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今日は日曜日。教会でのメッセージがあまりにもビンゴで号泣してしまったNorikoです「なんでこんなところで泣くねん」と思われたに違いありません。だって、泣いてる人私ひとり。でもね、神様がわたちに語ってくれたと分かったから、いろんな思いが一緒にこみあげてきてないちゃったんですょ~~~今日は、職業と愛についてのメッセージでした。その前に、、、ふと思い出していたんです。今まで好きになった男性たちのこと。。。10代の頃大好きだったおもちゃん。今は何になってるんだろう。。。彼だけは分からない。だけど、その次にひと夏の恋をしたのはもう死んでしまったけどイタリアンブランドのトラサルディーの社長。彼の言葉を信じてたらどうなっていただろうって何度後悔したことか>▽<でもそのあと私はクリスチャンになりあれでよかったんだ、と思っています。それからちょっと書けないけれど立派な職業の人を好きになり憧れた。会いに行ったな、関西から東京まで。忘れられない東京での首都高デート。あとは大学教授になっていたり、作家になって世界を飛び回っているあの、元ルームメイトのジュード・ロー。わたしってば、男性を好きになるとその人は必ず出世しています。見る目がある、( ̄ー ̄)ニヤリそんな男性のことは置いといて大事なのは今ですよ、今!!なんと神様はですね、牧師とか宣教師とか伝道師の仕事を立派としてそこら辺の仕事を小さく見ている、ということはない!!んです。どの仕事も、とてもとても大切であると神様は考えておられます。ですから、まず牧師や司祭がおれすげー!とか考えておられたら、それは違いまっせ、ということです。何が大切かというと、どんな仕事であれ、主にお仕えするように心を込めて一生懸命に働く、ということです。イエス様は、大工さんだったんですよ。イエス様は公に出てくる30歳くらいまでずっと大工の仕事をしていたんです。神様がですよ!!!神様は大工だった!!!ですから、イエス様はきっと椅子をつくったり、テーブルを創ったり木を用いて何かを創作する、というお仕事をしていました。私たちが仕事を考えるとき、悩みますよね。自分の能力、自分の情熱、自分の好きなこと、自分にできること、神様から自分に与えられた賜物を用いてそれらを活かして仕事をすることができたらどれだけ幸せでしょうか。私は今日教会で私の今の仕事は神様が私に与えてくださった使命なんだ、召しなんだ、ってことが示されました。私は聖書の先生になりたいけれど今の仕事を続けながら今みたいに聖書を教えてほしいと神様は私に願われているのかもしれません。なぜなら、わたしは日々、10代と20代の男の子20人くらいと仕事をしているからです。きっと彼らの人生でわたしだけがクリスチャン、というボーイズもいると思います。なんというミッションでしょうか。こんな若者たちと日々過ごせる場所はそうありません。それも私がボスです。彼らが私の話を聞くときのまなざしは真剣そのものです。わたしは上司としてマイ・ボーイズの祝福になりたい。そう日々考える中でどう具体的にしていけばいいんだろう、どうやって彼らに接していけばいいんだろうって思い始めていました。その答えを、今日、教会でもらったのです。ちょっと眠たくなったので続きはごめんなさい、明日にしますねもう10時半すぎるとベッドでまったりしたくなりますもので待ちきれない方は、新約聖書のエペソ人への手紙を読んで待っててね短いからすぐ読めちゃいますょ~☆ ← Norikoのツイッターは星をクリックしてね♡ ← Norikoへのメッセージはハートをクリックしてね
2016.05.29
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近年は変わりつつあるものの日本では今でも大きな存在であるお墓参り。お墓は言うまでもなく、先祖の骨を休めている大切な場所。お彼岸には必ず墓参りに行くという伝統が日本にはある。そんな風習の中でNorikoも育ちました。子供のころから法事に行ったり墓参りに行ったりしていました。以前から書いていましたがお寺とかあの暗さが大嫌いでしたので教会の明るさを見て好きになったこともあいまってか仏教をやっている家族の中でわたしだけが今のところクリスチャンになりました。そんなクリスチャンになりたてのヤングな私はキリスト教に燃えに燃えていたので私は仏教には一切触れない、私はクリスチャンだから、仏教行事には一切参加しない!という頑固そのもの一点張りでした。お墓参りに行こうという両親の誘いを断ったとき私には何も言いませんでしたがすごく悲しそうな顔をしていたように思います。わたしはクリスチャンとして未熟でした。あれから15年以上が経ちました。今の私はどうでしょうか。