音を感じることで周りの状況を判断するという生活を有史以来ずっと続けてきたわけで、その感覚が生活そのものと直結しています。
本来有るべき音が無いと、その状況判断に困ることが起きてきます。
電気自動車の音が余りに静かすぎて、車が近付いた事に気づかずに危険だということで、わざわざ人工的な音を出す必要が有るという。
最新のエレベーターに乗った時、その余りにもスムーズで静かなため動いているかどうかさえ分からず、ボタンを押し忘れたかと確認するような始末です。
車と違って危険性はないが、何だか心もとない気がして、僅かでも動いている事が分かるような振動とか音が欲しいと思ったりします。
小林秀夫が「目は疑い、耳は信じる」という風に言っているそうだ。
ものを見るとき、吾々はどこかで批判的に疑いながら情報を取り入れているが、反対に耳から聞かされたことは、とりあえずそのまま信じるしかないというのだ。
思うに、振り込め詐欺に簡単に引っ掛かるというのは、どうもその辺りに原因がある様な気がする。
視覚は意思の反映である。見たくなければ目を閉じれば良い。
しかし、耳はそうはいかない。自分の意思だけで音を遮断する事は出来ないし、寝ている間も音は入って来る。音は拒否できないのだ。
その代わり、様々な音の中から聞きたい音に的を絞って聞くという芸当が出来る。雑談の交錯する教室の中で、好きな子の話し声を聞き分けることが出来るように。
また、壁の向うや暗がりの中の音さえ聞き分けることも出来る。拒否が出来ない代わりにその音の重要性を判断することで、無用な音を聞きながすような高度な情報処理もできる。
人間が外界から受ける情報量の割合は、おおよその数字として視覚が80%を占めており、聴覚が10%、触覚は5%、嗅覚は3%、味覚は2%と言われている。
そのため、どうしても視覚偏重になりがちで、生命を維持するうえでの根源的な感覚である他の4つが蔑ろにされてしまう傾向が有る。
この4つの感覚の内、聴覚は動物の最も根源的な感覚器官のようで、胎児は羊水に浸かりながら音を聞いているらしいし、臨終に近い意識の混濁している中でも耳は最期まで聞こえているという。
◆2006年5月8日よりスタートした「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」と
◆2011年1月2日からは、楽歌「TNK31」と改題してスタートすることにしました。
★ 「ジグソーパズル」 自作短歌百選(2006年5月~2009年2月)
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