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一度結婚したら人ならわかると思いますが、できれば離婚なんてしたくない。そして、一度結婚した人ならわかると思いますが、何度か離婚を考えたことがある。離婚っていうのはそういう程度のもので、まさか本当にこういう問題が自分の身に降りかかってくるとは思ってもみませんでした。これから書くことは、本当にプライヴェートなことで、自分の主張とか意見とかだいそれたものではなく、見る人が見ればくだらなく、チラシの裏みたいなものかもしれません。だから興味の無い人は、できればスルーしてもらったほうがいいかもしれません。夫の外泊が増えたのは一昨年の9月の頃でした。その時期、調理師である夫は、仲間二人と独立し、晴れて念願だった自分の店を構えることとなったのです。売り上げ的には大きな問題はありませんでしたが、店のなかの人間関係がもつれていたようです。父も事業をやっていたので、独立することの大変さ、自分で何かをやることの苦労というのはわかっていたつもりで、外泊の理由を尋ねると「仕込がいそがしくて、そのまま店で寝ちゃうんだ」「店が終わったあと、仲間と店で鍋かこんでそのまま雑魚寝するんだ」「付き合いで飲み会があってさ」という夫の答えを疑わしいと思わなかったのです。しかし、10月になり、息子が幼稚園に通いだす頃には、週に二三回、家に帰って寝る、という状態でした。それでも一日一回は家によっていました。そうです。帰ってくる、ではなく、寄る、です。それにしても、おかしいな。さすがに気づきます。夫を問い詰めます。けれど、答えは同じ。しまいに、携帯にすら出なくなります。店が終わる午前一時から、店の出勤時間の午後一時まで、何度ならしても携帯は繋がりません。繋がるのは、店にいる時間のみ。当然、切れます。「あんた!緊急の連絡があるとき、どうするのよ!この町には親も親戚もいないし、なんかあったらあんたしか連絡とる人いないことぐらいわかってんでしょ!」夫曰く、「店で寝てんだから、店に電話すりゃいいでしょ」店にかけます。営業時間外は、なんぼならしても誰もでません。当然、斬れます。「あんた!店に電話したって、うんともすんともいわないじゃないか!」夫曰く、「ごめん。何かあったら店に来てドア叩いてくれ」叩きました。何回も。ドア壊れそうなぐらい。あきれます。「店行ったよ。ドア叩いたって、誰も出てこないじゃん」「…ごめん。店の二階で寝ているから気づかないんだ」ここまでくるとどんどんわたしの態度もきついというか狂気じみたものにかわります。顔を合わすとののしり、疑い、責める。でもこれって、わたし悪い?子供が喘息もちで、夜中寝ないで看病したのも、救急病院へ連れて行ったのもわたし一人。男親は、子育てしなくていいって、いつからそんなルールが決まったんだろう。当時専業主婦だったわたしは、それでも納得がいきませんでした。専業主婦って、いつから家政婦になったのよ?いつから専属の看護士になったのよ?そして昨年の四月。家の中でくさくさとしていてもしょうがないので社会復帰をしました。そのときの夫の約束です。わたしが働く代わりに、お前は必ず家に帰って来い。夫はうなずいたはずです。そういう約束で働き出しました。わたしの職場は九時から午後一時までの勤務だったので、夫とちょうど入れ替わりになります。もし子供に何かあっても(熱とか風邪とかね)入れ替わりで子供に付き添えるので、職場に迷惑をかけることも少なかろうと思ったからです。ところが。続きは離婚にまつわるエトセトラ2にかけたらいいなあと思ってます。ここまで読んでくだすった人たち、ありがとう。
Feb 6, 2012
生きてます。コバルトロマン、一次もひっかからなかった悲しいHですが、ノベル、二次通過です。三次には進めませんでしたが、よかった、よかった。評価シートが楽しみです。
Dec 10, 2011
息子「手の中にはなにがあるの?」私「うーん。血と筋肉と、骨かなあ」息子「きんぎくってなに?」私「お肉のことだよ」息子「ほねってなに?」私「お魚さんにも骨はあるでしょう」息子「手の中にはね、飴とジュースがあるんだよ。さっき食べたから」私「そっかあ。おいしそうな手だね」息子「あと涙があるの」私「涙?」息子「うん。さっき泣いたとき涙が出たでしょ。あれは手の中にあるから、涙がでたんだよ」子供のこの感性が、もう一度欲しいと思った、Hであった。
Jul 22, 2011
久しぶりに、おもしろい映画を見ました。フランス映画です。で、この映画なんですが、すごーく余韻が残って、二三日はぼうっと考えてしまいました。内容についてはアマゾンなどに記載されているので、そちらをじっくりとごらんください。まあ言ってしまえば不倫の恋なんですがね。けれど純愛ともいえると思います。ヒロインのマベ、その相手役である青年アントワーブの二人の短い恋。そして二度と会うこともなかった二人のあまりに短い物語、といってしまえばそうなんですが、私はこの映画の主人公は本当はヒロインのマベの夫、イヴォンヌではないかと思うのです。マベの裏切りを聞かされながらも、その相手がアントワーヌと知りながら直接責めることができないイヴォン。なぜなら灯台守であるイヴォンはアントワーヌを仲間だと認め、閉鎖的な島で孤独を抱えるアントワーヌの気持ちを理解できるから。イヴォンとマベの間にはどうしても子供ができなかった。アントワーヌが去った後、マベは妊娠するんですね。その女の子を、イヴォンはとてもかわいがった。たぶん、イヴォンは愛していたと思うんですよ。マベも、アントワーヌも。双方を。映画のなかにはかかれていなかったけれども、その一人娘が独立して島を去った後、島に残された二人の夫婦はどうやって暮らしていたんだろう、と思いました。罵り合ったか、マベは罪を告白したのか。気まずい夫婦生活だったのではないだろうか。どれも、きっと違う。二人は穏やかに暮らしてそして島の土になったんだろうなあと思いました。マベも罪を告白することなく、イヴォンを許すといったわけでもなく、穏やかに二人だけの生活を楽しんだのだろう、と。よく穏やかな夫婦、とか仲のよい夫婦、といわれるかたがたっていますよね。そういうかたがたというのは、結婚したときから今現在までずうっと穏やかだったわけじゃない。きっと人にはいえないささやかだけど、苦しい出来事を乗り越えて、言葉じゃなく罪を告白して、謝罪せず許しを乞うて、無言の許しを与え合って、そうしてささいなことでは動じなくなって穏やかな今があるんじゃないかな、と。やっぱりいいですね。フランス映画。こう考えをめぐらすことができるのもフランス映画の醍醐味。ハリウッドものじゃあ、こうはいかない。頭を使わなくていいから楽ですけど。こういう映画をおもしろいと思えるようになったのが歳のせいなら、年齢を重ねるのも素敵なことだと思いました。
Jun 14, 2011
しばらく更新してませんでした。お久しぶりのHです。簡単に近況報告をさせていただきます。震災がありました。社会復帰しました。ストレスで奥歯腫れました。子供も熱をだしました。最近、ようやく仕事も慣れました。家事との両立も。小説はまったく書けません。夫はまったく家庭に協力ありません。世の夫はみんなこんなものでしょうか。離婚も考えます。でも毎日一生懸命生きて、睡眠ばっちりです。こんな毎日も、わりと好きです。今できることを懸命にこなし、過ぎていく日々も、なかなか悪くないと思う、今日この頃です。
Jun 3, 2011
大学生だったとき、札幌でOLをしていたとき、帰省すると、父はお得意のカレーを作ってくれた。父のカレーは本当に、身内びいき抜きにうまかった。彼には生まれ変わったら是非、カレー屋をやってほしいぐらいだ。ムール貝や海老でだしをとり、煮込むやり方だった。そして市場から魚のカレイを(スーパーで売ってるような薄っぺらいものではなく、信じられないぐらい身が厚いやつ)買ってきて、母はその魚で煮つけを作ってくれた。これは、塩と大根で煮る、典型的な浜料理だ。子供が帰省したときに、小さい頃から子供が好きだったものを作る。それは親ができることというには、あまりにもささやかなことだと思う。今年帰ったら、母は栗を買ってきてくれた。幼い頃、ニチイの前で売っている甘栗が何より大好きで、それを買ってもらった日は、この世の幸福がその一日に凝縮されたような幸福を感じたことを今でも覚えている。あの父のカレーは、父にしか作れなかった。今、そのカレーを作ってくれる人は、この世のどこを探してもいないし、もしわたしがベストセラー作家になんかなっちゃって、お金をつみあげたとしてもどこでも食べることができないのだ。子供が好きだったものを作ってくれるというのは、あまりにささやかなはずなのに、存在は大きい。順番を間違えなければ、栗を買ってくれた母も、いつかは消えてしまう。幼いころのわたしを知り、ことあるごとに覚えてくれた人はやがていなくなる。ささやかすぎて、いちいちお礼すら言わなかったことが、実はかけがえのないことだと気付く頃には。それでいいのかもしれない。父は生前言っていた。親からしてもらったことを、親に返そうとするな、と。自分の子供に返せ、と。何かをしてもらってばかりだったわたしは、何かをしてあげねばならぬ人になったのだ。わたしはいくつ返せるのだろう。両親からしてもらったことを。それは、途方もない数だったような気さえする。
Jan 11, 2011
あけましておめでとうございます。なんとか無事に年を越すことができ、新年を迎えることができました。今年最初の話題が、文学賞の話題で申し訳ないんですが、一応ご報告を。新潮社R-18文学賞ですが、一次通過できないまま、年を越しました。で、なんとかコバルトノベルはぎりぎりの250枚を書ききり、応募できました。それでですね、来ましたよ。コバルトロマンの評価シートが。例の三次抜けのやつです!内容は詳しく触れることができないんですが、うーん。前一次も通過できないときの評価シートより、はるかに厳しいことが書かれてありました。的を得ている。そう思いました。三次抜けすると、やはり評価するほうも、本として出版できるか、が評価基準になるので甘い言葉はいただけません。けれど、すっごくためになりました。そして、あらためて小説を書く難しさを実感しました。勢いだけでかいたものはやっぱり見る人が見れば、ちゃあんとわかってしまうのです。でも、小説を書く人間として一番言っていただきたかったことばを頂きました。コバルト様様。本当に感謝です。もう足を向けて寝ません。今年は、本気だします。え?毎年言ってるって?いや。今年こそ。やるところまでやってやる!