先日母との電話の中で、父と二人で今年のお盆には墓参りに行こうと言っていると話が出ていました。私はすぐに「私も一緒に行く!」と言いました。母は少し驚いた様子でしたが、休みを取ってでも両親と一緒に祖父母のお墓参りに行きたいとそう思いました。クリスチャンとしてのお墓の問題。私は仏教だからといってすべてを反対するという幼稚な考えでしたが、聖書を読んでいくにつれて、仏教で生きてきた方に対する接し方が変わってきました。まず、骨についてです。クリスチャンはお墓参りに行かないとか、死んだら天国に行ってイエス様と一緒にいるんだからもう骨なんて関係ない!と私は真剣に考えていました。でも聖書では、聖書の中の先祖に対する骨問題はどうやらそうではないのです。非常に仏教に近いところがあります。(もちろん仏教よりキリスト教の方が古いので、こちらが元祖、なので、仏教がキリスト教に近い、のほうがいいかも笑)まず、旧約聖書に出てくるヨセフです。ヨセフの物語は創世記に出てきます。話をすると長くなりますので、ヨセフの話は創世記で読んでみてください。故郷を離れた、離れて生活をさせられたヨセフは異国エジプトの地でNo.2の地位に上りつめたんです。神様がヨセフを愛し、祝福されたからです。しかしですねヨセフの心には、ずっと故郷への思いがありました。飢饉により、ヨセフの家族全員が故郷を離れてエジプトで暮らさなければならなかったのですが、神様がヨセフの民に「約束の地(故郷)を与える」と約束しておられたので生きている間は実現しないけれどもヨセフは神様は約束を守られるので自分たちの民族をエジプトから故郷へと連れ戻してくれる、と信じていたんですね。エジプトの国を支配するヨセフは死の間際にひとつ、お願いごとをしたんです。そのお願いごととは何かというと。。。"ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」 それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。』"創世記 50:24-25自分の民がエジプトから脱出して約束の地に出て行くとき、私の骨を一緒に持っていってくれとヨセフは言っているのです。死んだら天国に行くからもういいわ!という思いは一切ありません。イスラエルの民にとって骨は本人にとっても、その家族にとってもとても大切なことだったのです。そのヨセフの願いを覚えていた民。実際出エジプト記でモーセがヨセフの骨を持ってエジプトを脱出した記述が残っています。(出エジプト記 13:19)ヨセフの骨も一緒にエジプトを脱出したのです。故郷に一緒に自分も帰りたかったのです。その骨の件、ここでは終わりません。ダビデ王の時代にも骨への思いが出ています。"ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。 ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。 こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。"サムエル記下 21:12-14 サウルとは、ダビデ王のひとつ前の王です。ヨナタンはサウルの息子であり、ダビデ王の大親友です。ダビデ王は、サウルとヨナタンは死んだからもういいや、ではありませんでした。盗まれた彼らの骨を取り戻しに行ったのです。そして、お墓にちゃんと葬ったのです。そのあと、神様はその地のために祈りを聞かれた、とあります。骨、お墓を大切にしていたのは神の民なのです。ですから、クリスチャンは骨なんてどうでもいいとかお墓なんてどうでもいいとか思っていたわたしは聖書を知らなかったんだな、ということです。もちろん天国でイエス様とともにいます。しかし、その人がいてくれたことをお墓の前で思い出してもいいということです。お墓の手入れもしていい、ということです。イエス様が十字架にかけられて死んで葬られた後おんなたちは一番に、キリストの墓にいきました。ただわたしが両親に言えることは私が両親のそのまた両親に対するその心を大切に思っているんだよということ。そのことを行動でしめしたいのです。それが、一緒にお墓をきれいにすること。両親を愛しているからです。また、両親を与えてくれた神様、さらに優しかったおじいちゃん、おばあちゃんを私に与えてくれた、創造主なる神様にNorikoは感謝しているんだよということを伝えるためです。すべてのことを、主に感謝 "わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。"コリント人への手紙 第一 9:19-
2016.05.23
