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やっぱりこいつは『世界』とつながっている、と思わせる人間がたまにいるものである。ここでいう「世界とつながる」というのは「ぐろーばる且つインターナショナルである」事をさしているのとはちがう。もちろん、彼女が日本人ばなれのした人間であることは、さすがに多くの同意を得られるだろう。風貌がエキゾチック等いかようにも要素は考えられるが、しかしそれはあくまで結果論でありこだわっても意味はない。そもそもの彼女はもっと純粋で逆説のさいたる所以として非常に土臭い人間なのである。その言動はうんと、過激でラディカルである。それを目にしたひとびとのだいたいは日々自分の行動について一々思い悩んだり神経質になってつらくなったりするのが莫迦らしく思えてくる。しかし、彼女はさても無神経な人間なのではない。小夜子はこの『世界』=『大地』とあくまでも深く交信し、みずからが進むあとに、一つの暗喩と、レトリックに満ちた世界、さらに言うなら夢想と深層意識を表層につながらせた世界を自ずと創り出しているのである。つまり簡単にいうと、彼女はこの『世界』を動かしている何ものかに対して、すでにうまれた時から共振しながら生きているのだ。人生の前半で運よくも「大地の巫女」に出逢えるとは、思ってもみなかった。おもむろに常人は真似をしないほうがよい。「姉貴」と呼ばれるにはしかしそれだけの理由がある事を理解される方ならただ斜読みして!くだされば結構である──「ありがと書き」ということで、呵々──豊。
2006年01月23日
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あれから十三年の歳月が流れた。 その年の冬、小夜はめずらしく風邪をこじらせて一時期は肺炎を疑われ、一ヶ月ほど臥せっていたことがあった。そして、病も峠という日の初雪の降る夜半、小夜は懐かしいような、不思議な感じのする夢をみていた。 夢の中で小夜は八歳か九歳の少女だった。 彼女は同じ年頃の子供たちと一緒に、渓流にそっていっさんに走っていた。 そこはどこかの農村であるらしかった。 冬なのか、雪がちらついていた。子供たちは誰ともなしに谷を越えようとつり橋に駆けつくと、次々に向こう岸に渡っていった。 しかし、小夜はなんとなく渡るのをためらって、列の最後の方になってしまった。 その理由はすぐに知れた。 小夜の後ろには、ひとりの少年が残っていたのだ。 彼は紺飛白(こんがすり)の着物を着て、幼い妹であるのか、なぜかその腕に小さな女の子を抱いていた。 小夜は少年にこう言っていた。 ──横浜にも来てな、と。 彼はそれには返事をせず、小夜にその幼子とともに、光るさやえんどうのようなものを寄越してきた。 ──この珠がぜんぶ光り終えたらな。 ──それはいつ。 小夜はすぐに訊ねた。思わず知れず、それは詰問の口調を帯びた。 ──さあ、いくときかかるやら。 彼は小夜と目を合わせずに、雪の降りしきる果てを見やったまま、そうつぶやいた。 小夜はその返事がなんとなく不服で、彼から渡されたものを預かったまま、すいと少年から離れると、片手で蔓をぐいぐいと伝ってつり橋を渡り始めた。 途中まで行ってからふと気になって振り返ると、少年の姿はもはや降りつむ雪のひとひらのごとく、白銀の渓谷に混ざってしまっていた。 小夜は向こう岸のつり橋のたもとで、さやに入った七つの豆がひとつひとつ光っていくのを見つめていた。夜になった。夜があけ、朝になった。 そうして幾千もの夜が往き、ある晩のこと、七つのすべてのえんどう豆に光がともされた。 そのとたん、満天の星空から、数知れぬ流星群が小夜の頭上へと降り注いできた。 あっと思って額に手をかざした小夜は、その自分の手のひらに、見たこともない文字が描かれているのを見い出した。 ББΘлзб 」ПЭБэ¬∂ ∠Ψι∝ζ λησδΠιη э¬∂∠Ψδ だが、そこに綴られてあるものを、不思議に彼女は一語一語まで読み取れた。 心だにまことの伴にかなひなば 祈らずとても神や守らん ─── 忘却の朝に、その少年の名は忘れられた。 そして、肺炎が治った後も、卒論などに取り紛れて、この夢のことは半年のあいだ思い出すことはなかった。半年のあいだは。 それから約半年後の五月のある日──正確に言うなら五月十日だ──のことである。 その日、小夜は毎週火曜日に入っているアルバイトのために、都内の博物館に行っていた。 それは午後になって、研究部の手伝いをしていた小夜がちょうど受付を通りかかったときだった。 券売の仕事に入っていた友だちのひとりが、学生の券を切っている。 ──学生さんですね、学生証を拝見いたします。・・・・・ありがとうございました。400円になります。ちょうどいただきます。ごゆっくりどうぞ。 言いかけて、彼女は不審な顔をして学生をみやった。 エントランスを通りすぎようとしていた小夜も、彼が何か中に入るのを躊躇しているようであるのに気がついて、ふと目を上げて驚いた。彼は小夜を凝視していたのである。 小夜と目が合うと、彼はすかさずこう言った。 ──ぼくのこと、憶えていますか。 見れば、彼はこざっぱりとした格好の、背の高い青年であった。 しかし、小夜は自分を見つめるその切れ長の眼差しには、まったく見覚えがなかった。彼女は瞬時のうちに脳内のありったけのメモリーバンクを大捜索してみたが、ついに検索にひっかかってくる該当者は出てこなかった。 青年は自分を見上げたままでいる小夜に、にこっとすると、そのまますたすた館内に入っていってしまった。 ──劇的な出会い? 同じバイトの子で、仲良しの有美(ゆみ)が、券売の席から小夜に声をかけてきた。 にやけたその声に、小夜は思わず知らず顔を赤くした。 ──そんなんじゃないって。あたしの記憶にあんな人いないよ。 わざと荒っぽく言う小夜に、彼女は追い討ちをかけてきた。 ──そぉ、あたしには劇的に見えたけどさ。じゃあイイコト教えたげる。あの人、京大だよ。学生証にそう書いてあった。 ──それがなんだっちゅうの! ──東洋美術史専攻だってさ。山口のご同業じゃないの? けどまあ返事もせずと・・・・・あれじゃナンだから、ちょっと追いかけていって話しくらいしてきなって。 ほれほれと有美に追いたてられるようなかたちで、小夜は展示室の中にしぶしぶといった心持ちで入っていった。正直なところ、どう声をかけてよいのかすらわからなかった。顔も名前も思い出せない人と、いったい何を話せというのだろう。 しばらくして受付に戻ってきた小夜に、待ち構えていた有美がさっそく首尾を訊いてきた。 ──どうだった、どうだった? ──ねぇ有美、あの人、出た? ──え? まだ誰も出てないよぉ。 有美はぽかんとしてそう答えた。 ──いなくなっちゃった・・・・・。 ──はぁ?! じゃ、もしかして話してきたんじゃないわけ? ──うん。だっていないんだもんよ、中に。 この博物館は、出口と入口が同じ構造になっている。つり銭などの現金があるため、券売の子は何があっても席を外さないことになっている。有美がいるかぎり、入る人も出る人も、みんなその前を通ることになるのだ。その有美が、未だ館を出た人がいないという。 ──・・・・・また出たってことかな。 小夜は有美をつついた。 この博物館は、戦後のA級戦犯の処刑場の上に建てられた大型施設に併設してあるもので、学芸員の先生たちのなかでは、深夜の残業などで研究室に残っている時に、怪奇現象を体験する人もひとりやふたりではないのだ。 ──ひぃーっ、まだお盆じゃないのにーっ! 有美のおおげさな叫び声に小夜が大笑いで和して、その話題はそれきりになってしまった。 ─── その日は、本当にいろいろとあった日だった。 晩には、久しぶりにみくまりから小夜の家に電話がかかってきた。 みくまりは東京に出てきている。都内の音大を卒業した後、そのまま研究科に残って研鑽を積んでいるのだ。小夜は次第に相生での記憶を失っていく中で、しかしみくまりとだけは互いの連絡を途絶えさせることなかった。そして、ふたりのあいだでやりとりされる手紙の内容は、共通の話題からやがてそれぞれの新しい生活や友人のことに終始するようになり、旧友のことにはめったに触れられなくなっていたのだった。 ──ねね、元気だか? 電話口からは、いつに変わらぬ暖かいその声。 みくまりは東京に出て長いので、もう共通語は使いこなせるのだが、小夜と話すときは鳥取のなまりでしゃべってくれた。 ──みくまり! 元気元気。ダーリン(←綾一郎のこと)は? 元気にしとんさる? ──なんも。変わったことないが。ねねこそ何しよるだ、大学院はどうなんえ? ──月曜日だけだが。あとはバイト・・・・・あ、そうそう、バイトっちゃなんがみくまり、ほんとにあった怖い話してあげるっちゃよ。大将にも伝えてや。今日な・・・・、 小夜はつい数時間前に起きた‘古代オリエント博物館人体消失事件’について、彼女に話して聞かせた。 ──なんも怖いことあらぁせんが。 小夜がおどろな調子で語り終えても、みくまりは一向に動じる気配というものがなかった。 ──ねね、忘れたぁん? うちはそがなことのできるやっちゃを、里でひとり知っとるわ。きっとそれだがな。ねねもよく知る人だわして・・・・。 ──・・・・・・っ! この時、小夜はこのところ自分の身に起こっていたすべての采配に、ようやく合点がいったのだった。 あの時、かの者が提示した学生証を見て、有美はなんと言ったか。 ──・・・・・京大(ねこの)・・・・・、 そういえば、物静かだが、そこはかとないおかしみの漂うあの声には聞き覚えがあった。 そしてあのまなざし、彼のあのまなざし。 小夜は互いが約束を守り、出会いを果たしたことを知った。 このたったひとつのきっかけが、眠っていた小夜の記憶を呼び起こし、幾歳月を超えてあのめくるめく森羅万象の中にあった真実の日々に小夜を招いた。 あらがいようのない流れによってふたつに隔てられていた物語は、互いを呼び合いひとつとなり、さらにいくつもの新しい章が綴られてゆくことになるだろう。 だが、これは別のお話。ここで語ることは慎むべきもの。 ─── 幼いころ、小夜の生得の感性は、凝視という方法で貫かれていた。 自分の頼れるものは、その資質だけであることを彼女は思い知っていた。 事実、小夜の感性はあの日々の中にあって、すべての本物の姿を、真実の姿を射抜くようにと培われた。小夜はどのような虚構でも見破ったし、そんなものは最初から恐れをなして彼女に近づかなかった。小夜のまわりにはすべて真実のものしか集まらなかった。否、まわりのすべてが真実の姿であったから、小夜自身、そうでなければならなかったのか──。 さあ、今日こそは、別れの朝。 大河が大地を、ゆったりと呑み込んでゆく。 こんなにも美しい朝に、鳥取よ──君は眠っている。 舞い落ちる雪さえ穏やかに囁いて。 鳥取よ。 かの空よ、海よ、山よ、街よ、草原よ、砂丘よ、 悠久の時よ──。 君よ。我がいとけなき日を思い出す者よ。 もしも心に思い運ぶ翼あれば、伝えて欲しい、同じ涙、喜びを。 だから、誰も変わらぬ重さの物語なのだと。 そこに在った者は誰も同じと親しみを持て。 もしも星の夜なら、身を寄せてかの物語を語れ。 終わりの日の嘆きさえも愛しい、息づきだから。 もしも深い森なら、木漏れ日にかの物語を語れ。 触れた心、想いは古老の木肌に残るのだから。 なぜ苦しむのだろう。 なぜ哀しむのだろう。 ひとときの別れがつらいなんて思いたくはない。 出逢えたことが愛しいと抱きしめてみればいい。 その手のぬくもり伝わるならおそれは消え去る。 体の傷より痛む心よ。 共に生きるいのちと親しみを持て。 物語の翼よ、今、わが思いをのせ 愛しい命のもと、はばたいてゆけ 再び逢える、尽きせぬ願いをこめ こをひもとく、君のもとへと──。 読んでくださった方に心から感謝しつつ── 『鳥取物語』 ─完─--------------------------------------------------------------------- ありがとうございました。 私、みんなのこと、大好きだから。 小夜子拝
2006年01月22日
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豊はその日の帰り道で、たいこうがなるの方角から山ん婆の髪の毛が飛んでくるのに気がついた。 この時期になると、本当に一尺から一丈の白髪が、すいーっ、すいーっと、どこからともなく相生の里に飛来してくるのだ。さすがの呼びなりにたけている里の人だけに「山ん婆の髪の毛」とは、よくいったものである。山ん婆が冬ごもりの身支度のために髪をすいている、というのだ。 実は、この現象の真犯人は「蜘蛛」である。 蜘蛛は大気の温度が下がり始めると、より暖かいところに移動しようとして、南風が吹いた日に一斉に糸を空気中に吹き出して風に乗る。糸が吹流しの役割をすることによって、蜘蛛は地上からそこそこの高度を保って飛翔できるのだ。 適当な場所が見つかると蜘蛛は糸を切って下降していき、役目を終えた糸だけが空中をさまよい続ける。これが豊の目にとまった「山ん婆の髪の毛」の正体というわけだ。 蜘蛛が移動を始めるのは、寒くなってきた徴である。 「山ん婆の髪の毛」が飛んだ数日後には、決まって「雪おこし」と呼ばれる雷が鳴る。「雪おこし」は雪をもたらす積乱雲であり、これが遠くの空で鳴ると、もう冬の始まりである。 豊も昔ながらの伝統にしたがって、雲行きを予測していた。 この日の放課後に見つけた「山ん婆の髪の毛」を、豊は早い過酷な冬の訪れの徴と解釈した。 そして屋敷に飛んで帰ると、冬越しの準備を行なうためにさっそく村中の馬を集めて平原に繰り出した。このところ降り続いた時季はずれの地雨が、平原の草をすっかり生き返らせているだろう。それらの新鮮な草を食むことによって馬たちはさらに何キロか肥えふとり、冬の寒さへの抵抗力をつけるうえでおおいに役立つだろう。これらまったくの予想でしかない連鎖を、豊は馬使いのカンというものだけで実行に移してはばからなかった。 しかし、馬の群れとともに森林の内懐の深くを通り抜け、間近に大平原が迫ってくるころになると、豊は何かがおかしいことに気づいた。 物音がない。 いやに幽(しず)かだった。 空気はそよとも動かない。 豊は猫のように一心に耳をすませた。 息の詰まるような静寂のなか、豊はふいにぞくりとして、こんな真空を作り出すものはひとつしかないことに思いあたった。呪の子である彼は、その匂いをかぎ分けることができた。その味が舌の先に感じられた。 別離の哀しみが、空気のなかに満ちている。 誰かの死か。 豊は自分を乗せた太秦(うずまさ)の頭を返すと、楢林の中を可能なかぎり一直線に突っ切っていった。豊が連れ出した馬たちも主人の後方に忠実に続いていた。しかし、豊は馬のことなどは、もう構ってはいなかった。彼は今や言い知れぬ焦燥感に追い立てられていた。 ふいに高く鋭い指笛があたりに響きわたり、豊の前方に拓けている下り坂から、相生の馬に乗って疾走してくる綾一郎が現われた。 ──ゆたっ、みくまりに聞いたが。小夜が急に横浜に越してもうた! 綾一郎の喉も裂けよとばかりの物言いに、豊の表情が凍りついた。 ──もう間に合わん。行くなら早よういけーっ!! 綾一郎は渾身の力を込めて太秦の腹を蹴り上げた。 太秦は驚いて疾走を始めた。 豊の巻き起こす一陣の風が、紅葉を見せる楢の林を襲い、幾千万の木の葉が高く大空に舞って、小鳥の群れかのごとく飛び去った。鳥の羽音、囀る声。風の鳴る、嘯く声。折からの村雨が私語する。凩が叫ぶ。草むらの陰、林の奥にすだく虫の音。それらが豊の耳をかすめて、またたくまに後方へ過ぎていった。 道はひとつに限られていた。 豊は全力で駆けに駆けて相生村を越え、国道に通じる山道で小夜を乗せたトラックを捉えた。 国道はもう目の前に迫っていた。 相生を出てから後ろばかり振り返っていた小夜が、馬で追ってくる豊の姿を認めた。 小夜は車中の誰かに支えられながら窓から身を乗り出した。 ──小夜-っ! さよ-っ!! それは小夜が最初で最後に聞いた、豊の大音声(だいおんじょう)であった。 ──これを・・・・・、 彼の声はかすれてゆき、だがその左手が放ったなにごとかの呪(しゅ)は、糸で繋がっているかのようにすいっと小夜の手のなかに落ちた。 迷いの果てた小夜の目と、切なさにすがめられる豊の目がしっかりと合った。 小夜の視界の中で、豊の姿はみるみるうちに背景にした楢林の丘に溶けてゆき、最後には彼自身がその彩りの一点となっていった。 ─最終章のおわり─--------------------------------------------------------------------- 明日は●エピローグ●です。 本当はこれもひとつの章として、「夢の中の少年」「古代オリエント博物館にて」「みくまりからの電話」「神々の采配」という節に分けようと考えていたのですが、私の愛する「鳥取」の土地とは離れた部分のエピソードですので、いたずらに引き伸ばしたりはせず、明日の一日で書ききってしまおうと思うに至りました。 おそらくは私が更新するのは明日で最後となります。 『鳥取物語』も、明日ですべての章が完結です。 皆さま、8月23日のブログ開設から、ちょうど五ヶ月が経ちました。素晴らしい出会いをくださり、ありがとうございました。けれども今後、別のかたちでまた、ますますのご縁をちょうだい頂ければと切望しております。 タイムスリップして、大学生になった小夜に会いにきてくれなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります! 追:あんまりしんみりと明日を待ちたくない方もいらっしゃると思いますので・・・・・もしよろしければ布石となっております、こちらへ→豊のあったること(大学生編)
2006年01月21日
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その翌日のことである。 めっかちは六校時の理科の時間に、橋本先生から受けた「固体・液体・気体」の質問に、なにを勘違いしているのか、返答に困り果てていた。 ──なんも、難しく考えることではないが。めっかち、雪が溶けると何になるっちゃ。 いくら先生に訊かれてもどうにも考えが浮かばないので、めっかちはとうとう隣で六年生の理科を静かに自習していた豊に援けを求めた。 ──なぁなぁ兄さ、雪が溶けると何になるん? ──春やろ。 これには先生も参ってしまって、教室はしばし笑いの渦となった。 言った豊の目が少し翳っているように見えたのはめっかちの気のせいか。 そしてもうひとり、みんなの笑いに和せないでいる子がいた。みくまりだった。 小夜の両親にしてみれば、転勤のことを前もって村の人々に知らせないわけにはいかなかったために、もうずいぶんと以前から山口家の引っ越しのことは、周知のところとなっていた。 しかし、大人たちは別れを告げる者の気持ちを尊重して、子供たちには決して口外しなかった。大人同士の別れの宴も、小夜の家で内密に催されていた。みくまりも小夜のきつい口止めを、裏切ることはできなかった。 小夜は見事な引き際を見せた喜平じぃを思い出していた。 そして、今は何よりも村の平和を重んじる気持ちが先行していた。 去年の冬は、喜平じぃへの弔意を込めて、相生の里は布団にくるまったままの冬だった。 ときおり子供たちが外にくり出す以外、里人たちはめったに自分たちの屋敷から出ようとしなかった。人々は火のまわりで長い時間を過ごし、その季節はやがて‘たくさんの火の冬’という名で知られるようになった。 誰もが力ある春が来るのを待ちかね、そして最初の氷が砕けるころ、彼らはまた日々のなりわいに精出し始めた。 その年は、田の神(←水霊)の援けもあって、新しい田んぼが里から遠く離れた場所に開墾された。たくさんの水と家畜の食べる草にも恵まれた、よい場所が見つかったのだ。 野の獣が数えきれないほど繁殖して、狩りはうまくいき、その折りに傷を負った者はほとんどいなかった。夏の終わりには、たくさんの子供が大方の者の記憶にないほどの数で生まれてきた。 彼らは外界の人の通る路から遠く離れて過ごし、里に属さぬ者にはひとりも会わず、わずかな数の市政の人を見かけただけだった。思いわずらうべきことはほとんどなく、人々はしあわせだった。 自分たちの移動のために、この穏やかな相生を喧騒にまきこむことはしたくない。 また、小夜は送別会などをすることによって、仲間たちに区切りをつけられてしまうのが怖かった。すでに幼稚園と小学校で二度の転校を経験している小夜は、そんな哀しい知恵をつけていたのだった。 家では村の人々に手伝ってもらって、もはや積み込みが終えられている時分であった。 小夜の下校を待って、一家を乗せたトラックは、一路横浜を目指して出発する。 これでよいのだ、と小夜は思った。たとえわがままな選択であるとしても。 小夜は教室の中にあって、ひとりずつに心の中でお別れを始めた。 明日からは、もう彼らとは会えない。そしてもう二度と一緒に遊ぶこともないだろう。 小夜はまず、朝からうつむいたままでいるみくまりに語りかけた。 ──みくまり、そんな悲しまんといて。うちたち、同じ日本のなかにおるじゃないの。 次に小夜の目に、時の大将田中綾一郎の姿が映った。 彼はたくましい中にも、どこか都会的な雰囲気のある少年だった。小夜は綾一郎の格好のよさがあれば、大きくなって市街に出ることがあっても、充分溶け込むことができるだろうとふんでいた。彼がそれを望むかどうかは別としても。 ──大将、大将のことだから、黙って行ったことを知ったらば、烈火のごとくお怒りになるっちゃな。 ──あかえ兄、来年の大将の勇姿、見たかった。 ──てつ兄、喜平じぃのこと、語り継いでください。 ──いはれ、横浜にもこれまで通り、情報伝えてな。 ──ますら、兄さを見習って、強い大将になりんさいよ。 ──めっかち、あんたはまだこまいけど、いつかは大将ね。 ──いしきな、ににぎ。皆生、己生、神生の大将たち、お世話になりました。 そこまで思い浮かべて、小夜はこれ以上の物思いを自ら律した。 そうして想い続けていれば、思い出はいつまでも色褪せることがないというのか。 小夜は知っていた──否。 あの兄さは言った。胸に想うのは、いつでも一番ではなくてよいことを。 想い描くいちばんの人は、消えてしまう。 離れてしまう。遠くへ。 今日、自分が手放すものが何なのかを、小夜はもうわかっていた。 くり返される出会いに、その面影は薄れるだろう。 それでも最後にそれを選び取ればいいのなら──。 この別れの日にも、なにをおそれることがある? 分校はとうとう下校の時間を迎えた。 そのころには、すでに遠つ国への移動の波が、里の子供たちには見えも聞こえもしない潮流が、小夜の仮寝の屋敷のほうで湧き起こっていた。 それはまもなく、小夜を押し流すだろう。 その秋は彼女が過ごした、よい時代の最後の季節となるだろう。 彼女の時は相生の里から失われ、そして永遠に戻ることはない。 そして、豊は・・・・・。--------------------------------------------------------------------- おそらくは本日の日記もこれで最後です。 まだまだ‘知られざるやまとことば’シリーズも、お話し申し上げたいことが有り余っておりますが、いちおうのキリということで今回の語句でシメとさせていただきます。 以前、こちらでご指摘があったのを拝読させていただきました。確かに実験的な企画ではありましたが、皆さまにはこれまでにご支持をいただき、ありがとうございました。 【いのる】祈・祷 心に祈念することが「いのる」ことなのでしょうか。 漢字の「祈」は軍事に関係し勝利をいのり、「祷」は農耕の豊作をいのる意が原義です。 では、日本語の「いのる」にはどんな意味があったのでしょう。 一般に祈るといえば、神仏に対し、ことばに出して幸福を願うことをいいます。反対に「呪(のろ)う」といえば、不幸になるように呪詛することをいいます。 「イ」はイミ(斎・忌)のイと同じく、神聖なるものの意です。ノリはノリ(法)・ノリ(告)などと同根です。みだりに口に出すべきでないことばを口に出す意、というわけです。また、類義語のノロヒとは呪(まじない)をして禍を招くように祈る意です。トナヘは呪文を口にする意。ネガヒは、神を慰め、その心を安らかにして、自分の望みをかなえてくれるような取り計らいを期待する意です。 つまり、神聖な忌むべきことばを以て、神に申し願うことをいうのです。 また、「のる」(宣・告)ということばは、本来上から下へ上意下達、命令を含んでいます。神の言葉、尊い貴人のことばであるがゆえに規範(法)となりました。こう考えていくと、「神に祈る」といった場合、神々に幸福を強要することになるわけです。 日本の民俗行事の中には、このような神々に強要・強迫し祈願を成就することがあります。 例えば、お正月の「成り木責め」。柿の木などに鉈をあて、「なるか、ならぬか」責め、秋の実りを確実なものにするのです。このような点に注目して、「イ罵(の)り」から「祈り」へと言葉が変化したという説もあります。 いのる、という語のこのような強迫的な用法・意味からすれば、神を祭る神職の敬意に満ちた祈願の言葉を「ノリト」というのは不可解なことに思われますが、呪術というものの原義はここにあるのであり、呪術の段階におけるノリトは、命令的・宣告的であって、同時に祈願的なものでもあるのです。 ここで、【のりと】祝詞についても触れておきます。 祝詞はなぜ大和言葉を使うのでしょうか。 神祀りのときに神職が神に祈って奏上するのが祝詞です。独特な抑揚で語尾は長く引きます。難しい言葉がたくさんありますが、耳をすましてよく聞いていると意味がわかります。すべてが大和言葉であるからです。もっとも、最近は大和言葉に言い換えのできない外来語もあって、神職の方は祝詞作文に四苦八苦しているようですが。 日本では古来より、ことばには言霊があて、よい言葉はよい結果を生じ、悪い言葉は凶事(まがごと)を生ずると信じられてきました。ですから、できるだけ美しい言葉で、まごころから発する言葉が大切にされました。もちろん、日本古来の神々であるから、大和言葉でなくては、ほんとうの対話ができないと単純に考えられていたのでしょう。 「のりと」の語源については、ノリは宣の意、トはコトド(絶妻之誓)のドと同じで呪言(じゅげん)の意です。すなわち、神々の徳をほめたたえ、神に種々のものを奉り供えることを申し述べて、神のめぐみ(生活の安穏、多収穫、罪の祓え)を得たい旨をねがう神聖な言葉と解説されます。 コトドとは、イザナギとイザナミの神話に出てくる言葉で、死にゆく妻神と夫が最後の言葉を交わすことを「絶妻之誓」(『日本書紀』)と表記して「ことど」と読ませ、『古事記』にも「ことどをわたす」ことが記されています。(注:妻に対する絶縁状ではありません!)。 また、詛戸(とこいど)といえば、呪詛のことばや呪物をさすので、これも「のりと」の「と」と同じ言葉であることが考えられます。 かくして、祝詞は神に宣る言葉となるのですが、神に申し上げる言葉であるから、大切な上にも大切にされ、祝詞を書くためにわざわざ「宣命(せんみょう)書き」という表記法をとります。宣命とは和文体の詔勅のことで、神に申し上げる言葉を読み誤らないようにする工夫であるともいえます。 宣命書きは『古事記』や『日本書紀』の原文のように、すべて漢字を用いますが、原則として「日本語の語順に従い、主として名詞・代名詞や動詞・形容詞の語幹などが正訓字で大きく書かれ、助詞・助動詞や用言の活用語尾などが万葉仮名で小さく書かれてあるのです。 以上、神様たちのお喋りのヒミツを書き連ねて参りました。 明日は最終章の最終節●豊、豊、豊●です。 さよなら豊さん。 ──‘さっちゃん’のうたのように、君はぼくのことを忘れてしまうんだろ、と言った人。 タイムスリップして、さっちゃんとゆたさんのお別れの場に、皆さまも一緒にいてくださいな。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります!