Jan 8, 2011
コバルトの発売日は、私の住む北海道では本日だ。すでに落選慣れしている私は本屋でページをめくった。一応、本年度のコバルトノベル大賞に応募していたのだ。すると――第三次選考通過作品に、私のペンネームと、作品名が!三次選考は通過したものの、最終予選通過はできず。だがしかーし。三次選考通過なんてはじめてだよー。今までちまちまと小説を書いては応募し、新潮社の某文学賞で一次通過したのが三回ほど。妊娠出産を経て、子供を左手で抱きながら右手でパソコンを打ち込みながら書き続け、ついには一次も通過しなくなってしまった……。家事と育児と、自分のやりたいことを三両立するのは無理だ、と悟りました。書く時間は作ろうと思えば作れるんですよ。睡眠時間を削ればいいだけですし。でもね、何か、こう大事なものが両手の隙間から砂がこぼれるように、すらすらと零れ落ちていくのがわかるんですよ。それは感性、とか真摯さ、とか情熱、とか集中力、とか絶対に小説家になる、とかそういういろんなものたちが。きっと、こうやって小説を書きながら、いつかなれたらなあと思いながら私は年老いていくんだろう、とも思っていました。そんなときのこの朗報!作家希望の人間が、受賞したわけでもないのにこんなに喜んでいいのかわかりませんが、本当に嬉しかったです。もう少し、がんばれ。そう言われている。そんな気がしました。
Dec 3, 2010
良心に恥じないことだけが、我々の確かな報酬である。 最近知ったいい言葉です。 本当にいい言葉だと思いました。 さて、10月に我が愛息は幼稚園デビューし、きゃー、これで三食昼寝つきの生活をゲット!なんて思っていたら……世の中の主婦業のかたは、本当に三色昼寝付き+おやつ付きなんですかね?あれはいわば都市伝説に近いのではないでしょうか?まず息子が幼稚園に通うようになって風邪をひきまくり、10月は計5回も病院へ通うはめになりました。そしてあいている時間で仕事でもしようと、社会復帰をもくろみ、下手な鉄砲も数打ちゃあたるだろう作戦で面接を受けまくり、見事に一つ、仕事を射止めました!しかーし。第一日目の研修の日。息子は激しいせきと嘔吐を繰り返し、とっても幼稚園に連れて行ける状態ではありませんでした。我が家は、この町に親戚というものがまったくいないので、体調の悪い息子を預かってくれる人など皆無。旦那は朝の六時に帰宅し、昼の一時に仕事へ行く人なので、基本的にあてにならず。だれが、子供のめんどうを見るか。そう。私以外にいたら教えて欲しい。泣く泣く、仕事を辞退しました。私って、いったいなんだろう。ふとそう思いました。主婦の仕事っていうのは生産性もないし、けっして誰かに褒めてもらえる仕事じゃあありません。給料だってないし、それどころか節約も主婦の仕事の一つだもんね。そこでであったのが、この言葉。良心に恥じないということだけが、我々の確かな報酬である。そうなんですよ。給料なんてもらえなかろうが、褒められなかろうが、良心に恥じないということだけが、報酬でも、いいじゃないか。そこが、一番大事じゃないか。ふと、そう思ったHでした。
Nov 9, 2010
少しでも、笑顔で幼稚園に行ってもらうために。柄にもなく、母はこんなことをしたぞ。 こんなことも。 笑顔で帰ってきてね。
Oct 12, 2010
本日、私の最愛にして最高の、そしてたった一人の息子が幼稚園へとむかった。満三歳クラスへの入園である。一応私の家族計画では、この時期二人目を妊娠している予定だった。一人目のときがつわりがハンパなくきつかったのと、頼れる親戚のいない場所での生活、ということを考慮して、早めに人気のある幼稚園の満三歳クラスを予約していたのだ。ところが。妊娠しないどころか、受精すらしない。それなのに、息子を幼稚園に預ける必要があるのか……。働いているわけでもないのに……。悩みました。しかしながら、息子がすでに友達を欲していて、仲間と遊びたがっている様子や、すでに満三歳のクラスが予約が定員に達していることなど考慮し、こりゃ、今断ったら、四月までは入れれないな、と判断し、入園するに到りました。息子よ。私は100点満点の母親ではなかったと思う。けれど、100点満点の努力はしたぞ。これだけは胸を張って言える。指を切って泣いている息子に、本来は優しい言葉をかけてあげるべきなのに、血を見てテンぱった愚かな母は、息子を怒鳴ったこともありました。生理前のいらいらしているときには、普段は怒らないようなことで、これみよがしなため息をつきました。よく息子は私が眉間にしわを寄せていると、「ママ、ぷんぷんしているの?」と心配かけたこともありました。けれど、愚かな母は、それでも一生懸命、毎日あなたを公園に連れて行きました。雨の日は、児童館にいったり、図書館に行って本を読んだね。ご近所でバザーやまつりがあると、二人で必ず参加したもんね。雪が降った日には、昭和公園にそりをもって遊びにいったね。ゆきだるまも作ったし、雪合戦もした。おかげであなたには幼稚園に通っていなくても、公園にたくさんのお友達ができたね。ご近所のおばあちゃんにもかわいがられて、おばあちゃんの家に一人で遊びに行くこともあったね。そのおかげで、私にもたくさんのママ友ができました。おうちにご招待されたり、ご招待したり、大変だと思うことも多かったけれど、やっぱり楽しかったね。見知らぬこの町で、これだけ友達ができたのも、やっぱりあなたのおかげだったと思う。ありがとう。そして父よ。わたしの亡き父よ。あなたとの約束は守りました。三歳になるまで、貧乏でもいいから借金しない程度で生活できるなら、子供のそばにいてやれ。そうあなたは生前言った。守りましたよ。できるかぎりのことは、してあげたつもりです。おかげで、親の贔屓目かもしれないけれど、すこぶるいい子です。お金はかけてあげられなかったけれど、それでも手と時間はかけました。そして10月1日。なかなか守れなかった父との約束を守る日がやってきました。禁煙です。息子が幼稚園にはいったら、ひとりの時間でやりたいことが山ほどあったはずなのに、いざ一人になると、やりたいことなんてどれも些細なことばかりでした。少しもてあました時間で、ブログを更新したHでした。
Oct 1, 2010
昨日夢を見た。忘れないうちにここに書いておこうと思う。私は歩いていていた。ひたすら歩いていた。息子とともに。息子は今の年よりすこし、小さかった。二歳ぐらいだろうか。勾配のきつい坂道だった。夢の中で私はここを、八戸の、湊と呼ばれる地区だと思っている。しかし、本当にこういう場所が存在するかは定かではない。ともかく、湊と呼ばれる、今は寂れてしまった、かつてにぎわった港町の面影を色濃く残す場所を歩いている。病院と思われる場所に入る。しかしその中は真っ白で、下へ向かう螺旋階段しかない。なぜそこを病院と認識したのかはわからない。そこで高齢者の団体とすれ違う。漠然と不安を感じてその場所をでる。日が暮れてきた。そろそろ帰ろうと子供の手を引く。港にかかる橋を通りかかる。橋にはたくさんの見物客がいる。港にはたったいま入港したたくさんの船が暗い空をこうこうと照らしながら、何かの祭りのように円をかいてぐるぐる回っている。船には男たちが乗っていて、見物客を意識しながらおしゃべりをしたりタバコを吸ったりしている。その船の上に、父を見つけた。父は船に乗っていた。作業着を着ていた。数ヶ月髪を切っていないのか、伸びていた。陸の漁師が、ほんものの漁師になった。父も私の姿を見つけ、何か話しかけてきた。それは記憶にない。そのまま家に帰ろうと思ったが、ふと不安になった。今日、父が入港することを母や弟たちは知っていたのだろうか。入港して誰も迎えてくれないのであればあまりに不憫だ。たまたまとはいえ、ここにいてまるで父を迎えるように橋に立っていた私は、このまま帰ることなどできないのではないか。そう思ってたたずんでいると、やがて船をおりた父と対面した。会話を交わすが、記憶に残っていない。夢からさめたあと、よかった。と思った。なにがどうよかったのか、理屈ではなく、本能で、ああよかった、と。父は、今きっと船に乗って、本物の漁師になれたんだろう。と。意味不明な記述ですみません。あくまで私的な夢の記述です。
Aug 27, 2010
ついに届きました!我が家にも「2010年度ロマン大賞応募作品選評」が。詳しくはネットで公表することができないんですが、とても嬉しかったです。ずうっと前、ネットで「文学賞の下読みさんは、作品がおもしろくなければ最後まで読まない」という都市伝説を見かけたことがあったんですが、コバルトに限ってそれはありません。断言します。この評価シートを見る限り、私のしがない小説を読んでくださったかたは、しっかりと最後まで読んで丁寧なコメントをくださいました。本当にありがとうございました。この評価をもとに、さらに精進したいと思います。……が。評価シートで「武器だ」とまで褒めてくださった私の某部分なんですが、実はノベル大賞に応募した作品では思いっきり活用しませんでした。嗚呼。それが武器だと自分自身知っていれば……知らないって怖い。武器は、それを武器と知っているものだけが使いこなせるのですね。だとしたら、それを使うものとして、さらに力を磨かねばならぬということですね。何はともあれ、感激しました。一生読み返します。選評を書いてくれたかたの、お名前もお顔もわからないけれど、いつか、直接お礼が言えたら、そういう立場になれたら、そう思うHでした。
Jul 24, 2010
昔、ロビンウィリアムズ主演の「今を生きる」という映画を、父と見た記憶があります。私は号泣してしまい、見終わったあとに父に「どこがそんなにおもしろかったか説明してみろ」といわれました。映画をみて父の前で涙をこらえ切れなかった恥ずかしさと、感動を言葉に表し説明しろという父の無粋さが腹立たしく生涯二度と父と映画を見ないと誓った記憶があります。なにせ、一番多感な時期だったので。今になってみると、やっぱり父は無粋だなあと思うけれど、もしかしたら単純に知りたかっただけなのかもしれない。一番感性が鋭い時期の娘がどのように心を動かされたのかを。たくさんの映画を見て、小説を読んできました。そのせい、とは思いたくないけれど、物語の途中で先が読めてしまったり、ここは確かにこうやらないと視聴者が泣いてくれないよな、とかなんぼ衝撃的なラストが欲しいからってこれはやりすぎだろ、などと思ってしまいます。嗚呼。年をとったなあと思います。肌じゃなくて、年齢じゃなくて、心が。もっと言うなら感受性が。いつまでも少女の感受性では生きていけないけれど。おかげでだいぶ生きやすくなったけれど。なんでこんなことを思い出したかというと、今日、市内の高校の学園祭の前夜祭があって、高校生がブラスバンドやバトン隊、山車を率いてパレードを行っていたんです。不覚にも涙が出そうになってそれをこらえるのが大変でした。だって変だものね。高校生の陽気なパレードを見て泣いているなんて。変だよ。ふと、自分の中学高校時代を思い出したんです。わたしは典型的なサボりマンで、高校の体育祭とか学園祭にはいてもいなくても大して影響力のない人間のひとりでした。そもそもそういうのに熱中できない性質なんですね。みんなと一丸になって思い出作り、とか一生懸命という言葉がとにかく無理、だった。中学のときは早く高校生になりたかったし、高校生の頃は早く大学生になりたかった。どこか遠くを眺める癖があったんです。ここじゃないどこかへ行きたかった。わずらわしい人間関係や、幼さからくる恥から逃れるように何も知らないくせに、全てを知っているふりをしていた。でもね、今になってやっぱり思うんですよ。今を生きればよかった、と。文化祭の出し物で本気になって周りから青臭いやつと思われても、自分だけにしか通じない論理を振り回して恥をかいても、あの時期だからきっと許されたかもしれない。その時期を越えて、大人になっていくべきだったのかもしれない。いつもぼんやり遠くをみて大人になりたいと思っていた私は、大人といわれる年齢になってあまりにもできないことが多すぎる。今は子供がいるので、子供と一緒に泣いたり笑ったりしながらゆっくりと成長していこうと思っています。まるで子供時代をやり直すように。
Jul 16, 2010
最近H一家ではDIYが流行っています。棚を作りました!見てください。この傑作を!板をバーナーで炙って焦げ目をつけ、取っ手は冬の海で拾ってきた流木をあしらいました。作ったのはわたしではなく、夫なんですけれど……(←小声)
Jun 14, 2010
