出羽の国、エミシの国 ブログ

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2017年06月04日
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 没後150年という企画、江戸東京博物館で開催の「坂本龍馬展2017」に行ってきた。幕末の志士人気No.1と言われるとおり、人がとても多かった。入口には坂本龍馬の銅像(実際は樹脂原型)があり、大きくてすごくりっぱだ。

 そんな中、自分のお目当てはというと清河八郎と関連したものだったが、そういった人は少ないのかもしれない。

 入って間もなく入口近く「第1章、龍馬の生まれ育った時代」のコーナーに、お目当ての1つ 北辰一刀流 目録 が展示してあった。

 目録の表紙には破軍星(北斗七星)がデザインされていて、 青色の星の表紙の坂本龍馬 の長刀(なぎなた)兵法目録、 赤色の星の表紙の齋藤元司 (清河八郎)の兵法箇条(刀部門)目録が、表紙と最後のほう(ページ)に記載の当人たちの名前が見えるよう並べて展示してあった。この2つは比較して見るととても似ていておもしろい。

 坂本龍馬の目録は最近になって本物と判明したようだ。2年前(2015年)の新聞記事によると、長年坂本が目録を取得していたかどうかの疑惑があった。ある時、北海道でその目録が見つかったのだが一部の研究者達の間では本物かどうかを疑問視する向きもあったので八郎の目録と対比して鑑定を行い、本物と判明したのだという。2つ並べてあること自体とても貴重だ。鑑定士にでもなった気分だ。当たり前かもしれないが、手書きは書き手の息遣いが感じられてよい。

 一緒に「 玄武館出席大概 」も展示されていた。これは八郎が当時(安政4、5年の頃)の千葉道場に籍を置いた人を書き残した名簿。それには坂本龍馬の名前もあり、展示ではそのページが開いて置いてあった。八郎がこのようなものを残せたということは、八郎は塾の中でもかなり信頼される存在だったことを物語っている。よくこのような形のものを残せたなぁ、さすがは文武両道の志士、と感心させられた。

 余談だが You tubeで検索すれば 玄武館 北辰一刀流の形 (北辰一刀流兵法、抜刀術など)を見ることができる。剣道は習ったことがないので中学や高校で友達が部活で行っていた剣道部の練習ぐらいしかイメージはなかった。北辰一刀流がどんなものなのか知らなかったが、最近You tubeで見ることができてとても感動している。北辰一刀流は1つ1つの動きがより短くお互いの接触も少ないようだ。動きのムダがわずかとしてないようでいてより実践を重視しているのだろう。刀の取扱いなどの作法も丁寧でより実践的だった。八郎や坂本、山岡鉄太郎は体が大きかったそうなので、映像にでてくる背の高い方の人のようだったのだろうか、などと、八郎たちと重ねて想像をたくましくして見た。八郎たちが行っていたもの、八郎たちが青春をかけて取組んだ幕末の時代と同じものを現在見られるのはとても幸せに感じる。

 柴田錬三郎の小説「清河八郎」の表紙には刀の刃を自分の方向に向けた八郎の絵が飾られてある。刃の向きを反対に構えているのをずっと不思議に思っていたのだが、北辰一刀流の形の中で刀を確認する場面があるのでそれを描いたものかもしれない。柴田は実際に北辰一刀流を見て、表紙をこのような絵にしたのだろうと思った。
柴田 錬三郎 著『清河八郎』の表紙↓

 話を龍馬展に戻す、次は「第2章、土佐脱藩と海軍修行」で、勝海舟の門人になったり海援隊を組織したことに象徴する船の備品が多く展示されていた。さすがは太平洋に面している土佐の国ということもあって、遠洋航海で使うと思われる貴重な品々が並ぶ。坂本は筆まめだったと言われるように残された直筆の資料も多く資料が充実していた。その他、京都 寺田屋 に飾られてあったという掛け軸には血が飛び散った痕があり、坂本の命がけの幕末の行動をみるようだった(ちなみに掛け軸は復元されたもので寺田屋は鳥羽伏見の戦い後の復元)。よく雑誌などでみるナポレオンの真似をしたと思われる手を懐にいれている写真も展示してあってよかった。

