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「夜は嫌いだ」と、僕は思った。どうして誰もが幸せそうに見えてしまうのだろう。彼らは不服、不満を少しとして抱いていないのだ。変えようともしなければ、変わるべき問題すら見えていない。「あなたには感謝の気持ちがないのよ、だから不満が先行してしまう」と言った。しかし僕にはそれも分からない。あるいは僕は異常者なのかもしれない、と、夜になるとそんなふうに考える。階下の振り子時計の音が連続して響く夜に、僕は頭を抱えながら悩みこむのだ。僕が間違っているのか、みんなが正しいのか、と。ふと、耳を澄ますと、窓の外からじゃらじゃらと金属の音が聞こえる。僕は一瞬考える。なんだろう、と。カーテンを開けると、外には異様な風景が広がっている。空から何万、何億もの鎖が垂れ下がり、道路や、家屋や、通行人に巻きついているのだ。ぼうっと不気味に明るい空に、僕は絶望を感じる。絶望とはなんなのだろうか?いずれにしても、それは異様ではあるが僕の気持ちを激しく揺さぶったりはしない。意識は夜の静けさで格段と落ち着いていて、なんだって起こりうるという可能性を受け入れている。気付くと鎖は僕の体をも束縛している。それはとても冷たい。僕は内臓が浄化されるような気持ちになる。魂が大腸で暴れ、心臓が肺を中から叩く。僕におけるあらゆるものが縛られているのだ。それが自分の存在意義を確認することの難しさの原因かもしれない。僕はどうして、といった類の疑問はこの鎖によって無効化されるのだ。人間は半分死んでいる。確かにそうなのだ。半分は残っていて、もう半分は鎖の向こうにあるのだ。あるいは自分を縛っているのはもう半分の自分かもしれない。そういったケースもあるかもしれない。月が無くなる。僕はため息をつく。それで終わればいいのだ。しかし僕の体中にはまだ、きつく縛られている感覚がまとわりついている。僕はそれを脱ごうとする。鎖を外したら?どうにもならないじゃないか。僕は既にカオスと化してしまった夢の世界へと、深く沈みこんでいく。
2008.11.03
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「ねえ、きみ」とうしろから声がした。振り向くとそこには大きな男が立っていた。大きな男。2mほどの背丈と、木の幹のようにがっしりとした体。黒いシルクハットを深く被っているせいで、僕には彼の口元しか確認することができなかった。渇いてはいるけれど決して絶望的でない唇が自然に曲がっていた。不精鬚が見えたが、それはおそらくある程度整えられた、計画的なものだった。僕は彼の頭からつま先まで観察し、黙った。「名前は?」と、極めて計画的な不精鬚を生やした巨大な男は僕に訊ねた。「知らないです。僕は自分の名前なんか知らない」、とんだ冗談。しかし僕は彼に自分の名前を教えることを恐れた。彼はそういった表現しづらい類の、いわば袋小路にあるゴミ置き場の端に置き去りにされた埃、のような威圧感を持っていた。「そうか」と男は言った。「ともかく、今から三分後に地震が来るよ」「え?」と、中途半端に裏返った声を上げた。社会における「僕」は、どんな状況下でも決して焦ったりしない、冷静で沈着な人間だった。しかし僕はいとも簡単に自らの混乱を露呈してしまっている。個性を失うというのは、ある意味ではその事物の本質を消すことになる。ある意味では(それは実に多面的な場合で)、僕の本質はゴミ置き場の端で雨に降られた埃のように溶け、消えてしまう。「あと二分で地震が来るよ」と地震男は言った。彼のその直立ぶりは実に機械的で冷ややかだった。しかし弁慶の動物的な直立よりはずっと素直で堅実に見えた。僕は取り乱している、と僕は思った。こうしてじたばたとしているうちに雨が降ってきて、僕は溺れながら消えてしまう。消えるとどこに行くんだろう?消滅に行き先なんてないよ、と僕は思った。消滅のトンネルを抜けると、そこにあるのは消滅だ。断続的に白い世界は生きつづける。そしてある意味では死に続ける。実に多面的に死に続ける。「あと一分、震度は2ぐらいだから、そんなに怖がることはない」と地震男は僕を慰めるように言った。トーンは変わらず機械的だった。しかし声のスピードは同情的だった。僕は心配されている。心の底がグラグラと音を立てて揺れた。今までこつこつと埋めてきた宿命的な不安と、僕はまた直面しないといけないのだろうか。震度7。頭を抱えてしゃがみ込むと地面が揺れた。微かな揺れだった。電線が多少動いたらしく、カラスの黒い羽音が聞こえた。しかし心の底が揺れ続けている。今まで宿命的な切り傷を覆ってきたかさぶたはベリベリとはがされ、静かに分解された。血小板というのは、個々では屑のようなものだ。それらは切り傷から外の宇宙に排泄された。止まらない揺れに呼応するかのように、大きな古傷からは生臭くて赤黒い血が大量に流れた。グラグラ、ドクドク、グラグラ、ドクドク。「それじゃあ、また来るよ」と地震男の声がした。それからコツコツという靴音がした。だんだん小さくなって、それにつれて心の底の揺れも収まった。僕は裸になっていた。中核を除くすべては僕から失われた。果肉の失われた梅の種のような気分になった。紙の失われたトイレットペーパーの芯のような気分になった。顔をあげて立ち上がった。あれ?と僕は口に出した。体が軽くなっていた。まるで月にいるようだな、と、月に行ったことのない僕は思った。スタートラインが常にゴールラインと重なっているように、損失はいつでも何らかの収益につながっている。たくさんのドーナツが空に浮かんでいる。だからこそ、地球は太陽の周りを上手に回れるのだ。*そこここにナイフが見える。けれども僕は肩の力を抜く。どん底、はまだまだ先にある。そして死、もまだまだ先にある。僕はコーヒーを飲みながら、音楽を聴きながら、本を読みながら、しっかりそれを待ち続ける。
2008.11.03
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