ゴールデンウィークでしたね。いかがお過ごしだったでしょう。Hは父の三回忌のため、実家にかえり、のんびりと過ごしてきました。二週間ほど親元に帰り、冠婚葬祭で集まった親戚のかたがたと過ごし、北の大地で夫と息子の三人で過ごした時間には、なかなか思い出すことのできなかった血の繋がりをしみじみ感じて帰ってきました。核家族で異郷(?)に暮らしていると、縦の血の繋がりは認識しても、横の血のつながりには非常に疎くなってしまいます。父の三回忌に集まった父の弟たちは、あまりにも父そっくりで。父が生きていたころにはそんなこといちいち考えもしなかったのに、親戚の顔に父の顔を見ます。現代人の生活は近所づきあいが薄まり、冠婚葬祭や親戚との付き合いを嫌がる傾向がありますが、そうやって進んでいって、その未来に何があるんだろう、とふと思います。独居老人の孤独死ぐらいしか浮かびません。近所づきあいも、冠婚葬祭も、わずらわしい親戚とのお付き合いも、無駄なものかもしれないけれど、そこにきっと意味があるんだと思う。ずうっと、故郷を出たいと思っていました。恐らく、中学校ぐらいの頃から。そうして故郷から離れた場所で生活し、それはもちろん自分で選んだこと。故郷に残るのはある意味かっこ悪いことだと思っていたし、ダサいし、田舎しかしらない人間にはなりたくないと思ったし、わずらわしい親戚なんか大嫌いだとも思った。たぶん今その頃に戻ったとして、わたしはやはり故郷を出る選択をすると思う。けれど、親が見た景色を自分が見ながら育ち、その風景を自分の子供が見ながら育つというのは、ある意味ものすごく贅沢な環境なんじゃないのかな、と今なら思う。実家に帰ったときに、かつて私の見た風景を子供に見せながらそう思った。同じように、生まれてから引越しもしないで同じ家に住み、その家で親を見送り、そして自分の子供が育ち、やが孫が育っていき、時間の流れとともに老い、病に倒れていくっていうのも、奇跡に近いぐらいの幸せなんじゃないのかなとも思う。そういう生き方も幸せの一つ、いやもしかしたら、下手に都会に出てしまうよりも、もしかしたらずうっと幸せなのかもしれない。それで生活ができるなら。たぶん、その環境にいる人はその幸せに気付かないだろうけれど。外に出て、一から自分で何かを築き上げていくのもしあわせかもしれない。でも、守り、次の代に伝えるという幸せも間違いなく存在すると思う。黄金週間に実家に帰り、その地が黄金の大地に見えたHでした。北海道に帰ってきてあまりの寒さに震えたのはいうまでもありません。やっぱり北海道は寒い。雪も多いしもういやだ。嗚呼。生まれ変わったら。できれば東北に生まれることなく、そのうえ何が楽しくてより寒い北海道に住むことのない運命を、神様お願いします。
May 13, 2010
昨日の夜はハモネプを見ておりました。普段はあんまりテレビを見ない(というか見れない)Hですが、この番組が好きなんです。Hは中学時代に吹奏楽部に所属してまして、そのせいか、演奏する数分にかける思い、というのをよくわかっています。たった、数分の演奏のために、夏の全てをかける。思えば私の中学時代はまさにそんな感じでした。まず、マウスピースからはじまり、基礎練習に続き、それから練習曲に入る。それを延々と繰り返して、あの本番の一瞬がある。すごく凝縮されて、弾けるように散ってしまうあの時間。そのあとの長引く余韻。そんなものを知っているから、どうも他人事ではなくて。思わす見入ってしまうのです。で、何か言いたいのかといいますと、聞きました?優勝、センメの決勝の歌を。あれ、やばいですよね。加山雄三の「海よ」がもう賛美歌にしか聞こえないんですもん。私はクラシックが好きで、よく聞きますが、音楽に詳しいわけではありません。でも、音楽って意味じゃないよね。言葉でもないですよね。あの「センメ」の「海よ」を聞いて、魂がぐっと引き寄せられた人は多いんじゃないかと思います。暗い空とから一縷の光が差し込んで、海を照らすような、荘厳な場面に遭遇してしまった感じがしました。祈り、でしょうか。うん。祈り、です。見えざるものに、一筋の望みを託して歌い上げる。まさにそんな歌声でした。あんまりにも感動して、昨日はまったく小説が書けませんでした。歌っていいですよね。歌える人が、本当にうらやましい。
Apr 14, 2010
青函ツインシティー提携二十周年を記念して募集された「あなたの赤い絲物語」。これに応募して入選しました(笑)旅行券、ゲットです。念のため、大賞ではありません。あえてリンクは貼りませんので、(恥ずかしいから)ご興味のあるかたは、検索してみてください。990作(?)ぐらいの負応募があったはずで、そのなかから選ばれた!と鼻息を荒くしていたら、なんだか…、あれ?400字、という縛りがあったので、詩のような形式で応募したのですが、みごとに改行がふっとばされ、ただの文章の羅列になっているので、改めて読んでも、あまり、いいのか悪いのかさえ自分でわかりません。正直、行間を飛ばされると、痛い。この字数だと、行間にも意味があるつもりなんですが……。でもなにはともあれ、旅行券をゲットしたので、よしとしましょう。この旅行券で、そろそろ旦那の実家に帰ろうかなあと思っています。
Apr 6, 2010
遠藤周作さんの最後の短編集である「無鹿」わたしはこの作品を三度読んだ。一度目は大学時代。そのころ「深い河」「沈黙」「女の一生」などの遠藤作品を読み漁っていたわたしにとって、非常につまらない作品だった。二度目は二十代半ば。たいした感想もないまま斜め読み。三度目。一週間ほど前。やっと、この年になって、この作品の深さをわかりかけた気がした。作品としては、他のものと比べると質が落ちるような気がするんだけど、でもたぶん、小説の価値ってはそういうものじゃないと思う。この「無鹿」というのは短編です。内容を簡単に説明すると、まずますの幸せな人生を送った主人公が、定年前の最後の出張で突然「無鹿」という地名の場所を訪ねる、という内容です。出張から帰ると、血痰を吐いた主人公はその検査結果を知ることになる。主人公はどこかで死の予感みたいなものを感じている。主人公が縁もゆかりもないこの場所を訪れようとしたのは、居酒屋で会ったある男の言葉、「西郷隆盛も、大友宗麟もそれぞれん夢賭けて、そん夢が破れたのが無鹿」というものがあったからです。実際主人公が訪れたその「無鹿」という場所は、草が生い茂り、日の光に照らされた、何もない場所であった。主人公の頭に再び男の言葉が蘇る。わたしは父を亡くしました。最後に父が入院するために、生家兼会社事務所である建物をでるとき、じっとその建物を眺めていたそうです。その建物というのは、わたしが生まれたとしに、先代の社長である祖父が立てたものです。かつては一目でお金がかかっている分かる建物、露骨に言ってしまえば成金趣味的な家、そして今は手をかけられず、古くなり痛み、廃墟のようになってしまった建物。それを見て、父は何を考えていたのだろう、ずっとそう思っていました。父は、あの建物の中に無鹿を見たのではないかと思うのです。自分が道半ばで、なし終えなかったこと、まだ完成していないものを。もし、わたしが今自分の半生をふりかえるなら、ひどく生生しくてリアルで、なしえなかったものというのはまだどろどろしています。でも死の予感をもってふりかえるなら、きっと見えるものは違うと思う。自分の努力した痕跡を、自分が届かなかったものをまぶしいものを見上げるように、きっと想うと思う。それは手が届かなかったからこそ、美しくてまぶしくで穏やかで澄み切っていて。でもいつかは、「無鹿」のように夢の欠片さえも跡を残さず消えていくのだろう、と。父は、そういうものを、入院する間際見たのかもしれない。死の予感を感じた人間と、今を生きる人間がみるものは違うのかもしれない。そう思ったHでした。
Mar 8, 2010
本日、わたしの住むH市の市民文芸授賞式があり、そこへいそいそと参加してまいりました。市民文芸。おそらくみなさんの住む町にもあると思いますが、これは受賞したからといって、作家になれるわけではありません。その町にもよると思いますが、少なくともH市では賞金もありません。その市民文芸に、去年、一作応募させていただきました。理由は二つあって、まず、わたしの小説のどこがわるいんじゃい、と誰かに聞いてみたかったこと。二つ目は、亡き父が、高校時代に書いた小説が、出身高校の文芸冊子にのっていたこと。父がなくなってから読んだのですが、(内容はともあれ)こういう風に、活字で何かを残すってすごいなあと思ったからです。ワードに保存するのとも違う、ネットで公開するのとも違う。こういう形で冊子に掲載されると、半永久的に保存してもらえる。そして何十年か後に、子供が読む機会を与えられる。わたしが何をしたかったか、何をしようとしていたのか、形に残せるっていいな、と思ったのです。で、入賞しまして、授賞式へ参加したわけです。率直な感想をいうなら、行って良かった。書いてよかった。本当にそう思いました。プロを目指しているかたからみたら、市民文芸かあ……、と思うかたもいらっしゃるでしょう。しかし、自分の小説を読んで、それを評論してくださるかたと対面する、なんてことは、文学賞を受賞したとき以外にはありえないのです。もちろん、わたしもその日がいつかくることを信じてはいますが。いますが。いますが。まず、自分の小説をめくって赤面しました。なんと主要登場人物の名に、旦那の名前を付けていたのです。これは……ちょっと……わすれていたとはいえ……。小説部門を担当してくださったのは、某国立大学の名誉教授でいらっしゃるA先生でした。そのA先生のコメントを読みながら、不覚にも涙が浮かび上がる。ああああああああ。感激。お褒めいただくと同時に、欠点もご指摘いただきました。それすら、嬉しい。審査員のかたがたの挨拶がすんだあと、賞状をもらいました。いったい何年ぶりだろう。賞状なんてもらうのは。授賞式がすんだ後、A先生にご挨拶をしなければ、と思い声をかけさせていただきました。周りが騒々しくお声が聞こえにくかったのですが、A先生は、「いさり火にも応募されましたね」と言いました。いさり火文学賞です。道南の地方文学賞です。は、はい。確かに……。A先生はいさり火文学賞の審査員もなさっていたはず。お、覚えてくださっている!ど、どうしよう。ご挨拶が済み、わたしはいそいそと帰路につきました。その道中、わたしはですね、高揚感と同時に、どうしようもない恥ずかしさを感じました。わたしは、どこか大事なものを忘れていたのです。普通、文学賞に応募すると、落選続きのわたしのようなものには、一切連絡がありません。誰が読んでいるのか、どう思って読んでいるのか、まったく知らないのです。審査員の作品は読んだことがあっても、あったことなどないわけで。そもそも最終に残らなければ、審査員のコメントももらえるはずもなく。誰にむけて書いているのか、自分の作品がどう読まれているのかもわかりません。けれど、審査員ってのは、人間で必ず、存在する。わたしは、小説を感情のままに書いていたような気がするんです。小説を感情の捌け口として、日常を穏やかに過ごしていた。小説は、人に読ませるために存在するのであって、プロを目指すのであれば、読み手のことを考えなければならない。決して一人よがりではだめなんです。よく、文学賞の最終の評論を読んで、「読み手のための小説を」と訴える審査員の方はたくさんいます。あたりまえだろ、小説なんだから。と思ってました。けれどはじめて今回心底そう思ったのです。わたしの(へぼい)を真剣に読んで、覚えてくださっているかたが一人でもいる。だったら、せめてそれに報いるために、せめて真剣に書かなければならない。地方文学賞だから、とか、これに受賞してもプロになれるわけじゃないから、とか、記念応募だから、とか、どうせ通過できないけれど、とか、そんなのは言い訳に過ぎないんだな、と。小説を応募するっていうのは、読むほうも、書くほうも、真剣じゃないと意味がないんだな、と。中途半端な作品を量産して応募するというやりかたではだめなんだなと心底気付きました。たぶん、プロを目指すってそういうことなんだなと。市民文芸と、A先生に心から感謝します。市民文芸に応募していなければ、こんな当たり前のことにも気付けないHでした。
Feb 27, 2010