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あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。マタイによる福音書、7:2~5イエス・キリストの言葉
2016.05.21
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ベッキーさん(不倫)に舛添さん(政治と金問題)バッシングすごいですね!マスコミらのバッシングに加えて一般の方まで参戦(笑)いつも同じ反応になりますが、子供のころからこの大人の方たちはこういうことやってんだろうな~っていつも見てしまいます子供のころに植え付けられた体質、イジメであろうと何だろうと、、、抜けないんですなかなか、大人になってもで、で、バッシングってもう何千年も前から、人間がよくやることなんですよね。人ってかわらないんですね!だからもちろん、バッシング、聖書にも出てきます。何千年も前のお話ですが、似たような話が出てくるんです。バッシングしている人に対して、イエス様はなんと、お話するのでしょうか。また、実際にどのように語られたのでしょうか。ちょっと聖書から見てみましょう。私のコメントは、今日はナッシングです(笑)みなさまが、ご自身で、イエス様の言葉をかみ砕いてみてくださいねイエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、注)姦淫とは、結婚相手意外の人とセックスすることです。姦淫は、聖書によると罪です。罪とは、神が嫌う行為です。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。新約聖書 ヨハネの福音書 8:1-11"GO AND SIN NO MORE. "☆ ← Norikoのツイッターは星をクリックしてね♡ ← Norikoへのメッセージはハートをクリックしてね
2016.05.21
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私はヨガ歴5年になります。なのに未だにクラスでダントツからだがカチンコチンです(≧∇≦)両足を前に出して座ると背中をまっすぐに伸ばせません。ヨガしたら非常にカッコ悪いです(≧∇≦)他人の目を気にしない私なので5年続いたかと…で、これは骨格の問題で私は柔らかくならないと思ってあきらめていました。家でヨガマット買ってやってもダメだったからです。あのあきらめる悲しいこと…今日、とっても素敵な女性とお食事しました。彼女の気配り、可愛いさ、優しさ、笑顔に脱帽でした。で、話題がなぜか私のからだがカチンコチンであり開脚が密かな夢であると語ると…彼女のお母様がストレッチの先生で、どんな人もからだは柔らかくなること、私でさえ、開脚もできるようになり姿勢が良くなり、若返りホルモンも出て美しくなると…ストレッチで!来月早速ストレッチの先生に見ていただき、ストレッチの流れを作ってもらうことにしました❣️二十代の時から体型は変わりませんが、さらに美しくなれるよう、さらにしなやかで美しくなれるようストレッチを始めてみます!この話の流れは偶然ではなく、神様はこんな小さな悩みまでこんな小さな願いまで気にかけてくれてるんだ…と感謝の1日でした。私の足も開脚でパッカーン❣️Noriちゃん、パッカーン❣️ネバギバッ❣️
2016.05.16
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こんにちは最近カレーのルーには添加物が満載と知りカレー粉を買って自分でかレールを作っているNorikoですやればできる昨日はいい日でもあり、暗い日でもありました。教会ではペンテコステという日でイエス様が死から三日後によみがえった日から50日の日をペンテコステと言います。この日、すごいことが起こったんです!何が起こったかはヨハネの福音書の次の本、使徒行伝、もしくは使徒の働きにすぐ出てきますので興味のある方は読んでみてくださいねさてさて、昨日大好きな方と教会に行ったんですけど自分でも分からないんですけどものすごく気が重かったんです。いやな気分。もうこの方は私と会ってくれないんじゃないかとか私の言動は正しくなかったんじゃないかとかとにかく一言でいうと、ネガティブ(><)家に帰っても気が重くてなんか嫌な感じ・・・カレーライスを作りながらいつもならルンルンなのにドヨ~~~ンとしてなんか寂しくなってもうだめだ・・・みたいなことをつぶやき始め・・・・・自分の自信もなくなり不安感が育ち・・・そんなとき、気づいた。あっあっぶねーーーーまんまと同じ手にはまるところだった!!神様を聖書を通して知ることの大切さ、いつもお話しております。しかし、忘れてはいけない存在がいるんです。それは、悪魔です。悪魔は悪霊とか、サタンとか聖書には書かれていて、よって、実在します。