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庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして藩内での集会などを行った。また、賄賂(当時は美徳とされた)や江戸の幕府老中への直訴(刑罰としては死罪、実際には死罪にはならなかった(詳細は不明)と考える)など反対運動を行った。そして、約10ヶ月の一揆運動の後、ようやく幕命が(停止)撤回となった。
この幕命の動機については、
『なぜ、突然このような命令を出したのかについての確たる理由は不明だが、家斉の第53子を養子に迎えて将軍家と将軍家と続柄になった川越藩松平斉典の希望に応えたのものではないかと考えられている。』という。(一部の)幕府上層部への 利益誘導
(獲得)という短絡的な理由により多くの民衆が無駄な労力を課せられ、不利益を被るという飢饉に苦しんでいる領民には受け入れがたい内容だった。
庄内藩と領民には、騒動の影響はこの騒動が終わってたあとにも経済などへ影響はあっただろうし、天保の飢饉が続く中で、懲罰的な御手伝普請(印旛沼開拓(1842年))にも従事させられ 疲弊もした。
当然、庄内藩内の幕府政治への失望感は広がり、この騒動は、庄内藩自体が反幕へ傾くきっかけになってもいいような事件だった。実際、この騒動を理由に幕末には尊王・改革の流れがあったが、弾圧の末に主流になることなく1866年(慶応2年)に挫折している(丁卯の大獄)。
(敬称略)
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