わたしは横柄な子供だった。虚言壁のある子供だった。大人に嫌われる子供だった。あいさつもろくにできない子供だった。わたしはよく聞いた。同級生から小学生のころよく聞いた。「お前の家って金持ちだからっていばってるよな。うちの母さんもお前の家嫌いだっていっていた」「わたしのお母さんがHちゃんのこと、あいさつもろくにできない子だって言っていた」「うちのおじさんがありがとうもいえない子、遊びに連れてくるなって言ってた」生まれたときからわたしがそういう子供だったわけではない。成長するにつけ、複雑な家庭環境から、わたしは優越感と劣等感が同居し、横柄なくせに繊細な奇妙な子供ができあがった。今になって思う。小学生という年齢で、わたしがそんなに悪かったか、と。自分の家庭や自分の悪口を、同級生の口から聞かねばならないほど、悪かったか、と。わたしが悪いのなら、わたしに対して成人するまで全責任を負う親も悪かろう。しかしそれよりもあいさつができない子供を目にして、親と言われる種類の人間がその子を指導、注意することもなく自分の子供に愚痴を垂れ流す、その親のほうがずっと恥ずかしい。その恥ずかしい親たちは覚えているだろうか。自分の言った言葉や行いを。わたしに直接注意することもできず、影で自分の子供に悪口をいうことしかできなかった親たちは今頃孫をもち、祖母、祖父という立場にあるのだろう。わたしは小さなころから大人というものが嫌いだった。自分だけが正しい振りをして、愚かな間違いにすら気付かない裸の王様だと思っていた。年上というだけで礼儀正しく振舞ったり、敬うつもりはまったくない。そう心に決めていた。今になってみると、小さいころのゆがんだ考えだったかもしれないがあながち間違ってはいないと思う。いつの日か、同級生の親にあったなら、伝えてあげたい。わたしは少なくとも、自分の子供の同級生の悪口を自分の子供にいうような親にはなりたくない。と。たとえ立派な親になれなくとも。
Feb 11, 2010
あけまして、おめでとうございます。本年度も、どうぞよろしくお願いします。……今更ながらの新年のごあいさつ、失礼しました。このブログを放置していたわけではないんですよ。(以下言い訳)北海道の冬は厳しくてー、子供を公園では遊ばせることができなくなりー、毎日、今日は児童館、保育園の開放日、幼稚園の見学会、プール、そりで遊べる公園、お散歩……だのスケジュールを組んで毎日行動していると、子供が寝る夜の七時にはぐったり……。文章を書く気力さえ失いました。ええ、小説もまったくかけません。それどころか最近になってようやく本を読めるようになったぐらいです。夏は楽だったなあ。すぐ目の前の公園に連れて行けばお友達と遊んでくれたし。と、まあ、こんな生活にも慣れてきたのでぼちぼち更新を。まず、しなければならないのが、文学賞の報告を。したくはないんですけど。本当は。なんと全滅でした。何一つ、ひっかかりませんでした。R-18、さくらんぼ文学賞、いさり火文学賞、文学界新人賞、すべて落選。どーだ。すごいだろう。わははは、は、は、は。えーん。まあまだ結果が出ていないものもありますから。せめてその作品たちががんばってくれるのを祈るのみ、です。新年そうそう暗い話題でごめんなさい。そんな私に記事のリクエストをくれた鈴木様。ごめんなさい。次回は何かささやかなものでも明るい話題を提供できたらと思っています。そしてこの場をかりて、いまだメールの返信をしていないなつ姉さま。近日中に返信しますので、どうかご容赦ください。うう。だめだめだーーーーーーーーー。
Jan 25, 2010
暗雲に一筋の光日のあたる場所そこにわたしはいないけれど微かな光の粒がわたしにも降り注ぐこのぐらいがちょうどいい自分の足で、影なる場所から一歩踏み出すとそこに一縷の光もない場所などどこにもないそう信じたい
Nov 29, 2009
警察のかたがいらっしゃったとき、「おーい、Aちゃん、帰るぞ」と言っていたので、おそらく面識があったのでしょう。もしかしたら同じような通報が過去にあったのかもしれません。何かAちゃんの家庭の事情を知っているかもしれないと一つ質問をしました。「この子、よく一人でいるところを見かけるんですけど、こういうときってどうすればいいんでしょうか?この子の家は、そういう家なんでしょうか」すると「いいえ。この年齢は保護が必要な年齢です。もしまたこういうことがあったら110番してけっこうです」とはっきり言ってくださった。警察の人にこういっていただいたことは、すごくこころ強かったです。だって、ずうっと自分がとった行動が正しかったのか不安だったんだもん……。でもね、こういうことがあったとき、迷わず110番できる人は非常に少ないと思う。しこたま殴られているとか、裸でベランダに出されているとかなら、もう迷わずするけれど。だって、大人の義務じゃん。権利があるように、義務だってあるさ。少し服が汚れている、なんだか不潔な感じがする、一人で公園にきているようだ、というレベルでは、とても110番通報なんてできない。子供の異変に気付くのは学校の先生や幼稚園の先生の場合が多いと思いますが、そういった場所に通っていない子供の異変に気付くのは、同じような年頃の子供を持った親が多いと思うのです。そうすると、子育てのたいへんさや、親の気持ちもわかってしまう。多少汚い服を着ていても、子供ってすぐ服汚すからな、と思ってしまうし、オムツの替え忘れだってある。それぞれの家庭の事情だってあるだろうし……などと、考えてしまう。自分の子供が激しく泣いて、それだけで近所の人に通報されたら子育て自体がすごいプレッシャーになってしまう。緊急も、疑いも含めて重いものから軽いものまで相談できる窓口が一本化してほしい。できればわたしのよな記憶力がない人間にでも覚えられるような電話番号にしてほしいなあ。それと、今回の件で一番わたしが怒りを覚えたのは、Aちゃんの親でもなく、当然Aちゃんでもありません。公園にいたとき、Aちゃんを見て見ぬふりしてストレッチしたり、散歩していたくせに、警察がやってきたとたん野次馬根性丸出しで近寄ってきた高齢者の方々です。私は、あなたがたのような人間になりたくない。警察の姿が見えたとたん、「あれ、いつもこの子、おねえちゃんといるのにね」「午前中はおねえちゃんといたでしょ」「Aちゃん、家聞かれたらきちんとこたえなきゃだめだよ」などと言っていた方々。問題を履き違えていらっしゃるんじゃないでしょうか。昔と今では子育ての常識も違います。午前中にお姉さんと一緒にいたって言いますが、今は夕方です。家の場所をわたしが教えられて、どうしろっていうのさ。っていうか、あんたら、何かしてやったの?ただ見てただけじゃん!声もかけてあげないでさ。急に知り合いみたいな顔しやがって!わたしのその思いに気付いたのか警察の方が、「お姉ちゃんっていったって、めんどうみれる年じゃないだろう」といってくれました。けれど、今でもわたしは自分がしたことがいいのか悪いのかわかりません。もし、Aちゃんにとって、家より公園が安らげる場であるならば、わたしがそれを取り上げた可能性もあるからです。けれど、そうするしかなかったのだ。そう自分に言い聞かせています。いやあ……長かったですね。ここまでお付き合いしてくださってありがとうございます。以上、公園物語、完結です。現実の子育てに完結はないんですけどね。ははは……
Nov 21, 2009
その日は、肌寒い秋の日でした。午後二時ごろ、町に用事があって、公園の中の道を通ると、そこに、Aちゃんの姿が……。肌寒いにもかかわらず、ジャンバーも着ていません。なんだか、ズボンもずり下がって、腰が丸見えです。こういってはなんですが、なんだか哀れな感じがしました。Aちゃんは、同じぐらいの子供さんと、その保護者のかたと、砂遊びをしていました。用事を済ませて家に帰るとき、再び公園を通ると、息子が公園で遊びたがりました。「寒いから、少しだけね」そうは言ったものの、目は、まだ公園にいるAちゃんに釘付けです。明らかに変なのです。さっき見たときより、ズボンがずり下がり、おしりが半分見えているのです。その日は土曜日だったので、公園にいたのは常連の保護者たちではなく、たまたま遊びにきている子供と保護者といった方々ばかりで、みなが遠目でこの子の親どこにいるんだ?というような感じで見ているのです。この子の親は公園には来ていない。そう確信しているのは私だけでした。日ごろのAちゃんの様子を知っているのも、私だけです。平日なら、もっと常連さんもいたので、こうも使命感を覚えることもなかったのでしょうけれど……。それからさらに一時間ほど過ぎ、公園のお子さんたちも一人二人と帰って行きます。一緒に遊ぶ人のいなくなったAちゃんは、わが息子に近づいてきました。そして、砂遊びを一緒に始めたのです。こうなると、もう見て見ぬ振りはできません。「Aちゃん、ごめんね。ちょっと、オムツさわってもいい?」そう聞くとうなずいてくれたので、ズボンの上から触ると、びっしょりと手が濡れました。つまり、Aちゃんは、オムツが濡れすぎて、その重みでズボンが下がりおしりを出して歩いていたのです。こ、これは……。頭の血が軽く引く音が聞こえました。私だって、子供のオムツを替え忘れることはあります。確かに。けれど、こんなにズボンが下がるだなんて、どんだけ長い間放置すればこうなるんだ!以下、私とAちゃんの会話です。「Aちゃん、おとうさんとお母さんは公園にはいないんだよね?」「お父さんも、お母さんもいない」「いつも、お兄ちゃんたちと来てるでしょ?今日は?」「お兄ちゃんもいない」「オムツ替えてないの?」「うん」「お家に帰ったほうがいいんじゃないの?心配してるよ、きっと」「おうちわかんない」その後、「ご飯だべてない」「お父さんは入院したの」「お家に帰ると悪い病気になるんだよ」と、よくわからないことを言われる始末。そうしているうちに、どんどん公園から人がいなくなっていきます。嗚呼。どうすればいいんだ。どうすれば。このまま、見てみぬ振りをしてもいいのか。いや、だめだろう。こういう大人にだけはなりたくないと、日ごろ思っていたじゃないか。じゃあ、どうすれば?自分の子供が見ているぞ。だから、どうすれば?あ、以前の男性保護者のように、小学校に連れていけばいいんじゃね?がーーーん、今日は土曜日だろ?頭の中で激しい葛藤がスパークします。と、そこへ通りかかった子供づれの女性保護者。なりふり構わず、とっ捕まえで事情を説明すると、「よく、そういう話は聞きますが、まさか自分のそばで起こっているとは……」と絶句。しかし、Aちゃんの様子を見て、「これは、でもどこか専門の相談所へ連絡したほうがいいのでは……」とのこと。でも、それってどこ?電話番号何番さ?とりあえず私はまだ公園で遊びたがる子供を抱きかかえ、自宅へ帰宅。速攻タウンページと格闘。とりあえずここに電話してみっか、そう思ったのは子供相談センターだかなんだか。電話をして事情を話すと、開口一番、「で、あなたはその子をそのまま公園に放置してきたんですか?」……うぎゃーーーーーー。どうしろっていうのよ。じゃあ、こういうことがあったときの電話番号を三桁にして告知しろよ!警察とか救急みたいによ!窓口が多すぎるんだよ。児童相談所だの、子供110番の家だの、いっぱいつくるんじゃねーよ。家かえって調べなきゃわかんねーよーな電話番号いっぱいつくんじゃねえ!「緊急に保護が必要な状態なので、交番に連絡してください。そのほうが、その後児童相談所等の介入がしやすいですから」とのことで、爆発しそうな怒りを抑えて最寄の交番へ。…出ない。もう一つ近い交番へ。……やっぱり出ない。怒りのあまり、冷静になったわたしは、中央警察署へ。やっと出た。事情を説明すると、「それは保護が必要な状態なので、今警官をそちらに行かせます。で、申し訳ないんですが、それまで保護していただけませんでしょうか」ここでいやと答えられる人がいたら見てみたい。「はい」そう応えて、再び息子を連れて公園に。Aちゃんは今にも道路に飛び出そうとしていて、男性の方に止められていました。わたしは駆けつけて「すみません。その子の保護者ですか?」と問うと、男性は顔をしかめました。「いや。でもこの子、親もいないみたいだし、道路にとびだそうとするし、どうなってんだか」私は、今までの経緯を説明し、警察が来ることも話しました。その上で、警察が来るまでこの場にいてほしいとお願いしたところ、快諾していただきました。Aちゃんには、警察がくるといって逃げられたら困るので、「少し、おばさんと一緒にいようか」と声をかけるとにっこりと微笑んでくれました。で、警察の方は、のんびーりといらっしゃってですねー。車で来るのかと思ったら歩きかよ!と男性の方とつっこみをいれたぐらいですもん。その間、こっちはどきどきですよ。だって、待っている間、Aちゃんの保護者が現れたらどうしようって思いましたもん。「大げさにするんじゃねーよ」って怒鳴られて殴られたらどうしよう……という不安との戦いでした。警察に事情を話し、引き取っていただいた私は、一緒に待ってくれた男性にお礼をいうと一目散に家に帰りました。実はあわてていて家の鍵を閉めるのを忘れていたんですね……。次は最終、公園物語(5)結論に続きます。やー。なんだか引っ張ってごめんなさいね。ずいぶん長いなーと思うんですが、これを見ている保護者の方、本当に自分がその立場ならどうします?こういう問題って、正解がないので難しいなあと改めて感じました。
Nov 11, 2009
