出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年04月15日
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八郎は、15歳には学問で身を立てようと考えていた。しかし、1846年、 備前岡山藩士・藤本鉄石 清国 アヘン戦争 で英国に負け、他のアジアの国々が植民地化されようとしていることを知ったことは、日本も同じように、フランス、オランダ、イギリス、ロシアにより植民地化されるのではないかと考え、強い危機感を持った。鉄石との出会いは、八郎の視野を庄内、幕府・日本から欧米列強へ向けさせた。

 後の盟友となる 山岡鉄太郎 は少年時代、飛騨高山(住居)から伊勢参りへの途中、偶然 鉄石と宿で一緒になった。そして八郎と同じように鉄石から様々な話を聞き、大きな影響を受けたのだという。 鉄石 は八郎の後の盟友との共通の先生となり、接点にもなった人とも言える。少年達に将来共に国を守るための下地を作った。ドラマのような話でこんなことが事実かと思うぐらい人の縁とは不思議なものだ。鉄石がいなければ後の虎尾の会もできなかったのかもしれない。


○年表:庄内藩の動向
〔八郎の行動〕

1840-42年:
〔八郎10-12歳: 鶴岡城下清水塾で学ぶ(母の実家に住む)。庄内藩の天保国替騒動が起きる。〕

1844年: 庄内藩内で飛島沖(現酒田市)に異国船の目撃。
〔八郎14歳: 清川で過ごす。〕
*
1846年:
〔八郎17歳: 備前岡山藩士・藤本鉄石と出会う。〕
*
1848年: 庄内沖を航行する外国船が増え、飛島沖(現酒田市)で異国船による発砲が起きる。
〔八郎18歳: 江戸へ家出。〕
1849年: 庄内藩、外国船への対応として大砲を作る。一貫目(3.75kg)砲鋳造。
〔八郎19歳: 清川へ戻り、家業をする。〕
1850年: 庄内藩、3貫目(11.25kg)砲鋳造。
〔八郎20歳: 遊学/ 京都、九州へ旅、長崎・出島見学。〕

1851年:
〔八郎21歳: 遊学/ 江戸/千葉道場、東条一堂塾で学ぶ。〕
1852年:
〔八郎22歳: 遊学/ 江戸。〕
1853年: ペリーの黒船来航(浦賀)。
〔八郎23歳: 清川へ戻り、酒田から蝦夷地を視察に行く。〕
1854年: ペリーの黒船来航(浦賀/2回目)。庄内藩、品川第5台場警備(他4大名)。

1855年3月: 庄内藩、酒田港付近に15か所、西浜付近に3か所の砲台を築く。
〔八郎25歳: 清川から伊勢参りへ行く。〕

1856年:
〔八郎26歳: 清川へ戻る。しばらくして仙台で過ごす(新婚生活)。〕
1857年:
〔八郎27歳: 江戸で清川塾(2度目/駿河台)を開く。〕
1858年: 本間家(光暉)が庄内藩に大砲5門を献上。
〔八郎28歳: 北辰一刀流免許皆伝取得。〕
1859年:
〔八郎29歳: 江戸で清川塾(3度目/神田)を開く。〕
1859年~1868年: 庄内藩、ロシアの南下への対応で蝦夷地への対応を迫られていた幕府の命令により、蝦夷地(北海道)を拝領する。

庄内藩 は早くから外国の行動を監視していて、幕府の命令で江戸や蝦夷地でその対応をした。外国との戦争も視野に入れていたのだろう、軍事面での準備は他の藩に比べて進んでいたようにみえる。初期の対応(1850年)で造った大砲をみると重さの単位で推測すれば旧式の国産のようだ。後に庄内藩は戊辰戦争で近代線を行う。庄内藩が武器の近代化を進められたのは、本間家などのお金の問題だけでなく江戸市中取締などでの情報収集や、このような早いうちからの外国船への対応と経験が手伝ったに違いない。兵器などの詳しい内容は、清川(口)戦争の回でも述べたい。

酒田 は、東回り航路と西回り航路の起点となる場所だ。日本海から清川へ入る(行く)には、この酒田で乗換え最上川を遡上する。清川は最上川を航行する舟の寄港地でもあり情報も集まり安い場所だった。舟で行き来する人々にとって航行の安全を脅かす外国船についての情報は切実だ。ペリーで有名なアメリカ船以外にも外国船の行動は活発になっていた。
年表でみるように日本海近海でも外国(欧米列強、特にロシア)の活動が活発となっている。それは庄内に住む八郎にとって鉄石から聞いた話と直結する。八郎の攘夷への動機はこのような庄内での環境も強く影響していると思える。

 ところで、八郎の尊王の思想はどこからきたのか?八郎の父は、“藤本鉄石のすばらしさを見抜いた”とあるから、もともと斎藤家は尊皇の考え持っていたのかもしれない。
斎藤家のルーツは、“清和源氏の分流である越智氏が京都から下ってきて斎藤家を名乗った”ことから始まるという。 時代は、“平安末期から鎌倉時代初期にかけての”ことで、清川村は(もちろん)奥州藤原氏の領地だった。“八郎グラフィティ”には “源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家にのがれる途中、清川に立寄っており、その時に斎藤家が世話し・・・南北朝時代には・・・”とあり、斎藤家は、奥州藤原氏滅亡後も鎌倉武士として存続した家のようだ。
なにか続きがありそうな気もするのだが話はそこまでで、尊王と本人の思想とを直接結びつけるものは見当たらなかった。・・・・残念ながら、その詳細はわからない。

鉄石 から学んだことは大きい。八郎は鉄石を真似するように生涯を通じて、蝦夷(北海道)へ、関東各地へ、京都へ、九州へと旅をする。そして、多くの志士と出会い、議論(遊説)を重ねる。こうした行動や人と対話する姿勢は鉄石から学んだものにちがいない。

 八郎は成長の過程で、天保の(清川の)悲劇にもまじめに向き合ったのだろう、剣術に勉学にと自分を高めようと努力している。庄内藩の天保国替騒動(三方領地替え反対一揆)、欧米列強の日本への威嚇行為、藤本鉄石との出会いなど、八郎の回りには立て続けてスケールの大きな出来事が起こっている。八郎はそれに呼応しているように見える。

 そうして考えていけば、八郎は庄内にいる時から尊王攘夷、反幕府であったのだろう。18歳で家出し江戸に向かうとき(庄内を離れるがしばらくして戻っている)にはその下地はほぼ固まっていたと思える。


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 ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
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 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版





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最終更新日  2020年05月10日 13時41分59秒
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