悟風の書斎「おかあさんへの手紙」
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奈良に住んでいた。直前まで、ぐっすりと寝ていた。が、大男に揺り起こされるような気がした。当然、目が覚めて、布団から、身体を起こした。枕元の本棚から、不安定に積んであった本が10冊ほど落ちてきた。「倒れてきたら、どうしよう」と思った。経験したことのない、長い揺れだと思った。揺れが収まって、テレビをつけた。奈良は震度4。大阪が震度5。しばらくして、神戸が震度6だと出た。当時、神戸に住んでいた年下の友人に電話した。「大丈夫か?」「大丈夫です」「テレビ、つけておいたほうがいいよ」「(泣き声で)テレビ、もう壊れています」「え?」一瞬、沈黙。「タンスとかは?」「倒れてます!」「そりゃ、だめだよ、家自体が壊れるかもしれないよ。すぐに近くの小学校か中学校に避難して!」すぐに会社に出た。最初に考えたのは、奈良には社寺が多いということ。文化財が壊れていないかが気になった。報道の仕事に携わっているので、県内の社寺に電話して尋ねた。薬師寺の灯篭が倒れていると分かり、写真を撮りに行った。だが、そのころ、神戸では、高速道路が倒れていると分かった。昼近くなって、本社から応援に来いと言われた。徐行運転を始めていた近鉄電車に乗って、大阪・難波まで出た。だが、大阪市営地下鉄は、まだほとんど動いてなかった。その辺りを走り回って、やっとタクシーを1台見つけた。そして本社へ。着くなり、本社の上司が「あ、ご苦労さん。これ、今、刷り上った夕刊。じゃあ、神戸に行って」。普段なら、神戸までは電車で20~30分で行ける。でも、動いていない。会社が出す車に乗って行けと言われた。夕刊1部だけ持ち込んで、後部座席に乗った。午後1時過ぎだった。道はあちこち通行止めになっていた。回り道、回り道。大渋滞だった。他府県から応援に来た消防車がその渋滞に巻き込まれていた。そのうち、うとうとした。かなり寝た気がした。でも、大阪府から兵庫県に入ったぐらいだった。朝に、テレビで見た「倒れた高速道」の横を通った。そういえば、数ヶ月前、ここを車を運転して、通ったことがある。背筋に寒気が走った。その後も、時々、うとうとしながら、遠くにいくつものサイレンを聞いた。「着きましたよ」と、運転手さんの声がした。時刻を見た。午後11時前だった。夕刊を持っているのを見た同僚が「夕刊が届いたぞ!」と叫んだ。何人もが駆け寄って来て、1枚ずつバラバラにして、むさぼるように読んでいた。避難所に行ったが、たき火に当たる被災者はただ無口だった。その夜から、兵庫県庁の記者室で寝泊りして、神戸発の記事を書いた。電話が通じにくくて、ワープロに打ち込んだ原稿が、なかなか会社が送れなかった。余震が続いた。消防車や救急車のサイレンの音は鳴り止まなかった。でも、被災した人たちが、譲り合って、助け合って、生きようとしている姿を見た。勇気をもらった。政治家というのは……と何度も思った。兵庫県庁には、日に4人も大臣が来たことがあった。県庁の職員は、遠来のお偉いさんの応対をせざるをえず、仕事量が増していた。水が足りなかった。飲み水は、3、4日後にペットボトル入りのものが買えるようになったけど、断水は続いた。水洗トイレも、流せなかった。弁当は、会社が用意してくれたが、次の弁当がいつ届くか分からんので、2、3食分確保しておいて、朝、昼、晩と同じものを食べた。そんな生活が、応援派遣が解除されるまで、2週間続いた。帰る直前まで、服装は、奈良を出た時のスーツ姿のままだった。忘れたくても、忘れ得ない経験だ。ただ、自分は、まだまだ恵まれていた。阪神大震災が起こったとき、奈良にいたから、けがはしなかった。財産も失わなかった。家族も、友人も無事だった。亡くなった方のご冥福を、心からお祈りします。
2005年01月16日
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