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「夜は嫌いだ」と、僕は思った。どうして誰もが幸せそうに見えてしまうのだろう。彼らは不服、不満を少しとして抱いていないのだ。変えようともしなければ、変わるべき問題すら見えていない。「あなたには感謝の気持ちがないのよ、だから不満が先行してしまう」と言った。しかし僕にはそれも分からない。あるいは僕は異常者なのかもしれない、と、夜になるとそんなふうに考える。階下の振り子時計の音が連続して響く夜に、僕は頭を抱えながら悩みこむのだ。僕が間違っているのか、みんなが正しいのか、と。ふと、耳を澄ますと、窓の外からじゃらじゃらと金属の音が聞こえる。僕は一瞬考える。なんだろう、と。カーテンを開けると、外には異様な風景が広がっている。空から何万、何億もの鎖が垂れ下がり、道路や、家屋や、通行人に巻きついているのだ。ぼうっと不気味に明るい空に、僕は絶望を感じる。絶望とはなんなのだろうか?いずれにしても、それは異様ではあるが僕の気持ちを激しく揺さぶったりはしない。意識は夜の静けさで格段と落ち着いていて、なんだって起こりうるという可能性を受け入れている。気付くと鎖は僕の体をも束縛している。それはとても冷たい。僕は内臓が浄化されるような気持ちになる。魂が大腸で暴れ、心臓が肺を中から叩く。僕におけるあらゆるものが縛られているのだ。それが自分の存在意義を確認することの難しさの原因かもしれない。僕はどうして、といった類の疑問はこの鎖によって無効化されるのだ。人間は半分死んでいる。確かにそうなのだ。半分は残っていて、もう半分は鎖の向こうにあるのだ。あるいは自分を縛っているのはもう半分の自分かもしれない。そういったケースもあるかもしれない。月が無くなる。僕はため息をつく。それで終わればいいのだ。しかし僕の体中にはまだ、きつく縛られている感覚がまとわりついている。僕はそれを脱ごうとする。鎖を外したら?どうにもならないじゃないか。僕は既にカオスと化してしまった夢の世界へと、深く沈みこんでいく。
2008.11.03
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「ねえ、きみ」とうしろから声がした。振り向くとそこには大きな男が立っていた。大きな男。2mほどの背丈と、木の幹のようにがっしりとした体。黒いシルクハットを深く被っているせいで、僕には彼の口元しか確認することができなかった。渇いてはいるけれど決して絶望的でない唇が自然に曲がっていた。不精鬚が見えたが、それはおそらくある程度整えられた、計画的なものだった。僕は彼の頭からつま先まで観察し、黙った。「名前は?」と、極めて計画的な不精鬚を生やした巨大な男は僕に訊ねた。「知らないです。僕は自分の名前なんか知らない」、とんだ冗談。しかし僕は彼に自分の名前を教えることを恐れた。彼はそういった表現しづらい類の、いわば袋小路にあるゴミ置き場の端に置き去りにされた埃、のような威圧感を持っていた。「そうか」と男は言った。「ともかく、今から三分後に地震が来るよ」「え?」と、中途半端に裏返った声を上げた。社会における「僕」は、どんな状況下でも決して焦ったりしない、冷静で沈着な人間だった。しかし僕はいとも簡単に自らの混乱を露呈してしまっている。個性を失うというのは、ある意味ではその事物の本質を消すことになる。ある意味では(それは実に多面的な場合で)、僕の本質はゴミ置き場の端で雨に降られた埃のように溶け、消えてしまう。「あと二分で地震が来るよ」と地震男は言った。彼のその直立ぶりは実に機械的で冷ややかだった。しかし弁慶の動物的な直立よりはずっと素直で堅実に見えた。僕は取り乱している、と僕は思った。こうしてじたばたとしているうちに雨が降ってきて、僕は溺れながら消えてしまう。消えるとどこに行くんだろう?消滅に行き先なんてないよ、と僕は思った。消滅のトンネルを抜けると、そこにあるのは消滅だ。断続的に白い世界は生きつづける。そしてある意味では死に続ける。実に多面的に死に続ける。「あと一分、震度は2ぐらいだから、そんなに怖がることはない」と地震男は僕を慰めるように言った。トーンは変わらず機械的だった。しかし声のスピードは同情的だった。僕は心配されている。心の底がグラグラと音を立てて揺れた。今までこつこつと埋めてきた宿命的な不安と、僕はまた直面しないといけないのだろうか。震度7。頭を抱えてしゃがみ込むと地面が揺れた。