 清河八郎と坂本龍馬のもう1つの接点は「 尊皇攘夷党 」だ。尊皇攘夷党は山岡鉄太郎が中心となり清河八郎をリーダーにして15人の発起人で作った秘密結社で、通称、「 虎尾(こび)の会
何か考えや手法とか似ているところ(影響を受けた?)ところもあるように思える。
 ※「山岡鉄舟 幕末維新の仕事人」佐藤寛(著)で虎尾の会のメンバーとして「坂本龍馬が最後に署名を残している」とある。山岡鉄舟関係の資料にはこのようなものが残っているのかもしれません。

 実は、龍馬展で一番興味があったのは 海援隊 以前のもの、坂本が江戸で修行し八郎と交流した時代のものだったが、江戸修行から脱藩の頃までの2人に関する資料は前述の資料以外見当たらなかった。八郎と坂本は道場こそ違ったとは言え、同じ流派の道場なのでおそらくはそこで2人の関係は生まれたのだろう。坂本の尊王攘夷党との関係はどのようなものだったのだろうか。
 坂本の歴史についての知識があまりあるわけではないが、坂本と虎尾の会、尊王攘夷活動との繋がりはあまり解明されていないように思う。坂本の「虎尾の会」の活動について歴史の本やドラマなどを見る限り取り上げらることはほとんどない。虎尾の会は幕末で重要な役割りをしたはずだ。



 以下、坂本の脱藩頃の 坂本と八郎の行動

- 文久元年(1861年)-
・8月    : 武市半平太、江戸で土佐勤王党を立ち上げる。坂本は土佐で加盟。
・11月 9日: 八郎、九州遊説の開始。
・11月27日: 八郎、伊牟田とともに白石正一郎邸(下関)に泊まる。
- 文久2年(1862年)-
・1月 7日: 八郎、乙津港(大分市)を出発する。
・1月10日: 八郎、(九州遊説後) 大阪 へ戻る。
・1月15日: 坂本 、長州で久坂玄瑞(萩)に会う。(武市の書状配送の使者として)
・1月23日: 坂本 、萩を出立する。
・2月29日: 坂本 、土佐へ帰国。
・3月22-23日: 西郷隆盛、白石正一郎邸(下関)へ入る (朝)。そして長州藩の久坂玄瑞、土屋矢之助、山田亦介、土佐藩脱藩浪士の吉村虎太郎、沢田尉右衛門( 沢村惣之丞 の変名)、久留米藩の原道太らと会合する。夕方、豊後岡藩小河一敏、福岡藩平野国臣と面会する。(討幕京都挙兵について情報交換)(「敬天愛人」テーマ随筆)
・3月24日: 西郷隆盛 、大阪へ出立、27日到着。
・同日(24日): 坂本 、土佐藩を脱藩 、すでに脱藩していた 沢村惣之丞 らの手引きを受け、下関に向かう。同日伊予に入る。
・同日(24日):八郎、 大阪 ・薩摩藩邸へ入る。
・3月27日: 坂本 、(伊予)長浜に宿泊。
・3月28日: 島津久光、下関へ入る。
>・3月29日: 坂本 、長州三田尻(現防府市)に到着する。
・4月 1日: 島津久光、下関を出発する。
・4月 1日: 坂本 、白石正一郎邸(下関)へ入る。
・・・
・4月 8日: 「吉田東洋暗殺」
・4月11日: 西郷、村田新八と森山新蔵とともに大阪から山川港(指宿)へ海路送られる。
・4月13日: 八郎、 大阪 ・薩摩藩邸を去る。
 同日      :島津久光、伏見に到着。
・4月14日: 八郎、 京都 へ入る(山崎から向町の旅館へ、その後京都三条河原町の飯居簡平の家に落ち着く)。
・4月23日:「 寺田屋事件
 薩摩藩・島津久光が、(公武合体での)幕政改革を志して兵を率いて上京、薩摩の(討幕)尊王派有馬新七らが寺田屋に集結し挙兵に備えていたが、これを止めようとした薩摩藩の大久保一蔵らと同士討ち(共に誠忠組)になった。>
・・・
・6月  1日: 八郎、京都から江戸に立つ。
・6月  6日: 八郎、石部駅(琵琶湖近く)に泊まる。(その後、関、伊勢、京都、大阪、高野山、松坂などを往来する)
・・・
・6月11日: 坂本 、大阪に現れる、 大坂 に潜伏。
・・・
・7月10日: 八郎、伊勢を起って吉田(駿河)に至る。その後、富士登山、甲府、伊豆、熱海へ行く。
・8月21日: 「生麦事件」
・8月22日:八郎、平塚宿で島津久光の行列に出会う。
・8月24日: 八郎、江戸に到着する。
・・・
・8月某日 : 坂本 、江戸に到着して小千葉道場に寄宿。
・・・
・12月 3日: 松平春嶽、松平主税之助を講武所剣術教授方兼任のまま、浪士取扱に任命する。
・12月 5日:< 坂本 、松平春嶽に拝謁(間崎哲馬、近藤長次郎とともに)。<
       (※土佐の間崎哲馬は安積艮斎塾で八郎と意気投合した人物)
・12月 9日: 坂本 、松平春嶽を訪れ幕府軍艦奉行の勝海舟への紹介状を与えられ、同日海舟宅を訪問して門人となった。
※最近、松平春嶽に坂本を紹介したのは八郎だったという説があるそうだ。言われてみればその内容は急務三策(英才の教育)にあう、虎尾の会とのつながりでの活動として解釈することもできるかもしれない。

