足湯でよもやま話(笑)

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『昆布茶と塩麹』

『昆布茶と塩麹』

2025.09.05
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カテゴリ: カテゴリ未分類
​​​皆様こんにちは。
もの知らず管理人の気まぐれブログにようこそ。

久しぶりに本棚を整理した。
家人は、本棚を見るたびに「そんな古い本、不要なんだからもう捨ててしまったら」というのだが
私は年に1.2回見直して、都度分別している
(一応、見直すたび、不要と思う本は捨てている)

その中に、子供たちが中学・高校に行っていたときの教科書がある。
国語・数学・化学・社会科要領などである。
普通の本と違ってこれらは、自分の意図しない話が載っているのがいいと思う。

その中から、これは・・と思うものがいくつかあったので
ここで紹介させていただくことにする。


​鷲田清一より抜粋・編​
「自分にしかないものは何だろう」
「自分には、他の人にないどんな能力や才能があるだろう。」
こんな風に考えたことはありませんか。
「自分とは何か」という問いは、哲学者や思想家などによって、昔から繰り返されてきました。
しかし、今はこの「自分とは何か」を、哲学者や思想家だけでなく、
10代の若者から中高年まで、世代を超えて、誰もが問わすにいられない時代であると思います。
 その理由として、今の社会が、これまでの時代に比べ、個人により大きな自由が保障される社会であるからだということができるでしょう。自分の意思で自分の人生を選び取っていくことを理想とする社会。
何にでもなれる可能性のある社会。しかし、個々には自由があるからこそのしんどさがついて回ります。

これを裏返していえば、、ということでもあります。
「何をしてきたか」「何ができるか」で人の価値を測る社会。
そこでは、人は絶えず
「あなたには何ができますか」「あなたにしかできないことは何ですか」と他から問われ、

「あなたの代わりはいくらでもいる」「ここにいるのは別にあなたでなくていい」と言われることがないように、自分が代わりのきかない存在であることを、自分で証明しなければならないのです。
こうした状況は、先ほどの「自分とは何か」という問いを、
「こんな私でもここにいていいのだろうか。」という、何とも切ない問いへと変えてしまうしまうことがあります。
 そのような問いに直面した時、私達はその苦しい思いから、今のこの私をこのまま認めてほしいという、いわば無条件の肯定を求めるようになります。
何かができなくても、このままの自分を肯定してほしいと、痛いほど願うのです。
自分の存在が誰からも必要とされていないこと、
「お前はいてもいなくても同じだ」と言われることほどみじめなこと、怖いことはありません。
だから「できる・できない」の条件を一切つけないで自分の存在を認めてくれる人、
「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる人を求めるのは、自然の成り行きです。
  でも、これはちょっと危うい事でもあります。「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる他者がいつもそばにいてくれないと不安になるというように、自分の存在の意味や理由を、常に他人に与えてほしいと願う、そんな受け身の存在になってしまうからです。
いつも他者に関心を持っていてほしい、その人が見ていてくれないと何もできない
・・・そんな依存症に陥ってしまうことがあるからです。
 このように受け身な存在でいては、人生で見舞われる様々な苦労や困難、
社会で直面する様々な問題は何も解決することができないでしょう。
私達にはそれらを引き受ける強さというものが必要なのです。
 ここでいう強さのことは、今の社会ではよく「自立」とよばれます。
誤解してはならないのは、「自立」は「独立」のことではないということです。
「独立」は英語で「インディペンデンス」。と言います。「依存」を意味する「ディペンデンス」に、
否定を意味する「イン」が付いた語で、誰かに依存している状態ではない、ということです。
 でも私達は、誰も独りでは生きられません。
食材を準備してくれる人(※農業や漁業従事者、畜産など)、看病をしてくれる人、手紙を届けてくれる人、電車を運転したり修理したりしてくれる人。
社会の中では、数えきれない人たちが、互いの暮らしと行動を支え合って生きています。
お金があれば独りでも生きていけるじゃないかという人もいるかもしれませんが、お金があっても、それが使えるシステムがなければ、更にそのシステムを支えてくれる人がいなければ、何の役にも立ちません。
「自立」は「依存」を否定する「インディペンデンス(独立)」ではなく、
むしろ、「依存」に「相互に」という意味の「インター」をつけた「インターディペンデンス(支え合い)」として捉える必要があります。
いざ病気や事故や災害などによって独力では生きていけなくなったときに、他人との支え合いのネットワークをいつでも使える用意ができているということ。それが、「自立」の本当の意味なのです。
困難を一人で抱え込まないでいられること、 と言い換えることもできるでしょう。 いうまでもありませんが、「支え合い」のネットワークであるからには、自分もまた時と事情に応じて、というか気持ちの上ではいつも支える側に回る用意がないといけません。つまり、「誰かの代わりに」という意識です。
 これがおそらくは、「責任を負う」ということの本来の意味でしょう。
「責任」とは英語で「リスポンシビリティ」といいます。「応える」という意味の「リスポンド」と、「能力」という意味の「アビリティ」から成る語で、「助けて」という他人の訴えや呼びかけに、きちんと応える用意があるという意味です。
日本語で「責任」というと、課せられるもの、押し付けられるものという受け身のイメージが付きまといますが、「責任」というのは、最後まで独りで負わねばならないものではありませんし、何か失敗したときにばかり問われるものでもありません。「責任」とはむしろ、訴えや呼びかけに応じ合うという、協同の感覚であるはずのものなのです。「君ができなかったら、誰かが代わりにやってくれるよ。」と言ってもらえるという安心感が底にあるような社会の基本となるべき感覚です。
 人には、そして人の集まりには、色々な苦労や困難があります。それらを避けたい、免除されたいという思いが働くのも無理はありません。
けれども、 免除されるということは、誰か他の人に、あるいは社会のある仕組みに、
それとの格闘をお任せするということであって、そのことが、人を受け身で無力な存在にしてしまいます。
 これに対して、私は「人生には超えてはならない、克服してはならない苦労がある。」と書いた一人の神学者の言葉を思い出します。
苦労を苦労と思わなくなる、のではありません。
苦労を苦労としてそのまま引き受ける中にこそ、人として生きることの意味が埋もれていると考えるのです。
苦労はしばしば、独りで背負いきれるほど小さなものではありません。
人と支え合うこと、人と応じ合うことがどうしても必要となります。
冒頭に挙げた、「自分とは何か」という自分が存在することの意味への問いについても、
自分の中ばかりを見ていてはその答えを探し出すことはできません。
その答えは、他の人達とのかかわりの中でこそ、具体的に浮かび上がってくるものだからです。
 他の人たちと関わり合い、弱さを補い合うからこそ、人は倒れずにいられます。そして、自分が存在することの意味を感じながら生きることができます。
「誰かの代わりに」という思いが、余力のあるときに、というのではなく、常に求められることの理由は、ここにあります。
 最後に、私が十代の頃から愛読してきたパスカルという思想家の著書「パンセ」の中の言葉を紹介しましょう。
「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている。」
 今の社会を生きる私たちにとって、繰り返し味わうべき言葉だと思います。