微かな揺れだった。電線が多少動いたらしく、カラスの黒い羽音が聞こえた。しかし心の底が揺れ続けている。今まで宿命的な切り傷を覆ってきたかさぶたはベリベリとはがされ、静かに分解された。血小板というのは、個々では屑のようなものだ。それらは切り傷から外の宇宙に排泄された。止まらない揺れに呼応するかのように、大きな古傷からは生臭くて赤黒い血が大量に流れた。グラグラ、ドクドク、グラグラ、ドクドク。「それじゃあ、また来るよ」と地震男の声がした。それからコツコツという靴音がした。だんだん小さくなって、それにつれて心の底の揺れも収まった。僕は裸になっていた。中核を除くすべては僕から失われた。果肉の失われた梅の種のような気分になった。紙の失われたトイレットペーパーの芯のような気分になった。顔をあげて立ち上がった。あれ?と僕は口に出した。体が軽くなっていた。まるで月にいるようだな、と、月に行ったことのない僕は思った。スタートラインが常にゴールラインと重なっているように、損失はいつでも何らかの収益につながっている。たくさんのドーナツが空に浮かんでいる。だからこそ、地球は太陽の周りを上手に回れるのだ。*そこここにナイフが見える。けれども僕は肩の力を抜く。どん底、はまだまだ先にある。そして死、もまだまだ先にある。僕はコーヒーを飲みながら、音楽を聴きながら、本を読みながら、しっかりそれを待ち続ける。
2008.11.03
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08/04/02、真夜中僕は彼女のことが好きでたまらないのに、どうやら彼女は少しずつ僕のことを忘れているようだった。海はものすごいパワーを持っているのだ。それがたまたま僕と彼女とでは作用が正反対であったということなのだ。僕らにはいろんなことがあった。しかしそれをも海は渦の中に引きずりこんでしまう。それは自然の驚異だった。僕なんて海の前ではなんでもない存在だった。だからと言って、僕は彼女を諦めようとはどうしても思えなかった。彼女に会いたい、そう思った。彼女が僕を完全に忘れ去ったとき、僕はいったいどのような色になるのだろう?僕はいつか彼女において過去の人になるのだ。それはセピア色の悲しげなものになるかもしれないし、意味のない透明になるかもしれない。僕は彼女と笑いあった二年前を思い出し、あまりにも辛かった一年間を憎んだ。僕らは一年間も会うことができなかったのだ。そう思うと二年前の彼女の声は百年前の蓄音機から聞こえる叫び声のように感じた。メールで見る活字はどんどん物悲しげに見え、海に行くと必ず景色がぼやけた。彼女はあるいはほかの誰かに心を奪われてしまったのかもしれない。それは僕に関係のないことだったし、時代はアイスランドの風車のように回るのだから仕方のないことだった。それでも、僕はなんだか彼女のことを忘れる自信を持つことができなかった。彼女の笑顔を思い出し、彼女の小さく温かい手の感触を思った。鳥肌とは少し違う寒気のような感覚が切なく僕の頭の上に降り注ぎ、つま先まで僕を濡らした。遠いのだ。と僕は思った。海は広く、距離は遠いのだ。僕の持っているボールペンのスプリングを一万個繋げても彼女の手に僕の熱を届けることはできなかった。どうしてこんなに悩んでいるのだろう、と僕は思った。これは冷静な考えだった。僕の好きな人は地球の裏側に住んでいるのだ。そして裏側の雑誌を読んで裏側のビッグ・マックを食べて裏側の誰かに恋をしているのだ。どうして僕がそんなに遠くにいる人にここまで心を揺れ動かされなくてはならないのだろう?マッチを何本も着けては消し、ため息を人生二回分ついても、僕は彼女のことが頭から離れなかった。僕の心臓はどうやら彼女の色に染まってしまっているようだった。それは距離の問題ではないのかもしれない。「忘れないわ」と彼女は言った。ちょうどこの季節だ。僕は帰国を目前にしてずいぶん疲れていた。部屋にはベッドとステレオしかなく、彼女の声は北から南に一直線にかけていく冬の北風を思わせた。僕は幸せだった。「僕も忘れない」と僕は言った。しかし現に僕はこうして彼女のことを忘れようとしているのだ。当時の僕には想像もできないことだった。人は恋をすると運命というなぞかけに飲み込まれてしまうのだ。紫色の雲が四方を取り囲んで、現実があたかも甘いストロベリー・パフェであるかのような錯覚に陥れる。しかしそれは幻想に過ぎないのだ。過去二年間の僕において別れというあるべき事実は―ほかの誰もが往々にしてそうであるように―宇宙の外にある何かのまた外に存在している無関係なハエのようなものであった。僕はまたため息をついた。まただ、と僕は思った。デジタル時計は午前三時を知らせた。僕は今夜も眠れそうになかった。しかたなくCDプレイヤーにHYのアルバムを入れ、ボリュームを最小にして聴きながら適当な本を捲った。夜だけが淡々と更けてゆく。
