出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年03月24日
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(2. 庄内藩と幕府との関係)
 天保の飢饉は、1839年(天保10年)まで続いていた。飢饉が終ったばかりの1840年(天保11年)、今度は庄内藩に天保国替騒動(三方領地替え)という藩の庄内での存続に関わる事件が起こる。領民を主体としたので天保義民事件、三方領地替え反対一揆とも言われる。八郎が10歳の時で約2年間(1840年(天保11年-12年)続いた。

    また、その様子を描いた「 夢の浮橋 」という貴重な庄内藩の絵巻物が歴史資料として残っている。 国立歴史民俗博物館 がそれを2000年に「 地鳴り 山鳴り-民衆のたたかい300年 -」(企画展示/佐倉市)(下図表紙)というテーマで取り扱った。その資料本も参考にしている。以下『 』部は、『地鳴り 山鳴り-民衆のたたかい300年-』からの引用。

 騒動の簡単な内容は、『この一揆は、 川越の松平氏 を庄内へ、 庄内の酒井氏 を長岡へ、 長岡の牧野氏 を川越へ移す、といういわゆる幕府の三方領地替え命令に対し 天保11年(1840年)11月から翌(1841年)7月までの間 藩主酒井忠器(ただたか)の長岡転封を阻止するために庄内藩内で行われた全藩規模(幕領も含む)での一揆である。』・・という内容で、庄内藩主が、江戸幕府により越後長岡藩への転封命令を受けたことに対する、領民一揆である。

 庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして藩内での集会などを行った。また、賄賂(当時は美徳とされた)や江戸の幕府老中への直訴(刑罰としては死罪、実際には死罪にはならなかった(詳細は不明)と考える)など反対運動を行った。そして、約10ヶ月の一揆運動の後、ようやく幕命が(停止)撤回となった。

 この幕命の動機については、
『なぜ、突然このような命令を出したのかについての確たる理由は不明だが、家斉の第53子を養子に迎えて将軍家と将軍家と続柄になった川越藩松平斉典の希望に応えたのものではないかと考えられている。』という。(一部の)幕府上層部への 利益誘導 (獲得)という短絡的な理由により多くの民衆が無駄な労力を課せられ、不利益を被るという飢饉に苦しんでいる領民には受け入れがたい内容だった。

 庄内藩と領民には、騒動の影響はこの騒動が終わってたあとにも経済などへ影響はあっただろうし、天保の飢饉が続く中で、懲罰的な御手伝普請(印旛沼開拓(1842年))にも従事させられ 疲弊もした。

 当然、庄内藩内の幕府政治への失望感は広がり、この騒動は、庄内藩自体が反幕へ傾くきっかけになってもいいような事件だった。実際、この騒動を理由に幕末には尊王・改革の流れがあったが、弾圧の末に主流になることなく1866年(慶応2年)に挫折している(丁卯の大獄)。

  • 歴博表紙.jpg
 この「夢の浮橋」という巻物名は、庄内にいたり回ったりしたならすぐにイメージが湧く、最上川で隔てられた「庄内の北(飽海郡)と南(田川郡)を架ける(つなぐ)橋」という意味に取れる。当時にはなかった、夢にまで見る「庄内を結ぶ橋」として「団結の象徴」としているのだろう。源氏物語では「夢の浮橋」は「はかないものの意味」なのだそうだが、ここでは肯定的に「結ぶ橋」の意味にとらえらている。
  • 中川通り荒屋敷大より之図.jpg


  • 大浜.jpg

 歴博の資料の中では、『明治維新の全体が政治家軍事化の過程だったが、・・・庄内の百姓は公儀の権能として慣行化されていた三方領地替えの藩主転封を中止させた。百姓の保守性を思わせるこの一揆は、分際を超えた行動としてみれば、民衆の大胆な政治化を表すものだった。』と評価されている。また、この一揆の成功は幕府の権威を損なわせたものとなり大塩平八郎の乱(1837年)などと同様に幕府崩壊の始りの1つと考えられる。

 この騒動には、「庄内藩とその領民連合 VS 幕府」と、「庄内藩<幕府」の2つの構図がみえる。幕府は、庄内藩の多くの領民にとって普段の生活には直接関係の薄い存在だったろう。八郎にとってもこの騒動がなければ意識することはあまりなかったであろう幕府。この騒動により幕府が関わる政治への失望を強くしたと思う。また、庄内藩にとっても必ずしも庄内にいられるわけではないことを再認識させられた事件ではなかったかと思う。
 庄内藩天保国替騒動(三方領地替)は、庄内藩領民の総力戦的な要素をもつ。打ちこわしや暴動ではないが 庄内では到る所で篝火が焚かれ、数万人規模の集会が何度か行われたようだ。太鼓や法螺貝も吹かれたということなので騒々しかったにちがいない。

 この一揆に10~11歳(少年)の八郎が参加していたかは不明だ。しかし、八郎は10歳から12歳まで3年間、母の実家にあずけられて鶴岡城下の清水郡治の手習所(書)と伊達鴨蔵の塾(儒学)へ通った。そのため、当時、鶴岡城下で騒動をより近くで目にしていただろう。また、城下でも騒動の焚き火のはじける音が聞こえたと言われているので、鶴岡から清川の実家(直線で25kmほど)へ帰るときには、騒動に関係する光景を見ていたことは想像に難くない。

 ちなみに"清川地区は古田地帯で高年貢地が多く、庄内藩の善政を感じなかったことや関所があり監視が厳しかった"ことなどから比較的騒動とは距離を置いていたと言われるが、騒動の熱気のようなものは村にも伝わっていただろうし、八郎の実家は、関所(旧清川小学校)前の街道沿いにあるので、たとえ実家にいたとしても 清川関を往来する人々の多くの情報にもふれていたと考えられる。また、1843年(14歳)から、清川関所役人(庄内藩士)、畑田安衛エ門に学んでいることから、歴史に残るこの騒動についてより詳しい状況を聞いていたとしても不思議ではない。

 八郎は民衆の力の大きさを感じながら、庄内義民の一人としてこの騒動をとらえたにちがいない。現代では選挙があるので政治活動や政権交代は武力は必要としない。同じようにこの時の騒動(一揆)は武力によることなく賛同した人々のデモや民衆運動により希望する藩主と政治を勝ち取った成功例となった。人々の団結が力になった、ある種の市民改革運動のようだ。

 八郎の幕末の活動のなかで、寺田屋の変の直後の1862年に「 回天封事 建白書 を孝明天皇に送付したというものがある。その中には“・・・その末尾に「われわれは天下の義人を集めて、数か月以内に必ず大挙します。」と誓って・・・”というものがある。私にはこの内容とこの事件(庄内藩天保国替騒動(三方領地替))とが重なって見えた。


(敬称略)

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 ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版
 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版








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最終更新日  2023年07月22日 13時17分46秒
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