・12月10日:松平主税助、宮和田光胤に浪士組責任者の依頼をする、宮和田は13日にそれを断る。※八郎への浪士組責任者へのきっかけ。
・12月20日:松平主税助から杉浦梅譚へ(要人として取立てるべき)浪士の名簿(2回目)が渡される。(八郎、> 坂本 の名の記載)
・12月29日:幕府の浪士(組)募集の命令(板倉閣老から松平主税助へ)

←坂本龍馬についての参照はこちらから。


 八郎の行動範囲は広く追い切れないところがあるが、虎尾の会の活動があったと考えれば八郎と坂本が関西で接触したとしても不思議ではない。

 当初、坂本が脱藩したのは八郎たちの推し進めた京都挙兵に合流するためではないのかと考えていたが、脱藩後伊予の国を出るのに健脚であった昔の人にしては十分過ぎるほどの時間をかけていた。脱藩の追手を気にしていたかどうかはわからないが、時間を稼いでいるように思える。さらに長州三田尻に渡って島津久光が到着するのを待っているかのように見えたが合流するどころかすれ違うようにして京都と逆方向の下関に向かった。下関では白石正一郎邸を訪れている。

※ 白石正一郎は幕末に多くの志士を支援、援助した人として有名で、白石邸は後の奇兵隊の結成地であり資金源でもあった。文久元年に薩摩藩の御用達ともなった商人でもあり薩摩藩とのコネクションが強い。

 白石本人の尊王攘夷の志は強く自らも積極的に尊攘運動を展開し、長州藩外国船砲撃事件(文久3年、1863年)に参加したほか、奇兵隊が結成されると、弟の廉作(のち生野の変で自刃)とともに入隊した。(図解幕末・維新/成美堂出版)
 このような人がいたこと自体驚きだが、おそらくは援助するばかりだけでなくみかえりとして情報を得ることも重要だったのだろう。坂本もここを訪れたのは援助に加えて尊王攘夷派の情報を交換する目的があったはずだ。

 下関を後にして九州の方面へ向かいその後の行動は不明のまま坂本が次に姿を現したのは大阪で6月になっていた。土佐を出るときから何か他の目的があったと考えるのが自然ではないだろうか。
 久光とすれ違い幕末の志士の尊王攘夷のアジトのような白石邸を訪れていながら、京都と逆の方向へ向かい2ヶ月に及ぶ九州方面での不明の期間、何をしていたのか?脱藩はなぜこの時期だったのか?吉田東洋暗殺との関係は?土佐勤王党や虎尾の会としての活動は?など、多くの疑問が残った。八郎も久光の動向を気にしていたのだろう、生麦事件後の薩摩藩の大名行列を見逃すことなく見に行っている。わずかな情報でも得ようとしている意図的な行動が読み取れる。

 掛け軸が残っているように坂本は「寺田屋」で襲撃される(4/23ではない襲撃事件の方)、坂本が寺田屋にいたということ自体薩摩藩とのつながりが強く尊王攘夷の先鋒だったことを物語っているだろう。坂本もまだまだ解明がされていない謎が多い人のようだ。虎尾の会はその謎を解くキーワードの1つなのかもしれない。
(敬称略)






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最終更新日  2025年10月26日 20時45分45秒
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