2008.10.05
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ふとした用事から足を運んだ隣町の図書館からの帰路に、懐かしい坂道を下った。中学校の横を通る、田んぼの国を貫くような、町で一番急な坂道だ。三年ぶりぐらいに望む町の全景は古い匂いがした。中学生の僕はこの道を通っていろんなことを考えていたのだ。中学生の彼女は、この道を通っていろんなことを考えていたのだ、たとえば僕のこととか。僕は坂が傾こうとする直前にブレーキをかけた。静まり返った平日の二車線の真ん中でペダルからアスファルトに両足を落とし、それからゆらゆらと揺れながら沈みゆこうとしている秋の夕日を見た。*どうして思い出してしまうのだろう。彼女のことを考える理由などないはずなのに。しかし僕は思い出してしまうのだ。それも悲しいことに、あかりを灯すスイッチを押すのは僕自身なのだ。カチッと音がして、ぼんやりと彼女のことが見えて、気味悪いほど鮮明に一年間が繰り返される。何度忘れようとしたことだろうか、しかし結局のところ僕は何を捨てることは出来なかった。どこかに跡を残しておきたかったのだろうか?しかしそれは矛盾だ。僕は彼女のことを頭から振り払おうと必死なのに、テストを目前にしても僕はしこりを切除することができない。切除したところで血も出ないのだ。なのに何故なのか。人は出会いを重ねて生きていくのだろうか。経験を重ねて生きていくのだろうか。僕にはそれがどうも納得できないのだ。だってあらゆるものには限度がある。いつかパンクしてしまうかもしれないじゃないか。パンクしたらどうなるのか。僕はパンクしそうだから彼女のことを忘れてしまいたいのか。僕の頭の中を巡る彼女は、キスミントの包装をはがそうとしていたり、堤防の上で俯いていたり、花火を見ながら泣いていたりする。なんだろう、それは写真みたいに薄っぺらくて軽そうなのに、ボンドでしっかりとくっつけられてしまっているみたいなのだ。誰が貼ったのだろう。彼女か、それとも僕なのか。現実が現実じゃなく、過去のほうがずっと現実みたいに思える。ここにいる僕は僕じゃなくて、本当は中学生の僕が僕なのだ、と。しかし不信感は募る。なぜなら当時の友達はみんな僕のそばから離れてしまったからだ。*さまよっている。どこを?どうして?いつから?…分からない。*自問自答は複雑な軌跡を描いて同じ場所に戻ってくる。その途中に記憶が織り交ざって余計何がなんだか分かんなくなって、僕ははっと気付く。僕は充実しているようで、本当は何も持っていないんじゃなかろうか。*記憶が何の役に持たないのだとすると、僕には何もない。空の箱を背負ってさまよっている。どこを?どうして?いつから?…分からない。*秋の風を感じる。それは三年前と同じで、変わったのは僕だけだ。僕だけが飛び出して、あとのみんなは同じ球の中を昔のようにぷかぷかと浮かんでいる。ペダルを踏む。でもそれは仮のペダルみたいな感じがして、本当は僕はここにはいないのだと思うと底なしの悲しみが襲ってくる。風を切って坂を下ると思い出してしまう。自転車に乗ると思い出してしまう。息を吸うと思い出してしまう。バケツにふたをすることにしよう。限りない悲しみは何も生むまい。
2008.09.18
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花火の音はもう一ヶ月も前のことであるのだ。僕は勉強机に突っ伏す。「雨上がりにもう一度キスをして」が遠くで聞こえる。ツクツクボウシの落ちる音が秋の訪れと静寂を囁き、また、下らぬ日々がはじまりますよ、っと。学生ってどうして自由に勉強させてくれないんだろう。実力テストという名前をいい加減変えろよ。夏休みも休みじゃねーんだから夏季家庭学習期間とか改名しろよ。ほんとうんざりだわ。学校とかいきたくねー
2008.08.31
