時は啓徳空港)へ到着、そこで当時の香港の子会社の総経理のT氏のメイドさんでフィリピン人のエミリーさんの出迎えを受けました。(子会社と言っても当時はT氏と香港人スタッフ1名)総経理のT氏は先に珠海に行っており、そこで親父を出迎える手筈になっていたのでエミリーさんに珠海行きの便のある中港城フェリーターミナルまで香港観光がてら案内して貰いました。ターミナルに着き、珠海行きのチケット2枚をエミリーさんから受取り、香港出国手続きを済ませ、フェリーに乗り、いよいよ珠海へ出発となりました。 つづく
2005年06月13日
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ブログを立ち上げました。これから今までの海外生活の思い出や旅行記などを綴って行きたいと考えています。追記:今、日記が自分のページに載ったようです。アクセス数を見たら15件も入っていました。大変だ・・・・・。バリバリ書かなければ・・・・・。
2005年06月13日
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