PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
フリーページ
昨年の今頃は、郡山、猪苗代、中野区、いわき、喜多方、郡山とさまよっていました。
震災直前には、原発の7キロ付近にいました。自宅に着いたときに、地震に会いました。二男は、先輩の卒業を見送って、部活に行く所でした。
私は、テレビを押さえるのがやっとでした。家族を呼んでいたら、皆、外に出てていて、私だけ、残っていました。夜中までその繰り返しでした。旦那は、仕事場に、ずっと、泊まり込みとなり、私は、かたずける間もなく、炊き出しの、手伝いに出かけました。野菜や、漬物、梅干しなど、あるものを差し入れしていました。自宅には、避難者数名が来ていました。親族に電話がつながらず、避難所を、駆けずり回って、探しましたが、姉夫婦しか見つかりませんでした。長男とは、3日後、衛星電話で、安否を知りました。東京に避難した時、決断し、石巻に向かい長男を連れだしました。その時、被災されているのに、支援していただきました。ありがたかったです。いつの間にか、支援する側から、される側へと変わりました。一度も避難しなかった実家にも精神的に、助けてもらいました。東京や郡山に住んでみて、良くしてもらいましたが、私は、村に住むのが一番のようです。4月から、二男の住むいわきと村の往復の生活になります。「困った、困った」が、口癖になってしまいましたが、この村に、留まり、何か糧を見つけたいと思います。
震災当初の映像を撮ることができませんでした。不幸の映像を撮る気にはなれませんでしたが、今になって、後悔してます。