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日曜、朝五時の街はしんとしていて、僕は奇妙な乖離の感覚を覚える。僕は東に歩き、影は西に歩く。平衡感覚を失いつつも、世界は綺麗にまとまりを保ち続ける。やがて僕の前方にあるアパートメントの谷間から朝日が昇る。それは何とも形容しがたい気分だ。ビートルズはハニー・ドントを甘く響かせ、春先の無垢なる小鳥たちは美しく嘆く。空は青さを取り戻し、今日も一日が始まる。僕はベンチで地球の形状的な不完全性について思った。*「夏にはデンマークに留学するの」と彼女は言った。僕の好きになる人はすぐにどこかに行ってしまう。これはもう一般常識であるようだった。お隣の犬も、近所の小学生も、みんな僕の好きな人が消えてしまうことをルールとして知っているように感じた。中学一年生のときの彼女も、三年生のときの彼女も、結局は僕をある種の段階として通り過ぎ、そしてすぐに霧の向こうにいなくなってしまった。それは決して予測できることではなかった。灰色の線が直角に曲がって僕らの道を引き裂き、そして二人を穴に突き落とした。二つの経験は僕にとって、何よりも大きな絶望だった。輪郭のない暗黒だった。そして、彼女は何も分からぬままデンマークへ渡ってしまうのだ。デンマーク?それは僕に月の裏側を思わせた。いくら漕いでも辿りつかない、そんなところに彼女は行ってしまうのだ。彼女の長い髪をもう見ることはできないのだ。そう考えると僕は酷く胸がこわばっているのを感じた。体中の水分がなくなってしまいそうな苦しみだった。またしても僕の愛した人間は横を通り過ぎてゆくのだ。それはある意味では宿命なのかもしれない。あるいは誰だって結局はそういったものなのだろうか?*考えていると、太陽は完全に朝の上昇を終えた。僕は進まなくちゃいけないのだ。それは一般論である。しかし一般論は果たして誤っているのだろうか?僕は進まなくちゃいけない。それは後ろ向きに歩こうがスイカの種を飲み込もうが変わりようのない伝統的な事実だった。社会科の教師が言うように、涙を飲まねばならないときがある。僕はベンチを立ち上がった。全てはそれなりの形状を取り戻すのだ。もともとガスの集合だった地球も、確かに不完全ではあるが一応の楕円形を保っている。これは奇跡でありながら当然のことなのだ。全ては丸く収まる。そんな風に世界は成立している。どこかで猫が鳴き、どこかの川のせせらぎが聞こえた。僕は歩く。
2008.07.06
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僕は寝ながらにして、僕の体がいつものようにベッドの上にあることを認識している。そして世界における闇の支配率を感じ、大体の時刻を把握している。午前三時あたりであろう。どこにあるのか分からない時計の音が心臓の真ん中から聞こえる。秒針が血液を止めることなく体内に流し、僕はその動きに合わせて静かに呼吸をする。 時間におけるある一点を境に、意識は徐々に肉体から剥離していく。乾燥した皮膚のようにそれは剥がれ、気が遠くなるほどゆっくりと解体を進める。 一切の乱れは生じない。空気は波を立てずに息を止め続け、僕の肉体は真夜中の生命維持に最低限のエネルギーを費やす。秒針は退屈そうに回り、部屋は沈黙を守る。 やがて、意識は完全に肉体とは別の存在になる。ベッドに横たわる塊の上をふわふわとしばらく浮き続け、意識は今度は分裂を開始する。その動きもまたゆっくりと進められるが、剥離のような過度な慎重さはそこには見受けられない。海苔を、折り目を付けずに破るような分裂は、確実にその速さを強め、ついにそこに二つの意識としての僕を生む。 片方の意識はゆらゆらと沈みながら消えてゆく。もう片方の意識は、同じ動きをしながら、天井を突き抜け上にのぼってゆく。 意識との分裂を終えた肉体は変わらず呼吸をゆっくりと続け、夜の闇は変わらず部屋を満たし続ける。 * 片方の意識としての僕は、深海に沈んでいる。ゆっくりではあるが幅の大きい、重い波にゆらされて、徐々に浮遊をし始める。しかし僕自身は動こうとしない。全てを流れに任せ、口をつぐんで水面があると思われる方向を見上げる。闇。紫色の闇が視界を満たして、僕はわずかな震えの存在を確信する。 * もう片方の意識としての僕は、空に浮かんでいる。真っ暗な雲の下にはおそらく地面があって、僕の頭上には地球以外の何かが存在しているはずだ。しかし僕は上に何があるのかを正確に確認することができない。視点を変えたところで、それはぼやけて霞んで、雲の色となんら違いのない闇が浮かんでいるようにしか見えない。何かの気配は感じる。 