サタンの仕事はというと、サタンの好きな仕事はと言うと私たちが不幸になって奪うこと、破壊すること、殺すことを目的としています。クリスチャンは神様に直結しているのでサタンは手を触れることはできません。がしかし!心に嘘をささやくことはできるのです。こんなことをまたしでかしたな。悪い奴だ。ダメ人間だ。あんたのことなんてだれも好きにならないよ。過去もそうだっただろ?な~~~んて声、心にありませんか?ダメなんじゃないか、受け入れられないんじゃないか、成功しないんじゃないか、このまま何も変わらないんじゃないか・・・それは、サタンから嘘の声なんです。ですから心の声をすべて信じる必要はありません。わたしが昨日したことは料理しながらそのことを思い出し、「私は感情では生きない。私は心の声を嘘であると知っている。」と言って心にあるネガティブを心から追い出しました。イメージでいうと、心からサタンにつながる紐が出ていてそれをバチコーンとちょん切るイメージです。手でも払いのけて心の前でその紐をちょん切り心から締め出します。「お前に用はない。」と言い、その声に耳をかさなくなりました。耳を貸していたから、落ち込んだのです。あー、スキを渡しちまったぜ。半日ほど(笑)あぶない、あぶない。悪魔に機会を与えるなと聖書は教えています。だから、聖書を知る必要があるのです。「この心の声は、嘘や!」と見破ることができるからです。その嘘に耳を貸すから落ち込むのです。自分の心にある声に生きなくてよいのです。わたしたちは、みことばに生きるのです。神様の約束を信じ、その道を【選ぶ】のです。私たちは、ネガティブの方が受け取りやすい。「ダメな奴だ」はい。「あなた、本当に素晴らしい!愛してるよ!」マジで?なんで?となります。受け入れにくいのです。それは、罪びとだからです。ですから、聖書を何度も読んで神様の私たちへの愛を何度も心に落とし込む。心の嘘の声を、神様の優しい声と入れ替える作業が必要となります。それは自然に起こる場合もありますが意識してやっていく、必要があります。でないと、変わらないんです。神様は使徒パウロを通してこう言っています。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか何が善であって、神に喜ばれかつ全きことであるかをわきまえ知るべきである。ローマ人への手紙 12:2心を新たにするそれは能動的、進んで物事をすることです。神様と私たちの関係は不思議です。神様にお任せコースでいいんですが、神様がやりなさい、ということは私たちはやる必要があります。神様に従う必要があるのです。それは、私にとって益となる。神様は愛だから、無駄にやれとは言いません。人事を尽くして天命を待つと言う言葉もありますよね。私たちは私たちの部分を行い(=従い)私たちにできない部分を神様が介入し、働いてくださる。ある意味共同作業でもあるのです。心を新たにする。心にあるものに影響されすぎないよう気を付けましょう。そんな気がしなくても、心が重くてもそんな日でも自分の絶好調の日と同じだけ落ち込むという日も神様は変わらず、愛し、導いてくださいますから。そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。ヤコブの手紙 4:7☆ ← Norikoのツイッターは星をクリックしてね♡ ← Norikoへのメッセージはハートをクリックしてね
2016.05.16
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どうも皆さまお元気ですか?お花が大好きなNorikoです母の日にはママにラベンダーの鉢植えをプレゼントでおくりましたイキイキしたラベンダーが届いたよ~とママ大喜びでした個人的にカーネーションは好きではないので(←出た出た笑)いつもいろんなお花をプレゼントしていますさてさて、この前マツコ・デラックスさんがテレビで言ってました。なんか昔はトゲトゲしてたけどすごく最近はみんないい人に見えるって。こころが穏やかだって。わたしたぶん、マツコ・デラックスさんと同じ年くらいなんですよね。それって、すっごく分かるんです!!これが、40代ってことかキターーーーーってこと?30代の自分と今の自分、すごく違います。自分でもはっきりと分かるほど。。。わたしってば、別人になっちゃったよ~たとえば、今の職場は部下が20人ほどいてほとんどが年下の男性です。女性は3人だから、17人のメンズとお仕事しています。で、その中には大学生もバイトでいたり、21歳とか、22歳の子とかもいるんですね。もう、かわゆすぎて・・・自分では顔には出していません。出していないと思います。出していないつもりです。