元気力UP!

元気力UP!

2016年03月31日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
 砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲附近には弥次馬 兼援兵が雲霞 のごとく付き添うている。
ポカーンと擂粉木が団子に中 るや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手を拍 つ、やれやれと云う。
ったろうと云う。
これでも利
恐れ入らねえかと云う。
降参かと云う。
これだけならまだしもであるが、敲 き返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。
これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。
ダムダム弾は近来諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。
大抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。
ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。
そこで彼等はたま拾 と称する一部隊を設けて落弾 を拾ってくる。
くは戻って来ない。
だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾い易 い所へ打ち落すはずであるが、この際は反対に出る。
目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。
邸内に降らせる以上は、邸内へ這入
邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。
四つ目垣のうちで騒動すれば主人が怒 り出さなければならん。
しからずんば兜 を脱いで降参しなければならん。
苦心のあまり頭がだんだん禿げて来なければならん。

今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準 たず、四つ目垣を通り越して桐 の下葉を振い落して、第二の城壁|即 ち竹垣に命中した。
随分大きな音である。
ニュートンの運動律第一に曰 くもし他の力を加うるにあらざれば、一度 び動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。
もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。
にしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。
運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。
これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子 を裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭 に相違ない。
しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「ここか」「もっと左の方か」などと棒でもって笹 の葉を敲き廻わる音がする。
すべて敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。
こっそり這入って、こっそり拾っては肝心 の目的が達せられん。
ダムダム弾は貴重かも知れないが、主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。
この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。
竹垣に中 った音も知っている。
中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。
だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。
ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。
いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。
柳の下には必ず鰌 がいる。
蝙蝠 に夕月はつきものである。
垣根にボールは不似合かも知れぬ。
しかし毎日毎日ボールを人の邸内に抛 り込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの排列に慣 れている。
一眼 見ればすぐ分る訳だ。
それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟 ずるに主人に戦争を挑 む策略である。

こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。
さっき座敷のうちから倫理の講義をきいてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。
猛然として馳 け出した。
驀然 として敵の一人を生捕 った。
主人にしては大出来である。
大出来には相違ないが、見ると十四五の小供である。
の生 えている主人の敵として少し不似合だ。
けれども主人はこれで沢山だと思ったのだろう。
び入るのを無理に引っ張って椽側 の前まで連れて来た。
ここにちょっと敵の策略について一言 する必要がある、敵は主人が昨日 の権幕 を見てこの様子では今日も必ず自身で出馬するに相違ないと察した。
その時万一逃げ損じて大僧 がつらまっては事面倒になる。
ここは一年生か二年生くらいな小供を玉拾いにやって危険を避けるに越した事はない。
よし主人が小供をつらまえて愚図愚図 理窟 を捏 ね廻したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものを大人気 もなく相手にする主人の恥辱 になるばかりだ。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。






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Last updated  2016年03月31日 21時49分22秒
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