一人で現れるようになったAちゃん。けれど、ひとりぽつんといるわけではなく、小学生の子供たちに遊んでもらったり、ときにはよその保護者つきの子供さんと一緒に遊んだりしていて、間違いなく一人である、と確信するにはいたりませんでした。もしかしたら、どこかにお兄ちゃん、お姉ちゃんがいるのかもしれない、そうも思っていました。そして平日のお昼。昼食前にどうしても公園で遊びたいと言い張る息子に負け、公園へ行ってみると、そこにはよく公園で会い、挨拶を交し合う、男性保護者がその息子さん(確か二歳)を抱っこして、さらにAちゃんを三輪車に乗せて押しながら、非常に困ってまわりをきょろきょろなさっていました。わたしが通りかかると、男性保護者に呼び止められました。「もうお昼で公園には誰もいないのに、この子の、親もいない。家を聞いても知らないというし、帰れないというし、かといって、このぐらいの年の子をこのまま放置することもできず困っている」ということでした。その男性保護者も公園の常連なので、この子が普段ご兄弟、あるいは一人できているような様子には気付いていたようです。わたしは、とりあえず、その男性保護者に自分が知っている情報を伝えました。名前がAちゃんであること。お兄さんとお姉さんが近くの小学校に通っていること。上の名前や、家まではわからない、ということ。するとその男性保護者は、「今日は平日だし、たぶんこの子は一人できたのだろうから、その小学校に行ってみる」とのことでした。そこでわたしたちは別れたわけですが、家に帰ってから、結構心配になって、こういう場合、どうすればいいのか考えました。ネットで同じような経験をしたかたの書き込みを見つけ、読み、猛烈に反省しました。まず、その子を勝手に公園から連れ出すことにも多少の問題があるということ。何か事故にあってしまえば、責任問題にもなります。小学校に向かっている間、親が捜しに来ていたら、大事になったかもしれません。せめてわたしも第三者として同伴するべきだった、ということに気付かされました。とはいえ、もし自分があの立場になったら、どうしよう。具体的にどうすればいいんだ。そう思いながら密かに悩み、次の日公園へ行くと、男性保護者の姿が!さっそく聞きました。その後の経過を。男性保護者は小学校へ行き、先生を校門へ呼び出し事情を話し、保護してもらったそうです。「でも、よく考えたら、自分が公園から連れ出すのも、本当はだめなんですよね。でもああいうとき、どうすればいいのか…。困りますよね」男性保護者の方も、悩んだようです。自分だったら、どうするか。皆さんだったらどうします?公園に一人でいる三歳の子供。誰もいない公園に一人残して帰ることができますか。それとも、そういう家なのだろうと勝手に判断し、見て見ぬふりをしますか?その結論がでないうちに、わたしはまさに自分の常識を問われる立場となりました。続きは公園物語(4)へ
Nov 8, 2009
わたしたちがかつて子供だったころ、子供が子供をみる、というのは当たり前でした。わたしが通う公園にもそんな子供たちがいます。それがAちゃんでした。Aちゃんは、おにいちゃん、おねえちゃんに連れられてこの公園にやってきていました。おにいちゃんたちは、小学校高学年ぐらいでしょうか。Aちゃんをふくめた三人は、子供だけで公園にきているグループと一緒によく遊んでいました。かつてよく見た昭和の風景。それがこの町では生き続けている。もう戻れないかつての時を思い出し、わたしはその風景を目を細めて見ていました。ところが何度も見かけているうちに、そういうわけでもないことに気付いたのです。なにせ、この公園はばかでかい。それに、Aちゃんを連れているおにいちゃんたちも遊びたい盛りの小学生。つまり、Aちゃんを置いて、虫取り網と籠をぶら下げたまま、どこか遠くへ行ってしまうのです。これが住宅街の小さい公園なら、遠くへ行くといってもたかが知れています。わたしの通う公園は馬鹿でかいので、おにいちゃんたちが夢中になってどこかへ行くと、Aちゃんは放置された状態になってしまいます。ある日は、水のみ場で遊んでいて、全身水浸し。しばらくして駆けつけたおにいちゃんに怒られ、道路に飛びだし、車は急ブレーキで間一髪。これが二回ありました。またある日は、Aちゃんが保護者のかたに連れられた小さな子供のお菓子を食べて駆けつけたおにいちゃんい怒られ「なんでそうやってお菓子たべるのよ!」と怒鳴られ「だっておなかがすいていたんだもん」と答えていました。ある日は、別の上級生に泥団子を食べさせられ大泣き。おにいちゃんたちはどこか遠くへ行っているのかAちゃんは泣きっぱなし。違う子供さんをつれた縁のない保護者の方がきれいにしてあげて、うがいをさせていました。Aちゃんを、公園にいる保護者の方が、なんとなくめんどうを見ている状態が続きました。ただ、そのときの公園の保護者の正直な雰囲気を正確に伝えるなら、「誰がこの子の、保護者なんだろう」という疑問と、「この子のめんどうはこの公園にいる間みてもいいけど、保護者だと思われたくない」という微妙なものでした。何より、正直わたしがそう思っていたからです。それでものんきなわたしは思っていたのです。昔はこうしてみんなが子供の面倒をみたものだ、と。わたしも段々とAちゃん、およびそのおにいちゃん、おねえちゃんと交流するようになり、砂場で一緒に遊んだり、少しお話をするようになりました。そしてAちゃんの名前を知ることになったのです。そのおにいちゃんが通う小学校の名前や、おにいちゃんの名前も。一応、おにいちゃんの名誉のために書きますが、おにいちゃんは年の割りにしっかりした方です。たとえば、午前中、一緒に砂場遊びをして(遊び道具を貸してあげながら)、午後再び会うと「さっきは(道具を貸してくれて)ありがとうございました」ときちんと挨拶してくれます。わたしが小学生高学年のころ、こういったふうに、決してあいさつできませんでした。しっかりしているのです。ただ、つれてきた妹のAちゃんより、自分が遊びたいお年ごろなだけなのです。子供に、子供を見させる、というのはつまりそういうことだと思うのです。大人のようには見ることができない。ただ、それだけです。それでもおにいちゃんたちと公園にAちゃんがきているうちはよかったのです。やがて、夏休みを終わり、平日にAちゃんが一人公園に姿を現すようになったのです。続きは公園物語(3)へ続く。
Oct 22, 2009
わたしの自宅の向かいには大きな公園があります。遊具や砂場があるほかに、球場や、プール、テニスコートなんかもあるとにかく広い公園です。札幌に例えるなら、豊平公園とか月寒公園とか。そういう規模の、大きな公園があります。わたしはそこの公園の主になりつつあります。なんせ、週に五日は息子と通い、さらに午前と午後の二回も顔を出しているのですから(笑)だから、そこの常連さんとか、いらっしゃる方々と顔見知りになったり、一緒に子供を遊ばせたり、世間話をしたりする機会もあります。今回はそこでみかける一人の女の子の話をしようと思います。何度も公園に通っていたにもかかわらず、わたしがその女の子を認識したのは今年の九月の初めでした。仮にその子をAちゃんとしましょう。その日は公園のなかの施設で祭りが催された日でした。わたしは夫と息子と連れ立ってその祭りを見学していました。さて、帰ろうと思うと、息子を乗せて連れてきたはずの三輪車がなくなっている……公園を見渡すと、Aちゃんが勝手に乗って遊んでいました。何度か公園で見かけたような気がする子だ……と思いながら、わたしは「もう帰るから、三輪車帰してくれる?また今度ね」と声をかけました。するとAちゃんはうなずき、素直に三輪車を返してくれました。そしてわたしたち家族は三人連れたって家に帰るはずだったのですが、息子が公園で遊びたいとだだをこね、しばらく公園で遊ぶはめになりました。ようやく息子を満足させ、よし、今度こそ家に帰るぞ!と思っていると、先程のAちゃんが、おばあちゃんに手をひかれていました。おばあちゃんはひどく困った様子で、「この子、何処の子だろう。一人できたみたい」と困惑していました。公園には祭りのせいで人がたくさんいたので、わたしはその子の保護者がどこかにいるだろうと勝手に思い込んでいたのです。その子は、一人で公園にやってきていたのに、わたしはそれを勝手にまわりの状況で判断し、何も手を差し伸べてやらなかったということになります。いえ、正直に言いましょう。息子の三輪車の件でいっぱいで、正直、その子が保護者ときているかどうか、まで頭が回りませんでした。おばあちゃんに手をひかれるAちゃんの姿を見て、わたしは誓いました。今度同じような場面に遭遇したら、勝手に周りの状況で判断せずに、きちんと声をかけてあげよう。そう決めたのですが……公園物語(2)に続きます。
Oct 16, 2009
井の中の蛙 大海を知らず されど 空の深さを知るどうせ大海に出れるのなら せめて空の深さを知る人間になろうとそう思う秋のHです。
Oct 3, 2009
最後に公園に行ってから、どのぐらいの時が経っていますか?わたしは、毎日、月曜日から日曜日まで、祝祭日もなく、曇りでも雨が降らない限り、ほぼ毎日午前と午後二回、息子を公園に連れて行っています。わたしの家のそばには、大きな公園があります。そこに行って子供とすべり台や砂遊び、ボール投げなどして遊ぶたびに、わたしがもし、子供を持たなければ、こうして公園を訪れることなど、もしかして一生なかったんじゃないか、そう思い、今この瞬間が奇跡であるような眩しさを感じます。公園というのは、本当に面白い。朝から晩までなぜか夏でもダウンジャケットを着てたそがれる人もいれば、決まった時間に現れて子供が遊ぶ姿をみて納得してかえっていく人もいる。こそこそと鳩にえさをやって逃げるように帰る人もいますね。(公園は鳩の餌付けが禁止なのです)そのほかには、保育園の先生なんかも面白いです。園庭のない保育園生が先生に連れられて遊んでいるのですが、先生は子供たちを見ることもなく、中心に集まっておしゃべりばかり。帰る時間になっても遊具で遊びたがる保育園生を捕まえて「お前だら、帰るってばいっつもこうだもんなー」の一言。わたしでも自分の子供をお前と呼んだことはないですよ。この前は某小学校が秋の遠足なのか弁当を持参で遊んでました。わたしと息子は滑り台の向かいのベンチに座っていたのですが、そこへ名物おじさんがやってきて小学生に話しかける笑いかける。このおじさんは、ちょっと変わって見えますが、特に害はないです。けれど、その小学校の先生は、その様子が見慣れぬものだったのか、口をあんぐりあけて、気持ち悪そうに去っていきました。話しかけられているのも無視してね。初めて見る人には気持ち悪いおっさんに見えたかもしれません。だってわたしも初めて見たときそう思いましたもん。けれどね、気持ち悪いおっさんだと思ったのなら、生徒の手も引いて移動したらいいのに、と思いました。自分だけ移動して、何もなかったかのように他の遊具で遊ぶ生徒や先生と談笑していたあの女性教師は、もしこれが自分の子供をつれてきていたとしても、同じように自分だけ逃げるんでしょうかね。自分が盾になって、その方と話をして、生徒と触れさせないぐらいの意気込がほしかったですけどね。世の中を大人と子供に分けるなら、わたしは間違いなく大人に分類されます。子供を育てる大人が偉く、立派であると思うのは、ひどく高慢だと気付かされます。教育する立場の仮面の下の悪意にくらべたら、子供の悪さなんてかわいいものです。他のおともだちのおもちゃを勝手に借りたり、ちょっと乱暴を働いたりなんて、かわいくてかわいくてしょうがない。不遜な大人に比べたら、子供は自分の欲求にストレートなだけですもん。そのうちわたしも名物おばさんとして有名になったりして。「あいつはまわりをじろじろみて、にやにやしている」なんていわれ、出来損ないの大人、第一号になったりして。公園に長らくいると、本当におもしろい。
Sep 22, 2009