2006年01月20日
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小夜は豊に嘘をついていたが、昨夕みくまりには本当のことを告げていた。 昨日の朝にみくまりの家に向かおうとしていたのも、そのことを打ち明けるためであった。 黙っては行けない。何でもいいから話さなければ。 時はもう夕刻であったが、小夜は大切な話があるからと、みくまりを‘たいこうがなる’の湧き水のところまで連れていった。 山肌から湧きだす硬水が、小さな滝をつくっているところに出ると、ふたりははっきり年輪の見える大人でも三抱えはありそうな、大きな切り株に腰を下ろした。 お互い何も言わない時間が過ぎていった。 小夜は黙って散り落ちた紅葉に綾なす滝壷を見つめていた。 今度鳥取を訪ねるなら秋にしよう──小夜はそんな淋しいことを、ひとり考えていた。 特に相生の秋は美しかった。 ‘たいこうがなる’は心浮き立つような紅葉に彩られ、里にもそのすそもようは広がっていた。 今は深山幽谷に入り込み、身を取り巻く眺めはひときわだった。すぐそこまで紅葉がふたりをおし包み、小夜の肩には真っ赤な蔦がかかっていた。 紅葉、それは命の炸裂だった。 紅赤、黄、黄緑、茶、どの葉とて同じ色をしているものはなかったが、それが無類の調和を生み出していた。 ふと枝から離れた一葉が、いっさいの和している風景の中から現われて、ふたりの視界を風に揺られながら横切っていった。 その時、小夜に決心が芽生えた。 小夜は傍らのみくまりに、明日横浜に帰ることを告げた。 最初にわっと泣きだした小夜は、反則だった。みくまりは最後まで驚くことも詰ることもできずにいた。みくまりは小夜の両手をとった。その仕草は小夜の心にじんと染みいった。 みくまり、みくまり、いちばんの仲良しでいてくれた。 なによりも、あなたたち友だちと離れることがいちばんつらい。だから、今まで絶対に言い出せなかった・・・・・。 小夜の手に自分の手を重ねて、みくまりは悄然と目に涙を溜めていた。 ひとたび最初の一滴がつつーっとその頬を流れ落ちると、あとは堰をきったようにあとからあとから顎を伝って手の甲に落ちていくのを、泣きじゃくる小夜は気づいていたわってやる余裕がなかった。 ─── 鳥取での最後の晩、小夜は心を分かち合ったこのいちばんの友のためだけの物語を、徹夜の勢いで書き上げた。 もう二度と小夜のことを「綴」と呼んでくれる人はいないだろう。小夜は、この相生での最後の作文に、全身全霊をこめた。 小夜はみくまりがひそかにピアノに興味を持っているのを知っていた。 みくまりの家にはピアノはなく、彼女はなぜかグランドピアノが置いてある呪方の不二屋敷から楽譜を借りてきては、紙に書いた鍵盤でひとりこっそりと指使いを練習していた。 みくまりはそのことを誰にも、小夜にも言わなかったが、しばしば思わず知らずトルコ行進曲が口をついてでるのに、小夜が気づかないわけはなかった。 最後の物語は、成長したみくまりがピアノのコンクールでトルコ行進曲を弾くのを小夜が聴きにいくという設定で、みくまりが満場の観客の待つ舞台への扉を開けると、そこにはスポットライトをあびた幻の逸品と呼ばれるグランドピアノが彼女を待っている、という筋書きになっていた。 選ばれし者のみがその妙なる音を奏でることができるといわれている、この気難しい老グランドピアノは、実はその昔不二屋敷に置かれていたものであり、素朴なトルコ行進曲と、みくまりのようなおおらかでひたむきな鳥取の子供が大好きだった──。--------------------------------------------------------------------- 実は、私が書いたこの『みくまり物語』の後日談としては、預言書のごとくそのとおりのことが起きたのだ、とつけくわえさせていただきます。 二十歳を過ぎたおり、音大生になっていたみくまりはあるコンクールで全国五位に入賞し、東京のホールでリサイタルコンサートをひらきました。 もちろん家族で駆けつけましたが・・・・・なんというか、彼女の演奏は感動というより、とってもとってもかわいかったのです。とにかくスレてない。鳥取の大地が育んだ人間の美しさの真髄を、スポットライトの向こうに見たような気がいたしました。 ・・・・・までが最初の更新だったのですが、朝一便でパソコンのキーボードが着きました! 直った! もうコックリさんのごとく50音を一字一字入れてゆくという打ち込み方から解放されました(涙)。しかも、消音機能みたいなのがバージョンアップされていて、購入して一年以内なので無料! 日立が教えてくれた交換理由は実に私らしいもので、五ヶ月で‘キーボードを壊すくらい打った’からだそうです(笑)。おそらくは番外編がその理由に当てはまるのでしょう。私はアップした文章の少なくとも二倍、だいたい三倍は準備して更新に備えるので、キーボードをつぶす勢いの連打だったのだと思います。ちなみに私のパソコンはプリウスです。 いずれにせよ、メールなどのお返事がままならなくて、たった2日間なのに、手足をもがれたような心理状態でした。皆さまにはご迷惑をおかけいたしました。 さて、これで問題はクリアしたので、ちょっと指ならしに‘知られざるやまとことば’を入れてみてもよろしいでしょうか。 【あそび】遊・楽 「あそび」の原義はいかなるものなのでしょうか。 「あそぶ」を辞書でひくと、歌舞などをして楽しむことで、直接的な目的を持つことのない行為とされていますが、本来は足を動かすこと、狩猟や収穫を楽しんで歌舞をすることをいいます。遊芸のことは、祭祀儀礼など、もと神事に起源するものでした。のち貴顕の遊楽の意となり、山川自然の風雅や酒宴を楽しむことを指すようになりました。 現在では一般に「遊ぶ」というと、勉学を怠り、楽しみにふけったり戯れることと理解されています。ところが、私などはよくこの「遊ばせ」言葉を、相生村の呪方の人々から男女を問わずに聞きました。その折りに、あそびの原義は単に遊興のことだけでない世界のあることを推測させられたものです。 これらのことから鑑みるに、遊びの語源を「あし(足)」と同源とみることもできます。神楽をはじめとする歌舞は、足の運びが大切とされ、独特の所作があります。足を動かすことにあそびの原点があったとする考え方には、個人的には魅力を感じます。 さて、古代日本社会にあって、葬儀にたずさわる人々を遊部(あそびべ)といいました。天皇が崩御すると、殯宮(もがりのみや)に供奉(ぐぶ)し、戈(ほこ)・刀・酒食をもって奉仕しました。 この遊部について『令集解』(りょうのしゅうげ)は、「幽顕の境を隔て、凶霊魂を慎むる氏なり」と説明しています。つまり、この世とあの世との境を隔てて、悪いことや流行病などの原因となる霊を鎮める職掌の氏族であるとされているのです。 さて、この遊部とは、死者の遊離魂をよび返すことを職掌とする職能集団をいいました。葬送や招魂の儀礼の際に行なうもので、古代の遊芸は概ねその儀礼から出ています。天若日子(あめのわかひこ)の喪屋(もや)で八日八夜の「遊び」が行なわれたこと、日本武(やまとたける)の葬送歌などにその古い形式がみられます。また人麻呂が遊部に属する人であったとすると、その歌に殯葬(ひんそう)を歌うものが多いことも理解されるでしょう。 「遊ばす」とは、もと神として行為すること。もと神事的な意味をもつ語でした。のち貴顕の人の行為をいい、狩猟・株・宴楽に関していうことが多くなっていきます。 先程も述べましたが、神話の中に天若日子の葬儀の様子が描かれていますが、ここでは喪屋を作り、八日八夜にわたり「遊び」をしたと伝えています。歌舞飲食をしたのです。こうして、死者の魂を鎮めたのです。あそびの原義が、霊魂に密接に関連することはこれで明らかということがいえると思います。呪方の「遊ばせ」言葉も、もとは神の行為に起源したわけです。 とすれば、遊びという行為は、神事とも密接に関わって、人が気力を充実させ生きていく上で欠かせない、大切なことであると理解されるのです。 明日は●さよならみんな●です。 分校での最後の日、すなわち小夜の鳥取での最後の日が暮れようとしています。 タイムスリップして──この最後のときにも私のそばにいて。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります! 追・本文に関係ないですがわかる人にはわかる。どうよこれ。 「龍」なら期待したんだけどな。
2006年01月19日
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豊は顔をそむけると、たっぷり一時間ちかくも坐ったまま、頭を垂れ、黙って考えをめぐらしていた。 小夜もその傍らに座り込み、いずれ豊がなにか話しかけてくれるものと思い、静かに待ち続けた。 やがて彼が言った。 ──どうしてもそうしなければならんのだな? 豊の瞳は深い物思いの末の、智慧の残り火にきらめいていた。 小夜も悲しかった。 ──うん。 彼女は静かに言った。 豊は吐息をつき、なにかをこらえるようにぐっと顔をうつむけて、ひとりごとのように言った。 ──ならば・・・・・そうなるのだろうな。 言いながら、彼はふと、ふたりのはじめての出会いを、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出した。激しく駆ける悍馬の背から見おろした、目を射るような白い肌の見慣れぬ少女。墓地に現われ、自分の名を呼びつつ鮮やかに去った者。 なにかが動いていると、彼は知った。 そのことがこの少年をひどく無防備に感じさせ、その瞬間、理由のわからぬおののきが背筋を這いのぼっていった。彼はこのとき本当の意味で外界と触れたのかもしれない。 彼の背筋はぞくぞくしていた。 今、目の前にいる少女が里に現われてからの出来事を次々と思い浮かべていきながら、彼は自分の心がどれほど動いてきたか──そのことに気づいて驚かされた。 五月さやけき頃、精霊の森に誰に習わぬ神聖文字で書きつけられた少女の句を眼前にして立ちすくんだことも鮮明に思い出せたが、それも遠い昔のような気がした。ぼやけてはいないが、歴史のなかのように遠い出来事。 あれは洗礼だったのだと、長い物思いの最後に彼は思った。 あの洗礼を受けて、彼は長きにわたって周囲から閉ざされていた少年の世界から、外界の現実へと叩き出された。 今も、ここに彼が目の前にしている少女は、里ではない、遠つ国からの者であると同時に、まぎれもない現実なのだった。傍らに彼女がいることで、彼は自分がこの世界から遊離していない、外界ともしっかりと結び合わさっている確たる存在であることを感じ取ることができた。 彼はこれらのことの意味を理解しつつあった。 いま感じていることと同じものを、いつも感じ取っていたのだ。 しかし、これまでの感覚はただの種子でしかなく、地中に埋められて目に見えず、彼はその意味するものがわからなかった。 だが‘大いなる精霊’は知っていた。‘大いなる精霊’がその種子を育んだのだった。‘大いなる精霊’が‘大いなる謎’のなかで、その種子に少しずつ生気を与えていったのだ。 自分が感じた、心が動いている感覚。 彼は少年であったので、敵や嵐、けがといったものを前にして感じるたぐいのおののきではないとわかっていた。 それはまったく身体的なものとは関係なかった。 こうした心の動きは、相手に対峙したときに感じる、自分の存在感の強さに呼応していた。 そして、豊は彼女の目のなかに、いつも自分の姿を見ることができた。 彼はずっと、彼女の瞳のなかをのぞきこむことによって、自分は何者なのか、何のために生まれ、生きるのか──そういった大いなる謎に対する答えのすべてを確かめることができた。 この短い生のなかで、もっとも稀なことが起こったのだと、彼は思った。 ‘大いなる精霊’が、自分たちをひきあわせたのだ。 こう確信すると、豊はもう自分の考えをためらわなかった。 ──それで小夜は、 彼は口を開き、その名を呼んだ。まるで昔からずっとそう呼んでいたような、そんな口ぶりだった。 この出会いのすべてがどんなふうに訪れたのか、その不思議に彼はめまいを覚えていたが、名を呼んだきりまた黙ったままでいる自分を気遣わしげに見つめてくる小夜を見ると、実際の年齢よりももっと小さな少年のように笑った。 まるで外からの力に導かれるように、ふたりの頭がそっと近づいた。 どういう経過をたどってそうなったのか、指と指がからみあった。 ──これきりになるとでも、思っているの? 彼女は黙ったままでいた。 黙ったまま、じっと豊を見つめていた。一度手がふれてしまうと、もう身体のどこも動かせなかった。彼女の華奢な指は、ぴくりとも動かずに草と豊の手のあいだにおかれていた。 そのとき、小夜に思わぬ僥倖がおとずれた。 それは、蝶が花に舞い降りるかのような、自然な仕草だった。 触感はなかった。あるのはただ、一瞬押しつけられ、吹き抜けていった風。 ──・・・・・・・ちゃんと覚えた? 忘れちゃだめだよ。 草原を風が渡っていく幽かな音のまにまに、彼のささやく声が混じった。 ──これからおまえは広い世界でたくさんの人に出会って・・・・・・・最後にぼくを選びなさい。 そうしてやっと、この言葉の意味を理解した小夜の意識がその場にもどってきたとき、豊は先刻しようとしていた草のじゅうたんに長々と寝そべるという贅沢なひとときを、すでに充分に楽しんでいるようだった。 おぼつかなくも視線を落してきた小夜を、彼は草の上から見上げてくると、にこりとして言った。 ──こうして時を過ごすのは、よいものだっちゃな。 そうして、切れ長の目を閉じていくと、あっけにとられている小夜をそのままに、ほどなくして彼は健やかな寝息をたてはじめたのだった。 ─第十章のおわり─--------------------------------------------------------------------- 残りわずかとなった‘知られざるやまとことば’シリーズ、おそらくは最後から三番目の更新です。 【ちかい】誓・盟・誓盟・誓約・ 誓いの原点とはいかなる概念なのでしょうか。 神前結婚式においては、必ず「誓詞」(ちかいのことば)が奏上されます。神々に生涯かけて睦まじく相互に尊敬し、援け合って暮らすことを誓うわけです。結婚のときだけでなく、人と人とが約束をかわすときに神仏に誓う形式をとるのは、古来の伝統的方式といえるでしょう。 起請文(きしょうもん)と呼ばれる古来の契約書は、神仏に誓って約束を交わす形式となっています。この書式は、まず誓約事項を記した文言をしたため、つぎに差出者の信仰する神仏名を書き列ねます。そして、もし誓約を破棄した場合には、以上の神仏の罰を受けても差し支えないという旨を書き止めに記しました。 この契約書に多く用いられたのが、熊野三山の発行する「牛王宝印」(ごおうほういん)と呼ばれる護符でした。三本足の烏が印刷されたもので、その裏側に誓約の内容を記しました。それゆえに、約束を破ることを、今日でも「宝印を翻す」というのです。 さて、この「ちかい」(誓・盟)ですが、漢字の「盟」は血をすすって約束を固くするという意を持ちますが、日本語の「チカヒ」も「血交ひ」に起源を持つとされています。血盟、血判など強固な約束の意志を示すために身体を傷つけ血液で署名したり、血判を認めて誓約を交わしたこと関連する語です。 漢字の「盟」は、明と血とからなり、神明に犠牲の血を供え、その血をすすって約束をする風習から出来たものだとされています。 こうした約束に血液を用いる風に原点があるのです。 明日は『鳥取物語』の最終章「風は東へ」●さよならみくまり●です。 実は春までの時間など、残されてはいなかったのです。 小夜の突然の打ち明け話に、かの心優しい少女は・・・・・・・。 タイムスリップして、みくまりと一緒に小夜の語りに耳をすませてくれなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります!
2006年01月18日
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その一週間後、相生村は突然の豪雨にみまわれた。 夜のうち、外はまるで四つの嵐がいちどきに集まってきたような怖ろしい荒れ模様だった。さらに稲妻がいたるところで砲火のように閃く。夜半にかけて嵐は最高潮に達し、雨が巨大な波打つ幕となって大地に降りそそいだ。しかし、華々しく荒れ狂うはずの嵐は、夜のうちにあっけなく通り過ぎ、明けてみると翌朝は嵐雲が晴れ、雨足も一緒に遠のいていった。 その朝早く、まだ暗いうちに小夜は驚くほどすっきりとして目を覚ました。 せっかくの日曜日にみすみす惰眠を貪ってはいられない。早起き鳥のみくまりを探そうと、小夜は眠っている家族の横を忍び足で通り過ぎた。 外に出ると、夜明けを告げるばら色の光条が闇のなかに生まれていた。光の条はしだいに大きくなり、刻一刻と色を変えてゆく。 明かりが強まってきた。突然太陽が雲間から現われ、まもなく地面から蒸気が霧のように立ちのぼりはじめた。 径(こみち)を歩いていた小夜は、ふと背後に馬をだく足させるかすかな物音を聞いたような気がした。ふり返ってみると朝靄の中、馬上でぴんと背筋をのばした豊の影が、かすかな曙光を背景に浮かび上がった。 ──遠乗りに行かんか。 彼は手首に巻きつけていた鬣(たてがみ)を解いて地面にすべり降りてくると、小夜にそう声をかけた。見ると、豊はどういうわけか自分のいつも乗っている「太秦」(うずまさ)という月毛の裸馬の他に、勒と鞍を着けた小柄な黒馬を連れていた。 小夜が黒馬とは顔見知りではなかったので、豊はそこらに生えている草を一束つかみとってくると、彼女の手にそれを載せた。そして、かまれないよう指をうんとそらせて馬の口に持っていくように指示した。手から草を食ませようにも、指をそらせていないと草にまぎれて本当にかまれてしまいかねないのだ。指さえ平らにしていれば、その心配はないという。これで馬が小夜の手から草を食めば、「仲良しになる儀式」は無事終了である。 しかし、小夜はどうしてもそれを敢行できなかった。かみつかれやしないかと、どうしても自分の手をかばって指を曲げてしまうのだ。実際、馬の方も草を与える人間が慣れていない場合は、鼻面をつかまれるような気がして逃げてしまう。 手を突きつけるたびに馬に逃げられるので、しばらく繰り返すと小夜はねをあげてしまい、そばで笑いをかみ殺して見ている豊を恨みがましくふり返った。 ──馬が怖がるっちゃ! ──怖がっているは、人間の方だが。 豊は笑って、馬の正面に仁王立ちしている小夜の肩をそっと押しやって、馬の横に立たせた。 そして、人と馬とが同じ方向を見るような位置から、片手で首をさわってあげながら片手を小夜の手にそえると、馬の口に近づけた。 そうすると、馬のよく食べること。黒馬は吟味、といった感じで小夜の手から黙々と草を食んだ。 手のひらからなにもなくなると、ついでにぺろりと舐めてきたので思わず小夜は声をあげた。だが、その行為には、馬の友愛の情が流れていた。子馬と小夜は仲良しになった。 ──では、おみ足をこれへ。 豊は片膝を突き出し、両手のひらをその上に重ねておどけてみせた。 小夜がためらいがちに足を乗せると、豊は立ち上がりざまに思いっきり小夜を上に放った。小夜は空中に投げ上げられ、夢中で馬の背にかじりついた。豊は鳥のように身軽に自分の馬に飛び乗ると、先に立って歩き始めた。彼について、黒馬も小夜を乗せて歩を早めた。 村を離れるまえに、小夜はふとふり返って自分たちの村を遠くに見はるかした。 そこには夜明けが来たときにもまして荘厳な風景が広がっていた。 相生の村は自然の時計と一致して、またゆっくりと朝の生気をとりもどしていた。そこには朝餉を炊く灯が点々と現われていた。夢のなかで見るような不思議な光景だった。 小夜は人間の生活の営みを、今まで感じ得なかった畏怖の念にかられて見つめた。わが家だ、と小夜は思った。ここがわが家なのだ。たとえ向こうに見える灯は、二百人からの先祖代々よりの民の住まう村落であり、彼らは言葉も違い、その信仰といえばおそらく小夜にとってはいつまでも謎であるとしても、今朝のこの風景は小夜に生まれ故郷にいるのと同じ安らぎを約束してくれていた。 十から二十の、萱で覆われた家々が、渓流の流れに沿って立ち並んでいる。それらは朝の陽射しのなかで暖かく平和に見えたが、あたりに漂う霞のせいで、まるではるか古代の建物がいまでに息づいているかのようにも思えた。 ふたりがそんな相生村をあとにして半時ほど進んだころ、ふと小夜の目に道ばたに落ちている百円玉が飛び込んできた。 ──あっ、百円! 思わずそう叫んだ小夜は、はたと思いついて前を行く豊にすかさず声をかけた。 ──ゆたさん、百円でなにか洒落てみてや。 ──百円・・・・・ひゃあ食えん。 小夜は予想を超える豊の機知に、可笑しくてひとりでくつくつ笑った。 それが駄洒落だろうがパロディであろうが、そんなことは構わない。彼の見せる静かなる振舞い、今では子供たちの誰もが知っている彼の振舞いを目のあたりにするたび、小夜はなぜかひそかな誇りを感じるようになっていた。 また、彼の言動は、小夜の顔を思わず知らずほころばせた。ときに豊はひどくおかしかった。おかしいが、しかし愚かではなかった。腹蔵がないゆえに、彼は純粋なユーモアにあふれ、そのうえ機知にとんでいた。 ふたり並んで散歩している最中に浮かんできた、こうした物思いのはてに、小夜は豊は品格のある少年なのだという結論に達した。人には誰でも、それぞれ他の何よりも大切に思う人間の特質というものがあるが、小夜の場合、それは品性であった。 ──なぁ、この馬名前なにて? 小夜はまたそれきり黙っている豊に話しかけた。 ──泡沫(うたかた)だが。 ‘夢見’を連想させる雅な名を持つこの牝馬は、真っ黒であばれ馬のような風体にも似合わず、しじゅう蝶ちょや虻とおしゃべりしながらのんびりと歩いていた。 ──まこと寝たような目をしよるな。 小夜が泡沫の顔をのぞき込んでひとり言のように言うと、豊が前方で笑い声をたてた。小夜はふいに、自分の名が豊にたったの一度、相生文字のやりとりの最中に教室で呼ばれたきりであるのに気がついた。 彼女の物思いする心は反対にしぼんでいってしまった。 いくら相手が自分の大切に思う気持ちに適う品性の持ち主だとしても、その者から名前を呼んでもらえないのならばさみしい。女の子にとっては、異性に名前を呼んでもらえるということに勝る価値観はないのだ。そうだろう? さて、この数日のあいだに空気はひんやりとし、今朝は平原では風が立ちはじめていた。 豊と小夜は平原までの数里を、自ら一陣の風となって軽々と渡っていった。馴染みのある最後の縁が前方に立ち上がり、ふたりは馬の背にぴったりと胸をつけ、最後の半里を全速で駆けるようにうながした。小夜が体重を少し前にうつすと、小柄な黒馬は楽しげに駆け出した。縁を一散に登りきると、一面草におおわれた大平原が何里にもわたって朝露にひたされているのが見渡せた。 二頭の馬は矢のように斜面を下って洋々たる大平原に出ると、銀色に輝く草の上を軽々と疾走していった。 ──うまくなった・・・・・。 豊は伏し目から小夜の手綱さばきを観察して、そうひとりごちた。 その視線は前髪に隠されていて、小夜には気づきようがなかった。 しばらくして風が湧きおこり、豊は後方からの物音に、小夜の馬の歩みが遅れていることに気がついた。ふり返ると、小夜はうなだれたように馬にただ揺られていた。 ──どうかしたの。 豊の優しさに満ちた言葉の響きに、小夜は頭を落とした。 そしてまた見上げたとき、小夜はその雄弁な瞳に呑み込まれるのを感じた。彼にまつわる自分の見ているものすべて、思うものすべてを、小夜は心から切なく感じた。彼女の脳裏には、たったひとつのことだけがあった。これほど、ほかの誰とも似ていない者はみたことがない。 ──ゆたさん。 はるか創生のとき、羊水にぷかぷかと浮いているかのようなその名の響き。ゆったりとたゆたう水──なんという安心。そう、彼とともにあるとき、小夜はいつでも安心していたのだ。 呼びながら、小夜は我が意を強くした。この先いくら呼び慣らわそうと、この名を呼びあきることはあるまい。 だが、このことに思い至ることのできた朝は、彼女にとってひどくつらい現実に裏打ちされているものだった。 過ぎていく一分一秒のすべてが、なすすべなくふたりを隔てていくのを、彼女は全身で感じ取ることができた。だが、次にこのことを打ち明ける機会を待つことは、小夜にとってもっとつらかった。 彼女は草のじゅうたんの上に先に腰を下ろしていた豊の傍らに坐ると、くつがえることのない自分の運命を伝えようと口を開いた。 ──春になったらな。 ──・・・・・・・。 豊は何か言おうとして、彼女を見つめ返した。 そんな豊をさえぎって、小夜は続けた。視線に応えるとき、彼女はなにげない声音をよそおって、なんとか自分の感情をかくそうとし、失敗した。 ──うち、横浜に帰らねばならんて。 草の上に寝転がろうとしていた豊の動きが止まった。 ◆実はパソコンのキーボードのみの調子が悪く、替えが着く木曜までうまく打ち込みができなくなりました。コメントやメールのお返事がきちんとできずに心苦しいです。どうかいましばらくおまちください。 更新はマウスの作業だけでがんばります・・・涙。 --------------------------------------------------------------------- 昨日の日記に引き続き、男女の名前に秘められた大和言葉の意味をひもといてみましょう。 【ひこ・ひめ】彦・姫 なぜ人間のことを「ひと」というのでしょう。 人という漢字は象形文字で、立っている人を横からみた形です。 では、日本語の「ひと」の語源はどこに由来するのでしょうか。 これを考える前に、男子・女子を示すことば、「ひこ・ひめ」について考えてみます。 ヒは日・太陽。ムスヒ(産霊)・ヒモロキ(神籬:神の依代)のヒと同じです。 コは男子の意であるので、すなわち、ヒコとは太陽の子、あるいは太陽の神秘的な力をうけた子の意となります。ヒコは尊称として男神の名に冠せられ、また現代でも男子の名前の下につけて使われます。 私たちがよく知っている神話上の海幸彦(うみさちひこ)、山幸彦(やまさちひこ)の兄弟の名前は、実のところこの「ヒ・コ」の言葉の意味をもって命名されています。『古事記』によると、この兄弟の曾祖母は太陽に象徴される天照大御神と書かれており、「日子」を太陽の子と考えてなんら不思議ではないことがわかります。太陽の女がすなわち「姫」ということになります。 では、人についてはどうでしょうか。 人とは、霊(ひ)の止まるところの意を云います。つまり、「ヒは日・霊、トは所」という語源を持つ語が「人」であるということができます。 直訳的にいえば、人は太陽の力を受けた所のものという意になるのです。象形文字である漢字の「人」と、大和言葉の「ひと」とのあいだには、人間をどのような存在にとらえるかで根本的に異なっていることがわかります。 神々の名に「ひ」(日・霊)を含むことが多いのは、太陽のもつ神秘的な力を根源として、「ひ」が霊的はたらきそのものを意味することになったからであるのです。 明日は●ぼくのそばにいて●です。 小夜の突然の打ち明け話に、豊が答えた言葉とは? タイムスリップして、たまには誰のことも考えず、大平原を渡る風に吹かれにきなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ありがとうございます。励みになります!