でも、出てるかも(笑)ただ、もう私の心の目はお母さんなんですよね大学生の子がいてもおかしくない年齢だからか・・・男の子の世界の中にポツンと私がいるわけですが、昔だったら口うるさかったと思うんです。だって、ドアも、引き出しも足で閉めるし(笑)いちいち注意してたと思うんですね。だけど最近の変化は「まぁえぇやん」「別にいいんじゃない?」←標準語バージョン「ほっほー」と感じるだけということの範囲が広がったということ。許容範囲が広がったというか・・・みんな伸び伸びとしてほしいし、自由に生きてほしいと思うし仕事が楽しい!ぼく、のびのび仕事して幸せ!って思ってほしいから見守る感じになりました。昔はこわかったんですよ、わたしw私がオフィスに入ったらスタッフの背筋がピーン!と伸びるし(笑)それでいいと思っていたんです。だけど、最近ゆる~くなりまして(笑)もうグレーゾーンがあってもいいし、彼らは男の子だし、たぶんお母さんにも男の子だから足でドアを閉めてもおこられなかったからこうやって20代になっても足でドアをしめてるんだろうなぁなんて勝手に考えて「かわゆ」と見守っていますこの子たちがオッサンになるなんて考えられないです。「こうした方がいいと思うよ」って言ったら何気にふと見るとわたしがさっき言ったことをちゃんと言われた通りにやっていたり・・・・いい子すぎて、かわゆすぎて、心が密かにメルトダウンです私に息子がいたら大変なことになってますわ。ってわけで、最近思ったのが神様が私を見る目線ってどんなのなのかな~~~ってこと。たとえばですよ、たとえば。私が扉を足で閉めたとする(笑)(今日はこの例えでいきまひょ!笑)すると神様はカッチーンときて「私がなぜ手を創造したのかわからんのか!」とかね、ピリピリした目で神様がいつも自分を見てるとする。そしたら自由に伸び伸び生きられないですよね。ビクビク生きちゃいます。この前読んでいた旧約聖書の中で正直そんな神様が出てきたんですね。ようは旧約時代(紀元前何千年も前の話)にお神輿のような担ぐやつがあって、司祭とかがそれをお神輿みたいに肩の上に担いで神様がそこに宿られて移動してたときにちょっとぐらついたから手で倒れないように支えようとしてその神輿のようなところをある者が触って支えようとしたんです。そしたら神様が怒ってその人はその場で死んでしまいました。さわるな、と言っていたものに触れたから。聖なる物に、触れたから。悪気はなかったんです。倒れないようにしようとしただけなので。だけど、死んでしまいました。それを見たダビデ王は神様に怒るんですよね。そう神様が対応されたのは、神様が、神様が神様の存在について、また、神様の道を教えようとしていた律法の時代、だったからなんです。ですが今はですね、イエス様がその律法を全うしてくださったから、その義を信仰によって私たちはいただけるので今はキリストのおかげで恵みの時代に突入したわけです。今は、恵みの時代なんですよ!私が自分の中で律法に生きてしまっていた時は周りにも厳しく、自分にも厳しく・・・でも今、自分の中で恵みの時代に生きるようになって周りにも自分に対しても恵みでもって生きるようになりました。そこで、神様の目線に話は戻ります。ある牧師先生が、説教の中でこう言っていたんです。神様は、あなたのことを一度たりとも悪い目で見たことはない、と。これ、どうですか。私には衝撃でした。「神様は、あなたのことを一度たりとも悪い目で見たことはない」でも、本当だと思います。私はイエス様を信じており、自分は神様の子になる特権が与えられた。だから、神様と私の関係は愛の関係にあります。神様は、愛だからです。私に神様から注がれるのは愛情の目線のみ、なのです。たとえば、この可愛い部下たちが悪いことをしたとする。正直に答えますと悪くは見れないんです。彼らのことは。大切な部下なので。ただ、その子のために良くないので叱ることはあると思います。だけど、どうやったらその子の弱さが改善されるかなとかどうやったらこの子が成長できるのかなって私ですら考えます。悪い子だ!とは思わないんですよね。その子の持つ【問題】を見る。そして、そこからはコーチングですよね。神様の目線自分に向けられる神様の目線それって、どんなに深い罪を犯したとしても温かい、愛の目で自分を見つめてくれているんですよ。あなたに対して神様は悪い思いを一度も描いたことがないんです。そのこと、ちょっと考えてみてください。生き方、心の在り方が必ず、変わりますから・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 旧約聖書 イザヤ書 43:4☆ ← Norikoのツイッターは星をクリックしてね♡ ← Norikoへのメッセージはハートをクリックしてね
2016.05.09
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