僕はなんのきっかけもなく、いつの間にか落下を始める。落下とは呼べない、ゆるやかな落下を。 * 肉体としての僕。 時計は間もなく四時を知らせるのではないだろうか、と僕は思う。しかしそれは正確な意味での思う、ではなく、おそらく無意識的に、本能的にそう感じているのだと考える。 四時を知らせる、というのも、正確な意味での知らせる、ではない。時間も正確ではない。全てが歪み、部屋とベッドと肉体のみが、絶対的な意味を持って存在している。それ以外の何かを信用すると、きっと世界はヒビの入った洗面器に注ぎ込まれたシャワーの水のように、深い深い淵に落ちるだろう。 時間は確実に経過していく。 * 深海を揺れる意識としての僕は、相変わらず不規則なペースで水面を目指している。時間の経過と共に、わずかずつではあるけれど圧力が小さくなり、そして海の生物も姿を見せるようになる。目の無い深海魚が通り過ぎて、正体のつかめない巨大な黒い影が僕の背後を横切っていく。でも全ては僕の存在に気付くことなく、いつもと変わらない動きをしている。 あるいは僕は存在しないのかもしれない。しかし確かに僕は水の圧力を感じ、波の静けさを感じている。存在しながらも、存在していないのだ。僕は意識としてのため息をつく。気泡は生まれない。沈黙は破れない。 * 空。雲が少しずついなくなっている。言い方を変えれば、僕は間違いなく、緩やかな降下を進めている。鳥の羽のようにひらひらと揺れながら、僕の意識は風に乗って地面を目指す。 雲がいなくなると、薄い空気の膜を通して夜の街が見えてくる。ネオンの海と化した街ではあるものの、それは確かに美しい光景であった。海を行く大型客船、高速に列を作るトラック、この時間になっても息をし続ける街は、ある意味では昼間よりも活発で生き生きとしているようにさえ見える。 なおも僕は落下を続ける。なおも地球は僕を求める。 * 僕は今、三つのパーツに分かれている。しかしどこに本当の自分がいるのか、僕には分からない。どこにある自分が物事を考え、光や熱を感覚としてとらえているのか、僕は異様な内容の三角形の中心で戸惑う。僕という存在は今どこにあり、何をしているのか。混乱はやがて怒りに変わり、頭を散々掻き毟り血だらけになった末に、それが悲しみに変わるのを見る。自分はここにあるはず。重さも感じる。しかし肝心の統一感がない。バラバラになったパーツは神秘的な動きをし続けるだけで、何も示唆しようとしない。あるいは、僕は“僕ら”が何を言おうとしているのか、理解できないでいるのだろうか。考え、混乱し、傷つけ、泣く。絶望的なサイクルを死ぬまで続けるのかと思うと、僕はまた混乱する。そして、また、回る。 * 肉体は影を落とさずに、暗闇の中で息を潜めている。秒針は一種の表現手段として12の文字を指し、午前五時の到来を呼びかける。 少しずつ空気が動き始めると、闇の終わりが近づいているのを感覚のかけらとして感じる。しかし僕はまだ、絶望のぬかるみにはまり込み、真っ暗闇を見上げてある喪失感に心をとらわれている。どちらにせよ、夜明けは近い。 * 深海の僕は急速に浮上スピードを速める。それはわざとではなく、海がそのように促すのだ。波が小さく頻繁になり、生物も多く視界に映るようになる。僕は方向的に上であるはずの面を見上げる。するとわずかに光の気配を感じる。カモメの声が聞こえたような気がするけれど、再び沈黙がしがみつく。 * 上空の僕は急速に落下スピードを速める。朝が近づき、地球は太い重力を取り戻し、より一層僕を求めるようになる。地平線の向こうがわずかに白み始め、僕は疲れを思い出し、安堵の息を漏らす。それからネオンの波がゆっくりと沈んでいくのを眺める。 * 心配することはない、と僕は思う。パーツは確実にその全体を取り戻そうとしているし、闇はあと少しで終わる。永続的であると思った暗黒のサイクルは地球の回転によって効力を失い、僕は今に目を開ける。確かに今の僕は多くの違和感を持って、不安定なままで中途半端な存在ではあるけれど、急がなくていいのだと思う。大抵のことは時に押し流されて元に戻り、昨日と同じ環境の中であり続ける事ができるのだから。 僕は肩の力を抜いて、疲れを癒そうとする。 * やがて太陽が昇り始める。分断されていた意識は、横たわる僕の肉体の上で当たり前のように総合し、そしてゆっくりと、落ち着いて僕の体に入り込んでいく。その儀式は僕の分からないうちに行われ、沈黙の中に根拠を消す。 僕は目を覚ます。違和感などかけらもない、快い朝。うんと伸びをして、僕は自分が確かに自分であることを確かめようと手のひらを眺める。僕は全てのパーツを取り戻したことを確認し、ゆっくりと、新しい呼吸を感じる。僕は新鮮で、僕は呼吸をしている。 次の闇まで、まだしばらく時間がある。