2006年01月17日
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豊は相変わらずだった。 勤勉というものからは東と西ほどに遠い豊に限っては、他人に才を見い出されたからといって、これを機にかしこまって精進に励むという筋書きはまかり通らなかった。 その休日も、豊は例によって大木の枝に腰掛けたまま、川の流れや風にしなう梢、幹をかじる野兎を日がないちにち眺めていた。 そばの小川では、水面から数センチのところに狸が巣穴を掘っていた。 またその先で豊はもつれ合う恋人たちを見つけた。浅瀬のなかで二匹の黒い蛇が恍惚として互いに身体をねじりあわせている。恋するものたちにままあるように、身を乗り出した豊の影が水面に落ちたときですら、彼らはまるで気にとめていなかった。 豊はもはや自分が目に見えなくなっているのを感じた。それは彼の好きな感覚だった。 と、蜩(ひぐらし)の声がやみ、馬の嘶きが風に乗ってかすかに聞こえてきた。 ほどなくして地面が揺れはじめ、相生のじゃりたちの騎馬隊の一団がこちらに向かってくるのが見えた。 そのままやり過ごさせようとして、豊の目はそのうちの一騎が自分の身を隠す楡の木にまっすぐに近づいてくるのを捉えた。 葉影から下をすかしてみると、その馬に乗っているのは彼のよく知る‘あまっちょ’だった。 さて、彼が目に留めたところの小夜は、馬乗りに関してはまだ若葉マークがとれていなかった。 そして今はどんなに道の中央を歩いてもらおうと手綱で指示を出しても、道ばたの楡の立ち木に寄っていって身体をこすりつけようとする。 そんなことをされては、そっちの側に片足を下げている小夜がたまらない。 ──大将、木に足がこすられるっちゃ! 小夜は先頭を行く綾一郎に助けを求めた。 ──からかわれとるが! 綾一郎は笑って取り合わなかった。 彼の言うとおり、乗り手が「乗らせていただけますか」状態の初心者である場合、利口な馬ならば自分の方が身分が上であることを察知して、しばしば人間をからかったりすることがあるのだ。 そして、どうやら小夜は馬のほうに気をとられていて、彼女の特異な目をもってすれば、平生なら見えるはずの豊の姿は目に入っていないらしかった。 これなら今までの仕返しができる・・・・・。 豊は面白がって両膝を枝にひっかけると、この不幸なあまっちょの頭上にぶらんと逆さまに下がってきた。 ──よっ。 ──ひゃあ!! 豊のとっさの計画は成功した。 掛け値なしに、小夜は馬から落ちそうになるほどおびやかされた。 だが、豊の顔が自分の目の前にあるのを認めると、こみあげてきた得体の知れない感情に顔を紅潮させた。 口惜しさ、怒り? そうではない。 それはなぜか嬉しさや満足といったものに近い感覚であった。小夜は照れかくしに、落ちろ落ちろとばかりに、馬の背から楡の幹に体当たりして、豊を大揺れに揺らした。 豊はもんどり打って落ちるふりをすると、あっと思う間もなく小夜の馬の背にひょいと乗り込んできた。小夜は、彼が自分だけに向けるこういったたぐいのからかいを、もはや悪気あってのいじわるとは感じていなかった。彼女はこう納得していた──豊は自分に甘えてくれているのだと。 ──すら、走れ! 豊にあってはいまだかつて見たこともない情景に、綾一郎は少なからず驚いていた。 事態がおさまるべきところにおさまったのを目にすると、この大将は貼りついたような表情をさとられないために、一声あげて自ら率先して走り出した。 ついでに言うと、綾一郎は早熟な少年であったため、ある一定の感情を超えた者同士が、はた目にはどう映るものか、よくわかっていた。 本人たちさえも気がついていないことであっても、こういった件に関しては綾一郎の目にかかってしまっては、ごまかしは効かなかった。彼はなぜか全力で駆けずにはいられないような気分であった。 豊は低い喉音で自分たちを乗せた馬と交信した。 馬は豊の指示通りさっそくに駆け出し、小夜は乗り手によって馬がこうも雄々しく走ることができるという事実にあらためて気づかされることになった。 風を切って走る小夜たちの横で、背の高い草がさあっとなびく。 風景が後ろに飛び去ってゆき、空が頭上でがくがくと揺れ、そのふたつのあいだに豊と小夜を乗せる馬がまるで蹄に火がついたかのように激しく地面を蹴たてている。 ゆた、背が高うなった──。 蜂に刺されて、いっとき一緒に馬の背に乗せられていた記憶をたどって、小夜はそう思った。 豊の膝が小夜の脚にそって重ねられている。小夜のわき腹をぐと押さえて手綱を掴む両腕、彼の腕(かいな)の力強さが小夜には快かった。 馬たちがひときわ濃い影を地面に投げかけるようになったころ、子供たちは平原に着いた。 小夜は自分というちっぽけな存在が、大いなる天然に呑み込まれるのを感じた。 なにもかも、途方もなく大きかった。雲ひとつない雄大な蒼穹。波打ちうねる草また草の大海原。 どちらに顔を向けても目路のかぎり、他にはなにも見えなかった。 道もない。彼らの馬がたどるべき轍もない。ただ茫漠たる平原が広がるのみだ。 子供たちの前方数里先では、大地が急に落ち込んでいて、崖のような急斜面になっていることが知れた。やがて斜面の縁に達したとき、だしぬけに大きな草原が、小夜の目の前に現われた。 大平原をわたる強い風がまともに吹きつけてくるのを感じながら、彼らは迷わず果てしない草原に続く急な斜面を駆け下っていった。 子供たちは斜面に誰怯むことなく馬に乗ったまま駆けに駆け、その蹄(ひづめ)と鬣(たてがみ)と筋肉の奔流が、大地を地響きさせた。 空気は鈍い、どどっどどっという音で溢れていた。 目の前では蹄が舞い上げる砂塵が立ち上っている。 そのあまりの偉容は、小夜の記憶に永久に焼き付けられた。 子馬が甲高嘶きをあげ、母馬が低く唸り、牡馬が鼻を鳴らす。 数十頭の馬がまっすぐ前へと動いている。 小夜は巨大な褐色と黒の塊が一方向に進んでいく、そのただ中にいる自分を見た。 草原には小夜たちのほかも、もちろん蜂や蜻蛉、鳥や小動物などあまたの生物があった。これほどの生きものが存在し、同時に同じ場所を占めているという事実が小夜を混乱させ、数えきれない数字が頭の中を駆けめぐった。こんなすばらしい生きものがこの世に存在するとは、なんという美しい謎だろうか。しかも何万という種類で。いや、たぶん何億だろう。その厖大さに、小夜はめまいを覚えた。 これはなんという調和であろう。小夜はいま、奇跡を見ていた。 その時小夜は創造の昔からの天地(あめつち)の理(ことわり)ともいうべき真理を、すなわち自分たちがこの世界に生きてある意味を悟った。 小夜たちは海にとっての魚、空にとっての鳥だった。人は大地の命なのだ。 今、この斜面を流れてゆく時間は、小夜の限りある生のなかで二度と訪れることはないだろう。 矢のように過ぎ去るこの瞬間、小夜はなにかおそろしく大きなものの一部となり、もはや小学生でも一人の女の子でも、生きて動く体の器官の集まりですらなくなっていた。このとき小夜は精霊となり、時のない宇宙に静止していた。このかけがえのない数秒の間、彼女は永遠を実感したのだった。 いつしか空には雲がわき上がり、沈みゆく太陽が荘厳な光を放っていた。 子供たちはすべり台をおりるようになんの苦もなく斜面を駆け下りると、彼らにしかわからない行き先に向かって疾走していった。 本日の日記--------------------------------------------------------- おはようございます。 本日より、心新たに本編を再開させていただきます。 1980年代を鳥取に生きた小学生たちの物語。 彼らのなかに、いとけなき日のあなたの顔が見えますか? 【むすこ・むすめ】息子・娘 本日は久方ぶりに、自称‘知られざるやまとことばシリーズ’を日記に載せさせていただきます。・・・・・ってみんなついてきてるかぁっ!? 親は子供たちのことを息子・娘と呼びます。 この言葉は「むす・こ」「むす・め」と分解でき、「むす」とは、「生す」や「産す」(いずれも、むす)の字が当てられ、発生する、うまれる、はえるとの意です。苔むす、草むすといえば、その語感がよくおわかりいただけるでしょうか。 「こ」とは子供、小さい者、親愛なる者の意で、子・児の字が当てられます。男子に限る言葉ではありませんが、「むすこ」といえば、男子を指します。「め」とは「お(男)」に対する語で女性を示し、女・雌・妻などの字が当てられます。 現代の私たちは、男女の結婚、生殖によって子供が生まれてくると当たり前のように思っていますが、「むす」という大和言葉はそのような語感がまったく伝わらないものです。自然に発生する、あるいはどこからか生まれてくるといった感覚の言葉であるともいえます。 春になり、慈雨が滴ると、万物が一斉に芽吹き、自然の胎動が始まる──その根本の力を古人は「むすひ」(産霊)と表現してきました。万物を産みなす霊力のことで、このはたらきによって、植物も動物も、人間さえも生まれてくると考えていました。 『古事記』の冒頭には、世界の始源を次のように表現しています。 天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまのはら)に成りませる神名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、次に高御産守日神(たかみむすひのかみ)、神産守日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、並独神(みなひとりかみ)成り坐して、身を隠したまひき。 高天原とは神々の世界のことで、ここに最初に出現した神々を、天之御中主神すなわち天の中心にいる主人(みあるじ)の神と、高御産守日神および神産守日神すなわち「むすひ」の神と伝えているのです。 この神々こそ、万物生成の根源と考えられた霊力を意味する神であるのです。 『古事記』の伝承者は、世界の根源、万物の始源に「むすひ」のはたらきがあると考えていたのです。この「むす・ひ」の「ひ」は、日・霊の字が当てられ、太陽の持つ優れた力に対する信仰から生まれた観念とされています。 産霊(むすひ)の信仰の原点には、太陽の持つ限りないエネルギーに対する信頼・信仰が存在します。 万物がこの光をあびることにより、成育していく──古代の人々は光合成という化学反応の原理を知らなくとも、太陽の底知れぬ恵みを肌身で知っていたということになるのです。 明日は●ふたりきりだね●です。 誰かさんと誰かさんが、夜明け前の霞たなびく村里を散歩しているようですよ。 タイムスリップして、早起き鳥たちと一緒にお散歩しませんか? ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月16日
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──ヘッロ~、エブリワン。チェック、チェック、マイクチェック、ハッ! 本日の朝礼係は不二遼だ。 中庭のほうからアホタレな大声が響いて、ちょうど縁側から庭に降り立ったばかりの豊は、朝の光の中で自分の顔が青白いネガに反転していくのを感じ・・・・思わずそこらにあった石燈籠にすがってしまう。 ──ボーイズ・ビー・アンビッシャァ~ス! 今日の議題はこのたびの守宿の代替わりにともなう、諸々の変更事項について取り上げる。維新は近いぜよ! 向こうを透かして見ると、いつの間にかしつらえられたステージに、新撰組の羽織も青々と、遼がひっつめを風にそよがせている。 なにを考えているのか、ワイヤレスマイク片手に朝礼のために集まってきた魑魅魍魎たちを見わたし、御詞(神聖語)で語りはじめたところだった。 ──かなりモノノケっぽいレイディース、エ~ン、ジェントルメ~ン。キミたちはこの里の守宿の制度に満ち足りているのかな!? 山の神が守宿を独占することに、ムッとしたりしていないかなっ? もちろんヒュー(飛遊櫛尊のことか?)は今年2052歳になっても美形とゆーのは認めるが。うん、あれぐらい若作りだってこと自体、並大抵のことじゃないんだよ。たしかにヒューはすごいよ、うん。 ──おおおおっ! 遼は長男でありながら、豊ほどには御詞(神聖語)をうまく話さない。神霊たちに伝えるためには、遼も無理に御詞を使わなくてはならないため、彼の言わんとしていることは、ますますわかんなくなってくる。だが、なにを言っているんだか、くらっとめまいを感じながらも、ギャラリーがついつい引き込まれてしまう──ナゾのカリスマに満ちた喋りをするのだ。 ──さてさて・・・・・この度の御魂鎮(みたましずめ)の儀にあたっては、水霊をはじめ皆の衆のはたらきお疲れさんだった。そこで頼みごとついでに、本日の朝礼のテーマとしては、これからみんなに全妖怪投票に協力してもらうことを宣言する! ──なんだ、なんだ・・・・・? 遼の身近にいるオーディエンスも、なんの騒ぎかと集まってきた不二屋敷の呪方一族も、ざわざわと顔を見合わせた。 ──・・・・・・と、いうわけで山神に捧げるためだけの守宿なんて役、ナシにしねーか? 今後は竜骨を持つ子供が生まれても、守宿は誰のものでもない。そこに在るだけで意味を持つ御神体っての・・・・・・それでいいかどーか、拝殿の賽銭箱のなかに明朝の礼拝時間までに投票してくれ。 ──そんな! いくら不二一族の長兄だって、そんなこと決めるなんてできないのでは。 ──でも・・・・たしかに守宿御統(すくのみすまる:28代で一巡する最後の守宿)の後が立たなければならないって決まりはないんじゃ・・・・? ざわっ。さすがに魍魎たちは波を打ったが、 ──その代わり、誰のものでもない守宿の御神体は、今後すべてのモノに貸し与えることを可能とする! ──おおおっ! あるもんだと信じ込んでいたものがカクンとはずされ、ないもんだと思っていたものが許され──違う景色が見えたみたいに、わけもなく嬉しくなって、聞いていた全員が叫びはじめた。 ──相生の夜明けは近―い!! ──おおおおお☆ 根拠なく言われると、ついみんな歓声を上げてしまう。 きらきらと夏の陽射しに映える、およそ500人の聴衆を見渡す遼の立ち姿。 あまりこうやって大勢の物の怪の前で演説をすることのない不二一族なのだが(ないだろフツー)、口を開けっ放しで見惚れるギャラリーもちらほらいるのを見れば、彼ら魍魎たちが喜んでこの一族の呪師としての君臨を許してきたというのがわかる。 ──わし的にも昨晩遅くにヒューに呼び出されて話し合いを持つまで、大それた改革の意志はなかったが・・・・しょうがないのだな人徳だから。ちなみに密会は拝殿にてふたりきりで行なわれたが、ヒューとわしには肉体関係はまったくないぞ。 ──あってたまるか(怒)。 ギャラリーに紛れて最後列にいた静が白い眼で遼をにらむ。 ──はるさん・・・・・。 いつもの寝坊が理由で、朝礼に遅れて入ってきた円は、まぶしさと同時にちりりと締めつけてくる胸の痛みに瞬きをする。 ゆうべ風呂上りに囲炉裏端を通りすがったとき、障子越しにふと垣間見てしまった光景が脳裏に甦ってくる。 そこには遼と静がつれづれに集っていて──隅には豊が居所寝しているようだった。 ほの暗い蝋燭の光に照らし出される弟のあどけない寝顔に、遼が眼を細めている。よく見透かせば、ぎりぎりで王国の危機を切り抜けた若き王の誇りにも似た痛さを横顔に漂わせ──。 その傍らに座り込んでいた静が、リーチの長い腕を差し伸べて、兄の肩に手をやる。涼しい風に抱かれるみたいに、遼はゆったりと静に寄りかかって身体を伸ばした。 (・・・・・・ここまでしたのにね) つい視線で言ってしまった静に、 (しずかもよくつきあって・・・・・) 遼も瞳で苦笑していた。 なにを語らっていたのだろうか──今朝になっては問い詰めることもできない。 まだざわざわとさざめく妖怪たちの後ろから、 ──お~い。わしら、ゆんゆん守るためならなんでもやるっちゃよ! 頭上高く掲げられた円の右手と左手には、それぞれ静と和が吊り下げられている。 ほけほけと三人に向かって羽織の袖を広げる遼。 ──ファ~ンタスティック! 新たな守宿の理(ことわり)のアシストをする、と? 感心な心がけだぜよ。 遼がマイクをOFFにして、ステージを下りてきた。立候補者(?)三人の肩を抱く。 ──おまえたちこそ、心中くらいの覚悟を決めないとな。知ってのとおり、相生の守宿なんてのは最悪の神々雑用係だ。今までは竜骨って名のある貧乏クジひいた者がやってた仕事だが、これからは兄弟がこのなりわいを分担して行なう。まずはその手始めに、今からちょっと実地で働いてもらうぜ? ──こうなったらもうなんでもいいけどさ、なにすりゃいいのさ、はるさん。 和の問いに、言うのを楽しみにしていたんじゃないかと疑うくらいの会心の笑みで、 ──いちばん楽しい仕事を、さ。 遼の唇が三人の耳元で動く。 ──いっしょにあそぼ。神さまたちと☆ ふーっと力が抜けて、豊はすがっていた石燈籠に背をあずけてもたれかかる。 滝洞から生還してからの日々は、かくのごとくどうにもこうにもな雰囲気のうちに明け暮れていた。 だが、今朝のこの一件からもうかがい知ることのできる兄たちの理解度からすれば、地神にしばられているだけの守宿のなりわいを自分の代でなんとかしたいという豊の当初の目的だけは、しっかり達成されたことになろうか。 豊は体勢を立て直すと、ひとり中庭をあとにした。 そのまま拝殿に向かう。 帳(とばり)に仕切られた巨大な神殿の正面に立つと──その結界越しには、幼い頃からいつも傍にいて支えてくれていた、兄たちひとりひとりの顔が透けて見える。 豊は前方の闇を見据え、八手総拍手(やつでそうはくしゅ)を以て神々に言い切った。 ──あんたたちの眷族はあそこにいるヤツらだ。仕切るつもりならけっこう手強いよ? 誇らしげに楽しげに。 ──ノーテンキな多数派に見えたって、この里でしぶとく生き残ってきた連中なんだ。 オトナになって知ることができた・・・・・あらゆる艱難辛苦を体験させられ、身体の節々には物の怪たちにつけられた傷跡が残っていても、みんな次の日には立ち直っている角(すぼし)組である。 なんだか、この生きることにどこまでもポジティブな熱意と熱気って・・・・・自分の越し方の、いずれの時かに戻ったような錯覚さえも感じてしまう。 そう──それは自分をとりまくすべての世界が高速でまわっていた、あの生まれたばかりの頃に似て。 ─── 翌日──。 ──聞いた話を総合すると、知らぬは本人ばかりなりってわけだ・・・・・おまえ最低。自分の影響力知らないって、傲慢の一種だ。 それはもう、くらったくらった。 蝉しぐれが降り注ぐ吊り橋のたもと──説教魔の静に慣れされているはずの豊でさえも、胃壁から血がにじみそうになるくらい、田中綾一郎は里の‘正論’最終兵器なのだった。 だがこれにより、古来稀なる正義漢として不二一族に見込まれた、選挙管理委員長に田中綾一郎を据えての投票の結果──開票率65パーセントで、圧倒的多数により29代以降は守宿を山神に捧げる人柱制度の廃止が決定。 守宿は相生の里に縛られることなく、現世であればどこに在っても守宿に変わりはないこと、これまでのなりわいはすべて山神をその身に封じるための呪法であったため、大神が遊行に出た今はこの必要はもはやないこと、などが確認される運びと相成った。 もともと、けっこう尽くすたちの・・・・・・相手のために身体を動かしているうちに親しみが増してくる体質の綾一郎は、この選挙に関わったことで、不二屋敷での一件もなんのその、すっかり機嫌を直してこれまで通り豊の親友を張ってくれている。 さらに、豊が綾一郎を通じて田中一族に流したガセネタ──。 《県内の某村長、村役場の男性職員と駆け落ち未遂したうえに宇宙人飛来を隠蔽していた》疑惑が全村民の注目をさらってくれたおかげで、豊の身に起きたことはたいした追及も受けないうちに、里の人から忘れ去られていったのだった。 そうしてまた数日の後──。 ──最近、食卓に円とはるさんが足りない・・・・・。 そうひとりごちながら豊があたりを見回せば──。 彼自身の快気祝いやら守宿の戴冠祝いやらにかこつけた連日の宴会のドサクサの中、なんらかの理由で祠に入り遅れたり、塚に帰りそびれたり・・・・・呪方としても始末するわけにもいかず、放置している連中が屋敷のあっちこっちに居ついてしまっている。 ──ふむ、けっこう美味であるな。 ──それオレが育ててた焼き鳥だ。勝手に喰うなよヒュータロ! ──あっ、自分のぶん持って木の洞に逃げんなヨーコちゃん! 庭に茣蓙を敷いて座り込み、スズメの焼き鳥を奪い合っている、飛遊櫛尊と遼、そして円。 ──・・・・・・野生化している; その一方では、焼き鳥のくしをくわえ、嬉しげに楓の大木の洞に身をひそめる九尾の狐。 ──・・・・・ヨーコちゃんって・・・・・もしか・・・・・妖・・・・・狐・・・・・。 問題は──それがあんまり、いつもの光景と変わらないこと。 番外編『不二一族物語』燗完 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ヒューとヨーコちゃんの仲良しぶりに一票を。 ありがとうございます。励みになります! 追記:八手総拍手とは、最も正式な拝礼の仕方で、‘八拍手’に‘短拍手’(みじかて)、つまり‘二礼二拍手一礼’をつけることをいいます。ちなみに、手を合わせる際には、左手の第一関節まで右手の指先を下げます。--------------------------------------------------------------------- 皆さまとともに作り上げてきた番外編が、おかげさまで本日をもちまして完結いたしました(以下、コメント欄に追記させていただきます)。 さて──明日から本編に戻ります。第十章、天高く馬肥ゆる秋●風になれ●です。 実に36日ぶりの本編開始となります。ちからわざで戻しますので、どうか皆さまもシフトロックしていただきたく、お願い申し上げます。 タイムスリップして、遠くなってゆく昭和の鳥取の小さな村においでください。 ああ、番外編を書けて楽しかった! ありがとう! ありがとう! 不二一族の呪師の方々、お元気で! 私はみんなのこと、大好きだから!
