元気力UP!

元気力UP!

2015年04月17日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。
暑いとその上へ日傘をかぶる。
寒いと頭巾 で包む。
これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。
そうかと思うと櫛 とか称する無意味な鋸様 の道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。
等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨 を立てる。
中にはこの仕切りがつむじを通り過して後 ろまで食 み出しているのがある。
まるで贋造 の芭蕉葉 のようだ。
その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。
丸い頭へ四角な枠 をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。
このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。
を窶 してどうするつもりか分らん。
第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。
四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈 のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。
なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。
ただおかしいのはこの閑人 がよると障 わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。
彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。
そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。
自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと云うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと云うようなものだ。
猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。
気楽になりたければ吾輩のように夏でも毛衣 を着て通されるだけの修業をするがよろしい。
――とは云うものの少々熱い。
毛衣では全く熱 つ過ぎる。

これでは一手専売の昼寝も出来ない。
何かないかな、永らく人間社会の観察を怠 ったから、今日は久し振りで彼等が酔興に齷齪 する様子を拝見しようかと考えて見たが、生憎 主人はこの点に関してすこぶる猫に近い性分 である。
昼寝は吾輩に劣らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になってからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしても一向 観察する張合がない。
こんな時に迷亭でも来ると胃弱性の皮膚も幾分か反応を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来ても好い時だと思っていると、誰とも知らず風呂場でざあざあ水を浴びるものがある。
水を浴びる音ばかりではない、折々大きな声で相の手を入れている。
「いや結構」「どうも良い心持ちだ」「もう一杯」などと家中 に響き渡るような声を出す。
主人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな無作法 な真似をやるものはほかにはない。
迷亭に極 っている。

いよいよ来たな、これで今日半日は潰 せると思っていると、先生汗を拭 いて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上って来て「奥さん、苦沙弥 君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へ抛 り出す。
細君は隣座敷で針箱の側 へ突っ伏して好い心持ちに寝ている最中にワンワンと何だか鼓膜へ答えるほどの響がしたのではっと驚ろいて、醒 めぬ眼をわざと※ って座敷へ出て来ると迷亭が薩摩上布 を着て勝手な所へ陣取ってしきりに扇使いをしている。

「おやいらしゃいまし」と云ったが少々|狼狽 の気味で「ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。
「いえ、今来たばかりなんですよ。
今風呂場で御三 に水を掛けて貰ってね。
ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか」「この両三日 は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。
――でも御変りもございませんで」と細君は依然として鼻の汗をとらない。
「ええありがとう。
なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。
しかしこの暑さは別物ですよ。
どうも体がだるくってね」「私 しなども、ついに昼寝などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「やりますかね。
好いですよ。
昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず呑気 な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「私 なんざ、寝たくない、質 でね。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年04月17日 12時27分16秒
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