『家』ってなんなのだろうって最近考える。
昔はよく「家風に合わない」って理由でお嫁さんが実家にかえされたでしょう。
たとえば今、天皇家の跡継ぎ問題なんかも、もめてるけどね。
男系にこだわるのは、Yの遺伝子が伝えられるから。
確実に遺伝子が伝わるのが分かる。
男の人の遺伝子って確かに強い。
どんなに大柄な家系の奥さんをもらっても、ダンナさんの家が小柄だとやっぱり子供は大きくならない。
私の実家とだんなの実家とうちの子供達をみてると分かる。
子供はやっぱり父親によく似てる。XとYの遺伝子の発見はごく最近の生物学のことだけど、たぶん昔の人達もなんとなく気づいていたんだろうと思う。
平安時代あたりの話を読んでいると、このころは女系の家族構成だったらしい。
結婚制度も今ほどきちんとしたものではない。ほとんど強姦に近いような状況で婚姻が成立していたり、一度肉体関係が出来たりすると、それだけで既に夫婦ということになってしまったりする。
父親が誰かわからないことも多そうだ。このあたり『源氏物語』を読んでるとすごいよね。
貴族の娘なんかだと、下手すると一生家から出ないとか、日常のほとんどを自室に座ったままとか、ほとんど動かない、外にでない。
男の場合ほんとに自分の子かわかんないけど、女の人は自分が産んだ子だから、確実に自分の子供だとわかる。
そういう女系家族の時代の後、やっぱり女系家族だと男は婿として居心地が悪いわけだから、経済力をあげて、そのうち女性を自分の家に住まわせるようになってくる。必ず自分の遺伝子をもった子供を女性が産むようにいろいろと手立てもくむわけだけどね。徳川家の大奥なんて、絶対男は入れなかったから、内部の政務も女性が執り行っていたし、中国の後宮の宦官なんてちょっとイマドキ絶対無理なすごいシステムだなあと思うけどさ。
ところで現代の日本も当然男系の家族制度が基本で、封建制度は既に過去の遺物のはずなのに、あいかわらず、女性が結婚の後男性の家の性を名乗るし、嫁だ、姑だといろいろもめていたりもするし、檀家制度もまだまだ健在で、跡継ぎがいないとお墓をどうするんだと相変わらずつまらない心配をしていなきゃならない。
それにしても、自分の周りを見ていても、相変わらず古いシステムや価値観は健在で、嫁姑は腹のさぐりあいやらなにやらいろいろ忙しい。
ただ、イマドキは家風だなんだかんだと言っても、遺伝子的に男子が家を継いだとしても、やっぱりその家のもつ雰囲気や家風や家の中の価値観は確実に、お嫁さんによって決定する。
うっかり新興宗教をもつお嫁さんなんかもらっちゃうとお嫁さんは当然我が子には自分と同じ宗教を教え込むし、音楽が好きなら我が子にもやらせようとするし、絵が好きなら美術系の学校にいれようと考える。あるいはスポーツマンにしてみようとしたり、必ず母親の価値観によって子育てが行われるので、家の家風は嫁さんで決まる。
相続問題においても、やはり、男性には次男三男でも、ある程度相続させうるが、娘達に対しては、親はあまり相続財産を渡したがらない。
映画「プライドと偏見」の中でも、四姉妹には女性ということで、家の相続権がない。そして、その家の家長である父親が亡くなった段階で、どんなに遠縁であろうとも、親族の男性にその家の相続権がわたる。
映画では、このあたりがストーリー展開の重要なポイントになるわけだけれど、随分男尊女卑な話だなあと思う。でしょ、最初は。ただ、女性に相続権が存在するとなると、その家の財産を持って女性は他家に嫁ぐわけで、財産の移動が起きる。これは社会の勢力図にも影響を与えかねないわけである。
さらには最悪の場合は財産を持った女性との婚姻後に女性が死ぬあるいは殺されると、その財産は婚家先のものとなる。有名な『青髭』もこのあたりをねらった殺人事件とも取れる。まさに財産狙いの婚姻である。
それはいいとしても、現代なお、親は娘には財産を渡したがらない。特に土地のようなものはその意識が強い。先祖代々伝えてきたものはやはり家に伝えていきたいと今だに考えるわけで、封建時代の崩壊から既にかなりの年月を経てなお、いまだに家にこだわり、嫁となり妻となり夫亡きあと、その家の最大権力者となった女性はすでに実家ではなく婚家先の人間としてすっかりその家に根をおろし、財産は息子にと考える。娘は我が子ではあるけれど、娘の財産は他家のものとなるわけで、よそから来たとはいえ家の中に入り込んで家に同化しようとする嫁とは違い、我が娘でありながら外に嫁ぎ他家のものとなった娘に財産を渡せばそれは、他家の資産となりうる。どこの馬の骨とも知れない男と結婚して確実に他人に変化していく娘の婚家に資産を移譲させにくいわけである。
現代においてもこの認識は確実に残っているわけで、法律上の取り決めと、現実の社会の勢力争いや人の心情、人間関係の変容とは微妙にずれていると言うことを、再認識しなければならないし、そしてそれをどう折り合いをつけていくのか。
それは葬儀における遺産争いをテーマにした三流ドラマが訴える登場人物達の私利私欲とは少し問題点を別にしているようでもあり、同じようでもある。しかし、どれほど家というものを守ろうとしても時代の変容に対抗しうるには限界というものもあって、この先どう変化して行くものなのだろうかと一介の一般市民にしか過ぎない自分はただ悩みうろたえ、試行錯誤の中で暗中模索の日々をおくるしかない。
男性は家の中に遺伝子を残すけれど、女性は家風をつくり、自らの価値観と文化を残して、家風をつくりあげる。そして、新しい新規の世代によってその家風もまた、つくりなおされ、変容し、家へのこだわりもまた、容易に変化させられてしまう。女のつくった家は新しい女(嫁)の登場によってまたむなしくも変えられてゆき、家風も家制度もこだわってみたところで所詮そんなものなのか。
既にそのばかばかしさを認識していながら、なお、こだわり、悩む人間の心理の奥底というものはそう容易には把握しきれず、社会的法的決定規正とはまた、別の所にある。
家という概念がいまだに消滅しきれないその原因の一つに、明治時代に政府によって強制的に加入させられた檀家制度があって、墓がかならず個別につくられているヨーロッパの墓制度から理解しうる個人主義とは別物なわけである。
その檀家システムによって法的な制度とは見事な矛盾をつくりだしている遠因ともなっているわけで、いまだに国民の望む、海や山、自然界への散骨をただのゴミ捨てと同一視して、なかなか許可しないというような、脱檀家制度、脱家制度をのぞむ国民サイドの要求を無視しているくせに、家制度を無視した個人制度優先の法的な相続財産の規正との矛盾を、そして個人制度と家制度の矛盾点にいまだに気づかない政府の内部矛盾に彼等は本当に気づいていないのだろうか。
東山魁夷 吉野の春
プロテスタントの倫理と資本主義 2016年05月14日
ゴールデンスランバー 2011年04月13日 コメント(4)
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