2006年01月15日
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妙に既視感のある景色。 なんとなく見たことがあるな──と思ったら、十円玉の平等院だ。 不二屋敷にもそっくり。緑を映す水をたたえた池の中、和様の建築がそびえている。 ──・・・・・っ。 豊は唾を飲み込む。 なんとなく、‘滝洞の祠’みたいなただものならぬ雰囲気が、そこ一帯にだけ立ち込めている。だが、通ってきた門構えにはちゃんと‘水霊塚’なる石碑とともに、 御泥弥五郎 みどろ──と読むのだろうか、古びた表札までかけられていた。磨き込んだ廊下にただよう木の香りは清々しい。 ──水霊・・・水霊塚・・・ここだったのか? 先ほど、休みの日のつれづれに自分の部屋である東の対でひもといていた、郷土史本のなかに見た一節が、妙なインパクトを持って豊の腑に落ちてきた。 (──このように時代とともに埋もれてしまったものが多い水霊塚であるが、鳥取県相生村不二屋敷参道のそばには比較的新しい時代のものが残されている。これを‘河童坂の水霊塚’と呼び、地元の言い伝えによれば、 ↑●鳩の満漢全席●つまらんて?そうかもう寝る。その封印が破られたときは・・・・) ──あ? ちなみに、外界から相生村に入るには、吊り橋を渡る通り道しかないのだが、その横から不二屋敷の前までがすごい崖みたいになっていて、それを村の人は通称して‘河童坂’と呼んでいる。 思い出したもなにも、守宿の交代にまつわる一連の出来事が起こる前、そこをもろに滑り落ちてあやうく河童に沢に沈められそうになったことがある。 (・・・・その封印が破られたときは──あまたの魑魅魍魎たちがあふれ出で、里に事をなすと伝えられている) ちょっと、うーむ、だ。なにしろ落ちながら、草木といっしょに、積んである石のようなものもかなり蹴っ転がしたような記憶が。 (・・・・まっ、なにかあれば河童がとっくに文句言いに来てるだろ?) 気にしないことにして・・・・ぱたんと重たい本を閉じたとき。 その手をぴたっ・・・・と押さえられたのが、本日の運命の瞬間というヤツだったかもしれない。 後ろから伸びてきたのは、節くれだった男の手だった。 ──兄(あに)さま方を待たせて、主役の若君がここで読書三昧していていいのかね。んー? いつのまに、こんなのが背中に張りついていたんだろう!? 肩の後ろから見たこともないオヤジの顔が、ぬうっと突き出して眼が合った。 ──うぇぇぇっ!? ─── 豊は突然現れたこのオヤジの手によってひとまず人界から隔離され、そこに迎え入れられたというか引きずっていかれたというか──何故に今まで気づかなかったか・・・・不二屋敷の裏には、沢から常にたちのぼる霧によって見透かすことができなかったが、堂々たる日本家屋があったのだ。 藍色の作務衣を着て、豊の先を歩くオヤジは三十代から五十代までのいくつにも見える。髪は白髪まじりのオカッバ。時代劇に出てくる道場主みたいな感じだ。顔は穏やかに整っているが眼は胡散臭く、それでいて表情は全体的にぬぼーっとしている。水霊塚なる石碑の立つ屋敷に入っていくあたり、こいつもなにかのヌシらしいのだ。 ちょうど京都御所かなにかのように、きれいな玉砂利の敷いてある庭がえんえんと続いて、霧の中、ピンク(?)の鳥居がそびえていた。横溝正史の世界そのものの怪しさ100パーセントなロケーションだが、沢を渡ってきたときに感じた物の怪臭い気配は、かえってきれいに消えている。 とろりとした風のない日で──膝下を這うように流れてゆく霧が、ドライアイスのスモークみたいで、そこはかとなくわざとらしい。霧にうるんだ太陽──秘密めいた鳥居をくぐると、古着のデニムに白いパーカーのままの出で立ちの豊の方、食い入るような生きものの眼がそこかしこから突き刺さる。 鳥居の奥に建物が見え、その内懐の大広間に案内されても、 ──・・・・ったく、なんて騒ぎなんだ。 はじめ、豊は自分が見ている風景の意味も考えられないままで、ぼんやりと立ち尽くしていた。 ざっと見わたしても500名はいるかと思われる大宴会。 だが、その上座に豊が見たものは、めまいのするような光景だった。 そこにはすでに、円が鎮座ましましており、 ──あ、ゆんゆんお先。カニしゃぶ食べ放題☆ 松葉がにの脚をくわえて、水木しげるかなんかの妖怪のように、ばりばり噛み砕いていた。 ──本場下関フグ刺しもありますよ。 お造りを持ってきた‘御泥多賀女’なる名札の‘黄桜キャラ’ふうの仲居さんがほほえむ。有田焼の皿に透き通る菊の花。 ──ふぐ・・・・!? 久しぶりだあ! あきらかに異様なこの情景にもかかわらず、和はやはり化かされたのか、わくわくを顔ににじませ、円の隣に陣取って、さっそく箸を取り上げている。 ──最高級東郷牛ステーキ炭火焼きも。主の弥五郎の差し入れですの。 ──おおおっ!! ──すっげぇーっ! 来てよかったぜ! さらに大きなどよめき。すでに一同はそれぞれにかき込みはじめている。 チッチッチ──なぜかストップウォッチを押して、静もフグに手をつける(←人体実験?!)。 遼はカニみその乗った甲羅に満たした酒を飲み干し、 ──うーん、太平なるかな。まさしくこれが桃源郷ってやつかもしれないね、ハニー。 遅れて連れられてきた弟に、うっとりとつぶやいた。 渋い紬の和装をして着物の裾を風にひらつかせると、けっこう飄々とした雰囲気にもなれる彼は、軟派な若き仙人みたいに見える。 ──ゆんゆんの怪奇快気祝いだっちゅうが・・・・ずっとここにいてもええのぅ。イギリスでも日本でも、都会だとやはり住宅事情がいまいちだから、ハレムに可愛い子がそろっても、しがない近未来的建物で暮らさせてあげるのは、おれ的に美意識にさわるってゆうかぁ。 郷に入っては郷に従え──で、遼の使う御詞(神聖語:カミサマと話す時に使う)の意味は誰にもわからない。 ──はるさん。木の葉っぱじゃないの、ぜんぶそれ。 あまりの異様な光景に柱にすがっていた豊は、視線で遼をちくりと刺す。 ──平気。狐狸(こり)じゃなくて河童だから。 遼はふり向いて笑顔を見せ、また夢みるように天井あたりに視線をさまよわせる。 ──さよう。 ──・・・・っ!! 慣れねーな。 なんでこう妖怪ってのは・・・・いつも突然なのだろう。 もう一度へたり込んでしまった豊を前に、わりと砕けたしぐさで弥五郎オヤジは輪島塗の上座に肘をつき、卓上にあった40度のルスカヤ・ウォッカをくーっと瓶から飲み干すと豊にたずねた。 ──・・・・これが、ぬしらの酒か? ──はぁ。 答えておく。ロシア製だけど。 ──悪うない。御魂鎮(たましずめ)の儀に際して、わしら一族の嗣子を借り受けるかわりにと、不二の長兄が水霊塚に差し入れたものをとっておいたのだ。供えものとしてな。 ──・・・・??? ますますわけわからん──小首を傾げる豊。 柳のような眉を寄せている弟を、泰然とした微笑を浮かべて眺めている遼。 だが、その様子をよくよく見透かせば、言いようもない愛しさを臆面もなくたたえているように見えて──片目だけをチラッとすがめ、弟に気取られたことがないかチェックしている。そんな兄の意味深な様を勘ぐる気配もなく、 ぼく、ウォッカよりビールの方が飲みたいなぁ・・・・などと豊が無邪気に思った瞬間(←よい子はマネしないように)。 プシッ──にゅぅぅんっ。 ──ゆたさん。 カッパのミッチーが、襖の向こうから現れて、水かきのある手でバド缶を差し出してくれたのだ。 今日はなぜか市内に新装オープンした、不二一族の姉妹たちのワンダーランド、ドラッグストアのスタッフの制服を着ていて、‘御泥源五郎’という名札をつけているところを見ると、それが本名(?)なのだろう。 ──あ、カッパ。 豊にひと目で判断された水霊は、尻のポケットから財布を出して万札を相当数ひっぱり出すと、いそいそと心の皇子さまに差し出した。 ──これ、バイトでためたんです。ゆたさん、どうぞお持ちください。 ──ええっ! カッパからそんなのもらえない・・・・・どうして? ──えと、快気祝いに。ゆたさん、エアコン欲しがってたしょ? ──そうだけど・・・・・自分でなんとかするつもりでいたし。 ──ですが、ご不自由でしょうから。 豊にまともに顔をのぞきこまれ、水霊は水かきがしっかりとついた細い指をもじつかせた。 ──ちなみに、わしは‘カッパ’じゃなくて水霊です。 ──どう違う? ──いいから水霊です。 どさくさにまぎれて豊の手をにぎりしめ、もう一度紙幣を渡そうとする。 豊はおもしろがって言ってみた。 ──ぼくにくれるんだとしたら、これだけじゃ足りないよ。 途端、水霊は上向きの鼻の穴をふくらませた。 ──・・・・っ! おいくらならいいんで? ──・・・・5000万円もらっとこうか。 ──ブラックジャックですかぁっ!? 彼があくまで受け取らないと見るや、ドレッドヘアを掻きながらぼそぼそと水霊は、 ──あ。ゆたさん、さっき吊り橋のたもとで、ご親友のすせりなさんが思い詰めた顔をしておられました。お屋敷に向かうのをためらっていらっしゃるようで。 と、気をそらすようなことを言った。 ──マジで?! またまたやっかい事が増えたのだ。 若君が盛大なため息をついている間に、水霊は気づかれないよう、すばやくデニムの尻ポケットに紙幣をねじ込もうとする。 だが、やはり気配を感じ取ったか、豊はじっと水霊の方を見つめてきた。 気圧されたように、ソフトタッチが未遂に終わった手を引っ込める水霊。 ──5000万円だったら、ほんとにもらうから。 ──え・・・・。 ──たまるの待ってる・・・・100歳を過ぎても。 髪には‘天使の輪’が出来ているくせに顔立ちは知性が透けて見える小悪魔系の顔で口の端を上げて笑い、 ──じゃなっ! ──おわっ!? どこから出現させたのか、ひとかかえの水しぶきを水霊の膝にうち、彼の驚きの声をあとにして、豊はその場から離れた。 ─── 兄たちにしたのと同じように、親友にも一連の出来事をぜんぶ話して泣きを入れるため、豊は綾一郎の待つという吊り橋のたもとに赴こうしていた。 勢いよく母屋の扉を開け、一階の廊下を走り抜けたとき、囲炉裏端のほうから小角さまの、いつに変わらぬのんびりとした声がかかる。 ──ゆんゆん、戴冠披露の儀にはまだ早いんじゃないか? ──パパりんは遅刻せんでくださいよ。わし、たぶんダメ。 ──はい? ネコ科の俊足を躍らせて豊が母屋から消えようとした後──。 台所のテーブルに坐っていた妹の編がひんしゅくの声を上げた。 ──ゆたさんっ! 食事中に走らないでって言ってるでしょーっ!! ──おまえこそ、ヨーグルト以外のものちゃんと食べよるんか? なんの心構えもなしに妹の方をふり向いた──そのとき、豊の血液が思いきり逆流してしまう。 ──ゆたさんのお客さまだって思ったから、お茶出しちゃったよ? いいよね? ──貴様ら、遊行する神だからって・・・・うちに遊びにくんなーっ! 妹の向かいの椅子の上に(豊の定位置に)、銀髪の飛櫛尊が座っていて、妖狐とともにちゃー飲んでいた。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。 おそらくは何百年も生きているミッチーの、人間に対する深い愛情に一票を。
2006年01月14日
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また一夜明け、清々しい朝の空気の中。 豊は歯磨きのためのコップを手にしたまま、庭の隅にいた。 そこはいつも薄暗い、日陰になっている場所だ。 ──・・・・あ。 覗き込んで、確かめる。 ──水やってあるや。 雑草に混じって、一輪だけ花が咲いていた。 黄色い花だ。なんという名前なのか知らない。葉っぱなどはところどころ枯れて、蟲に喰われていた。だが不思議と綺麗な花をつけているので、夏の前から毎朝水やりをするのが、豊の日課になっていたのだ。 豊が目覚めた昨夜から、どしゃぶりの雨は不思議に途絶えていた。しかし、なぜだかこの花の上だけに水が滴になって、ころころと玉を結んでいる。 ──しずさんって、ほんと変な人。よくこんなの見つけたよな、おかしな人。 あんまりおかしいから、このことはみんなにはナイショにしといてあげるよ。 ふと背後に気配がして、豊はふり返らずに語りかけた。 ──ねえしずさん・・・・。 ──・・・・ああ。 ──三時間だよ。 ──・・・・? ──しずさんて、そんなに長いの? 静の片眉がぴくりと跳ねた。だが、すぐに余裕の面持ちで涼しく笑う。 ──終わった頃合いに、自然に切れるよう注連縄に呪(しゅ)がかけてあったろう? ──やっぱり。基準は自分だもんな・・・・さすがは粘着気質。 冷ややかな口調の応酬の中には、しかし妙に親密な、じゃれ合うような気配が混ざりこんでいる。 お互いが力尽きるまでケンカした・・・・それはもう遠い子供の日のこと。懐かしささえ漂う思い出。 豊はふり返ってくると、黒いTシャツに古着のデニムという、めずらしくラフな恰好をして縁側に長い脚を組んでいる静を眺め、くすっと笑った。 ──【うろ様】ってね、しずさんに似てたよ。 ──なんだと!? 不本意だぞ。かなり・・・・。 滝洞に入ってからの状況は、昨日一晩で兄たちに話している。 ある意味、豊も‘お喋り’だ。自分のなかで問題になったことを、ずっとお腹にかかえておくのは苦手で、きちんと整理のついた部分ごとに表に出さずにはいられないのだ。 囲炉裏端で、それぞれの湯呑みからお茶をすすりながら、兄弟たちが遅くまで語らっていたこと・・・・。 ──飛遊櫛尊のことだけど・・・・ふつう人は、何人もの相手を同時に愛せるものなのかな。 ──そら、人によるだろう。 ──はるさんなら? ──わしか?わしなら、こちらを勃てればあちらが勃たず(←字が違う!)・・・・ってことはあるだ。 ──マジメに答えろっ! ──わしはこれまでの生涯で、マジメだったことは一度としてない! ──・・・・。 ──うろ様にも言ってあげたいぜよ。‘愛が終わった’と‘愛が終わりかけてる’は別だからねって。 相変わらず──豊にとっては、たいして実りのある話し合いでなかったことは確かなのだが。 ──そして今日。 朝から庭先で舌戦が始まるかと夜叉のような眼を据えてきた静は、だが弟の言葉に肩すかしをくらうことになる。 ──注連縄か・・・・。 なにを思っているのか──御魂鎮の儀の一夜を思っているのか、ひとりごちている豊。 そして、次の瞬間には、まったく別なことを言ってくる。 ──注連縄っていえばさ・・・・聖書に、方舟の話ってあるでしょう? ──・・・ああ・・・? ──なんか相生って、それみたいだと思わない? ──・・・・? 静の眉間が曇っている。 (しずさん、そんな不思議そうな顔をしないでよ。難しく考えることじゃないんだ。単純で、明快なことを言いたいだけ)。 ──だってこの里、ノアの方舟の感じにすごく近いような気がする。そんなふうにちょっと思っただけだよ。 ──方舟か。 ──うん。外と切り離された、一部の者だけの絶対空間。注連縄を張り巡らされた聖域って呼ぶ人もいるけど・・・・箱舟のほうが似合う。 豊の言葉に、もともとつくりが硬質な理系美人の顔が、石像みたいにしずかにおさまっていく。 そして透き通るような目で、豊を見る。そして庭の花を見る。 ──そうだな・・・不安定で頼りない・・・だが愛する者たちだけを乗せた・・・・嵐を漂う舟そのものかもしれない。 ──でもさ、箱舟には鳩が来たっちゃが? その言葉に、立ち上がって庭先におりようとしていた静の足が、ふと止められる。 ──・・・・・あ、 ──あのさ、もしこれが本当の箱舟なら、洪水が過ぎた後に世界は滅びちゃうよな。 ──どうして? ──生き残ったのがわしたちだけだったら、子孫繁栄なんて出来っこないからさ。 ──あぁ・・・・そうかもしれない・・・・。 石段をおりてきた静は、弟のそばで僅かに笑ってみせた。その笑顔は少し切なげに見える。 ──だから、わしは鳩になりたい。 ──なんだって・・・・。 ──しずさん、わしがいま思っていることをしずさんには話しておきたいっちゃ。 豊はいつに変わらぬ淡々とした表情のまま、兄を見上げるような姿勢でそんなふうに切り出した。 静はなんらかの予感めいたものを感じて、目を見開く。 だが、いま耳にした言葉に恐怖をおぼえていたものの、同時に語り部の足もとで耳をかたむける者のように、その先を知りたかった。 彼は自分の心の動きに、なすすべなくため息をつく。そして目の隅で弟をみつめ、弟も見つめ返した。 それが合図だったかのように、豊は続けた。 ──守宿だからといって、土地に縛られんでもええのだが。住み着いているあいだはよくて、いなくなるとその家が没落するわけもなし・・・・守宿は東北の座敷わらしじゃないんだ。わしはいずれこの里を出ようと思うとる・・・・。 ──させない手立ては山のようにあるぞ。 豊の視線を受け止めた静は、むしろ楽しそうに言う。 ──それで・・・・おまえはどこに行くつもりだ? ──わからない。ここではない、どこか遠くへ。 静寂が落ちた。今度は長いあいだ、兄は動かなかった。 沈黙がふたりの間で耐えがたいまでに重くなったとき、また豊がぽつんと言った。 ──鳩はオリーブを銜えて戻るんだ。 ──ああ? ──いつか必ず戻るから。実りを携えて。わしは里のまわりに広がっている世界のこと、この目で確かめたい。もしかしたら、そこにわしの道が、わしの会うべき人々がいるのかもしれん。定められた生き方でなくて、自分の信じる道を歩きたい。 ──・・・・。 静は黙ったままでいる。 わずかに傾けた顔は、気のせいだろうか──豊を見つめるうちに微妙な感情で翳った。 ──注連縄・・・・結果、聖域か・・・・・。 静は一息つくと、ぽつりともらすようにつぶやいた。 (なぜぼくに?・・・・ほんとうはおまえを生け簀に入れて、注連縄張っておきたいのはぼくの方なのに)。 静は知っている。人を人とも思わない豊を前にすると、誰もがまず驚く。心を奪われてしまう。 地球でしか生きられない人間のために設けられた、異次元との接点のよう。豊は気ままに魔力を行使して、異世界のまぼろしを垣間見せてくれる。 透明な、柔らかな、冷たい膚をすれあわせ、異界を行き交う精霊たち。 ひややかであることだけが意味を持つ、静かな熱狂の、手強い世界。 やはり放してやらねばならないのだろうか。 弟につけたひそかなあだ名は水妖。飼い慣らした鯉でも、水を得ればあとも見ずに潜り去っていくように、残されたほうの気分など考えもしない。 静は神経をとぎすまし、これまで接してきたつもりだ。 このわがままな精霊に近づきを許されるには、自分の中ではせめて最大限にセンシティブである必要があった──それかほかの兄弟のように最大限におおらかであるか。なにしろ精霊という存在は、たいがいの人間には用がないと思っているのだから。 すべてに執着のないようにふるまう豊・・・・ひるがえって、それはぜんぶの存在を、うっすらと愛していることに──静は気づいているのだろうか。胎児だって魚。みんな、みんな海から生まれたことを忘れているだけ。 満ち潮、誰もが血のなかに隠し持っている月の光。 放流し、回遊させ──。 ──まんざら、冗談でもなさそうだ。 静が豊に恨みがましい眼を向ける。灰色と紫の眼で、自分こそ猫の妖怪のようだ。 兄弟でありながら、初めて見るような知性にきらめく緑の瞳から眼をそらし、静は唇を噛みしめた。 弟が拝殿で目覚めた時から意識はしていた──考えないでおこうと振り捨ててきたものが脳裏をかけめぐり、この時間を追い抜こうとする。 だが、静が結論を逡巡した瞬間──今まで凪いでいた風が突然うねりを上げた。 豊の手から、洗面のために携えていた晒の布が攫われる。 風をはらみ、陽光を受けて白い晒が空を舞う。青い空を背負って、鮮やかなコントラストを描く。 それは一瞬、 ──鳩に、似ていたな。 静がつぶやいた。 布製の鳩は、自ら山の方へ飛び去っていった。すとん、と鳥居の向こうに姿を消す。 取りに行こうか、とつぶやく豊に、 ──おまえのものを、山の神が欲しがったんだろう。あきらめろ。 と静が真顔で答え、 ──さあ、もう中に入れ。まだ身体が本調子ではないんだ。 室内をあごでしゃくり、そこに視線を定めたまま、おだやかに言い切った。 ──おまえはよく話した、ゆたか。おまえはいつでも、好きなときにこの里から離れていける・・・・だが、世界中の者たちが、おまえという存在を探し求めていることを忘れるな。 言い募るように言葉をつむぐ静は、かすかに声をはずませていた。 ──そして、あらゆる時間、あらゆる場所で彼らが見つけるのは、いっさいを調和させる力を持つ、平和の君だ。おまえの名は、この地上に仇なす者との和解を求める人々がいるかぎり、その心のなかに生き続けるだろう。ぼくたちがそう語り継いでいこう。 豊の胸に、兄の言葉が染みこんでいった。その意味は、今はほとんど理解できないものであっても。 彼は兄を見上げ、肩越しにそっとつぶやく。 ──しずさんは、いつも味方だったね・・・・。 静は弟を見ていなかった。そして、視線を合わせないまま、言った。 ──成人の後には、どこにでも行くがいい。別にこの国でなくても。 (あれ・・・・しずさんて、意外と涙もろい?) 豊の背中に静の手のひらが触れる。そっと押し出してくれる。広い世界に。 温かい仕草だった。 ──行け。ここではない、どこかへ。 ─── この相生の里に、ひとりの男の初子(ういご)が生まれた。 こわれもののようななりをした、だが、ひどく靭(つよ)い者が生まれた。 破壊と調和が、その肩の上にある。 因習で作り上げられた一族に、おまえのような者が現れてくれた。 かつて──神に人を捧げるなど、里のしてきたことは間違いだった。 しかし、最後の最後になって、正しいことの出来る者が生まれた。 これからの未来は、過去とは違ったものになるだろう。 彼の言葉は少なく、だがそこに在るだけで誰もが雄弁にその者を語る。 おまえの調和の不思議な力・・・・その力が未来を大きく変えるだろう。 今までにない指導者となって。 彼は統治するよりも、むしろ能力と尊敬によってかの地に住まう者を導くだろう。 相生の里を抱く国に住まう者たちよ。 おまえの土地は決して小さなものではない。 見よ。混乱の世紀に、智慧を武器に戦う者が生まれた。 かの者の右の手には、調和の灯明が掲げられる。 それは暗黒の中に立つ、たったひとつの小さな灯(ともしび)。 その灯火はひとりひとりに分かたれて、やがて全世界を照らすだろう。 誇るべくんば、汝、かの者をして誇らめ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。しずさんの泪に一票を。
2006年01月13日
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外界の様子を伺おうにも、不二屋敷の窓は滝のごとく流れ落ちる雨によって、ガラスの意味を失ってしまっている。 流れ落ちる幾筋もの水が、向こう側にある景色を歪ませていて、何も見えないのと同じだ。誰かが悪戯して揺らしているのではないかと疑いたくなるくらい、屋敷中の雨戸やガラス戸が大合唱している。 悪戯者の正体は──嵐か? ああ、おれの部屋のある東の対だけは倒壊しませんように。 ──な、ナイアガラ・・・・・! 意味不明の寝言を叫んで、豊は布団から飛び起きた。 はじめに見えたのは、ドリフのコントのように円がひっくり返っていく光景──。 ──って、なにしてんだ、おれ・・・・・・。 ──おーいっ、ゆたぁ! おーいっ! 両頬に軽い痛みを感じて本格的に目が覚めた。 ──ああ・・・・・? 見慣れた格天井が見える。 ああ、拝殿だなと思った。 灯明の光がやけに眩しい。 ──大丈夫か? もうどっこも痛くないか? (ええ? あれ? わしはいったい・・・・・・?) ──ぼーっとしとるな? やっぱキツかっただなぁ。 ──アゲインスト・アニマルテスト(動物実験反対)。 答えているつもりで、自分の発言のイミがわからない。 ──はっ! ガバッ! 布団がまくれあがると同時に、弟の両頬を手のひらで包み込んでいた円がぱっと退いた。そして、真新しい血のにじんだ包帯が巻かれた自分の左肘を、さりげなさを装って、サッとたもとにかくす。 そんな兄の気遣いを知るよしもなく、 ──くっそぉぉぉ! なんだよあの‘儀式’は! 豊は上半身だけ起こして叫ぶ。 ──・・・・・・って、情緒もへったくれもない奴っちゃなー、おまえも! 叫ぶ元気があるとわかると、早速にこにこし始める円。 ──まど?! そこにいたんかい! ──はっはー。おまえを黄泉還りさせるのに百年は寿命が縮んだわ!心配させおって、このー! 身を乗り出し、全身で抱きついてくる円を、豊は抱きとめて背中に手をそえてやる。 ──おかえり、ゆんゆん☆ ──ただいま、円ちゃん。 円はしばらく余韻にひたるように弟の首筋をくんくんしていたが、豊が予想していたとおり、次の瞬間にはガバアッと笑顔で言い募ってきた。 ──ゆんゆん! おまえは気を失ってたから知らないんだがっ! 血の海のなかでぐったりしてるおまえのことを、しずさんがこんなしてぎゅーって抱きしめて、もう怖い目にはあわせないっ、ぼくが守ってあげるからっ! て!! ──血の海? ・・・・・・なら瑕は!? 豊はいつものクセで、円の言葉のほとんどを以下省略して聞き、マトモな部分だけ拾い上げると、焦って着物のたもとをたくしあげる。そんな様子を見て、円はにこにこと笑って言った。 ──聖痕のことか? あるに決まっとろうが。あるどころか、ゆた、おまえの‘もっていかれた’ものは、生気だ。‘血’を、ぜんぶ持っていかれたっちゃよ! ──その手があったか(怒)。 円に言われて、豊は思わず右手で左肘の包帯を押さえた。その顔には大きく‘げ’と書いてある。 肘の傷ならば儀式の前に自分でつけたものだと言い逃れようと思っていたが、‘もっていかれた’のが血であることが明るみにされたとなると、もはや言い訳が立たない。 ──それからな、おまえの喉奥には、竜骨もあるだよ。 円の言葉は、めずらしく聞き捨てならぬものだった。 豊は思わず着物の襟を割って、自分の喉元に手をやってしまう。 ──おまえ、なんでそれを・・・・・・。 ──しずさんがな、 また静かよ! ──おまえに‘人工呼吸’っちゃなんがしよったときに、見つけててん。 じんこうこきゅう??? あいつ・・・・・・治癒呪法よりもシュミを優先させたな。 ──これでおまえもめでたく守宿多君だっちゃな。いやー、ゆた。おまえがあんな‘せくしい’だったなんて、わし知らなかったぞ。お正月に父上が買うてきた‘中村さんちのマックロード’に録っておけばえかった! んで、十年後くらいのおまえの結婚式にみんなで見るの! ──殺すぞ円! ──やれやれ、物騒な守宿多(すくのおおい)さんやなー。 円はおちゃめに首をすくめてみせた。 ──ゆんゆん、おまえはまだ目覚めてないだけさ! この世には性別も種族も超えた崇高な愛があるってことに。