元気力UP!

元気力UP!

2015年09月17日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
なぜ松薪 が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。
人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴 を食ったり、獣 を食ったりいろいろの悪 もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫 である。
行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗 くとがんがらがんのがあんと物静かである。
で何かしきりに人間の声がする。
いわゆる洗湯はこの声の発する辺 に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓 があって、そのそとに丸い小桶 が三角形|即 ちピラミッドのごとく積みかさねてある。
丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒 とした。
小桶の南側は四五尺の間 板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。
板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂
よろしいと云いながらひらりと身を躍 らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。
天下に何が面白いと云って、未 だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。
諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分|乃至
親の死目 に逢 わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。
世界広しといえどもこんな奇観 はまたとあるまい。

何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚 かるほどの奇観だ。
この硝子窓 の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。
台湾の生蕃 である。
二十世紀のアダムである。
そもそも衣装 の歴史を繙 けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。
十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。
今を去る事六十年|前 これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。
図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。
開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。
ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。
皮を着た猿の子分ではないと思っていた。
人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失 している。
いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。
仮令 模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。
でありますから妾等 は出席御断わり申すと云われた。
そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。
米舂 にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具 である。
と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布 を三十五反|八分七 買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。
失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。
かようにしてようやくの事|滞 りなく式をすましたと云う話がある。
そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。
近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。
生れてから今日 に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。
裸体は希臘 、羅馬 の遺風が文芸復興時代の淫靡 の風 に誘われてから流行 りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常 から裸体を見做 れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫 も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。
日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸 や英吉利 で裸になっておれば死んでしまう。
死んでしまってはつまらないから着物をきる。
みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。
一たび服装の動物となった後 に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣 と思う。
それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。
猫に劣る獣と認定していいのである。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年09月17日 12時12分14秒
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