出羽の国、エミシの国 ブログ

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2018年09月08日
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テーマ: 本日の1冊(3748)



 中でも「椿台の戦い」が大きく紙面を割いて取り上げられている。地図絵の描写(イラスト)がわかりやすくてすばらしい。椿台は庄内藩が一連の戦争でもっとも深く進行した場所の1つで秋田藩久保田城まであと12kmの場所だ(雑誌では14kmと紹介)。現在の 秋田空港 とその周辺が当時の戦場にあたる。庄内藩にとって”椿台の丘を越えると、西北方の久保田城までは平地である・・・9月10日の段階で新政府軍は椿台に2000名を超える兵力を集中させ、庄内軍の合計を上回ったようだ。・・・”(以下”  ”は雑誌記事より)と、秋田藩は戦争には間に合わなかったがここに新しい城を築城中だった。それほど重要視していた場所で新政府軍も背水の陣に近い状況だった様子がわかる。この戦いは庄内藩側に多くの犠牲者が出てそれまでの勢いをそがれる戦いでもあった。
 庄内藩は奥羽鎮撫総督のいる久保田城へ向けて、山道口(羽州街道/第1、2大隊)と海道口(海岸沿い/第3、第4、亀ヶ崎大隊)から進撃を続けた。庄内藩の第2、第4番大隊と亀ヶ崎大隊が向野辺りで落合うように同日の9月8日にいよいよ雄物川を渡った。

 久保田城へ進む途中の椿台へ進んだ時に新政府軍が待ち構えて起こった「椿台の戦い」(9月11日)では庄内藩(4番大隊と亀ヶ崎大隊)は椿台の南方の丘陵と椿台を見渡せる隣接する糠塚山へ進み出て戦った。新政府軍の挟み撃ちなどで押され糠塚山などを取られ劣勢にたたされた。しかし、なんとか立て直しを図り椿台の南方の丘陵に”踏みとどまった”。新政府軍のこの糠塚山の確保がそれまで快進撃を続けた庄内藩の勢いを制したという。
 一方、第2大隊(隊長:酒井玄蕃)は同じく雄物川を渡った後、別働で東方面へ向かった。そして”新政府軍の前線司令部の神宮寺を占領”したり”久保田城と角館”間を分断させるなど羽州街道方面で勝ち進んで行った。おそらく、4番大隊と亀ヶ崎大隊の背後をとられないため、または挟み撃ちのための進撃だったと考えられる。

 その後、椿台ではこの第2大隊の動向を警戒するようにして”にらみ合い”(膠着状態)が続けられた。

※参考として、日本海沿岸を北上した隊については別資料から引用する。
    ”日本海側の3番大隊は、亀田を出て、8月18日には羽根川に至った。久保田(秋田)城までわずか5kmである。3番大隊はこの地点に9月半ばまで釘付けとなった。”(戊辰戦争/保谷徹)雄物川の下流の河口近くのため、川幅が広く進むのが難しかったと思われる。)

 そして、”・・・鶴岡の庄内藩首脳は・・・状況を見て、9月18日に前線の大隊に撤退命令を通知した”。奥羽越列藩同盟軍の戦況が悪化していたからだった。


 椿台の名前は知っていたが文字だけではイメージがうまくわかないことも多い。本の内容は地形がより具体的で解りやすくてよい。

”「奥羽越列藩同盟」と称する軍事機構が本州の北半分に出現したのである。これほどの巨大な敵の出現は、想定外である。薩長の自らは出費せず奥羽の兵と財力を消耗させようとする虫のよい幼稚で独善的なプランは崩壊した。彼らは自らも出血せざるを得ない戦いに火を着けたのである。この原因は、奢った薩長の甘い読みにあった”。このような意見は官軍側の九州の諸藩の中から書かれている内容でもあり、東北戊辰戦争が本当に必要な戦争だったのか、問いを投げかける内容になる。

 戦争には双方の見方がある。このような特集が雑誌などで紹介されることが多くなれば、いろいろな角度で戊辰戦争の分析も進むと思った。

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(追記)庄内藩側の軍事力について「戊辰戦争」(保谷徹著)に詳しいので参考として引用したい。
       「1867(慶応3)年3月には、庄内藩では給人、中間に至るまで「惣鉄砲」と決し、銃隊に編成して調停を行った。68年(慶応4)正月には、幕府歩兵500を銃隊として抱えいれ、新徴組、大砲(新整)組とともに庄内へ連れ帰っている。この歩兵は英国式の調練をうけた部隊と思われるが、実際に庄内に入ったのは百余名であったという。このほか、庄内藩では領内から徴発した農兵を組織し、鶴岡・酒田では徴兵が徴募された。戊辰戦争には農兵1645名、鶴岡の町兵184名、酒田の町兵386名が出兵したというから半端な兵力ではない。さらにこれに数倍する郷夫(軍夫)負担が100石2人の割で領内に賦課されていた。・・・戊辰戦争がおこると庄内藩は警衛場所を割り当てられていた蝦夷地から藩兵730余を引き揚げた・・・本間家は、68年2月に「7発銃御求代」として1万2500両を献納し、その後も「新式7連発ミニケール銃」の購入のために6万両を融通した。・・・7連発とはスペンサー銃のことだが、仮に1挺30両としても優に2000挺を超す資金になる。・・・ガストネルやスネルから銃器類を購入し7月にはシャープス銃(後込馬上銃/アメリカ製)700挺、ミニエ銃(ミニエ-弾使用の前装ライフル銃)300挺を得て、横浜から酒田にひそかに輸送した・・・庄内藩はさまざまな条件を得て新式鉄砲に対応した軍事態勢を整えていたのである。」

     近代戦争は総力戦の様相がある、全藩あげて対応していた庄内藩の様子が想像できる。平穏で平和な時代の今では想像も難しい信じられない内容でもある。

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最終更新日  2021年05月16日 13時48分20秒
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