本当の愛の前には、性別も人種も年齢も、国籍も階級も土下座するのさ。 いや。相手が山神だっていうなら、三度生まれ変わってもないわ。 円よ。おまえには特別に大いなる秘密を教えてやろう・・・・・・守宿が身請けしてきた山神は、実のところふたつでひとつ。しかも、その片方は‘男性神’なのだ。 ──問題ないだろ。 ──大問題だッ!! 枕を抱きしめ、この手の話を熱く語ろうとノッてくるこの円を誰か止めてくれ。 恋愛云々を円に語らせると長くなりそうだから、豊は仕方なく、話題を変えてみる。 ──あれ、そういえばすせりな(綾一郎の愛称)来とらんかった? そうだよ。あの別イミ破壊神は? 豊の弱りきった視線からは、昨夜の綾一郎はもう人間の形をした超新星以外のなにものでもなくて、赤銅色の光の棘を四方の壁に突き刺していた。拝殿の建材の寿命が五年は縮んだと思う。 ──ああ、すせりななら、おまえの失神姿見届けて家帰った。 あっけらかん、と円が言った。 ──すせりなも見てた!? うあー最悪。末代まで笑われそうだ・・・・・。 ──わしも見てたぞ☆ ──おまえはどーでもええっちゃ。 ──ちなみに父上も、おまえが出立してからは、本殿に結界を引いてお籠もりになったままだっちゃ。事後のゆたに会うのが恥ずかしいのかなぁ! いやーん! 嫌なら口にするなや。 あふー・・・・・。あくびが出て、だがちゃんと目が覚めてきた。 ──でもまあ一晩寝たら疲れも取れたみたいだし。ああ、すっきりした。 とにかく起きよう。風呂に入ろう。歯も磨こう。 そんなことを決定しているうちに、ふと、円の視線を感じる。 ──ゆた・・・・・おまえってほんにで向きだけは前向き人間だっちゃな。 ──おまえが言うなや。 一蹴したあと──豊は息を呑んで動けなくなる。 軽いことばかり言ってまわる円の悪戯な瞳が、この時ばかりはシリアスな鋭さを宿していた。なにか言いたげ・・・・・・というふうに。 ──ゆんゆん。おまえが里におりてから、すでに半月は過ぎとるっちゃよ? ──・・・・・・・・っ! だが、早く言えそれをっ! と円に掴みかかろうとしていた豊の、次の言葉は続かなかった。 円の顔が目の前にあって、数万分の一の確率でした見ることのできないシビアな雰囲気を漂わせていたのだ。 ──あとでしずさんに‘ありがとチュッ☆’やっといたほうがええで。おまえを滝洞からおろしてからこの方、もし、このまま目を覚まさんようなことがあっても、自分が一生面倒見るって言うてな。ずーっと誰にも触らせんで、しずさんがゆんゆんのこと育てとったっちゃ・・・・・口移しで蟲とかあげて。 ──・・・・・・・・鳥??? 自分が滝洞から降ろされて後の一連の出来事が、なんとなく見えてきた・・・・・・。 今後は不二屋敷の不文律に、 一、滝洞に赴く者は、多額の生命保険に入っておくこと。 なる一文を足すようにと、父の小角さまに進言しようと思う──! 豊がそれを心の底から決心したとき、 ──みなさーん! お夜食だよぉー! みなさーん! ゆたさんはー! 起きたー? 彼の耳朶を打ったもの。 それはいつに変わらぬ、末妹の脳天気な呼び声だった。--------------------------------------------------------------------- 元気じゃねーか・・・・・。 ゆんゆん。円ちゃんじゃないけど、皆さまにも謝っといた方がええでー。 どれだけ心配してもらったか、わかってんのかい。 ──さて。 ‘ただいま帰りましたー’ ‘まいりましたー’ 鳥取時代、このふたつのかけ声(?)が、不二屋敷からはしょっちゅう聞こえておりました。 このことについて訊ねたことはないのですが、おそらくは一族の全員が各々の屋敷に帰るとき、または訪ねていくときに発声するらしく、それはそれは大きな声で名乗りあげるのです。 私の仮住まいは、このお屋敷からほど近いところにありました。 なので、一族の誰がいつ帰ってきて、誰がどこに出て行ったのか、ぜんぶ把握できるほどでした。 私の両親などは、その丁寧な挨拶を子供たちまでが遵守していることに、しきりに感心していたものです。 明日は●後朝●です。‘きぬぎぬ’と読みます。 イミは・・・・・辞書を引いてくださいませ(笑)。 ただし、内容は言葉の意味とは関係ないものとなっております。 単純に事後の朝、という意味合いです。 実は、明日の更新で最終話にする予定でした。 最後はやはりしずさんにいろんな意味で「シメ」ていただこうと──(笑)。諸事情があって、その後にエピソード話をふたつつけますが、明日で事実上の「〆」となります。 皆さま、この番外編を大いにご支持くださり、本当にありがとうございました。 タイムスリップして、不二屋敷の中庭に集まりなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。円ちゃんの腕の傷に一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月12日
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──ゆた、起きろ・・・・・何があったんじゃ! 豊の着物の前あわせがほどけてしまうまでの数分の一秒のあいだに、兄の手が間にあった。 綾一郎の両手まではつかめなかったが、身体ごとぶつかったときの衝撃は、弟の身体を暴く動きをそらせるに充分だった。綾一郎は横倒しになり、反射的に彼から繰り出された拳は円の左胸の上をかすめて首筋にかすかな掻き傷を残したあと、着物の袷(あわせ)を引き裂いてとまった。 綾一郎は狂ったように暴れ、円は必死に争ってその手から弟の身体をもぎとった。 とたんに上背のある綾一郎の身体からいっきに、すべての力が抜けていった。 彼は親友の兄であり、彼自身の友だちでもある円の温かい腕のなかにくずおれ、きつく締まった栓が外れたかのように、わっと身を震わせて泣き出した。 それからは、綾一郎の人生でもっとも長く、苦痛に満ちた時間となった。 はじめの何刻かは、頭の中にありとあらゆる悲観的な思いが渦巻いていた。心には自己憐憫の情が容赦なく、くりかえしくりかえし波のように襲ってきた。 円はぶるぶると震え涙を流すその身体を、なかば引きずるようにして拝殿の隅に運んでいった。そして赤ん坊をあやすように綾一郎の身体を揺らしているあいだ、片手と歯を使って苦労して自分で腕の血を止め、傷口に晒を巻いた。 綾一郎はいつ果てるともなく泣きつづけ、円はその身体を抱きつづけた。 そしてようやく、激しかった呼吸がすこしおさまりはじめ、身も世もあらぬ号泣が一定したすすり泣きに変わっていった。そのあいだ、涙のあふれるまぶたを開かずに、綾一郎は何度となく同じ言葉を、誰かにではなく自分自身にそっと語りかけるように、単調な声で繰り返しつづけた。 ──わしはなにもしてやれん。なにも。 さらに日暮れになると本家から菜摘子が拝殿をのぞいて、綾一郎に夕餉が整ったことを告げた。 交代のためか、それに続いて次兄の静の姿も現れる。 円に支えられて母屋にとぼとぼとたどりついた彼は、囲炉裏端に一族の皆が連座しているのを見て、また憤りが募るような思いを禁じ得なかった。 だが、母である菜摘子から差し出された雑煮の中身を無言で飲むほどに、それが身体と精神に必要となっていくようだった。そして最後のひと息で残りを飲みほすと、黙ったまま壁に寄りかかっていった。大きく見開いた目は、幼い頃より顔見知りであり、仲のよい兄弟たちの顔を通り越して、天井の大きな梁を見上げていた。 不二屋敷の家人たちのたてるざわめきのなかに、あの面影をふっと思い出す。暗闇の中に、たったひとつだけ煌めいている星のように浮かぶ豊の残像。何光年も向こうの彼方で凍えているような気がして。 ──わしはなにもしてやれん。 綾一郎はもう一度言った。 だが、その声には穏やかさが戻っており、彼に心を寄せるように傍らに坐っていた円には、その嘆きがいちばん危険な段階を過ぎたことが知れた。 やさしく力づける言葉を、そっと口々にささやきかけながら、呪師の姉妹たちは五兄の友だちのもつれた髪を指で梳き、掛け布を持ってきて、その灼けた肩の上まで引き寄せてやった。 ─── 疲れきった綾一郎が突然の豪雨によって不二屋敷に足止めされたまま、深い、夢のない眠りに落ちていくのと同じころ、外界は怖ろしい荒れ模様となった。 まるで四つの夏の嵐がいちどきに集まってきたような轟音。さらに稲穂の実りを約束する稲妻が、いたるところで砲火のように閃いた。 雨粒が拝殿の四囲の壁を打って、千の拳が打ち鳴らされるような音をたて、その振動が昼間綾一郎が投げつけた小刀を、神棚から揺さぶり落とした。 コトリ──と乾いた音が響き、それが豊の目を覚まさせた。 しばらくのあいだ彼は自分がどこにいるのかわからなかった。 なにか明かりがあると気づいて、のろのろと横に目をやり、祭壇の中央でまだぱちぱちとはぜている小さな火を見つめた。そのあいだに、肘の傷をなぞろうとした片手が、なにか奇妙なものをこすり、そっと手でさぐってみて、自分の肌がいたるところで縫い合わされているのを知った。 そのとき一切が、頭の中に甦ってきた。 豊はものうげに拝殿のなかを見まわし、ここは何処だろうといぶかった。 拝殿であることは確かだが、そばにいて、うたた寝をしているようでいる人物は、この時分、不二屋敷にはいるはずのない者だった。 口の中が綿のように乾ききっていたので、片方の手を掛布の下からすべらせ、指で枕元を探った。すぐに水を半分満たした小さな椀に手がぶつかった。彼は片肘をついてそれを持ち上げ、何度か時間をかけて水を飲み、また身体を横たえた。 ──・・・・・・誰だったか・・・・・・ひ・・・・・ひゅー・・・・・・? 知りたいことはいくらもあったが、いまはなにかを考えることはむずかしかった。拝殿のなかは木陰のように涼しかった。火の影が頭の上で楽しげに踊り、雨は耳元で子守唄をうたって眠りに誘い、そして豊はひどく弱っていた。 ──なんしてここにすせりながおるだ・・・・。 まぶたがふたたび下がりはじめ、最後の火明かりを締め出したとき、そう思った。 眠りに落ちるまぎわに、彼はひとりごちた。 別にそれもいいが──と。 ─── 死で織った黒衣に口惜しげな顔を包んで、夜の闇に消えていった死神の起こした気配は、新しき至高の守宿を守る者たちにとってはただの風だった。 明け方、ふと頬を吹き過ぎる風に目を覚ました綾一郎が、最初に見たものは、誰かの一対の目だった。すぐさま一切の記憶が戻ってきて、綾一郎は呪方の大人の注目を浴びていることを知り、当惑と恥ずかしさに襲われた。はなはだ威厳に欠けた相生の民らしからぬ振舞いを、彼はしでかしたのだ。 できることなら、顔を隠してしまいたかった。 不二の長兄が、気分はどうか、なにか食べたくはないかと訊き、綾一郎はこくりとうなずいて、気分はいい、なにか食べたいが朝餉の時分まで大丈夫と言った。 身体を起こしながら彼は、中庭で家人たちがあれこれの仕事に精出しているのを眺め、それがこれまでの深い眠りの効果とあいまって、綾一郎に生気を甦らせた。 ここでは、起こってきた事に誰も嘆かず、日々の暮らしはずっと続いている──そう思うことで、また若者らしい心地を取り戻すことができた。 綾一郎は絶望に向かってはいなかった。彼の気骨な精神は回復に向かっていたのであり、彼の味わった苦難は、それがひとたび癒されると、これまでにも増して彼を強くすることになった。 悪いことから良いことが生まれる。いや、良いことはすでにはじまっていた。彼は良い場所にいた。そしてこの場所が今後の長いあいだ、彼の拠り所となるだろう。 綾一郎がうたた寝をしていた場所、それは拝殿の豊の傍らだった。 遼が立っていったのを見計らい、つと手を伸ばして額を撫でてやると、指先に不思議そのものを触れたよう──止まらない。 月石の勾玉が引っ掛けられた豊の耳朶へ、黒曜石をとかしたような黒髪へと這った。なんだか蝶が触覚で未知の世界をまさぐるように。 薄荷に似た、豊の香り。ふと、やわらかい朝の光の中で、豊の見てきた全部の時間に包み込まれたような気がした。 滝壷、祠、川のヌシが棲む淵、五百年もそこに建っていたような、霧に包まれた聖域の鳥居。そこは森のクニ・・・・・小さな首都の若君に、ぞろぞろとかしずいている、素朴でバケモノな男ども。 ──やっぱ、わしってなんも知らないっちゃな・・・・・。 自分の見てきた世界以外は。たぶん、ちっぽけな‘地球’以外。 だが、豊の性質は知り尽くしている──彼は自分のことをあれこれ表現したがる者ではない。 けれども、生まれてからほとんどの時を彼と共有してきた、綾一郎だけに気がついていること──目立とうとしていないわりに、その辺の少年のなかでも、彼は浮く。 慣れてきて、見れば見るほど、いつのまにこんなに‘違った’ものが、身の回りにまぎれ込んでいたのかと、ぎょっとしてしまうような・・・・・・持っているのはそんな気配だ。 (こいつって、ひとりで‘他所者’だったんだ) 綾一郎自身の血統が不二一族の豊とぜんぜん関係がないとか、そういうわけではなくても・・・・・・実際に綾一郎の父は、豊の母の従兄弟でもある。狭い村だとみんな血がつながっているようなものなのだ。 だが、精悍な気風を特長とする田中一族とは好対照──もともと鼻筋の通った、女雛(めびな)が命を吹き込まれたかと見間違うほどの面立ちが本物に見える、不二一族を代表する端正な外見のせいもあるが・・・・・平安京の暗い路地裏や、朱雀大路の祭りの夜のにぎわいや──よその世界で重ねてきた、濃茶の爽味にも似た、‘違う時間’が均整の取れた細身の身体いっぱいにみなぎっている。 隠れ里の少年は、経験がないのではない──経験が別モノなのだ。寝かされているだけの今だって。この国、学校、そこらへんの街角。そういうスカスカの日常ではない、どこかここではない時間と場所の──風の匂いをまとって見えた。 そうして、綾一郎はようやく気づくのだ。 いまだ静かに眠る不思議の少年が、友だちに掛け布をかけなおそうとするかのごとく──その右の手がつと横に伸ばされて、綾一郎の敷物の布目をしっかりと掴んでいることを。 胸の真ん中を突かれたように、いつもは勝ち気な色しか浮かべない赤銅色の瞳が、痛みを宿して豊を見つめた。 ──いってしまったんじゃなかった・・・・・・よかった。 おれたちと暮らしてるってこと自体、これ以上はないような、おまえの返事(こたえ)だろうに。 この、不思議の生命は──不二屋敷と外界とを遮る鳥居をこえ、身体をはみだし、里いっぱいに浮遊し、分校のなかにもしのびこんで、綾一郎たちといっしょに、いつもいたのだ。 綾一郎が孤独に苦悶する夜にも・・・・・・ほら、こうして豊はそばにいる。 そう、それは海のよう・・・・・・底はない。豊には、あらゆる意味で底がないのだ。 なぜ? ──と問われても答えられない。理屈で説明することはできない。 豊といるかぎり、ありのまま受け入れなければならないことは、あまりに多い。豊といることは、豊にまつわるすべてとともにいること。まぼろしも、血肉のうち。 ぐったりと力なく伸ばされた豊の手を、綾一郎は自分の方によせてみた。華奢な腕をとってやりながら夜明けを待った。眠る間だけ飽かず眺めるくらいなら、あの照れ屋といえども、ゆるしてくれると思うのだ。 月ひとつ、影ふたつ。 こんな美しい晩には。 誰か語ってくれないか──豊をめぐる物語。 夜、森に遊び、屋敷の窓際で夢を見るごと文字を綴り、あの朽ち果てた滝洞の祠、平気でひとりで行ってしまった・・・・・・綾一郎の知らない少年のこと。--------------------------------------------------------------------- たとえどんなに愛のある家族であっても、自分の内面(なか)を目覚めさせるものは身内ではなく・・・・・外から吹き寄せる風であることは、私自身の持論でもあるのです。 明日は●生還●です。 あー。明日はまたうるさくなるんだろうな(笑)。 おはよう、ゆたさん。 起きて起きて。 タイムスリップして、おかえりなさいって・・・言ってあげてください。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。綾一郎の情に一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月11日
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メロス綾一郎は激怒した。 彼は一年生でありながら水泳部の副主将として夏合宿に出ていたので、その知らせは帰宅の後に両親によって伝え聞かねばならなかった。 ──さわのゆたさんが、守宿に選ばれた折に怪我を負って、それから寝たきりになってるって・・・・。 はじめ彼は、無感動にその報せを受けいれているようだった。 家の縁側に彫像のようにじっと座り、手を膝の上で組み合わせ、頭をかすかにうつむけて。 そして午後になってからもその恰好で座ったまま、ほかの家族たちが家事に立ち働いているあいだ、悲しみがゆっくりと自分の心臓を食いすすんでゆくのにまかせた。 田中一族の家人たちは、彼を見つめていた。 この長男とさわ(不二一族の本家の屋号)の五男が幼馴染みの仲良しであることを知っていたこともあるが、なんといっても相手は呪師であり、こういった危機のときに彼らがどういった動き方をするものなのか、誰も知らなかった。だから、呪方以外の村の人々は、気遣いと畏れのいりまじった思いで不二一族の敷地を見つめるばかりだったのだ。 綾一郎は衝撃に打ちひしがれたあまり、午後じゅうずっと声もたてなかった。 一粒の涙も流さなかった。ただ、座っていた。そのあいだも、心は危険な速さで駆けめぐっていた。 守宿に選ばれた者が傷を受けるという話は知っていた。 綾一郎自身、説方(くどきかた)の一族の嗣子として、守宿の君は崇敬するべき対象である。そして、小角さまも、先代の尾(あしたれ)さまも、守宿の戴冠にあたって、明らかにそれとわかる傷が神から与えられた。 では、豊が神託によって守宿に選ばれたとするならば──これについても山ほど疑問はあるにせよ、今は問わないことにする──傷はどこに受けたのだろう。 しかもそれは寝たきり・・・・になるほどのフェータルな傷だというのか。 彼は自分の失くしたものを思い、豊のことを、それから自分自身のことを思った。 これまでの短い人生の、豊と共に生きてきた頃の出来事が、断片的だが鮮明な細部をともなって現れた。なかでもくりかえしくりかえし甦ってくる、ひとつのことがあった──彼が声をあげて泣いた、ただ一度きりのことが。 それはまだ、ふたりが小学生のころ。転校生が去って、まもないある日のことだった。 それまで喪失感に耐え、知っているかぎりの気を紛らわせることをして、大将としての気概が崩れ落ちようとするのをこらえていた綾一郎の目に、ふいに涙がこみあげてきた。 下校の途中、彼は豊とつれづれに語らっていたのだが、ふいに膝頭に顔をうずめてしまったのだ。 彼女の不在が淋しかったわけではない。ただ、日常に流れていた存在感を、いきなり何者かに暴力的に奪われた感覚・・・・・それに対してなんの対処もできなかった己の非力、そういったものが、綾一郎の大将としての矜持を苦しめた。同じ悲しみを豊も分かち合ってくれていることを知ってはいた。だが、この日、涙はとめどもなくあふれ、やがてすすり泣きに変わっていった。 それがおさまり、顔を上げたとき、豊が黙って自分のそばに座っているのに気づいた。彼はぼんやりと草をつつきながら、焦点の定まらない目で小川の流れを見ていた。 ふたりの目が合ったとき、綾一郎は言った。 ──あの娘(こ)は、行ってしまった。 はじめ豊は、なにも答えなかった。 だがその瞳は、綾一郎の魂をまっすぐのぞきこみ、豊のやすらかな表情に、彼のささくれだった心はあらがいようもなく和まされた。それから口元にごくうっすらと笑みがよぎり、豊はあの言葉をつぶやいた。 ──わしはな、里の者がおれば充分だっちゃ。 そのあとのことも、ありありと思い出せた。 豊が傍らから立ち上がり、自分の小さなしぐさに「あの子のいるあいだ、おまえはよくやった」と語らせたこと。その手がつと伸ばされて、そっと綾一郎の手を包み込み、優しく立ち上がらせてくれたことを。 それからごく自然にふたりがかわした会話を、少年らしい機知にとんだ応酬や、思いやりのこもった励ましとは無縁の、無意識のごとく続けられた語らいを憶えていた。 帰りの道は、なにか目の見えない、天国の霧のような流れに浮かんで、どこまでも宙を漂っていくようだった。それはふたりのいちばん長い語らいだった。沈黙が落ちようとするとまた、どちらからともなく話しかける。 ──それで、それでさ・・・・、 ふたりの魂はひとつの塊りと化した。 太陽が山の端に沈んでも、ふたりは離れずにいた。 一緒にこの里に生まれ落ちてはじめて、その夕刻、彼らは別々の家に帰るのをためらった。 ようやく風の寒さがふたりの感覚のもとを同時に訪れてきたとき、綾一郎は大将であることの重荷が突然ふっと軽くなり、自分の悩みがとるにたりないものとなるのを感じた。 そして、もう里を去っていった少女のことは考えなくてもよいのだということを悟ったのを憶えていた。そのときはじめて、自分自身がこの地上でたったひとりの人間だと、都会と里に引き裂かれていない純粋な一個の存在だと感じられたのだった。 ふとまばたきをした瞬間、綾一郎はまた、田中家の縁側の現実に引き戻された。 自分はもう大将ではない。私欲のために動いてもいいのだ。幼馴染みであり、今や高校の同級生でもあるかの者が、親友である自分に断りもなく、しかも自分の意思でもなくおかしな儀礼に出立させられたばかりか、意識をなくして戻ってからすでに数日経つという──このうえなにを、待つことがある? 綾一郎は立ち上がり、このまま不二屋敷を目指すことを心に決めた。 そうして拝殿に駆けつけたとき、彼はそこに寝かされている者を見た。 と同時に人の影が、布団の傍らでゆっくりと動いているのが見えた。一瞬のあと、豊の母のようである人影は灯火の下に足を踏み出し、綾一郎ははっと首をひっこめ、基壇のすぐ下にある暗がりに身をかくした。 痺れきって爪先が白くなった足でうずくまりながら、耳を皿のように大きくして、まるで全神経がひとつにしぼられたように、綾一郎は物音に神経を集中させた。 頭がぐるぐると回転していた。 寝かされているのが豊だとはわかったが、こうまで弱々しい姿を予期していなかった彼は、衝撃のあまり頭にガツンと一発くらったようにめまいがした。 綾一郎は地面にしゃがみこんだまま、額いっぱいに冷たい汗の玉を浮かべていた。自分の見たものが把握しきれず、もう一度見るのがおそろしかった。 そのとき交代を告げる豊の兄の声が聞こえ、ありったけの勇気を奮いおこし、彼はそろそろと頭をあげて、拝殿の内懐をのぞき見た。 死ぬほど見飽きた──けれども、何日か会わなかっただけで、こんなにも懐かしい。 だが、豊は敷布を掛けられて人形のように眼を閉じたまま、包帯の巻かれた四肢をだらりと伸ばし、顔も無防備に仰のけたままで・・・・。 傍らには、先刻母と交代した彼の兄のひとりが坐っているのが見えた。人影は背を向けていた。 呪師が懐刀を手にしたまま、歌をうたうようにして祈言(ねぎごと)を唱えている。 じっと凝視したままでいると、ふいに人影が動き、軽快にも感じられる仕種で、左のたもとをまくった。ついで、傷ひとつない健康そうな象牙色の内腕に、携えていた小刀の銀色の刃を逆手に握り、ためらいもなく突き立てた。 裂かれた血管からドクドクとあふれ出る血潮を見守る顔は、やはり楽しげ。 信じ難い光景を目の当たりにして、苦しげに歪んでいるのは、見つめる綾一郎の顔の方だった。 前腕からは深紅の血がほとばしり、すでに床にしたたっているというのに、彼はさらに肘を差し向けて、太い血管を探している。持ち直した懐刀を、静脈の透ける肘裏に当てた。ふたたび突こうとして、血で手がすべった。落とした凶器を拾い取って、自分の装束で拭いた。ぬめる手も着物にこすりつけてぬぐった。指先で脈を探っている。切っ先をあてがうその顔は、今度は真剣そのものだった。 一気に突き刺そうとした。 それを見た瞬間、綾一郎の金縛りがとけた。 まったくなにも考えず、だしぬけに立ち上がると、拝殿の縁に這い上がった。そしてどなった。その声は静寂のなかで、銃声のようにとどろいた。 ──おい、なにをしている! ── 円は文字通り、宙に飛び上がった。 自分を死ぬほど驚かせたその声のほうに首を向けたとき、弟の喉奥に隠される竜骨に、今まさに自分の生き血を滴らせて精気を分けようとしていたこの呪師の青年は、面妖きわまるものと相対していた。 ここは不二屋敷の拝殿──呪方(まじないかた)の聖域であるはずなのに、正装をするどころか、こともあろうに西高の水泳部のユニフォームを着た少年が、そこに仁王立ちしていた。 ずかずかと拝殿を横切って歩いてくる。両の拳をにぎりしめ、顎をぐっとひき、そして肌は目を瞠るばかりの浅黒さだ。 そうやって、綾一郎は誰に断りを入れることなく、拝殿の中央まで侵入してきた。だが、豊の前に突っ立ち、寝かされた彼の周囲になにやらおかしな文様の描かれたお札やらが取り囲んでいるのを目にした瞬間に、自分のなかから生気が抜け出していくのを感じた。 豊の身体の至るところに、暴行の痕がある。 誰にされたのかは知るよしもないが、どんな仕打ちを受けたのか、そのひとつひとつがひと目でわかるような生々しいものだった。とくに身体中に無数につけられた血の鬱血・・・・。 それを見て、綾一郎はついに確信した。 ここに寝かされているのは彼の親友ではない。 彼はこの一族をけっして知り得ない。千里も離れているのと同じことだ。 自分はこの一族に、いったいなにを期待していたのか。 彼らが駆け出してきて、彼に事の次第を詳らかに語り、彼にお伺いをたて、許しを得、彼と意見を分かち合うことか。 親友とばかり思っていた少年は、事前に儀式の出立への挨拶もなかった。否、このような理解不能な儀式の存在すら口にされなかった。 なんという孤独だ。なんと哀れなのだろう。 不二一族の者に対する勝手な期待をもてあそび、ふだんから彼の温厚さにすがりついて、自分自身に正直にすらなれなかったとは。 あらゆるところで自分をだまし、なにものでもない自分を、この稀人の少年の、親友であるかのように思い込んでいたとは。 そんな怖ろしい考えが頭のなかで炸裂し、脈絡のない火花の嵐のように飛び散った。 いま彼の立っている場所も、この太古から連なる血脈が守る拝殿の入り口にいることも、もはや問題ではなかった。綾一郎は自らの恐るべき精神の危機に押しつぶされ、翻弄されていた。彼の心、彼の信頼がいちどきに、遠くへ行ってしまったのだ。どこか奥のほうでスイッチが切られ、綾一郎の心の灯りは消えてしまった。 自分のなかにぽっかりと空洞があいてしまったことしか意識できないまま、綾一郎は爛々と憤った眼をして円が手にしていた小刀をひったくり、瀟洒な神棚へと思うさま投げつけた。 それから前のめりになり、膝をついて床の上を何歩か進んだ。 彼の手がすっと豊に伸び、一瞬のうちにその頭が腕の中にあった。それをぐいと持ち上げ、なにか愛おしいものを胸に抱きしめるように、両手で支えて揺り動かした。 ──ゆた、起きろ・・・・何があったんじゃ!-------------------------------------------------------------- 両生類の血は赤い色をしているのかな・・・・なんて思う今日この頃。 明日は●邂逅●です。 綾一郎にとっては、明日までつらい一晩になってしまうかもしれないな。 タイムスリップして、兄弟たちと一緒に彼を力づけてあげてください。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。綾一郎の情に一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月10日