2008.02.13
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後日編集予定彼女がいなくなる、そう考えると僕はひどく悲しい気持ちになった。僕の世界から、今日で彼女が消える。この気持ちはきっとどこにも吐き出すことはできない。しこりのように頑固にかたまって僕を圧迫し続けて、喉の奥にさらなる悲しみを呼ぶ。泣けたらどれだけ楽になれるだろう。単純でくだらない悲しみには涙を流すことができるのに、本当の悲しみは、どうしても捨てることができない。そういうものなのだ。 「ねえ」と彼女は言った。「海に行こうよ」 僕らは自転車に乗って浜まで向かった。下り坂を走って、海沿いの歩道に自転車を止め、階段を駆け降りた。「海だ」と僕は言った。「うん、海だね」と彼女は言った。11月の海は穏やかに泣いていた。夕空を赤く染める太陽は、今日も孤独に死にそうだった。僕らは波打ち際を並んで歩いた。濡れた砂を踏みしめると、僕は僕の存在を感じられた。確かに僕によって砂は形を変えている。確かに彼女によって僕は生きている。夕日が水平線の下に沈み込もうとすると、暗いけれど青さを取り戻した空に、水色の半月が浮かび上がってきた。わずかな陽光によって息を保っている暗転寸前の空は幻想的だった。鰯雲はさっきよりも足を速めて、月を隠したり際立たせたりしていた。彼女は麦わら帽子を頭から取ると、それを僕の頭の上にのせた。それから、「今日からこれはあなたのよ」と言った。長い髪とスカートが波風に揺らされた。僕の核ともいえよう部分も、風に揺れた。着古したジーンズに突っ込んでいた右手を出すと彼女の左手を握った。太陽が完全に沈んでしまうと、僕らは歩くのをやめ、砂浜に座った。上を見上げると綺麗な月が光っていて、海を青く照らしていた。「どうして月はあんなに綺麗なの?いつだってひとりなのに」と彼女は言った。「確かに」と僕は言った。どうしてだろう?太陽はすぐに死んでしまうのに。「あたしは」と彼女は俯いた。 「あたしは消えたくない」僕も彼女に消えてほしくなんかなかった。「消えないでくれ」そう言うと僕は右手を横に出した。まだ消えないで。彼女は消えていた。さしのべた右手は冷たい砂を掴んだ。右を見ると、微かな匂いを残しただけの空白があった。
2007.10.28
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惑星は死んでいた。惑星は完全に死に絶えていた。星を取り巻く宇宙にはかすかにオルゴールの音が聞こえているだけで、ほかにはなにも存在しなかった。絶対的な無と、死んだ惑星と、音。そんなところに僕は飛び込んでしまったのだ。***季節は、秋風が北風に変わる頃だった。僕は絶望、と呼ぶに十分ふさわしいであろう喪失感を感じていた。ずっと溜めこんできていたのだ。それが爆発しようとしていた。ビッグ・バン。かろうじて息をし続けている夕日の中、僕は電車に揺られて、地元の駅の名前がアナウンスされるのを聞いた。もうすぐ電車という極めて有限でくだらない社会からあなた方は解放されますよ、と車掌の声がする。ホームに降りると、少し安堵感を覚えた。しかしそれはいつものように束の間のことだ。僕はすぐに次のドアを見つけてしまう。ずっと向こうにあるそれ。ひとつの社会にドアはひとつしか存在しなくて、そこからしか人間は逃れることができない。空はアクリル絵の具で塗られた壁で、地平線の向こうには地平線がある。全ては有限な世界で、全ては無機的に時を浪費する。僕はため息をついた。僕らは所詮人間という歴史的な理由のみによって保たれている、理不尽なほど頑丈な鎖に繋がれているんだろう。そう思うと、僕は背中の皮の下にある貯金箱に、また新しい喪失感を沈めたことを実感した。*水たまりがあった。踏切の目の前にあるそれを、僕は踏んだ。すると僕の足はそれに埋まった。僕はバランスを失って、水たまりに飲み込まれた。*それは実に不思議な感覚だった。水に足を突っ込んでいるのに、泥に身をうずめているような気分だった。ゆっくりと体が傾いて、ゆっくりと沈んでいった。でも、僕はそれを予想していた。僕は自分から水たまりに足を入れたんだ、と僕は思った。