好きなものより、圧倒的に嫌いなものが多いHです。ずっとこのブログに書こうと思いつつ、なかなか書けなかったのですが、実は24時間テレビが嫌いです。わたしは24時間テレビというものの意義認めています。なかなかボランティアや募金活動に興味をもてない人も、24時間テレビとならば、と思う人も多いと思います。また、普段なかなか接することのない、障害のある人の苦しみや不便さにも気付くことができます。実際、このテレビを目標にがんばっていらっしゃるかたも多数いると思うのです。じゃあ、何がきにいらないのか。と問われると、口をすぼめて応えるしかないのですが、あの「感動をありがとう」という言葉には、ものすごく欺瞞を感じてしまうのです。「感動させるために何かをやっている」という番組の作り方に、大いに疑問を感じてしまいます。あの番組に募金している人、障害を抱える人が、自ら乗り越えようと何かにチャレンジするのは、決して人に感動を与えたいからなのだろうか。感動というのは結果ではないのだろうか。昔、綿矢りささんの小説「夢を与える」というなかで、「夢を与える」という言葉の違和感、高慢さにつて物語が書かれたことがありました。それに近い感情をどうしてもあのテレビをみると感じてしまうのです。出演者が全員泣いている。感動を強要する番組の作り方。どうも、素直に涙は流せない自分がいます。人が生きていく道というのは、決して平坦ではありません。障害のあるなしにかかわらず、その道は時に険しく、どこまでも自分を試すように、難関を用意してくれるものです。ましてや、障害を抱えていたなら、その道はより険しくなるでしょう。人は、それを乗り越えようとする。なぜか。家族のためであったり、子供のためであったり、自分のためであったり。あるいは、それを乗り越えなければ生きてはいけないから。人が極限の状態でがんばれる理由というのは、実はシンプルなものだと思うのです。決してそこに他人を感動させようという奢りも、余裕もないと思うのです。だから人は心を動かされる。人が本当に心を動かされたらどうするか。それは人によっては違うと思うのですが、少なくともわたしなら、わたしの心を動かした人間に対して、「感動をありがとう」とは絶対いえない。むしろ、何もいいません。何も言わず、その場から立ち去ります。受けた感動はわたしのなかで形を変え、色を変え、その人の生き方が、どうのようにして自分の人生に役立たせるか、形は違えど、その人のように生きれるか考えます。感動は、自分の人生に反映されるものだと思うからです。24時間テレビの感動は偽者だというつもりもありません。個人的にどうしてもなじめないのです。もし、わたしが何かをして、誰かに「感動をありがとう」なんていわれたら、卒倒してしまいます。その言葉のために自分はがんばったわけではないと、心で叫ぶでしょう。決してそれは声にはならないけれど。わたしはあの番組が嫌いです。でも必要だとも思います。万人に受けれいれられるものは、わかりやすいに限るという論理も分かるつもりです。できればああいった番組がなくなるぐらい、ボランティアや募金活動が日常生活であたりまえになる社会がくればいいなあと思います。
Sep 6, 2009
本日、川村カオリさんが亡くなりました。私にとって川村カオリさんというのは、絶対に忘れられない人です。今でも大事にCDを保管しています。当時中学生という、一番多感な時期に、彼女の音楽がなければ今の自分はいなかっただろうとさえ思うのです。当時、川村カオリさんは、神降臨のごとく、美しかった。ロシア人とのハーフだったはずです。不完全ささえも突き抜ける完璧な美少女でした。それなのに、彼女は、そんなものに意味はないとでも言うがごとく、潔いショートヘアーで、リーゼントのように髪を後ろに撫で付けていました。そして皮ジャンやTシャツを着て、一見、美少年のようにも見える格好で歌を歌っていました。ロック、なのでしょう。でも、彼女のCDを聞くと、激しいロックではなく、むしろ、暖かいバラードのようにも聞こえる曲がとても多いです。いえむしろ、どこか物悲しい感じさえありました。わたしは年月を経て、いわば川村カオリを抜けた、わけです。でもいまでもはっきり覚えています。あの「真っ白な月」を聞いたとき。中学三年生でした。きっとこの曲を、何年か、何十年後かに聴いて、わたしは今を思いさすだろうと予言めいた感覚が沸きあがったのを。そして、実際、何度も思い出すはめになりました。もう、二度と戻れない、一番多感で、苦しくて、時間を経てみるととても輝いていて、けれどその時間を生きているときはつらくて仕方がなかったあの時期を。あの時期に彼女の音楽に出会えてよかった。すごく感謝しています。一度も会ったこともないし、話したこともないし、ファンレターすら書いたこともないし、でもありがとう。ああ。音楽って、こういう風に、人に影響を与えてこういう風に記憶に刻まれるんだなあとはじめてわかりました。
Jul 28, 2009
夏の夜に 輝き滲み散る花火 砂の足跡 生きた痕跡
Jul 21, 2009
世界を恥じらいの色に染め 今日一日が終わる 私の足元には 深い闇が伸びている(すみません。穏やかな海さんの真似です。本家には足元もおよびませんが……)
Jul 19, 2009
今国会で、児童買春・児童ポルノ禁止法改正案が成立しそうな気配です。先日、児童買春について取り上げたばかりなのでたいへんほっとしています。ただ、単純所持を規制するか有償・反復取得を規制するかで自民、民主と意見が割れているようです。基本的に、今度の選挙は民主に勝ってほしいと願っているHですが、この法案に関しては自民党を支持します。さて、先日児童買春の記事を取り上げたHは、妙な責任を感じて、(←?なんの?)児童買春、あるいは性的虐待について少しだけ調べてみました。一応、参考書を上げておきます。「なぜ、少女ばかりをねらったか」 レイ・ワイア/ティム・テイト著この作品は、少女を殺害、性的虐待を犯した人間を、カウンセリングした作者が書いたものです。まず、こういった運動(子供の性的搾取)が起こったのは、つい最近の出来事でそれまでは無法地帯だったことに驚きました。「1960-1970年代にかけて学術目的で書かれたものも含めた膨大な著作物がこのような信念を支えていた。いずれも「同意に基づく、世代を超えたセックス」をスローガンに掲げ、小児性愛者の解放団体が世界中で設立されている。アメリカの団体、ルネ・ガイアン協会はこんな標語をつくりだした。「八歳以前にはセックスを。それ以後では遅すぎる」」びっくりしました。1970年代っていったら、わたしが生まれた年代ですよ。ありえねえ。そして、この「同意に基づく」というのがなんともいえず微妙で、小児性愛者というのは子供が抵抗しなければ同意と都合よく解釈する人間がとても多いようです。大声をださなかったから、同意した。抵抗しなかったから、同意した。わたしにはご都合主義としか思えません。そしてデンマーク――といえば、北欧です。北欧といえば、みなさん、いいイメージをお持ちでしょう。北欧家具。ゆりかごから墓場までといわれる社会保障制度――。そして、デンマークですがこの国にはロドックス・カークライマックス社というのがあって「ティーンエイジセックス」というポルノを発行していました。北欧らしい、効率のよさを誇るモデル企業として成功を収めていた企業らしいです。そして、毎年かなりの額の税金を納めていました。この「ティーンエイジセックス」というのはデンマークの承諾年齢以上にある演者が実際の年齢よりずっと若くみせ、――つまりハードコアポルノを演じていました。これらは最大かつ最長の売れ筋商品でした。内容は名前からもわかるように、思春期の少女から大人の女への変化を描きだすもの、です。もちろん、これは正式には児童ポルノではありません。とはいえ、この会社の「ロリータ」という商標でだしたポルノグラフィーのシリーズはほかのどれよりも売れました。商業用児童ポルノが公的に規制されるまでの十年間、デンマーク政府が子供の性の商品化に与えた制限はひとつ、「デンマーク人の子供を使用してはならない」これだけです。このヒットを真似て、追従者がでたのはいうまでもありません。つまり、この件は、子供の性がお金になるというかっこうの具体例を示し続けたのです。ちなみに、これに目をつけた追従者たちは本物の、児童ポルノをつくり、販売していたのです。そんな追従者の一人が、エリック・クロスです。彼は日常的に少女を虐待し、ほかの小児性愛者と取引し「ロートリッツ」という本を発行していました。もちろん逮捕されています。余談ですがデンマークにはかつて世界で唯一、合法の「児童性愛愛好者協会」を認めていた国でもあります。(この件は詳しくは 「児童性愛者」 ヤコブ・ビリングをお読みください あとがきは「闇の子供たち」の作者梁石日さんが書いています)これと似たようなことが日本でもあります。9歳の女の子のTバック写真集が発売されたり、ローティーンのきわどい水着姿の写真集が売れています。ネットサーフィンをすると、いろいろな意見に出会います。まず、撮影された女の子も合意だし、お金もらってんだからいいんじゃね?需要があって、供給があるんだから……的意見です。海外で児童を買春した人間が「自分がこの子を買ったから、この子は、そのお金でご飯を食べることができるのだ」的な屁理屈と似ている気がしませんか?僭越ながら反対意見を述べさせていただきます。これは児童性愛者にありがちなご都合主義的意見だと思います。もし、自分がローティーンのときにこういった写真集をだしたとしたなら……わたしは大人というものを一生軽蔑して生きると思うからです。本来、たとえ子供が「みんなに注目されてお金を稼げる写真集とりたーい!Hでもいいから」なんて言ったとします。親はぶんなぐっても止めます。(わたしが親なら)でもその親は止めないわけですよね。出版社に売り込みに行くわけです。で本来社会的モラルを一番に考えそうな出版社が、モラルよりお金をとって出版しちゃうわけです。で、こんな写真集、常識的に考えたら、買ったらいけないわけですよ。ところが売れちゃってる。つまり、この少女を守る防波堤は三つあって、それのどれもが機能しなかったわけで。だったら法律で規制しようって、当然の流れですよね。だいたい、本当にローティーンの女の子が自らすすんでこんな写真集を取りたがらないと思うのです。本当の意味さえわかっていれば。それをきちんと教えていれば。いっちゃえば、そろって周りの人間に騙されているのも同然という気がします。これ、抵抗しなかったから同意、と感じる児童性愛者のご都合主義にかなり近いと思います。そして何より、こういう「需要と供給」論を展開する人間は、その少女が自ら望んだと思い込んだ上でそういう屁理屈をこねるのではないでしょうか。まず、前提に、少女が自分から望むはずがない、という前提で、ものを考える必要があると思います。その他には「こういう児童ポルノがなくなったら実際の性犯罪が増えるのでは?」的意見です。「なぜ少女ばかりをねらったか」のなかに出てくるブラックという性犯罪者もこの「ティーンエイジセックス」の読者でした。つまり、こういうポルノは、犯罪の抑止力、となるかもしれませんが一方、犯罪を助長する可能性だってあるのです。これを忘れてはいけないと思います。いえ、むしろ、こちらに重きをおくべきだと思うのです。もし、こういったポルノが―過激なものが世の中に存在しなければ、小児愛傾向のある人も、自分のなかのほの暗い欲求に気づかないまま、一生を終えることができるかもしれないのです。少女の姿を見て、どきっとするだけで一生を終えることができたかもしれない人間を、こういった児童ポルノに触れさせてしまうことによって、よりリアルな空想、妄想を刺激する可能性だってあります。現に「なぜ少女ばかりをねらったか」に取り上げられる、性犯罪者、ブラックも、子供のポルノの存在を知ったら、普通のものはあまりかわなくなった、と証言しています。また「表現の自由」などあげられている方もいましたが詭弁にすぎないと思うのです。子供に無理やりそんなことをさせて表現の自由もくそもないでしょう、と。日本は最大の児童買春国のひとつです。みなさんはこの問題にどのようにお考えでしょうか。東国原知事は政治の最大の敵は無関心だとおっしゃいました。わたしも同様に、社会でおこっている問題の根本的な問題は、無関心にあると思います。この問題についてわたしができることは数多くありません。しかしながら、このブログを読み、読んでくれた人の心に、何らかの感情が芽生えることを期待します。それが、せめてわたしのできることだと思うからです。
Jul 3, 2009