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夜明け──。 待ちかねたように、不二の四天王たちが滝壷に足を踏み入れる。 ふんわりと素足が沈み込む、苔むした滝洞。だが、二、三歩もいかないうちに、 ガチャ、ゴトン・・・・・・。掃除バケツを積んだワゴンが前から迫ってくると、いきなりアオミドロ色の細長い腕が伸び、長兄の遼を岩壁に引き寄せる。 ──・・・・・・・っ!? ワゴンの横っちょから、ヘンなドレッドヘアがのぞいた。 ──みなさん。 ──わぁぁぁッ! 神霊恐怖症の和は、それだけで卒倒しそうに悲痛な声を上げる。 それは、消防団のハッピからごく普通の作業着に着替え、不安そうに眼をぎらつかせている河童水霊であった。 ──ミッチー! どうしたラブホの用務員みたいなカッコして──。 ──事後の掃除ということは・・・・・やはり首尾ようか? 遼の言葉を顔色も変えずに静が継いだが、水霊は異様に長細い人差し指を口に当てて顔をしかめた。 ──しぃっ! それがまだわからないんす。 ──誰このヒト。 兄たちの自然な会話に、円が怪訝な顔をする。 ──ゆたかのファン。 遼が答えてきたが、円は水霊の言葉の方を聞きとがめ、水かきのついた手をぐいとつかまえて鋭く問いただす。 ──・・・・・・って、なに? 弟は無事なんだろうな?! ──ですから、どうかどうか皆さんお早く! そう言って、水霊は腰を抜かしている和の長身を、強引にワゴンにひっぱり上げた。 さすがに遼は、慌てたように声をかける。 ──おいっ!? ミッチー、どこ行くんだっ!? ──こちらに!・・・・・早く、早く! ガラガラガラーッ! 兄弟たちが入ってきた滝壷と反対の方向、強力な助っ人を加え、清掃ワゴンは突っ走る。 ─── 水霊に導かれて入りこんだ滝洞の深淵。 だが、誰もが動く間もしゃべる間もないうちに、彼らは弟の身体が血にまみれているのを見た。 ──うっ。 和が思わず後ずさりする。 あまりにも、それは──。 仮に怪我を負ったのだとしても、大量すぎる血痕だった。 苔むした岩床にほぼ均一に広がっている。畳でいえば三畳はある、どす黒いしみ。血なまぐさい匂いが立ちのぼってくる。 ──なんてこと・・・・・、 円も息を呑んでいる。 青白く凍結した表情で、静はそれを見下ろしてから、ゆっくりとそばにかがみこみ、肌着をうち掛けられただけで仰向けになっている、豊の陶器のような額に触れる。 ──冷たい・・・・。 一瞬、全員が凍りついた。 そこにいるすべての兄弟がいま聞いたものが信じられず、静は自分がそれを口走ったことを信じられなかった。 ──まさか。 静のつぶやいた言葉を円が遮る。兄の手を払いのけて、円は豊の上体を抱え上げた。 だが、豊の頭は後ろに倒れ、身体が岩床に沈みこんでしまう。円はゆっくりと首をふった。 ──けがをしてるんだ・・・・・ケガしてるだけじゃないか! そして突っ立ったなりの静の手首に爪をたて、強い調子で言った。 ──しずさん、医者であろ?! 早く、早く手当てをするだよ! だが、豊は円の腕のなかで、医師の静の診断をもってしても、その生死は不明のままでいた。 無数につけられた傷は深く、とくに左肘と大腿の傷は危険だった。 血が間断なくじわじわと滲み出してくる。静は豊の手首にくっきりと残された注連縄の痕を見つめながら、自分を蹴り飛ばしてやりたい気分だった。 目を転じれば、豊の身近──蛇の抜け殻のように力を失って、ちぎれ落ちている注連縄の切片。 もし弟を失うことになるのならば、ぼくは生涯この滝洞にこもり、山の神への呪詛に明け暮れてやる──。 注連縄は止血には新しくて硬すぎるので、静は自分の装束を脱ぎ捨て、歯を使って細長く引き裂き、傷のある腿の高い位置をしばった。だが出血はすぐにはおさまらず、圧定布が必要だった。そして、布地をまるめ、深い傷口の上に押しつけた。 それからの恐ろしい半時の間、静は上半身を裸のままで弟のかたわらにうずくまり、両手で圧定布を強く押さえつづけた。 一度か二度、静は医学的な見地から、弟が息をひきとってしまったのではないかという思いに、強くとらわれそうになった。そのたびに恐怖しながら胸に耳を当てる。鼓動はかすかに続いているように聞こえたが、早鐘のようなそれは、自分の鼓動が反響して聞こえてきているだけなのかもしれなかった。 こんな場所に、医療経験のある者は自分ひとりきりで、しかもこの弟になにがあったのか──助かるのかどうかもわからないまま手当てをするのは、神経のすり減る作業だった。 滝洞の中の苔むした岩床はむっと暑く、彼はしじゅう目に流れ込む汗をぬぐい、手についた弟の生き血を顔の上になすりつける恰好になった。たびたび圧定布を持ち上げて調べ、そのたびに血が一向に止まっていないのを見て歯ぎしりする。それから圧定布をとりかえる。そのくり返しだった。 途中、貧血を起こしかけた和をふり返り、静は鋭く命じた。 ──のどかッ! おまえは里に下りて、一族の者を集めろ。 そして円を見た。 ──まどか、この子の血液型は? ──えっと・・・・・ええっと・・・・キャラ的にはB型のような・・・・。 聞くや、静はふたたび和に向き直った(←いいのかそれで)。 ──聞いたな! B型の者をできるだけ集めておくんだ。ただし、一族の者のなかだけだ。行け! 和は無言のままうなずいてよろよろと立ち上がり、後もふり返らずにそのまま駆け去った。 ─── しばらくしてようやく出血がおさまってくると、静は新たな作業にかかりだした。 見る者が見れば事後の跡が歴然となってしまっている、滝洞の苔むしたしとねを、掃除夫姿もかいがいしく、せっせと片付けている水霊を呼びつける。 ──カッパ! いいからおまえは手を当てて、ゆたかの火傷の部分を冷やせ。 ──はっ・・・・・よろしいので?! 呼ばれ方にもメゲず、豊のだらりと下がった左腕に、いそいそと手を差し伸べる水霊。 出血はおさまったのか、出血する血液が枯渇したのかわからなかった。 腿の傷は縫い合わせる必要がある。しかしここでは不可能だ。やはり脱ぎ落されていた長い袴の脚の部分を、歯を使って引き裂き、包帯代わりにして傷口にあてた。それからできるだけ手早くもう一本細長い布を切り取ると、それを包帯の上からしっかりと巻きつけた。腕の傷にも、これと同じ作業をくり返した。 医者としてできることをすべてやり終えると、少しだけ人心地がついて、静は趣味と実益を兼ねる人工呼吸を試みようと、弟の顎に手をかけた。 気鋭の外科医の手が頤にかかり、豊は喉を無理やりに仰のけさせられた。 だが、次の瞬間、静からは今までに増して硬質な声があがり、兄を呼んだ。 ──遼。 すごいアングルよのぅ・・・・・と先ほどから遠巻きに鑑賞していた長兄であるが、静に硬い声で呼ばれ、素直にそばに膝をついてくる。 静が注視する先を覗き込むと、豊の喉奥──ちょうど柔口蓋の最奥に、常人には在り得ない、鱗状の骨の露出が。 あたりは静謐なまま、波動だけの衝撃が走った。 静の指の先から背中まで、ひんやりとした畏れが抜ける。 もっと底まで見届けたくて、薄い唇に指を差し入れたとき、暗闇に真珠色の光が乱反射した。 不思議に腑に落ちるようなその情景。ゆったりと目撃の余韻を滝洞に沈殿させる。 そこに在る者すべてを一瞬、瞑目させ、古びた預言書の手触りを──遠い日の誰かがひもといた、手ずれの跡を遡行していく。押し寄せてくる錆びた時間は、血の匂いさえ漂わせ──。 さだめたまひし 救いのときに 神のみくらを はなれてくだり 土よりいでし ひとを活かしめ 尽きぬ安けさ 与うるために いまぞうまれし 君をたたえよ (おまえがたとえ何者だって・・・・・・そこにいてくれるのはぼくたちの弟) 萌芽──渇望──充足──腐敗・・・・・と、いったん命の環を完結させてしまったら、あとは‘復活’しかないだろう? 緑滴る姫神よ、滝なす青銀の髪の青年神よ・・・・・・彼らをまるごと呑み込んだ、流星雨降る真夜中に似た、黒々とした──輝きのきつい、少年の両眼。宇宙の碧・・・・・答えをおくれ。 開いた喉の中に丸まった真珠は、よく見ると胎児のかたちをしているだろう。 神々が、連れてゆかずに返してくれた生命・・・・・・終焉のあとの始まりの。 それは竜骨──。 これが竜の逆鱗。 生きとし生けるもの、すべての生殺与奪の神権を得るという──。 ─── ややあってから。 ──知っていたのだろうか・・・・・。 静がひとりごとのようにつぶやく。 だが、遼は──どちらかといえば常識に恵まれていないが、時に怖ろしい精密さを持つ彼の頭脳は、これだけで事態の半分は察知してしまう。 導き出されたシビアな答え──ウソはついてたさ、ゆんゆん。 こめかみを押さえて黙り込む兄を、疑り深い眼で見やる──これまたカンの鋭い静。 円だけが、涙を流しながら、 ──ゆんゆん・・・・・やっぱ、神さまに愛されちゃっとるんやなぁ・・・・・。 そう言って、泣き笑いするかのようにほほ笑みをもらした。--------------------------------------------------------------------- 久松山の夜明けです。 たくさんの光が、差し込んできます。 さて、おとといメールにて嬉しいご感想をいただきました。 ──鳥取物語番外編、最初はシリアスだ~と思っていたら、何やらここのところコメディに近い流れ・・・・・。いえ、状況は決して笑えないんですけれど、舞台に立つ人(?)次第でこうも変わるのかと(笑)。 このご指摘を分析するに、豊が出ばってくるといきなりコメディになるのです。豊がしゃべらない今日とかは、ちょっとシリアス路線でしょ? シリアスのとことん似合わない男って、いますよね(笑)。 明日は●綾一郎●です。 この一連の出来事は、綾一郎が部活の合宿にいっている間に起こりました。 つまり、彼の知らないところで、幼馴染みの身に大事件が起きたわけです。 帰宅後にそれを耳にした綾一郎は・・・・・・怒った怒った。 けど──なぜ彼が怒ったのか、いまいち私にはわからないのです・・・・・・。 タイムスリップして、水泳部の合宿で異様に日焼けした綾一郎に会いにきなんせ。 (ちなみに豊は中学、高校ともにバスケ部でした)。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。しずさんの頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月09日
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飛遊櫛尊を吸い込んだ後、豊が両手を使って自分の肩をひと撫ですると──薄い肩にのしかかっていた重い気配が球技ができるくらいの光の球になり、その片手に写し取られた。それを楡の大木に向かってまっすぐに突き出すと、まばたきをした瞬間にはもう、うろの中に吸い込まれていた。 次いで豊が見当をつけていた方向──荒神が和魂の神に分離させられて消えたあたりから、地を這う赤い靄(もや)がゆっくりと流れ出してきた。空中でそれは凝り固まって一瞬、人の形になったかと思うと、だんだんに老いた女狐の姿に変わり、しわに埋もれた柔らかい眼で不安そうにこちらを見つめる。ものすごく近視眼ぽく。執念に凝り固まっている霊には、それはよくあることだ。 ──さっきは我を忘れていました。強い言葉を投げて、ごめんなさい。悪いけれどあなた、ここは依代がなくて危ないから祠のあるところに帰って。そこにはあなたの和魂の神が待っておられます。 窺うようなその視線の奥を、豊の古代の矢じりのような双眸が貫いた。 ──不二一族にこだわる理由がありますか? おのれの古い妄念ばかり追って、今まさに生きている人間を不幸に陥れる理由があるのですか? 豊の問いに、うっとりと夢見るように老狐は黙ってかぶりをふった。 ──行って遊びなさい・・・・・・和魂の神とともに。 豊は手を伸べて、さまようように踏み出してゆく老いた狐の背を押した。 ついで、肌身にしていた胸飾をとり、かがみこんで獣の首にかけてやる。 ──これ、儀式のあと、歴代の守宿の身体に残されたあなたの歯を集めてつくったものです。全部で27本。あなた、優しい人だ・・・・・わたしの身体に、歯型を残さなかった。わたしを岩に叩きつけたときも、ほんとは心配してくれてた。 言いながら、その手は無意識に狐の頭のうしろを撫でている。 豊の言霊に聞き入りながら、うっとりと目を細める獣神──。 木に開いたうろの前で、狐はそれでもなにか物足りなさそうにふり返って豊を見た。 ──では、わたしの名を差し上げましょう・・・・・・私の神名(かむな)は天蜃宮豊臺杼唯星多(あまのみつかけのみや、とよたたらぼしのおおい)。 それは父から戴き、他人の口にのぼって穢されることのないよう、生涯にわたり語られることのない、不二一族のひとりひとりが持つ神聖名称。 ──・・・・・・。 しばらくためらう様子をしたが、老狐は豊に一礼し、光る裂け目のなかに九つの尾をぞろりと垂らして入っていった。 ところが、事態はそれだけでは済まされなかった。 ─── 老狐を飲み込んだ幹がぼうっと緑に燃え上がったかに見えたあと、太くよじれた大木の幹にいきなり火の手が移った。油でも仕込んだように回りの速い炎が、茂った枝まで舐め上げようとする。ついで、猛烈な勢いで蔓を伝ってきた炎が、繋がれたままでいた豊の身体に引火した。 ──危な・・・・・っ! 自分はともかくも、豊はとっさに身近にあった、密の骸を両手で庇おうとした。 これは自分の生きる礎となった人──毎日、君のために祈るよ。 だから、彼が土に還っていくまで、これ以上に損なわれることだけは阻止しなければ。 ──・・・・・・あつっ! だが、その手も蔓で押さえつけられたまま、楡の木が火柱を立てて弾けた衝撃に全身をそり返らせて、すーっ・・・・・・と豊の眼が閉じてゆく。 (・・・・・・駄目だ・・・・・・こんどこそ・・・・・・限界・・・・・・・) 思う間もまく、意識が闇に沈んでいく。 完全に暗転するその刹那、豊が見ることを欲した姿は──。 密は睫毛をひたと開け、不思議に緑がかった濡れた瞳をまっすぐに向けて──笑った。 無垢な心をそのまま込めた、生まれたばかりの透明な翼のような笑み。手を差し伸べてくると、口もきけない豊の、傷を負った左腕を選び取り、しっかりと握りしめた。 その手が離れていく瞬間、 ──ゆたか、ありがとう・・・・・あなたを五百年待ちました──わたしは行きます。 生きます──と聞こえたのは豊だけか。 ─── ──いかん! 飛び出したのは、実は滅多に見られない大神と守宿御統とのやりとりを、なんとか垣間見(出歯亀)しようと、少し離れた幹の蔭から見守っていた河童水霊だった。 なぜか相生村の消防団のハッピを身にまとい、開けた大口と両手のひらから、 シャアアアアッ!──噴出した水が炎に覆い被さった。水びたしになったあたりには、ぴちぴちと小魚がはねている(←これぞ秘技、水ワープ)。 なんとかボヤで消し止めたものの──くすぶる煙の奥から現われてきた黒焦げの幹を見て、ゆっくりと肩を落とし、安心したようにため息をついた。 ──これで、もはや‘魂依の木’としては使えないな。あの方たちがこちらに戻ってくることも、もうないのだ・・・・・。 炎が立ち消えた後は、何事もなかったかのように、洞窟は静けさに包まれていた。 封印が成ったことをふり返って報告しようとして、だが豊はそこに立っていなかった。 洞穴の真ん中に、身体を丸めて横たわっている、単衣をはおったなりの若君の姿を見たとき──。 ──ゆたさん? 水霊は手をついてかがみ込む。 闇色の髪を散らし、眠り込んでいるような。 時おり洞窟を吹き抜ける風に、長くて細い睫毛が震えている。 ──あの。ちょっと、いいですか。疲れて・・・・・眠っていらっしゃるので? 不吉な予感と淡い期待が並び立つあたり、惚れた男の哀しさというか。水霊は魂依りの木と豊のカラダに交互にちらちら眼をやりながら、揺り起こすのをためらってしまう。 ビシッ! 怪しい物の出現の合図のように岩肌や天蓋が鳴り、あたりの空気が色を変えてゆく。 深い苔が這い登り、洞一面を染め上げた。 森の匂いがし、あちこちで青や黄色の蛍火の点滅がはじまる。 その中心で真っ白な蛹のように、眠る少年がひときわ明るい透明な輝きに包まれていた。 ──ゆた・・・・・・さん・・・・・・。 せめて、羽をたたんだ翠色の蝶みたいに息づいている睫毛くらいは触りたいな、と──水霊はどぎまぎと腕を伸ばした。水かきのしっかりついた指先が、ほんのちょっと触れたか触れないか、の時。 ──ゆたさん・・・・・! 勇気を出して、その陶器のような額に手をかけてみたのはいいが──だが水霊は骨までゾクッと震撼した。 冷たくなって、意識がなくて。 硬直がはじまって何時間もたった死人のように、顔を起こそうとすると全身がのけぞってしまうくらい固まっている。なんとかこっちを向かせると、静脈の青さが浮かびあがった喉元には、いくつもの血の流れた筋の痕があり、くっきりとした鎖骨の血溜まりが、朝の陽光を受けて光っていた。水霊の痩せた腕の中で、豊はひくりとも動かない。無惨に引き裂かれた身体の彼処からしたたる鮮血が、無情に岩床を染めていく。 ──どうしよう・・・・・どうしよう・・・・・ひどいケガだ・・・・・・。 激しく胸を締めつけられる痛みで、よけいに頭が真っ白になって、どう対処したらいいのかも思い出せない。滝のとば口には豊の兄たちが夜明けを待っていることはわかっていたが、水霊には安易に呼びにいけない心情があった。 ──だって・・・・・・もしかしたら・・・・・・もう、死んでるのかも・・・・・・。--------------------------------------------------------------------- わあ。死んでるのかもしれないに関わらず、本日、20000アクセスを超えるやもしれませぬ。 キリ番を踏んでくださった方に、なにか佳いことがありますように。 皆さまおひとりおひとりにも、今日一日小さな幸運がありますように。 ちなみに、ただ今連載しております番外編『不二一族物語』だけで、総アクセス数の四分の一を持っていったことになります。さすがはミッチー、大人気(笑)。 皆さまの応援、本当にありがとうございます。 来週の今日には番外編が完結していることを思うと、少し淋しいような気もいたしますが、あと一週間、全力投球してまいります。 その後に再開する本編ともに、どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。 明日は●竜骨●です。 朝を待っていたお兄ちゃんたちが、滝洞に入ります。 兄弟たちの感動の再会、というわけにはいかなくて──。 タイムスリップして、今年お初に皆さまにご挨拶申し上げます、不二四天王に会いにきなんせ。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。ミッチーの頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月08日
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地鳴りがした。 幻聴でも錯覚でもない。 足の下から何かが這い上がってくる。 豊はともすれば薄れそうになる目で、それを見ていた。 和魂の神から目を移せば、森床にうっすら緑に透ける影が立っていた。 それは何のためらいもなく男神の足元にしのび寄る。ゆっくり、滑るような足取りで。 明らかに人間の気配のそれとは異なるが、今となれば不思議に懐かしさも覚えるその人の影。 ざわめく樹木が、草が、大地が敬意を払うように不意に沈黙する。 影は和魂の神にすり寄ると、かすかに発光した。先ほどの荒神の姿を透かしたまま、哀しげに。 淡い春告鳥色から、澄み切った翡翠色に。 不思議な感動をもって豊は見ていた。 森羅万象のすべてが、荒魂の神の存在を悼んでくれている──そう思えて仕方がなかった。 ─── ──これほどヒトに恨みがあるんだね。 豊の第一声がそれだった。 彼は飛遊櫛尊(ひゆくしのみこと)を見おろし、国宝阿修羅のような形相で、わなわなと身をふるわせているのだった。 ──勝手におかしなまぼろしを見ようとなにを見ようと知ったことじゃないけどな、こっちはあやうく失血死するところだったんだ、失血死! 神人が全身をかけて押し倒している豊は、不機嫌そうに小さな顎をしゃくる。 ──そこ、どいた! 用は済んだろ!! それを聞くや、和魂の神は豊の半身からからだを退けながら、思いがけずに破顔した。 ──思い出せるのか・・・・・よかった。一緒にいった・・・・・おまえ、きれいだったなぁ。 ──ちっ。めずらしくもない。同じ夢、同じまぼろし、朝にはいつも、いつもだ・・・・・。 豊は忌々しげに小さく舌打ちし、がんとして寄せつけない目つきで睨み上げてきた。 ──ところであんたって、うろ様の昔の男? 怒りのあまり、冴え冴えとしたその声。 ──こっちも見たぜ。荒魂の神を悼んでる魍魎たちの姿を。あんた傷つけたんだ? うろ様のことをさ。 それは今宵、一晩でこなしていかなければならなかった数々の非業な経験を乗り越えてきて、突然もたらされたオトナの叡智であった。 豊は単(ひとえ)をほどかれた凄い姿で起き直り、鬼でも自己嫌悪にかられるような眼で和魂の神をじーっと見つめた。 最大の図星を突かれたような気がして、つい眼をそらしてしまうのは神人の方だ。 ビンゴ──この思いつきに間違いない。 だって、ヤルことが強引に過ぎる。 豊自身、マトモな恋愛経験は皆無だが──。 (こいつ、‘恋愛下手’な神と見た) いろんな神サマを見定めてきた豊のカンだ。 たしかに強力そうではあるが、その分やたらアクが強いのだ。 荒魂の神ともなじみが悪く、番(つがい)としておさまりきっていない気がする。だから──うろ様が荒れるのだ。人の子に・・・・・・当り散らすのだ。 清童を生け贄にするのは、女を知らぬのをよいことにして、己の性(さが)を見破られないため。 女心の真理を読めない清童を軽んじて、荒魂の神はすべてを晒し、猛るのだ。 緑の瞳を硝子のように硬く透き通らせ、豊は神人をにらんでくる。 (怒ると、豊ってこうなるんだな) 初めて見る顔だけに、神人にとっては新鮮だったりもするのだが・・・・・この神に裏切られた者たちを想うとき、豊はこんなにも悲しい眼をすることを、和魂の神が気づくことはないだろう。 ふたたび神人の視線が豊に戻ったとき、彼はぺたりと岩床に腰をおとし、まじっと男神を見つめたままでいた。 ──あなたにも事情ってあった? ──え・・・・。 ‘竜’が宿っていたときの面影はなくても、もっと神人の底の底まで見通すような濁りのない瞳で、豊は見つめ返した。 ──でも、ミコトさん。女の人の嫉妬は許さなくてはだめだよ。 ──それは・・・・・・・。 美神の白皙の頬に赤味がのぼるのを、豊の方も初めて見た。 こんなふうに、いかにもバツが悪そうな神人も。 言葉に詰まってしまっている和魂の神の様子を見透かしたように、豊は妙なインパクトを持った言葉でトドメを刺す。 ──それから、愛してる人に愛されているあいだはね、ずっと一緒にいるべきなんだ。あなたはもう少し、‘切ない’とか‘傷ついた’とかって気持ちを知らないと。傷つけられてもいいよ・・・・って、思い続けてあげなくちゃ。 うろ様・・・・・・あなたにかわって、ぼくがうんとこの人を叱ってあげる。 だが、子供の頃からいくら「見えた」って、お祓いをしたり成仏させたりするだけで、調伏のマネみたいなのはやったことがない。 悪霊退治とか、そういうことができる人たちはすごいけれど・・・・・神霊は──身体のないひとたちは、自分が当り散らすような相手ではない。豊には、常に隣のひとたちだった。手荒なマネなどできないが・・・・・。 けれども、神の名前さえ与えられれば、退治とかそういうことではなくて、まとめて封印するくらいならばなんとかなる。どこかの結婚相談所のよう──目指すは封印による強制デート。 相手は神体同士なんだから念の世界だ。想えばツヴァイ!!! おれがやらずに誰がやる。 男の子らしくキッパリと思ったのと同時。 パーンッ!! 耳を引き裂くような音もろともに、豊の身体を縛った注連縄が解ける。 ──ナイスタイミング、静御前!(←つか、遅くない?) このチャンスを逃してなるものか。 豊はすかさず自分を拘束している葉っぱをかき分けて、上腕にこよりで結わえてある釧(くしろ)から土鈴を引きちぎった。この鈴、先々代の守宿であった祖父の形見のひとつである。 だが敵もさるもの、 ──それにしても、おまえ、顔が青ざめすぎているぞ。 豊をくじけさせるような言葉を口にのぼらせ、相手を自分のペースに巻き込もうとしてくる。 ──やっぱりまだ、カラダの具合が悪いんじゃないのか? あらぬところが痛むとか? 切れてしまった注連縄の代わり、己の呪法で豊をふたたび縛ろうとする。 呪法が成るには、より具体化してイメージを創るというのも、ひとつの有効な手段である。 神と人の対話は、いわば心理戦。実際のところ──言ったモン勝ちなのだ。 呪法の上手な者、霊力の強い者が勝てるわけではない。 武器は心だ。 あまり知られていないことだが、神や呪師(まじないし)たちは・・・・相手を呑み込み、過小化し、自分の意のままにせんとする想い──それを力に変えて戦うのだ。 相手への呪法の攻撃も暴力も、すべては心への攻撃に変換される。 神に対して、いつの場合でも圧倒的に人間は不利だが、生身の存在であることが有利に働くこともある──特に神から精神的外傷を負わされた者は。恨みや怒りを持つ者は、どこの世界でも危険なほどに強大な力を得る。 弱点はあるが攻撃力も高いのだ。 豊は下目遣いの視線に力を込めた。 ──さっきはいいことを聞いたなぁ。あなたは死を支配する神。わたしは調和。けれどもわたしの裡(なか)の竜骨も、死を支配するという・・・・・ならば、大神よりも守宿御統の方が格は上だね? このわたしが、歴代の守宿のすべての因果を調和させるために生まれついたのだとしたら・・・・・・。 ──豊、なにをっ・・・・・正気か! 確信に満ちた言霊に呑まれたのは、飛遊櫛尊の方だった。 その仕種を見るや、神人は驚愕の表情とともに、じりっと思わずあとずさる。 魂依(たまより)の樹を・・・・・樹はどこだ・・・・・・。 豊は切れ長の目を流して必死に探す。 ある程度古い木ならば、どれでも可能性はある。広葉樹の方がいいが・・・・・あとは波長が合うかどうかだ。 密の首を切り落とした風の唸りは止んでいる。 密を破瓜した大気の歪みも、今はない。 彼を嬲り、父の喉を断ち割った異質は、今は影をひそめている。 壁(なまめ)の足を切断したそれも、角(すぼし)の腕を叩き割ったあれも、今は何もかもが不気味に鎮まり返っていた。 血の気がまったく失せた唇で御詞(みことば:神聖語)を刻みながら、豊はゆっくりとほほ笑んでいく。 そうして、直系の血をたっぷり吸った大地に、いまだ疼き渋る身体を懸命に立ち上げる。 途端に滝壷から吹き寄せる風が強くなった。 白銀色の風が、楡の木の葉を渦に巻いて散らした。 豊は目を閉じることもせず、じっと身体のなかにその‘力’が満ちるのを待った。 ──行け! 土鈴を取り、必殺の気合いをこめて豊は投げつけた。 鋭い回転に、青ざめた炎のような豊の気迫が乗ると、 ズバァ──ッ! 名のある矛かなにかのように、滝洞の空間を切り裂いた瞬間。 ちりりりん・・・・・・。 澄み切った音色で、土鈴が岩肌に鳴り渡っていく。 すると、かすかに呼応するものがあった。 豊が行き過ぎてきた、楡の大木の根元近く。 折からの月明かりに照らされた場所が強く光って、三角形の裂け目が現われてきた。 青白い光の柱が地面から伸びてあたりを包み込む。 ──あんたのさっきの言葉、そのまま返すぜ? 勘違いしてる者もあるが・・・・・・守宿御統とは単なる‘力’ではない。‘器’だ。あんたこそが、調和の輪を完成させるために用意された、四番守宿の、エサなのよ。 あんたを喰わせてもらう・・・・・・これがきっと最後の言霊。 闇色の髪の毛をゆらゆらと吹き上げるかげろうの中、苦労して蔓の間から片腕を抜き、土鈴を高くかざすと豊は叫んだ。 ──常倭鳥飛遊櫛尊よ、わたしに取り憑けっ!! その声は研ぎ澄まされた青銅の剣の鋭さ。 豊の全身から後光が射して、彼と対峙する神人の胸すらも白く染め上げている。 ──これで痛み分けってやつだ。・・・・・あなたが父を蘇生させてくれたことには礼を言います。 和魂の神が最後に見たもの──水妖じみた真っ白の珠の肌、表情のない深海色の瞳をまっすぐこちらに据えて。それは大天使の眼。輪郭は薄青の寒天みたいなもやに包まれ、へその緒のような糸が数本こちらに伸びて、自分の神体とつながっていた。 (呑みこめ) からだは明るみへ、澄み透る薄紅から金環蝕の輪の中へ。 (眠れ) まばゆい光に包まれ、地に脚を組み、身体を折り曲げて眠り込むようなしぐさで、最後に神人はつぶやいた。 ──我を封じ、荒魂の神をふたたび召喚するとは・・・・・・ただで済むとは思うな──ああ、おまえのこと、手放せん・・・・・・、 重苦しい呻きが響き、飛遊櫛尊を納めて岩床に倒れかかる豊。 身体はほんとうに、ずっしりとふだんの10キロぐらいは重く感じた。--------------------------------------------------------------------- ──うわ、寒いね~。 ──冬みたいだよね。 ──冬だっつーの! などという軽口を言っていられないくらいの寒さですが、とくに日本海側の方、天候のお見舞い申し上げます。雪には縁のある私ですが、ここまでの大雪の経験はありません。どうか皆さまご無事で。 明日は●遊行●です。‘ゆぎょう’と読みます。 ちょい待ち。 荒魂の神をふたたび召喚──? 聞いてないぞそがなこと・・・・・。 タイムスリップして、今ひとたび、荒魂の神に再会していただくことになりそうです・・・・・・。 懐かし──くはないよね??? ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊の頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月07日
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目を閉じることで世界を見る人種もいる。 正面にひきすえた豊の帯に、神人の皙い手がかかる。 だが、もともと乱れきっていた着物を引き落とし、剥ぎとった瞬間、陽子の崩壊のよう──ほの暗い月明かりとともに、少年はぷつりと気配を消した。 異様な感じにとらわれ、神人は伸ばしていた手を引き戻す。 息を殺し──ため息ひとつ残さず消え入ろうとしている、この不定形な生命体の気持ちが満ちるのを待った。この・・・・散らされてゆくもの。 深呼吸。逸る気持ちは、とても長くはもちそうにない。 (──気のせいだろうか?) 波の音、かすかに生臭い、水の匂い。 その時、思いもよらぬ近くで声がした。 ──いつまで待ってるつもりさ・・・・・水のなかには時がないのに。 (いけない!) 神人がはっと息をのんだ瞬間、おそろしい勢いで滝洞のとば口が開いた。 そして波が──天井の高さの波がどっと押し寄せ、和魂の神は岩壁に叩きつけられた。 空気のかわりに水が、喉になだれこんできた。 豊はもう水の底にいた。神人にとっても信じがたいことだが。 咳こんで気管の痛みをやわらげようとしたが無駄だった。 空気がない。滝洞は隙間なく海水でみたされている。 水壁の奥からにじみ出すようにして、豊が現れた。白い素肌をさらして、下肢はなく、ゆったりとうねった長い半身は、きめ細かな虹色のうろこでおおわれていた。 (・・・・・・おまえなのか・・・・・・!?) ──これが見たかったんでしょう。 水中花のように髪を揺らし、優美なうごきで豊が近寄ってきた。冷たい指先が頬に触れると、すこしだけ胸が楽になる。 ──お別れです。 そう言って、めったに見せない顔で艶然と笑った。二対の透明なひれと尾びれをそなえた、蛇に似た半身がゆっくりと波を打ち、神人のからだに巻きついた。うろこは薄刃のように痛く、触れると血がにじむようだ。 (行かせるものか。どこにでも喰らいついていってやる) ──教えてあげる・・・・・異類婚姻譚にハッピーエンドはないんだ。 (異類じゃない。おまえだけだ) ──息ひとつできないくせに。 いきなり豊が腹筋に力をこめ、咄嗟に半身にすがりついていた和魂の神はあまりの激痛に目がくらんだ。血のまじった泡が、おびただしく口から逃げてゆく。肋が全部折れただろう。 豊は神人の腕をふりきって身をひるがえした。 行ってしまう──高みへ──二度と届かぬ世界へ、あの清冽なうしろ姿で。 (行くな!) 神人は追った。 あばらの痛みも、窒息も、かまってなどはいられない。これっきりになるよりは、砕けてしまえ。 竜人、竜神、卵、胎児、夢、海、豊饒の海──とめてくれ。だれか、この連鎖をとめてくれ。 光の中に整然と魚の群れが尾をひるがえす。不安をかきたてるような冷たい白の狭霧(さぎり)をひいて、くらげやえびの幼生たちがすり抜けてゆく・・・・・・。数億トンの水の思いに豊、還っていく・・・・・。 迷わず、狙い違わずに、もとは一塊であったふたりの惹かれあう心のままに、巨鳥プテラノドンは耳までひれにした海馬イクシオケンタウルと出会う。舞い降りて出会い続ける。 時のはじめよりなお遠く──神々たちの・・・・・・創造の昔の海のほとりで。 (ゆたか!) 追う射手座の神人。逃げ去る人魚の少年。水妖──病めるは昼の月。 不吉な伝説がほんとうだといい。水の中に引きずりこむならそれもいい。行ってしまうよりは、喰らいにきてくれ──。 それは言霊。それは不知火。さながら廻り灯籠のよう・・・・・あたりは光の吹雪になって、幾千もの泡沫。熱帯魚色の届かぬ想いが、頭上はるか、螺旋を描いて揺らめき昇る。 尾びれの先に右手がかかった。全力ですがる。手ごたえはぬらぬらしていて、力を抜くとすり抜けられてしまうにきまっている。竜人は驚きに一瞬身をこわばらせ、色のないすごい目でにらみすえた。 大海に浮かぶ木の葉のように神人は翻弄され、いきなり水圧の変化を感じたと思ったら水面に出ていた。漆黒の夜空が上にあり、ひと呼吸できたのも束の間、顔を水に浸されたまま、魚を追う水鳥の動きそのままに、波間を引き回される。ヒトであるときも、素潜りならば三、四分は平気な豊。四分、五分・・・・・・もっと!・・・・・永遠──。 竜人は深みにもぐり、跳ね上がった。また跳ね上がる。 躍り上がった頂点、まっさかさまの視界に神人は見た。真珠のきらめきをみせる竜人の肌、サファイア色の星々、海の青。氷のように夜を染め上げている月。その冴えわたる青。 ──きれいだ・・・・・。 これ以上はないというほどの苦痛のなか、神人はうっとりとなって手をゆるめてしまいそうになった。勝ち誇った顔で竜人がほほえむ。 はっと我にかえってもちこたえたのは、八百万の魍魎を率いる大神の意志力。そして腕が、顔が熱をおび、神人は発光しはじめた。だんだんに強く、金色から閃光。それは鳳凰のかたちを成して、水晶色のうろこと混交する。 竜人が叫んだ。 ──熱い! 神人の身体は炎をあげて燃えさかり、すがりついたうろこには火の粉が移って火花を吹いている。 ──ゆたか! ゆたか! 苦しがると知りつつ、のし上がり、神人は抱きしめた。 神人にえぐられる衝撃に、水飛沫が跳ね上がる。 射ち込まれる刹那、重い衝撃でからだがいっぱいになる。 強烈だ。一秒も気をそらせないくらいの刺激。 竜人が身をもがき、うろこが突き刺さる。赤い糸をひいてふたりは落ちはじめる。血の匂い。 炎。自由落下。星の爆発。着水──砕ける白い泡、氷の破片。 ──あああッ!! 豊の悲鳴──。--------------------------------------------------------------------- 体温が異常に低い人っていますよね。 鳥取時代、豊に聞いた話ですが──。 魚類の肌には、人間の体温がひどくこたえるのだそうです。 釣られてまた放流してもらっても、ヤケドで死ぬのがいると。 明日は●簒奪●です。 ‘さんだつ’と読みます。帝位を奪い取ることをいいます。 タイムスリップして、その後に起きたことすべてお話しいたします。 ──これがほんとの事後報告。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊のありのままの姿に一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月06日
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硬直。眩暈。疲弊。混濁。 だがひるんでいる場合ではない。人外の大いなる力に取り込まれる。 こういうときは押し! それが豊が今までの厄除け人生賭けて学んできた全部だ。 ──できません。宿っているのが山の神ならば、わたしなどには圧倒的に格の差があります。 にべもない豊の返事に、男神は呵呵と笑った。 ──そなたこそ、王統がとだえるのを忌んで、そのむかし山神の結界地に隠された、現人神(あらひとがみ)の末裔ではないか、御統守宿(みすまるのすく)よ。 さすがは神サマだ。見通している。 ──さらに言うならば、守宿と守宿多とは根本的に存在意義が違う。不二角(すぼし)の次世は守宿多(すくのおおい)とさだめづけられているが・・・・・守宿が現世の一族を統率する役割を与えられるとするなら、守宿多は人にとってのすべてを兼ね備える者として生まれるのだ。聖と俗、賢と愚、浄と穢・・・・・。 人差し指を唇に当てた和魂の神の眼は、熱意を持って輝いて。 ──おまえは守宿の器に戒められることなく自由に生きたいくらいに思っているのだろうが、角が土地の加護にしばられているなぞ、取るに足らぬ。格が違うのだ。すべての神々に最も愛される者として、御統守宿とは土地に縛られることは一切ない。だが、それはとりもなおさず、この国の全土を守宿として統べよとの神託にほかならないのだ。 この神さまの言うことは相わかった。 だが、話の流れからすれば・・・・・山の神の正体というか、裏の事情をよく知る表裏一体の神同士のほうが調和する相手としてはうまくいくんじゃないか? ──あの、そうは言ってもわたしじゃなくて・・・・・いっそあなたがずっと荒神と番(つが)ったらいいんじゃないですか? あの神さまはたしかに手強そうだけれど、あなたの方は話のわかる方とお見受けしましたので・・・・・。 豊はとっさに思いついた、あまり名案とはいえない提案を持ちかけてみた。 ──ふん、なにを言い出すかとおもえば・・・・・楓の木を依代にして休んでいた我の頭の上から、あの芳しき血潮が流れ落ちてきたとき、おまえを見たぞ。だが、荒魂の神を生身から出したおまえの父親の傷を治癒させるのに手間取って、飛遊するのが遅くなったのだ。つまり、無意識とはいえ、荒神を排して我を召喚したのは、言うなればおまえだ。責任は取ってもらう。 豊も思わず納得してしまう理路整然とした説明の後、だが案の定、申し入れは却下だった。 ──守宿御統よ・・・・・おまえはこの先、死を恐れずに生きようとは思わぬのか。我と契り合えば、それが適う。おまえは我の半神となり、永遠に、終焉から解放されるのだ。 ──それはもう【うろ様】から聞いたっちゃ・・・・・・。 豊は心の中で呻く。 神サマってなんでそう、いつでもどこでも契りたがる?! 節操ってものがないのか神サマは! ──あんた、よく考えて喋れよ。死ぬことがないのなら、それはもう生きているとはいえねーだろ。 思わず低くひとりごちてしまう。 だが、和魂の神は一瞬、‘お’、という顔になって、しげしげと豊を見つめた。 ──そのとおりだ。おまえ意外と頭がいいな。 ──・・・・・・・。 ──つまり、長く付き合えるというところにおいては、神は理想の相手なのだぞ。 だ~か~ら~。 そういうことはあんたの番(つがい)に言え! おれに言うな! 超困る! 彼は鬱陶しそうに自分の状況を見やった。蔓はまだ身体にからみついたままだ。 神というものが、ものわかりの悪いものと相場が決まっているのは承知しているが、よもやこれほどまでとは思わなかった。 おぬしの性が、今生では男性であることから説明してやろうかと思っていたときであった。 神人はにこにこしながら、豊の前髪をつかみ上げ、その耳に厳かに囁きかけてきた。 ──楓の木のたもとにて、もはやそなたの契約の血の奉献は成ったのだ。では、これよりおまえに名を明かそう。守宿御統よ、我は八坂瓊五百箇御統、常倭鳥飛遊櫛尊。この国においては白鳥、大陸では鳳凰の化身。・・・・・遊行する神だ。 やさかにのいおつのみすまる、にぎしどり・ひゆくしのみこと──。 いきなり何を言い出すかと思えば・・・・・こいつ、トリさんかよ~。 豊は大きく息をついた。 とはいえ、自分が守宿の御統(みすまる)ならば、こちらも御統(みすまる)を名に頂く神──そんなA級B級を飛び越え、超S級の大神、見たことも聞いたこともない。 しかもこいつ、さらりとそうとうなことをしてくれる・・・・・。 神聖名称とは、外界の者から傷つけられることを忌んで、神人自身のみが知る本当の名前。 すなわち、大神が自ら神聖名称を明かすことは、神と人との契約が成ったことに等しい。 これでは、身に覚えのない子供をいきなり認知しろと言いがかりをつけられたようなものだ(←ゆんゆんちょっと違うぞ?)。 ──つまり、我は本来は遊行する神。その我が‘山の神’と混淆して一所に居座ることは、それだけで歪みが生じる。 それって・・・・・遊び人の常套句なんじゃないのか? と全然信用する気になれないまま、豊は黒曜石で出来た古代の矢じりのような目をすがめて神人を見た。 だがそのときには、もはや和魂の神──もとい飛遊櫛尊が豊を引き寄せたあとだった。 両手でその頭を包み込む。長い指先が頬を撫で、耳たぶへ、闇色の髪へと這った。蝶が触覚で未知の世界をまさぐるように。 ──どうだ。ここで我と一交・・・・・・荒神との淫蕩な夜を過ごすよりはよかろう。 ──イントウ・・・・? いんとうってなんだっけ? ああ、いんとう、咽頭?? ぴよぴよぴよ・・・・・・。 「コドモだからわかんない」というテロップが、豊の額の上にヒヨコの画像とともに、ばーんっと現われる。 ──どうしても嫌か? うあああ! こえーっ! 一体あんたは何なんだ、ええとなんだっけ・・・・・ハトぽっぽのミコト?! ──そうか。では仕方ない。 そう言いながら、飛遊櫛尊が豊の身体を蔓の中から地面へとそっと抱き下ろしてやる。 豊は安堵八割、不審ニ割な気分で、ふたたび全身に籠めていた力を抜いて大きく息をつく。せっかくだから、縄目も解いてほしいなと、かわいく‘お願い’しようかと思っていた矢先、 ──なんて言うと思うか、我が? ──うわあっ。 ──緊張しないでいい。本当に無理そうだったら、ちゃんとやめ・・・・・、 いったん言葉が詰まって、飛遊櫛尊が難しい顔をする。 ──・・・・・・られるといいな、と思っているところなのだが・・・・・、 あまりに強引グ・マイ・ウェイな事の運びに、豊がふたたび思考を手放そうとすると、すかさず冷徹な声が飛ぶ。 ──しっかりしろ。ここで意識を失いでもしたら、これから後は確実に我の好き放題させてもらう。 どういうイミだよ! だが、恐慌にかられている豊は気づくことはない──荒魂の神に痛めつけられた部位の激痛で、いまだにわずかでも動くとめまいがしたが、飛遊櫛尊が白い手を豊の身体に触れていくと、ひやりと雪解け水で洗われたように、すぅっと痛みがひいてゆくのに。 彼は別のことを思って、高速で頭を回転させていた。 このミコトの言っていた‘力’・・・・・・今こそ使わせてもらうときかな──。--------------------------------------------------------------------- 今日も引き伸ばすか。 けっこう往生際の悪いヤツだな・・・・・タツノオトシゴくんは。 変化(へんげ)した日には、洗面器の中に入れてやるぞ。 さて、本日も字数オーバーを気にしながら(笑)、1月3日の本文の内容により、荒魂と和魂について、遅ればせながら申し述べさせていただこうと思います。 【たま】玉・珠・霊・魂 皇位と不可分である三種の神器のひとつは、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。 「やさかに」とは大きな玉を意味し、「まが」は曲がっている玉を意味しています。 勾玉は妊娠早期の胎児をかたどっているなどといわれ、私たちに神秘的メッセージを送っていますが、このような勾玉のかたちを大切にしてきた原点について、本日は考えてみたいと思います。 まず、玉と霊とは、漢字のもつ意味はまったく異なりますが、やまとことばでは同根です。 「たま」とは古代、「生活の原動力。生きて在る時は体中に宿りてあり、死ぬれば、肉体と離れて、不滅の生を続くるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、また生きて在る間にも、睡り、または、思いなやみたる時は、身より遊離して、思ふ者の方へ往くと思われて居たり」と考えられてきました。 同時に、「たま」は、「呪的な力を持つものとして、また装飾として用いられる珠玉の類。ときには竹や草木の実などを用いる。玉は霊と同根の語で、霊の憑代(よりしろ)である」とも言われてきました。 このように、古よりの説明では、人間を生かす生命の根源を「たま」ととらえ、ふつう死ねば身体からこれが遊離するものと考えられました。 この「たま」は丸い形状の翡翠や真珠などの宝石や宝玉に依りつくとされました。玉や珠は、人間の霊魂の入れ物と考えられていたのです。 霊の作用を含めて「たましひ」といいますが、この「ひ」は「霊力」をあらわす語であって、「日」との太陽信仰の関連もうかがえます。 幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)・荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)などの、「たま」の状態を示す言葉もあります。 ここから、たまげる(魂消)は、驚くこと、たまむすび(魂結)といえば、肉体から遊離しようとする霊魂を結び止める呪術のことで、これを魂鎮(たましずめ)といいます。 宮中にも古く御魂鎮祀(みたましずめのまつり)という祭儀があります。 11月の新嘗祭(にいなめさい)の前夜に行なわれ、天皇の玉体(身体)に宿るとされる神霊を鎮める祭りです。 よもや荒神を封じているわけではないでしょうが・・・・今上天皇も、否、今上天皇をはじめとして、現在でも全国の主要な神社の神職にあって、魂鎮の秘儀が行なわれていることは、私個人として、とても興味深いことなのです。 明日は●受肉●です。 もう何も言うまい。 タイムスリップして、豊さんのありのままの姿を見にきてください。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊の頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月05日
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こいつ、目が・・・・・目が据わっとる!? ちょっと待て──今まですごくシリアスな展開じゃなかったのか? 少なくともおれはマジメに荒魂の神と対峙して、ちゃんと勝機を頭の中で反芻しながら対処していて・・・・・それでいて今度は呼んでもいない『死』と契約しろっていうのか!? なんだか話題が──モホロビチッチ不連続面ほどに散らかってないか!? それとも、散らかってるのはおれの思考の方なのか? ──我に、おまえの調和の力を与えてはくれまいか? 要求を押してくる和魂(にぎみたま)の神に、当座のいいわけを急いで考え募る。 腐っても鯛。この一日で腐らされてしまっても十五歳。 ノーマルの限界は近い。 ──あの。でもおれ、自分の力なんて、まだよくわからないし、不勉強なもので、何をどうすればいいのかもさっぱり・・・・・、 ──大丈夫だ。手とり足とり教えてやる。おまえは身体で学べばいい。だいたい、おまえは今朝方、禊の折にも我と邂逅したのだぞ。よもや覚えていないとは言わすまい。 なんて強引な・・・・・・そう、おれのまわりってこんな奴ばっかり──呪われてるのかおれは。 ──でも、調和があれば、どこかに破壊があるわけですよね。おれ、基本的には平和主義者だと思うし。(←ウソ)。 ──それは素晴らしい。我と同じだな。無駄な争いなぞしないに限る。 そう言うと、和魂の神は極上の笑みを豊に寄越した。 ──あとはおまえが是とうなずくだけだ。 是と・・・・・・うなずく。 うなずいたら、いったいこの身に何が起こるというのか──鳥肌立ちそうだ。 ──震えているか・・・・・・可愛い奴め。 神人は無邪気に破顔した。 ──おいで御統守宿よ。 おいで、ときたもんだ。片方の手を伸ばしてきた和魂の神の白い掌が、豊の頬を包む。 黒髪が夜風になぶられる小さな顔をすこし仰向けにひねってやると、豊の瞳孔の中にまともに月が落ちて見える。 和魂(にぎみたま)の神の眼も、夜の中でもきらきらと謎めいた深い湖水色に輝いている。そして、かなり親しげにのたまわく、 ──『崑崙より発した竜脈は相生の竜穴に至り、桃源郷をなす。これ万象隆盛の気なりと』、大陸の古文書にも書かれてあるぞ。『魏志倭人伝』のみがこの国の愛読書では足らんのだ。相生の竜穴とはつまり、大地を流れる熱量の非常に強い一点を指す。また、そこを制する者は燃え盛る炎のような性を持っている。しかし、強さにこだわる必要はない。安定して栄えるためには、‘気’は強ければいいというものではない。相性があるのだ。何事にも。 神人は豊の肩を抱き寄せ、お互いに顔を見合わせるようにその顎をつと掴む。 ──むつかしい理屈は抜き! 勝負はついたと言ってよ。 いまだに冷たい殺気を増している豊に向かって、和魂の神はしたり顔でうなずいた。 ──・・・・・というか、もともと勝組はおまえの方だったのだ。おまえは‘竜’の骨を持って生まれてきた竜の化身、すなわち竜人(りゅうじん)なのだからな。 ──竜の骨って? 喉にあるアレのこと? それは小学一年生の折り、初めての歯科検診で歯医者さんにそれを指摘された日のことを想って、豊は神人の腕の中で首を傾げた。 ──いかにも。竜骨を持つ者の霊力は、天変地異をも引き起こすといわれるのを知らないか・・・・・とくに御統守宿(みすまるのすく)の竜骨は、反魂片(かえりみたまのかけら)とも呼ばれ、死人を甦らせるほどの力を宿す。おまえはかような稀人(まれびと)ゆえ、これほどの血が流されても、逆にその血が結界となり、己の内懐に潜ませる竜骨の力で蘇生が可能だったのだ。 ──ならば、密は? 荒魂の神に喰われて、老いることを知らなかった歴代の守宿多たちを、この骨の‘力’で甦らせることができますか? この神と会話を交わしてより初めて、豊はせきったように問いを返した。 ふだんから、相手が神様だろうが人間の上級生だろうが、けっこうタメ口きいている豊だが──また少し、彼の気丈さの氷壁が崩れて、その声には哀訴するような音色が混じる。 和魂の神が言ったこと──自分が反魂術を使いこなせる器であるならば、なんとしてでも、先代の守宿多たちを、たとえひとときでもいいから、絶望のいまわの淵から甦らせてあげたかった。 ──はは、戯れごとよ。 だが神人は一笑するのだ。 ──ならぬ。先程も申したろう・・・・・守宿多はそれぞれが各々の生まれ変わりなのだ。すなわち、三番守宿はおまえ自身。反魂術はかなわぬ。だが、気落ちすることはない。我にはわかる──三番守宿は自ら命を断ったかもしれないが、かの者は己が身を滅ぼしてまで生まれ変わりたかったのだ。 ──・・・・・・・。 ──おまえの、そのいいかげんな性(さが)が、なによりの証拠だ。三番守宿は、おまえのような者に、変わりたかったのだ。それが今生でかなって、彼はさぞや満足していることであろうよ。 いちおう確認するけど・・・・・ほめてるんだよな? 和魂の神の言葉に安堵していいものかもわからずに、豊は心にしこりを残したまま沈黙している。 だが、黙ってしまった少年を気遣うようでもなく、永い時を生きる千里眼の神人は、今まで大神のみが知り得ていた『真実』を、いとも容易く口にのぼらせていくのだ。 ──竜は炎とともに天空に昇り、恵みの水となって地に降り注ぎ、天と地の間にあるもの、すべての縁を結ぶ。死人(しびと)と生者が断ち切られているなどと、硬い観念も持たぬ。竜の力は生と死の縁(えにし)をも、かたちを変えて結ぶのだ。より具体的に言うと、我が長く遊行していた大陸では古来、代々現れ来る皇帝のような傑出した人物のことを指すのだが・・・・・・秘伝では、竜とは。 ふいに和魂の神の言葉がためらわれ、身に秘めた知恵を巡らせて聞き入っているようでいた豊が、先を促すかのごとく思わず反芻してしまう。 ──竜とは・・・・・・? ──アホでもよいのだ。 ズルッ・・・・・・! 毒気を削がれて、豊はいまだに拘束されている岩壁から、ずり落ちそうになる。 ──竜は賢者である必要はない。賢者は用いればよい。竜のまわりには、竜を竜と見極めることのできる賢者がおのずと集まるからな。おまえでいえば、兄弟たちがそれに当たるだろう。 ──は・・・・・・はあ?! ──だが、‘竜の相’として天から徴を与えられている者も歴史上、少なくはない。おまえのその喉元の骨・・・・・・全体の骨の数が多く生まれることは、まず常人ではありえない現象だ。それだけで、人間は均衡を失う。しかし、その均衡を失ったところから鬼才の‘気’は生まれるのだ。 豊がぱちぱちと瞬きをする。 ──竜とは・・・・・・竜とは・・・・・ひとくちで、なんと言ったらよいか。 神人は滝洞から垣間見える満月を見上げて迷う様子だったが、やがてにっこりとした。 ──吉祥聖獣だ。 ──・・・・・・・。 ──むろん、ふつうの人間なのだ。しかし、同時に、その者がそこにいるだけで瑞祥がもたらされるような、そしてある瞬間には、人々をより高みへと導く役割を果たす先導者のような者でもあって・・・・・本人が目覚めている、いないに関わらずな。 ──けど、アホでもいいんだ・・・・・・。 豊のみ、がっくりとする中、 ──相性というものはある。 突然、また和魂の神が言った。 ──いくら竜=守宿でも、幸福をもたらす者ともたらされる者のあいだに相性はある。守宿より幸福をもたらされる者は、その代わりとして守宿を守る。土地にも相性がある。守宿がいることで栄える場所もあるのだが。 ──????? 豊にはさっぱりわからない。 二千年を生きる神々の総帥は、なにを考えているのか見当もつかない。 ──ともかく、その相関関係がいにしえより、まれに見るほどうまく成り立っているのが、この国の相生の里であり、不二一族なのだ。 真白き神人の総帥は結論を述べた。 ──おまえも自分でわかっているだろう。不二一族の気脈は輪を描き、すなわち和を為し、すべて互いの気脈へと帰着している。そこには一点の淀みもない・・・・・・。 和楽の神は、守宿御統の名をもって穏やかに告げた。 ──豊よ、我と邂逅してこの里に落ち着け。この国は戦乱の世紀を越えてなお混迷し、守宿なしでは立ち行かん。しかしながら、おまえが今ここで我と契りを結ぶならば、これより先、我ら神人がおまえの率いる人の子と対峙するときは、礼を尽くしておまえたちの配下として瑞祥を働くことを約束しよう。大神と守宿御統との契約が、この国の栄えをとこしえに守るのだ──それで相性が合う。 さすがに豊は、かなり疲れた表情で和魂の神を見た。神と人との相性というのは、昔からかなりとことんなものなのかもしれない。 ──とかなんとか言っておきながら、実は口説きの理由にしてるとかっていうんじゃないだろうな! ──ふふふ。 神人はほほ笑んだまま、それには答えない。 そして、しなやかな手をかかげ、岩肌にまとわりついている蔓を示した。 その途端、さぁぁぁぁと細い蔓が豊の足元から身体の線に沿って舐めるがごとく這いのぼり、着物の襟をかきわけて、そのうなじにすうっと触れてきた。--------------------------------------------------------------------- ゆんゆんて・・・・・龍の子、太郎なの? 本日のタイトルは●契約●といたしました。 この契約にも、礼金敷金やら、二年ごとの更新とかあったりして。 駅から三分! とか・・・・・(←じゃなくって)。 明日は●竜と鳳凰●です。 本当は●竜VS鳳凰●としたいのですが・・・・あまりにふざけているので自粛いたします。 鳳凰って、あの人が?! そうそう、神さま。お名前は・・・・? お名前を、ください。 大晦日の格闘番組も箱根駅伝も終わったことだし──タイムスリップして、全日本ワビサビ対決、応援しにきて。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊の頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月04日
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──あんた・・・・・誰なんだ。荒神じゃ・・・・・ないな? 直接は答えず、神人は自分の肩を抱く。 ──荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)を知っておろうが。ふたつの魂は表裏一体・・・・・互いが相対することはないが、我が知恵はおぼろげながら少しずつ相方の中にたくわえられているのだ。荒魂の神をなめてはいかん。 ──なめてません。 面倒くさかったが、即答しておいた。体勢的にはそれどころではないのだが。 荒魂の神が消えた滝洞の真ん中を、ひた・・・・ひた・・・・和魂の神の異様に響く足音が、まっすぐ豊のほうに近づいてくる。 どんな相手にも、ハッタリならば気圧されはしない──豊は眉をはね上げ、蔓に身体を繋がれたまま、涼しい顔で見返していた。 ──おまえは、和魂の神を‘知って’いるな? きゃつの・・・・・においがする。 穏やかな声で豊の記憶にトドメを刺して、和魂の神人はくつくつと楽しげに笑った。 ──知ってる、ってか? 知らねーことだらけ。 謙虚に豊は言っておく。 きらっ・・・・・、と氷じみた神人の眼が、ガラスの破片のような光を浮かべた。 ──いい度胸だ・・・・そういえば、我の頭の上から、あの芳しい血が降り注いできたとき、おまえを見たぞ。明るい窓みたいに見えた。それで、そのにおいを辿ってここまでやってきたというわけだ。 神人は自分の身体を指して言った。 ──・・・・・・・・っ。 和魂の声だろうか、今のが。 穏やかならぬ、荒魂の神と寸分違わぬ響き。 はったと見返すと、滝よりの風になぶられた横顔が白く冴えわたっていて──たしかこういう瞬間が前にもあった気がする。 思い当たることはといえば唯一・・・・・今日の朝まだき、風呂場で邂逅させられた──。 今思えば、あれはどちらの神だったのか。 じりっ、と和魂の神が近づいてくる。 あまり・・・・助かったような気がしてこないのは何故だ。 ──それで・・・・・どうなるんですかわたしは。山の神を‘知って’しまったからには、ここで取り殺されるとか? いや、もう死んでいるのかもしれないが。 豊はそっと目を流して自分の置かれた状況を確認してみた。 五感が完全に戻った今となっては、相変わらず後ろ手にきつく戒められた身体が蔓に絡まったままでいることは、常人ならば恐怖以外に感じるものはないに等しいはずの有り様だ。 それには答えず、和魂の神は薄暗い洞窟の内部を、じっと観察していた。 ──我には歴代の守宿たちの声が、重なり合って聞こえるよ。堕ちてこいと叫ぶ声と、助けてくれと泣く声と。 責めるような口調ではなかった。 だが、言われた豊は、密(ひそか)と名乗った少年のいまわのきわを思い返し、唇を噛む。 同時に、からりと開き直った気持ちがしぼんでいき、後悔が大波のように押し寄せてくる。 なぜあの時、手を伸ばさなかったのだろう。否、伸ばそうとした──が、この戒められた手が、密の腕を携えることかなわなかった。 だが、一瞬でも、手を、眼を、気持ちを──危なっかしい子だってことは、夢見の裡でもわかっていたのに。 身体の痛みより、感じたこともないような後ろめたさに胸をえぐられ、息をするのもつらくなってくる。 たくさんの蛾が集まってくる、常夜灯に浮かび上がった、夜咲きの白い花のような密の顔。 触れようとした豊の気持ちを払いのけたときの激しさが、心に刺さるほど鮮やかだった。 ──三番守宿までのこと、ぬしが気に病むことではない。さだめゆえ。 だが、白銀の髪を風に揺らめかせて、神人はあっさり言った。 ──たしかに、守宿(すく)は危うい生を生きている。 和魂の神はすべてを射通すような極寒の海の色をした視線を、先ほどの荒神の欲望で沸騰したような夜の残り香の中で細めた。 ──守宿はおおむね、三代ごとに転生を繰り返すときには顔かたちも性格も、前とは違うものになる。そうでなくては転生する意味がないからな。 ──・・・・・・・。 ──だが、はるか七代を巡る守宿多(すくのおおい)は違う。顔も心も、名さえほぼ同じ・・・・・・・。‘などか’‘さやか’‘ひそか’‘ゆたか’──そうでなければ、大神の依代(よりしろ)となることが適わぬゆえな。これは危ういことだ。なにか苦しみや強い想いがあると、守宿多の身体は凍りつき、かつて幾度もくぐり抜けてきた死の中に心は彷徨い戻ろうとする。誰のせいかといえば、我のせいであろうよ。 ──それは・・・・・。 ──けだし、人間という存在が、すでに調和と破壊だ・・・・。胸の裡に慈悲の光をともすのも人の子ならば、闘争の炎に酔うも人の子・・・・同じ人間でありながら、ままならないものもあるだろう。加えて守宿多が人の子のすべての属性を担うものとすれば、彼らは己のなかで調和と破壊を繰り返してしまう。我の言うことがわかるか、守宿多よ。 ──はあ。なんとなくわかるような。 ──まったくわかってないな。まあわからなくて当然だ。おまえの守宿多としての生は、まだ短いゆえな。 なぜかうつむいて、和魂の神は眉間に皴を寄せた。 その様子がどこか苦しげに見えたのは、豊の気のせいなのだろう。彼の視線に気づいて顔をあげた和魂の神は、この上もなく優美な微笑をたたえていた。 ──だが、おまえの属性は全き調和だ。もとより、守宿多とは守宿の中の守宿。四番守宿は、このうちでも守宿の一還二十八代をもってようやく迎える、守宿御統(すくのみすまる)にあたる。歴代の守宿の因果を、すべて調和させる役割を担って生まれるのだ。 守宿御統。 というと、今回が守宿のミレニアムってこと──? なにか・・・・・いいことでも起きるのかな。 出た──この、向きだけは前向きな思考が、本人の自覚のあるなしに関わらず、これまでに何度も豊の窮地を救ってきた。 今もすでに・・・・・わくわく、といった心持ちで、豊は和魂の神の顔を見上げてしまっている。 和魂の神は口元に微笑を浮かべたまま、愛おしそうにその目を見交わした。 ──調和と破壊といっても、人間の属性がこれだけに二分されるわけではないが。ただし、その中でも調和は多く散在する属性ではない。破壊は・・・・いるところにはまとまっているが・・・・。 (↑相生村の不二屋敷方面にまとまっているような気もするが)。 ──では、破壊とはどんな属性なのですか? 一体いかなる存在のことを言うのか、興味はある。 豊は持ち前の好奇心にかられて、無邪気に訊いた。だが、豊がそれを訊ねると、神人は笑い出す。笑うと印象は一変し、外国人の俳優のように華やかに人なつっこくなるのだ。 ──破壊を言うなら、荒魂の神あたりがそれだ。きゃつの性格が凄まじかったおかげで、我は破壊の属性が理解できた。 それ、すっごくわかるよ! 豊も和魂の神の屈託のない笑顔につられて、無防備、といった感じにうなずいてしまっている。 ──世界に対する悪意、敵意などという生易しいものではない。きゃつ自身を覆っているのは、殺意と同義の欲望だ。 こえぇ。 ──あやつが何故そこまで強烈な感情を抱いているのかはわからぬが、本来山の神とはそういう存在よ。とにかくも、今は不二の者と二十八年ごとに一交することで鎮静して、己が属性と折り合いをつけて何とかやっているようだ。 山の神と混血なんて世も末な。だが、和魂の神は、相変わらず屈託なく笑っている。 だが、好青年とも言い得る表情をして破顔していた神人が、豊の次の質問にふと真顔に戻った。 ──えーと。ところで、和魂の神の属性とは何ですか? ──我の属性を訊いてきたのはおまえが初めてだな。 和魂の神は弓なりの眉を上げた。 ──まあいい。教えてやろう。属性とはまた別の意味かもしれないが、我が自分の属性として支配しているのは死だ。死、闇、絶対の安息だ。 ──・・・・・・・!! ええっ! ‘死’!? よりによって和魂が‘死’。 この状況で──縁起悪くないか、それは・・・・・。 ──どうだ。素晴らしかろう。万能属性というやつだ。 だが死神、もとい和魂の神は、こころなしか誇っているようにも見えた。 ──いずれにしても、誰も‘死’には勝てんのだから。 ──・・・・・・。 なんとなく納得させられたような気分になって、豊は実に数時間ぶりに肩の力を抜いてみる。 あまり落ち着いている場合ではないのかもしれないが──この神さまと向き合っていると、闖入者だというのに、妙になごみムードに流されそうになってくるのだ。 対峙してみると、頭ひとつぶんだけ背が高い。 覗き込んでくる顔は、いつか絵本で見たアシジの聖者──無邪気で野放図な聖フランシスコのイメージだった。月の光を浴びた銀河色の髪が、滝の方からわたってきた風になぶられている。全体的に外見はかなり人外の者であるというのとは別に、不二一族でいえば・・・・・ちょうど長兄の遼がとろんと眼を閉じている時にも似た、穏やかな風格も漂っているような気もした。 事情を知らない人が聞いたら腰を抜かすかもしれない状況での、淡々トーク。 いつの間にか──‘引き込まれて’いる自覚なんて、その時にはなかった。 ──守宿御統よ。全き調和の主よ。どうだ、我と調和してみないか? ──ん・・・・・・? さらりと耳に入ってきたことば。 ──調和だ。言い換えれば、契約。まさか一族の者に聞いていないわけではあるまい? 兄たちに聞いているのは、山の‘姫’(←強調構文)との契約だ。 姫さまはどこにいるんだ姫さまは! ──我に、おまえの万物調和の力を与えてくれはすまいか? 我はおまえに死の支配の力を与えよう。ふたりがひとつになれば、この世に右に立つ者はいなくなる。 この上もなく優しい声色で訊ねてくるその目が・・・・・・据わっているのだ。--------------------------------------------------------------------- 本日は荒魂と和魂という本文の内容につき、「霊魂」について申し述べさせていただこうと考えていたのですが、やはり字数オーバーとなりましたので(笑)、無闇に大きな勾玉だけを無意味に掲載しつつ、ご説明は明日に差し替えさせていただきます。 明日は●邂逅●です。 シリアスな展開だったはず──ですよね? この神様、なんだか海千山千のカンジもして。 なにやら起承転結の‘転’の部分に入ってきた様相を呈してきたかにも思われますが・・・・・。 この三が日、ぼくと一緒にいてくれてありがとう。 タイムスリップして──明日も会いにきてくれますか? ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊の頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月03日
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そこは一面、むっとするほどの血匂に満ちていた。 《彼》が姿を見せると、樹木はおののき、大地は平伏し、それらに巣喰う魍魎どもが深々と頭を垂れた。 《彼》はすべてを統べる王であった。はるか昔から──。 《彼》は不機嫌に、血の凝りをちらと流し見る。そして、誰にともなく彼の《半身》の居所を問うた。 そのとたん、沈黙が重くしこった。 それに焦れて、《彼》はついに声を荒げた。 ──どこだ! 一瞬、森床が割れるようなその口調の凄まじさに、魍魎どもはこぞって指をさした。もの言わぬ骸と化した人間の方を。 その者に無尽につけられた深い傷を見て、《彼》は知る。 《半身》がこの人間の血肉と同化しつつあったことを。《半身》からすればさいわいというべきか、己を呪縛してきた人の子の、血のほとんどは出血してしまっている。 はたと考えて、思い出す。これは、《半身》を封じるための楔を代々その身に受け継いできた者たちの、最後のひとりであるはずだ──と。この少年をもって、呪縛の輪が完成するのだ。 そうして、納得する。 なぜ、《半身》がああもこの人間の血に惹かれたのかを。 この一族の直系たちは、《彼》と同じ匂いのする体液を持っていたのだ。 ──ナルホド、アイツハ、コレヲ、我ノカワリミニシヨウトシテイタノカ。 《半身》ならば、自らの手によって瀕死の目に遭わせた人間に、己の生気を分け与えてやることなど造作もないはずであった。それを《彼》は嘲笑を込めて、《半身》がこの者に乗り換えたことを指して‘代わり身’と呼んだのだった。 代わり身は、だが《半身》の生気をもらって治癒はするが、それはあくまで《半身》の霊力と共振しているだけなのだ。翻ってみれば、蘇生しても、《半身》の力が共振する範囲でしか生きられない・・・・ということであった。 それを思って、《彼》は腹の底から唸った。《半身》の、身勝手な振舞いに激怒して。 魍魎どもはひくりと身を竦めた。王の八つ当たりが我が身に降りかかることを恐れて。 《彼》は、あらためて視線を巡らせ、蔓によって捕縛されている人間を、祠の闇を透かして凝視した。 そして、そのままゆったりと近寄っていった。 ─── ざわめく森床に、うっすらと緑に透ける影が立っていた。 それはなんのためらいもなく、豊の足元に忍び寄る。ゆったり、滑るような足取りで。 人の影のようでもあり、だが明らかに人間のそれとは違う。 ざわめく樹木が、草が、大地がうやうやしく敬意を払うように不意に沈黙する。 豊は、ともすれば薄れそうになる視界でそれを見ていた。 その瞬間──カーッ、と真っ白な光があたりを透き通らせた。 こちらに両腕を伸ばし、血を抜き取られて用済みとなった豊の骸(むくろ)を、今しも滝壷の上空からその手に絡めとろうとしていたはずの荒神が、蛹から抜け出したようにふわっと舞って、全裸のままその場に降り立った。 性そのものは、はっきり男のそれである。あごを突き上げ、さらっとはらった地にすべり落ちるほどの滝なす髪の毛は、青銀であったはずが今や白銀そのものだ。そして、氷河のような瞳の鋭さ。 あたりの時間が止まった。 魂魄(こんぱく)だけを洞に残して、用済みとばかりにその身の骸をあわや滝壷に突き落とされそうになっていた豊も、意識を残したまま不自然な姿勢で止まっている。 ──・・・・・だ・・・・・れ・・・・・? どこかで予想していた気がする。世にも妖しい、この神人の姿を。 それが手をかかげ、天井に浮いていた目玉を指さした。そのとたん、透明なカゲロウに似た目に見えない羽ばたきの群れが、さぁぁぁぁっと荒神のうつせみのなかを突き抜け、 オオオオオオ──ッ・・・・・ 重苦しい叫びが響き、一瞬にして荒神は地上からかき消えた。真っ白な光になって溶ける寸前、目玉のそれぞれが荒神の体内に吸収されていった。 しーん・・・・・・。 なにか言わないと。 もう自分は死んでいるのかもしれないが──。 豊はさすがにぎくしゃくしながら、浮くように軽くたたずんでいる自分の体勢を整える。 舌でぎこちなく血に染まった唇を舐めた。 そして、何も思うまでもなく、塩の結晶のごとき純白の裸体を上から下まで見てしまう。 ──あ・・・・あの、あなた、神さま、なんですか? 目玉はあなたが操っていたんですか? もっと気の利いた言葉が出ないのか、おれは。 だが男神はふしぎな翡翠色の唇をふっとほころばす。流れ出るのは滝壷を這う、濃い霧に似た静かなことば。明らかに先ほどの暴君のものではないことば。 ──きゃつは淫らな思いを、その胸の内におさめること適わぬ身なのよ。狙われたのさ、永遠に己がものになれと・・・・・おまえが。 皙(しろ)い神は言って、わずかに目を伏せた。 辺りに散らばる薄暗い発光体が、銀色の睫毛に影を落とす。 ──あわれな。歴代の守宿たちは山の魑魅魍魎を生み出す‘種’として使われたのだ。山の神は多産であるからな。 ちらっと、冴えた氷色の眼があたりの森を射抜いたようだった。全身金縛りにあっていながら、豊は声をしぼった。 ──あんた・・・・・誰なんだ。荒神じゃ・・・・・ないな?--------------------------------------------------------------------- ところで豊・・・・・あんたもナニモノなんだ。 本日は正月二日ですね。 皆さまいかがお過ごしでしょうか。 きっと、箱根駅伝でも見て、ゆっくりなさっていらっしゃることでしょう。 箱根駅伝といえば──私の実家は二区と九区の横浜は鶴見にありまして、父がそれこそ‘駅伝フリーク’だったこともあり、鶴見中継所には毎年必ず応援に行っていました。どこの大学を応援するというわけではないのですが・・・・青春万歳ってカンジで(笑)。 それから規制が外された道路を通って、横浜に「福袋」を買いに行くのですよ。 車でラジオの実況を聞きながら、駅伝の選手たちの背中を追っていくのです。ほんとに追うのです。見えてるんですよ、ずっと。まだ二区の前半だから、速かったなぁみんな。 これが山口家の、正月二日の正しき過ごし方でありました。 ちなみに毎年、かの者の教え子さんたちが駅伝を走ります。 今年も朝もはよから起き出し、えらい応援するんだろうな。 【ち】霊・風・道 さて、本日は本文が少なめですので、霊魂をさす最も古い言葉「ち」について申し述べさせていただきます。 「みづち」「おろち」「いかづち」という言葉があります。 水霊「みづち」は水に関連する神霊(笑)、おろちは大蛇で八岐大蛇に代表されます。いかづちは雷で、いずれも「ち」は激しく勢いのある神霊の意を原点に持っています。 また、「はやち」(早風)、「こち」(東風)というように、「ち」は風の意もあらわします。「あらし」の「し」、相生の大将、田中綾一郎の仮名である「すせりな」(すばしこいの意)の「す」などとも関連する語で、元来は空気の動きを示しますが、古代人にとっては、風は自然の息吹そのものと捉えられ、霊妙な力を持つものと意識されました。 「地震、雷、火事、おやじ」といえば、最も怖ろしいものの例示としてよく使われる言葉です。地震や雷、火事はいずれも自然災害等の恐ろしさを端的に差している一方で、親父は父親の権威を示すものではなく、「おやぢ」とはもともとは嵐のごとき強い風を示すことばで、これも自然災害の恐怖をしめす言葉であったのです。 「千早振」(ちはやぶる)といえば神にかかる枕詞です。霊力の盛んな、威勢の強い、凶暴な、という意がありますが、神威や霊力の意である「ち」に「疾(はや)し」の「はや」がついたものを、接尾語「ぶ」で動詞化した「ちはやぶ」の連体形の言葉が「ちはやぶる」の成り立ちです。 「ち」(霊威)の根源は‘血’ 血液が神秘的な霊力を持つと考えたり、生命そのものだとする観念は、古代社会にあっては世界中に普遍的に見られます。サクリファイス、すなわち犠牲のための動物を儀礼的に殺して神に供える行為も世界中に分布します。聖化された動物や人の血を神に捧げることにより、古代において、神と人とは直接的に交感したのでしょう。 犠牲のことを「いけにえ」と日本語でいいますが、これは元来「生け贄」であって、生き物を生きたまま供えることを指しました。古代日本社会にあって、動物を殺して供えることは、習俗としてほとんどみられません。むしろ、出血は死を連想させることから、ケガレとして忌避されているからです。 しかし、『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)讃容(さよ)郡の地名起源神話の中に、鹿の腹を割き、その血の中に稲の種をまくと、一夜に苗となって、田に植えることができたとの伝承があります。すなわち、ち(血)は生命力そのものであったとの観念も強く残っています。 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、火の神を生むことによって死んでしまった伊邪那美命(いざなみのみこと)を慕うあまりに、火の神を殺してしまいますが、その血液からたくさんの神々が誕生しています。 また、死んだ穴牟遅神(なむちのかみ)は、母親のち(乳)を塗られると、蘇生したと伝えられています。人間の体液であるチ(血・乳)が、神秘的な霊力を持つと信じられていた証拠でもあります。 唾も「唾吐き」(つはき)が約(つづ)まったもので、この「ツ」は「チ」の母音変化であり、根源は同じものと推測されます。 古代人は「チ」(血・乳・唾)というものに霊的な働きを思惟しました。 その結果、チに霊威の意味を確立させ、それが神名構成の場合には副要素として接尾させたのです。その結果、「チ」の言葉は、尊敬または讃美または畏怖の属性をともなった意味を表す用法に転じました。 つまり、生命力や神秘的な力のはたらきとしての血(チ)があり、その後、霊威・霊的なはたらきとしての霊(チ)という言葉が成立しました。そして、さらに神名構成の一要素として、何某チというような神名が成立したのです。 古代日本には、世界的に見られる、人や動物を屠る供犠の例はほとんど見られません。 これは日本独特の文化とみてよいと思います。日本における犠牲は「生け贄」であり、出血を見ることなく、犠牲になるものを生きたまま土中あるいは水中にしずめたことは、世界の文化人類学的な見地から鑑みても、ある種特異な習俗であると言い切ることができます。 この事実は、言葉を返せば、人が血の奉献をすることによって、出血の霊力により、あらたな呪縛や呪詛が成ってしまうことを意味しています。 古代の日本人は、血に宿る力を知った上で、あえて出血を忌んだ‘生け贄’を奉献することにより、神に対して己の霊力を慎んだということもできるのです。 つまり、神に捧げられるにあたって、己の霊力を慎まなかったヒトが相生村にいたわけですな。 それが吉と出るか凶と出るか──。 明日は●荒魂と和魂●です。 この神サマ・・・・・味方なの? それとも──。 あらたに豊を狙ってきたってわけじゃ・・・・・ないよね?! タイムスリップして、この新手の神の素性を、ぼくと一緒に確かめにきて。 ◆お読みいただけたら人気blogランキングへ 1日1クリック有効となります。豊の頑張りに一票を。 ありがとうございます。励みになります!
2006年01月02日
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