それがドアに繋がる階段だと悟って、社会からの永続的な開放を求めて、水たまりに浸かった。水たまりの下には、多くの水と巨大な暗闇が存在していた。安心できる温かさに身をまかせながら、僕は着実に沈んでいった。夕焼け空が光の点になって、電車の車輪の音が、聴覚的な直線になった。光の点が暗闇に飲み込まれて、聴覚的な直線が暗闇に飲み込まれた。僕も飲み込まれていることを確信した。僕はひとりだ。僕は闇に支配されている、でも。僕は抜け出したのだ。久しぶりに僕は声をあげて笑った。古ぼけた柱時計の頭の上にかぶさった埃のような色をしたその声は、ぼこぼこ、という音に変換されて、水泡になって上の方に浮いていった。君たちは戻りたまえ、影のない、影に覆われた世界に。それにしても、水中で笑うっていうのは、妙なものだよ?僕は目を瞑った。眠った。***目を開けると、すでにそこには宇宙が広がっていた。もっとも、そこは水中と同じように暗闇だったから、自分がすでに社会から逃れたことに気づくには少し時間がかかった。口が渇いていた。かさかさの唇を舌で舐めると、現実の味がした。オルゴールが鳴っている。懐かしいメロディーだったけれど、僕にはそれがどういった音楽なのか思い出すことができなかった。それから、僕は少しずついろんなことを思い出せなくなった。オルゴールのメロディーがなんなのか分からなくなったことが引き金になって、僕は自分の目的を失って、自分の名前を失った。自己の喪失は世界の終りへと、時の流れを極めてスムーズに導く。見上げると、死んだ惑星が浮かんでいた。時空の歪みを不器用に渡るように、それはゆっくりと揺れて、なおも死に続けていた。*果たして、と僕は考えた。果たして僕は人間によって作られた、慢性的な束縛を基盤にした腐った世界から逸することができただろうか。僕には答えを見つけることができなかった。宇宙空間には限りのない広大さを感じたし、きっとそれは事実なのだろうけれど、しかしそこには僕と惑星とオルゴールの音しか存在していなかった。そういった意味では、あるいは僕の今いる場所は完全に閉塞的なところなのかもしれない。限りない、有限な社会。「僕は、一体何から逃れることができたのだろう?」と、僕は惑星に聞いてみた。僕の声は、まるで僕に憑依した誰か別の人間の口から発されたもののように感じられた。圧倒的に乾燥した音だった。惑星は答えなかった。あたりまえじゃないか、惑星は死んでいるんだぜ?僕は静かに涙を流した。
2007.10.06
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「ねえ、きみ」とうしろから声がした。振り向くとそこには大きな男が立っていた。大きな男。2mほどの背丈と、木の幹のようにがっしりとした体。黒いシルクハットを深く被っているせいで、僕には彼の口元しか確認することができなかった。渇いてはいるけれど決して絶望的でない唇が自然に曲がっていた。不精鬚が見えたが、それはおそらくある程度整えられた、計画的な不精鬚だった。僕は彼の頭からつま先まで観察し、黙った。「名前は?」と、極めて計画的な不精鬚を生やした巨大な男は僕に訊ねた。「知らないです。僕は自分の名前なんか知らない」、とんだ冗談。しかし僕は彼に自分の名前を教えることを恐れた。彼はそういった表現しづらい類の、いわば袋小路にあるゴミ置き場の端に置き去りにされた埃、のような威圧感を持っていた。「そうか」と男は言った。「ともかく、今から三分後に地震が来るよ」「え?」と、中途半端に裏返った声を上げた。社会における「僕」は、どんな状況下でも決して焦ったりしない、冷静で沈着な人間だった。しかし僕はいとも簡単に自らの混乱を露呈してしてしまっている。個性を失うというのは、ある意味ではその事物の本質を消すことになる。ある意味では(それは実に多面的な場合で)、僕の本質はゴミ置き場の端で雨に降られた埃のように溶け、消えてしまう。「あと二分で地震が来るよ」と地震男は言った。彼のその直立ぶりは実に機械的で冷ややかだった。しかし弁慶の動物的な直立よりはずっと素直で堅実に見えた。僕は取り乱している、と僕は思った。こうしてじたばたとしているうちに雨が降ってきて、僕は溺れながら消えてしまう。消えるとどこに行くんだろう?消滅に行き先なんてないよ、と僕は思った。消滅のトンネルを抜けると、そこにあるのは消滅だ。断続的に白い世界は生きつづける。そしてある意味では死に続ける。実に多面的に死に続ける。「あと一分、震度は2ぐらいだから、そんなに怖がることはない」と地震男は僕を慰めるように言った。