この「闇の子供たち」を読んだのは、5年ほど前、タイに旅行にいく直前でした。海外に行くときには、その国をテーマにした作品を一冊は読んでから旅行へいく、というわけのわからないポリシーを持っているHは、何気なくその本を手にしました。この本の作者は、「血と骨」をかいた作家さんです。「血と骨」を読んだときに、とても暴力と血の匂いが立ち上る作品だ、と思いました。行間からただよってくるんですよ!こびりつき、濃縮された焼肉のたれの匂いが!美しいものを書かせたら、右にでるもののいない、川端さんや三島さんの対極にある作家さんだなあと思いました。で、「闇の子供たち」です。この作品は映画化もされています。有名な俳優さんが出ているので、クレジットにつられて見た方も多いかと思います。それでも、いい。たとえ、クレジットに惹かれたとしても、かまわないので、みてください。わたしはこの原作を読んで、何度もこのブログに書こうと思い、ここまで書けずにいたのです。きっかけは、先日「闇の子供たち」の映画を見たからです。かつてみた、タイの光景を思い出したのは、ほんの一時です。最後まで見れませんでした。原作を読んでいたにも関わらず。映像の力ってすごい。あの太った白人に苦痛に耐えながら抱かれる少年の姿が、映画を見た数日後も脳裏から離れません。経済格差。こういったものが先進国と発展途上国のあいだに存在していることを、百も承知しています。先進国の発展が、発展途上国の犠牲にあることも。けれど、それがつまりどういうことなのか、ということをこの作品はよくわからせてくれます。この作品は、フィクションです。確かに、エイズにかかった子供が、ごみ袋に捨てられることはないにせよ、生きたまま臓器移植され殺される子供がいないにせよ、限りなくこの作品にある出来事に近いことが発展途上国であるだろうことは、容易に想像がつきます。自分の子供をブローカーにわたし、お金を得る親。子供は性の道具とされ、死んだとしても誰も悲しまない。東南アジア――タイが、児童買春や、人身売買の盛んな地域であることはわたしがいわずとも知られた事実です。児童買春が具体的にどういうことであるか、というのをこの映画を見て、よくわかりました。かわいがられない子供がいる。大人に性の道具とされる子供がいる。死んだことに涙されない子供がいる。その事実に耐えられません。けれど、現実にあるのです。耐えられなかろうと、耐えられようと、事実はそこにある。この原作を読んだときに、自分が果たして何ができるか、めずらしく真剣に考えました。その結論はいまだにでません。だから、ここまでのびのびになっていました。少なくとも今できるのは、自分の子供を児童買春する人間に育てないこと。金の力で、超えてはいけない一線を平気で超える人間をつくらないこと。わたしは幸い、子供に性的な興奮を感じる人間ではありません。自分の子供を虐待などから無縁な、まっとうな人間になるよう全力で守りきることぐらいでしょうか。わたしは、是非この映画を子供をもつ母親に見て欲しいです。きっと、耐えられません。けれど、その嫌悪感が――一人一人の力は小さくとも、その想いが大きなうねりとなって、世界の子供を、少なくとも先進国の金の力でおもちゃになるようなそういう現実からは守ってあげたいと切に思うのです。
Jun 22, 2009
あまりにも美しすぎるナスターシャ・キンスキーの主演作です。こうみえてもHは美しいものが大好き。たとえ耽美と馬鹿にされようと、「美・街道」まっしぐらです。一応これサスペンスですね。狂気と紙一重の愛に取り付かれた男が、愛した女に殺される作品です。そもそもHはこういう作品に弱いのです。ずっと前、(それこそ中学校のとき)に見たウィノナライダー主演の「へザース」にでているクリスチャンスレーターに恋したのも、こういいう話でした。で、この「エクスタシーワンスモア」なんですが原題は「コールドハート」です。そう考えると、邦題を考えた人のセンスに拍手。で、この作品を見終わったあとの予告編を見てびっくり。「人妻が禁断の恋」「背徳の官能」というような男性が読むエロ本のキャッチコピーが羅列している……ひ、ひどい。これはそうい話じゃないと思うんだけれど。たぶん、この映画がヒットしなかったのはこの予告編に問題があると思います。「ヘザース」を見て、おもしろい、と思ったあなた。是非、この映画もおすすめです。
Jun 18, 2009
あまりにも美しすぎるギャスパーウリエルさまの映画を見ました。先日ブログでアップした「小さな悪の華」が、ミドルティーンの少女の残酷な内面を描いているとしたら、こちらはハイティーンの繊細な少年の内面を描いている作品です。あまりにもフランス映画的なので、きらいな人は嫌いだと思います。しかし、とても、いい。せりふが少なく、映像が美しく、しかも心象風景の積み重ねで、ああ、映画って、本来こういうものだよなあとしみじみ思いました。それにしても、ギャスパーさまはとても演技がうまい。とてもハンニバルライジングと同じ人物とは思えません。アンジーも、ディカプリオも、途中まではとてもいい役者さんだなあと思っていたのに、なぜか途中からなにを演じても、アンジーにしか、ディカプリオにしか見えなくなってしまった。売れてしまうとこうなってしまうのだろうか。ギャスパーさまも、そうならないで欲しいとおもいながら今後の活躍を期待します。幼馴染(男の子)に対する、淡い恋にも似た思いや、恋する少女と同じベッドにねてもなかなか手をださない臆病さ。そして家族との確執。出生の秘密。大人にならなければならないそのとき、少年のとった行動は胸がいたい。無駄な映像やせりふや、事件が何一つない、シンプルで美しい映画でした。嗚呼。わたしもこういう小説がかけたらなあ。それにしても、少年から青年に移り変わる頃の男子ってこんな感じなのかしら?だとしたら、それに比べて女っていうのはなんと強くたくましいのだろうと思ってしまったことは、Hの独り言として、ここに記載しておくにとどめます。
May 29, 2009
70年代にフランスで上映禁止になった映画「小さな悪の華」を見ました。悪の華――ポードレールの悪の華は、なぜか中学生のときに読みました。映画のタイトルになるだけあって、この詩が最後に衝撃的なラストで読み上げられます。簡単に話のあらすじを説明すると、教会や寄宿舎、裕福なご両親にいい子でいるようにとしつけられた黒髪とブロンドの少女二人が、いたずらというにはいきすぎた行為をして遊び、最後にはそのいたずらが過ぎて苦しみ二人そろって死を選択する話です。この物語に共感しない、もと少女だった方は少ないのではないでしょうか。逆に、男性には絶対に理解できないことだと思います。もし、この少女の気持ちがわかるとするなら、世の中にロリコンと呼ばれる人間は存在しないでしょうから。自分の下着姿を見せ、使用人に襲われるようにしむけたり、知的障害の使用人の小鳥を殺したり、見知らぬ人間の前で二人下着姿で挑発する行為。残酷ないたずらです。しかし、ある一定の時期、こういう気持ちがわかってしまう時期があります。中学生ごろの自分と重なります。逆に、大人になってからこの映画を見てよかったナと思います。中学時代、リアルタイムで見ていたら、受けた影響は多大だったと思うからです。あのころ――綺麗な髪や、美しい足、センスのいい持ち物、そういったものをたくさん欲してました。それは男性のためではありません。むしろ、女性のため、女に見てもらうため、ぶっちゃけ、自分のためでした。映画の中で少女たちは自分の美しい姿を惜しげもなく男性にさらします。それも、一つの自己表現でしかないのです。それに欲情し、翻弄され、あざ笑われる男性諸君。残酷な、無自覚な性をもつ貴重な一瞬だけの時間です。高慢で、軽薄で、残酷で、そのくせ繊細で。いわば、本当に自己陶酔に浸れる、本当に刹那の時間です。心は成長していないのに体だけがぐんぐんと大人になってしまうあの時期。勝手に銃を手渡され、その使い方も教えてもらっていないのに、使い方が悪いととたんに非難されるような感覚。だめだと思いながら、この銃を誰かにむかって発射してしまいたくなるあの気持ち。唯一与えられた武器を、不器用に体になじませ、ようやく使い方がわかったころ、わたしたちはもう大人と呼ばれてしまうのかもしれません。もう一度、あの時代に戻りたいか。そう聞かれたなら、絶対に戻りたくは無い。けれど、なぜか、ときに自分にもあの時代があったことを確認したくなるのです。
May 14, 2009
テレビといえばNHK教育テレビしか見る機会の無いHです。日曜日に大雪が降りまして、何もすることが無く、報道なんとかという番組を見ていたら、国会議員の方が世襲について熱く論じておりました。……なにを今更……。まったく世間の動向を知らないHは、何故この議論が起こったのかよくわかりません。ただ、思ったのは、世襲の是非を議員は論じていますが、世襲議員を当選させたのは有権者でしょう。世襲議員が悪い、というよりも、有権者が悪いんでないの?と、素朴な疑問を抱きつつ、VTRを見ると、小泉二世の選挙区でのインタビューがありました。小さな地元の商店街の人々は、口をそろえて小泉二世に投票するといっていました。「しがらみがあるのよ」「うちは親の代から小泉さんだったから、息子さんになっても応援する」などなどのコメント。げげ。議員も世襲なら、有権者も世襲かよ。笑っちゃうなあ。素朴な疑問だがしがらみがあったとしても、違う人に投票したら、ばれるのか?もともと、今の政治がよいものであれば、こういった世襲の是非なんて話題にならなかったのだと思う。今の政治がよくないから、こういう話題がでているわけで。でも、世襲の有権者に、はたして、自分の意思で一票を投じることができるか疑問だ。そもそも、国民が賢くて政治が悪いなんてことはなかなか無いと思うのだ。政治のレベルは哀しいけれど国民のレベルでもあると思う。もちろん、国民のなかでも立派な人も優秀な人もいるだろうけれど。わたしはこの話を聞いたとき、夕張の話を思い出した。わたしはかつて破産した町、夕張のことを取り上げたことがある。その記事は、夕張の人々に同情的だった。その同情心にはかわりがない。けれど、その後ネットで調べていったら、夕張の住民の責任も大きいことがよくわかってきたのだ。結局、夕張の財政を逼迫させたのは当時の市長だが、それを選び続けたのは市民なのだ。市長を選び続けた理由に、「付き合い」「頼まれたから」「いろいろしがらみがあって」というものが多かった。何度か市長選があり、市民は選択権があったはずなのだ。極論をいってしまえば、夕張の状況は、夕張市民が招いたものでもあるのだ。選択を間違えた(あるいは放棄した)代償は、あまりにも大きい。夕張の件から、学ぶことはたくさんあると思う。わたしは二世、三世議員が悪いとは思わない。たしかに、親の鞄だか看板だかなんだかをそのまま引き継ぐのは疑問があるけれど。問題は、しがらみ、付き合いで投票することじゃないのかなあ。投票の理由に、それを挙げてしまうことじゃないのかなあ。世襲だろうが、自分が投票するなら堂々と「この人はいいと思ったからです」と答えればいいのに。小さい商店街なんかでは、政治家の力でなにかしら動くものがあるのだろう。それを曖昧な言葉で表して逃げるのではなく、自分の生活にこの政治家が必要だと言えば納得するのになあなどと一人思いました。何かあってから、被害者みたいな顔されても困るしね。わたしは流れ者なのでしがらみなんてものは無いけれど、その土地に責任を持つ者――そのかわりに何らかの恩恵を受ける人間――だっているはずだし、むしろ地方っているのはそう言う人間が支えているのだと思う。わたしはその土地で生まれ、生活し、先祖からの商売を守り、その土地の土に変える人間に尊敬の念を抱いている。そういう人が地元を守り、変えていくのだと思うから。たとえ井の中の蛙といわれようと、大海を知らなかろうと、空の深さを知っているのだから。と、熱く思っていたら、テレビの司会者が、「確かに有権者が選んではいますが、自民党が二世三世にしか公認を与えないのだから有権者は選びようがないじゃないですか」といっていた。あ。そーいうことね。うむむ。たしかに、そうね。あ。自民党に入れなきゃいいんだ。わたしの頭のレベルは、この程度でした。
Apr 27, 2009
暗いHです。パソコンに向かうしか脳のないHです。さて気がつけばもう4月目前。何をしていたかといえば、ひたすら小説書いてました。まず、さくらんぼ文学新人賞へ三作応募完了です。……これって、一人三作応募していいのか?という素朴な疑問がありますが、規定がないということはまあいいってことで。以前R-18で落選した作品を練りに練って二作、そして文学賞に応募するでもなく書いていた作品を一作応募しました。た、たのむー。いい結果がでてくれー。そして、昨日やっとこ文学界新人賞に応募する作品が一応完成しました。まだ書き終えた、という段階で、まったく推敲もしていないのですが、とりあえず。この小説はですね、実は祖父、父、わたしと浜で生活した人間の物語でもろ実話です。実際日の目を見たら困る作品ではあるんです。けれど、どうしても書きたかったので書いたからには応募せねば。84枚なのですが、一年以上かかりました。書きたいのに、書けなくて。まだ父のことを完全に被写体として見れるまで時間がたっていないので。でもだからこそ、今だからこそ書き残したかったのです。文学界新人賞は応募総数も多く、レベルも高いので純文学など初めてかくわたしがひっかるはずもないので記念応募みたいなものですね。これに落選しても、何度もしつこく練り直し、推敲し、小さな地方文学賞でもいいので発表の場をもらえたら、と思っています。そういう意味では、今まで受賞を目的として書いていたものとは毛色が違う感じです。何より、一番、大人になったわたしの息子に読んで欲しいと思う作品ができあがりました。
Mar 30, 2009