著者について:鷲田誠一(1949年~)・・・京都府出身、哲学者
出典:光村図書(中学3年生国語教科書)のための書下ろし

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私を含め、「責任」について意味を取り違えていた大人はどれくらいいるでしょう?

もちろん、「責任」という言葉とその意味について、西洋社会(英語圏)のそれと、
日本社会では、社会における文化的、歴史的背景によっての差もあると思います。
しかし、今の「失敗を極度に恐れる社会」「失敗をとても悪い事のようにとらえる社会」においては
こういう考え方が必要ではないでしょうか。

私が育児の参考にしていた、精神科医でスクールカウンセラーの明橋大二先生は
子どもの自己肯定感を高めるために
「あなたはあなたのままでいい」という、親の受け止めが大事だと言われていました。

家庭でありのままを受け入れてもらえた子どもは、安心して外に出ていける。
これは事実です。
実際に成人した子供を見ていてそう思います。
嫌な仕事、苦労は誰かに変わってもらいたい。そう思うのは誰しも同じです。
でも、いつもそれであれば、一向に成長はなく、できないままです。
いつまでも「誰かの代わりに」はなれません。
「誰かの代わりに」というのは、即ち「ギブ&テイク」の精神とも言い換えれるのではないでしょうか。
そこで、いつまでも「テイク」しか言わない人に対して
、あなたはずっと「ギブ(与える)」できるでしょうか。(神様ならそれが可能でしょうw)

この文章を掲載するために、「リスポンシビリティ」の意味を調べたところ、
「責任」の他に、複数の意味がありました。



です。「情けは人のためならず」という言葉がありますが、
誰かの代わりになることは、まさにこれで、
そのときに助けてもらった人が、後日、自分を助けた人が困っていたときに「義理(恩)を返す」のは
少なからずあると思うのです。
また、「恩おくり」といって、まったく別の時に、以前自分が助けられたのと同じような状況になった時、助けてもらった人が また困っている別の人を助ける。という
社会のいい連鎖につながるかもしれません。

まずは自分の身の周り(家族、友人、職場の人)から、
そして、いずれは、出かけた先で、また、困っている人を見かけた時、時間に余裕がある時
これができれば、住みやすい社会に1歩近づけるのではないでしょうか。

ぜひとも「お手伝いできることはありますか?」と声をかけていきたいものです。
そして、自分が困った時は「○○で困ってます。」と周りに相談できるような
風通しのいい人間関係を築きたいものです。





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Last updated  2025.09.07 19:57:40
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