定額給付金。大きな声では言えないけれど、実は最初から賛成でした。だって!だって!テレビのコメンテーターとか「あのぐらいの予算があったら待機児童が解消される」とか、「介護施設をつくったら雇用も生まれるし、高齢者福祉によろしい」とか言うんだもん。ここで賛成って言ってしまったら、一万二千円、喉から手が出るほど欲しがる貧乏人みたいじゃないか。なんで、世のえらい肩書きを持っている人は批判ばっかりするのかね。この世の七不思議だ。だって、福祉対策って、どうしても必要なものでしょ。それを景気対策として行うのはどうなんだろう。雇用は生まれるだろうけれど、生活の為だけに介護の仕事をしたいと思う人は少ない思います。介護の仕事に携わった人間としては。あの仕事は、お金のためとわりきってできる仕事じゃないです。待機児童の解消も必要だけれど、景気対策として直接効果が上がりにくいと思う。そもそもそれらは景気対策としてではなく、やらねばならないことなのでは?ある特定の分野にお金を投入するのは、この時期どうやったって正しくはないような気がする。今福祉も漁業も農業も医療も土建業も厳しいのは同じなのに、なぜそこだけが今税金で助けれられるの?という疑問もある。それならば。頂いたお金は、わたしたちの権利でもあるのだから、その人が今この業界にお金の投入が必要だと思うものに使えばいいじゃないか。外食産業が痛手を負っていると思うならおいしいものを食べればいい。漁業が大変だとおもうなら魚を買おう。農業がたいへんだと思うなら普段は高くて買えない有機野菜を買おう。直接消費につながらないものへお金をかけるべきと思うなら自治体への寄付だっていい。たかが一万二千円でもちりもつもればなんとやら。なんでも国が、国が、といってもはじまりません。残念ながら国会議員は、わたしたちが選んだかたなのですから。その方々が一生懸命(たぶん)考えてたことなのですから。テレビのコメンテーターは(そもそもコメンテーターってなんの職業だよ)どうせ何やったって批判しかしないし。あなたがたは何に使うのだろう。国民の世論を代弁しているつもりなのだろうけれどただ事態を悪いほうへと煽っているようにしか感じない。他人を批判してお金がもらえる仕事って楽しいのかな。個人的にコメンテーターと評論家にはなりたくありません。「定額給付金についてはまだ議論の余地がある」なんて言っていた奴!議論からはお金は生まれません。もしもっと早く給付されたら台湾みたいにホントにお金が必要な時期(たとえば正月、大晦日)に間に合ったかもしれないじゃないか。あああ。何に使おう。ここまで言っておいて貯金なんかできなしな……とりあえず、イカでも買おう。
Mar 14, 2009
コバルトロマン用の小説がやっと完成しました。約二ヶ月かかって、341枚。何回か読み直しましたが、大きな疑問が。これって、コバルトに応募していいの?なんだかカテゴリーエラーな気が……。でも久々にライトノベルといわれる小説を書いて、とっても楽しかったです。いつものことながら最高傑作のような気がします。そして結果をしって奈落のそこに落とされるのがいつものパターンですが。締め切りは来年の一月なので、ゆっくり推敲します。さて、これから、他の文学賞に向けて過去に書いた作品を推敲したいと思います。そういうことをしているうちに気がつけばまた一歳年をとってしまいました。ううん……35までは書き続けたいなあ。
Feb 26, 2009
天童荒太さんを心の片隅でこっそり応援する会、会長のHです。会員は、残念ながらわたし一人。会員随時募集中です。天童荒太さんの直木賞受賞を知り、ひそかに泣きました。天童さんを知ったのは、ドラマ化もされた「永遠の仔」です。永遠の仔で直木賞をのがしたときには直木賞は何をやっているんだ!なーんて一人で怒っていましたがさずがは直木賞、作品を見逃しても作家を見逃すことはありませんでした。天童さんの作品はざらめ雪に似ている。決して粉雪だのしまり雪だのではない。しっとりと、重さを感じさせながら心の中に降り続ける。わたしは、主人公、静人にまったく感情移入ができませんでした。静人が悼む人となるその理由も、理解できませんでした。それはわたしが死に取り付かれたことがないからだと思います。けれど、その静人を囲む周りの人間には大いに共感しました。この物語は、静人の物語ではなく、もしかしたら脇役こそが主役の物語だったのかもしれません。わたしは、父が亡くなったあと、何度も何度もこのブログに父のことを取り上げました。たぶん、ネットの向こう側にいる誰かにたった一人でいい。心の片隅でいい。父のことを悼んで欲しかったのかもしれません。悼む人間が、血のつながりがないからこそ、そこに永遠性を感じる。誰かに、父の生き様をつたえたかった。この地球にあるたくさんの命の、ただが一つにしかすぎなくても。その生き様が、特筆するような特別なものでなかったとしても。それでも懸命に、普通に生きようとした人間の命というものが確かにあったことをネットの向こうにいる誰かに伝えたかった。頷いて欲しかった。これは、そういう物語でした。作家を目指す以上、評論家にはなりたくないと強く思うHでしたが、どうしても取り上げて紹介したくなった本でした。是非、大事な人を亡くされた方は、その死を悼みながらよんでくださいませ。
Feb 21, 2009
一応、生きてます。Hです。まず、なつ姉さん。メールの返事が遅れてごめんなさい。二月中には返信しますのでわたしを忘れないでください(涙そして中学時代からの心の友、Rちゃん。メールありがとう。もう少ししたら、返信するね。このブログを読んでいてくれることを祈りつつ……。さて、R-18に一次も通過できなく、なかば半死状態だったHです。実は、もう小説を書くのも、読むのもやめようと思い、夫に相談しました。H 「もうさー。いいかげん、無駄だと思うんだよね。一次も通過できなかったし。この時間や労力をなんか資格とるために使おうかな」夫 「へ?もうあきらめるの?」H 「だって、建設的じゃないじゃん」夫 「ってかさ、ここまでやったんなら、どんな小さい文学賞でもいいからさ、なんかとってからやめれば?もったいないじゃん。ここまで時間かけておいて、そりゃないでしょ」……目が覚めました。私は、正しいことを言っていると思う。子供のため、将来の社会復帰のため、正しい選択をしようとしていたはずだ。なのに、夫の言っていることより、さらに正しいことだった。そうなのだ。浜育ちの意地をだせ。こうなったら、どんな些細な、小説家になどなれない小さな文学賞だっていい。何かをとって、やりとげてから前に進もう。わたしは以前の日記で限界を越えた世界に広がる景色が見たいといっていたではないか。そんなわけで、小説を書いていました。目指すはコバルトロマン大賞。今やっと三百枚書き終わりました。四百枚の予定です。なぜ、コバルトロマンかというと、やはり自分が小説をよむきっかけを作ってくれたのがコバルトだったからです。愛してマリナシリーズの響谷薫の美しさをわたしはまだ、忘れられない。もうコバルトは……と思っていましたが、再チャレンジです。ひたすら書いてました。睡眠削って書いてました。トイレがまんして書いてました。そんなときに限って、図書館から予約本の入荷の連絡があるのです(涙トライアングルゴールデンスランバー悼む人この参冊、書きながら寝ながらやっと読み終わりました。でもあと二冊あります。活字に溺れそうな日々です。でも活字に溺れて死ぬなら、本望だと思いました。
Feb 12, 2009
何のために 生まれて 何をして 生きるのか答えられないなんて そんなのは 嫌だ何が君の 幸せ 何をして 喜ぶ分からないまま終わる そんなのは 嫌だあまりにも有名なアンパンマンの歌です。人間には、限界というものがあると思う。限界まで頑張って、限界を超えてしまうと、ほとんどの人は心を壊してしまったり身体を壊してしまう。けれど、なかには限界を超えたところで勝負できる人もいるのです。その勝負は瞬間か、期間か、あるいは歳月か、それぞれあると思いますが。限界を超えたところではどういう景色がみえるのだろう。それだけ人生をかけることができるものがあるかどうか、これが前提にあると思います。激しい思いと、人生をかけてもいいとおもうものとの出会いと、強靭な精神と強い肉体とがあって初めてなしえることだと思うのです。また、自分が人生を望んでも、人生が自分を選ぶとも限らない。最近強くそう思います。自分の叔父が、大変そうだ、気の毒だとは思うが決してかわいそうだとは思わない。不思議なぐらい、羨ましくさえ思えるときがある。自分の限界を超えたその先にあるものを、わたしも見たい。
Jan 14, 2009
わたしは今感動することができる。人の決して譲れないもの。必死になって守らなければならないもの。それが人からみたら些細なものであったとしても、そんなものと笑われるものだとしても自分の信念と情熱を貫き、些細なものを笑われるものを守るために生きることができる人がいる。お金じゃなく世間体ではなく私利私欲ではなく強いて言うなら、ただ己の魂の為にただ、己の信じた道と己の矜持の為に人から困難だと、無理だといわれる道に飛び込む人間がいる。人間の核というのだろうか。魂というのだろうか。精神というのだろうか。全ての煩悩や欲求を取り払って残ったもの。強くてどこまでも輝いていてそれは、神の存在など信じたことも無いわたしですらひれ伏したくなる輝きを放っている。わたしはその人の生き方から親からも教えてもらえなかったかけがえの無い大事なものを学んだ気がする。人として、なんの為に生きるかを強く心に刻みつけられたような気がする。わたしは憧れずにはいられない。そういう生き方を選んだ人間に。
Jan 10, 2009
あけまして、おめでとうございます。昨年は非常に苦しく、これでもかと災難がわたしを試すようにふりかかってきましたが、そんな一年も明けました。苦しみが続いている部分も、あります。父が必死で守り、存続の為に寿命を縮めた、たいせつなもののともし火が、今、消えかかっています。わたしにできることは、何もありません。それが、一番、苦しい。けれど、せっかく、年が明けたので、ここはまず、お世話になった方々への感謝をしたいと思います。まず、わたしの垂れ流しの独り言をいつも聞いてくださるなつ姉さん。今年もよろしくお願いいたします。励ましあいつつ、ともに泣きつつ、リカさん。今年こそ、ともに笑う日がくることを願っています。個人的に勝手に心配しつつ、いつもアクセサリーなどの紹介をひそかに楽しみにしているHINAさん。今年も、お互い頑張りましょう。最近ブログが更新されないのでひそかに心配している鈴木様。是非、更新してくだされ。今年もよろしくお願いいたします。ブログネタの豊富なエアプランツさま。わたしも、エアプランツさまぐらい、ブログを更新してみたい……勝手に励みにしてます、穏やかな海様。その素敵な写真と、建前を全て脱ぎきった文章に心を打たれます。そして、中学時代からの友人であるRちゃん。高校時代からの親友、sちゃん。今年も、よろしくね。お互い、それぞれの生活があり、決して近くにはいないけれど、あなたがたのおかげで、なんとか頑張っています。すべての方々にとってよい年などないのはわかっていても、それでも全ての方々にとってよい年であれば、と、心底願います。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。
Jan 4, 2009
R-18 文学賞 落選のご報告です。ま、まさか自分がこの文学賞の落選記事をかくはめになるとは思ってもいませんでした……。一次も通過できませんでした。今年は文学賞は祭りだ、という勢いで書き上げたつもりでしたが今年は今までのように対策を練ったものではなく、自分が読みたいものをかいたつもりでしたが結果、凶とでました。やはり、傾向と対策を練ったものの方が自分的には文学賞に通りやすいのでしょう。それに、どこかに驕りがあったのだと思います。三年連続で一次を通過できたので、一次ぐらいはいけるだろう、と。R-18の受付がはじまる何ヶ月も前に書き上げ、推敲をひたすらに繰り返し、誰よりもいい作品がかけたとはいえないが、誰よりも努力した、といえるだけのことはしたつもりです。ただ、努力だけで予選を通過できるほど、文学賞は甘くは無い、ということを再認識しました。初心にかえり、再び来年をめざそうと思います。以上、建前。以下、本音。くるしーよー。どこまで頑張れば、いいんだよー。わたしのクリスマスイブを返せ!この文学賞の為についやした時間を返せ!天に向かって吐いた唾は己に返ってきます。誰とも付かず吐き捨てた言葉は、どのように返ってくるんだろう。涙。
Dec 24, 2008
さようならのかわりに手に入れたのは長い安定と永すぎる、おそらく幸福という名の緩やかな地獄。失ったのはこの一瞬の為に全てを犠牲にしてもかまわないという衝動。今まで積み重ね手に入れてきたものを全て失ってもいいとさえ思った情熱。選択したのはやがて将来にくるであろう大きな喪失より今唇をかみ締める、小さな苦痛。きっと大丈夫。しばらくしたら全てなかったことになるから。そう、信じている。
Dec 2, 2008
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