トーンは変わらず機械的だった。しかし声のスピードは同情的だった。僕は心配されている。心の底がグラグラと音を立てて揺れた。今までこつこつと埋めてきた宿命的な不安と、僕はまた直面しないといけないのだろうか。震度7。頭を抱えてしゃがみ込むと地面が揺れた。微かな揺れだった。電線が多少動いたらしく、カラスの黒い羽音が聞こえた。心の底が揺れ続けている。今まで宿命的な切り傷を覆ってきたかさぶたはベリベリとはがされ、静かに分解された。血小板というのは、個々では屑のようなものだ。それらは切り傷から外の宇宙に排泄された。止まらない揺れに呼応するかのように、大きな古傷からは生臭くて赤黒い血が大量に流れた。グラグラ、ドクドク、グラグラ、ドクドク。「それじゃあ、また来るよ」と地震男の声がした。それからコツコツという靴音がした。だんだん小さくなって、それにつれて心の底の揺れも収まった。僕は裸になっていた。中核を除くすべては僕から失われた。果肉の失われた梅の種ような気分になった。紙の失われたトイレットペーパーの芯のような気分になった。顔をあげて立ち上がった。あれ?と僕は口に出した。体が軽くなっていた。まるで月にいるようだな、と、月に行ったことのない僕は思った。スタートラインが常にゴールラインと重なっているように、損失はいつでも何らかの収益につながっている。たくさんのドーナツが空に浮かんでいる。だからこそ、地球は太陽の周りを上手に回れるのだ。*そこここにナイフが見える。けれども僕は肩の力を抜く。どん底、はまだまだ先にある。そして死、もまだまだ先にある。僕はコーヒーを飲みながら、音楽を聴きながら、本を読みながらしっかり待ちつづける。
2007.09.12
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モバ「イス川」、長編挑戦中。最近PCに座る時間ないです。
2007.09.07
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「愛してるわ」と女は言った。僕は彼女のことを見たことがなかった。「僕も愛してます」と僕は言った。夕立雲が西の夕焼けに見えた。夏の暮れ独特の雨の匂いが、飛行機雲の中にちらほらと光った。女は小さめのスーツを見事に着こなしていた。背筋が伸びていて、半透明の黒いサングラスをかけていた。コツコツと軽快な音を響かせて、公園のベンチで本を読む僕の前で立ち止まったのだ。「私、あなたのことを愛してるわ」「ええ、僕も愛していますよ」と僕は言った。夏の終わりには恋に燃える人間があふれるほどいることを僕は知っていたし、それに今の僕にそういった言葉を言えなくする何かは、残念ながら存在していなかった。「何を読んでいるの?」「フロイトです」「生きることの意味と価値について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。なにしろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから」と女は言った。「私もそう思うわ。あなたはどう思う?」「僕ですか?」「そうよ」「僕は何も言うことはできません。それに何も考えつきません。きっとこの世界から見放されてしまったんでしょうね。僕は宇宙からこの星を見ているのです。『人間が人間の生活を客観的に見ようとしている』世界を、僕は客観的に見ている、だから…」僕は言葉をとめた。途中で自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。「あなた面白いわ」と女は無表情で言った。ほどよく化粧された鼻はまるで丁寧に手入れされた造花みたいだった。しっかりと自信を持って鼻はそこにあった。日本人のものにしてはずいぶん高かったが、欧米人のそれのように角のある攻撃的なものではなく、丸みを帯びた美しい無駄なもの、という表現が適当そうな鼻だった。無駄、と言われるものは、ある場合には美しい芸術性を秘めている。「続きが聞きたいわ。あなたは客観的に見ているから?」「僕は客観的に見ているから、何を言う権利も持たないのです。それは僕の考えが正しいのかそうじゃないのかが分からないからです。しかし客観的に見ることのできる立場を得たのと同時に、僕は思考することができなくなってしまいました。それはおそらく、本来人間はそのような立場になるべきではないからです。よって僕は世界の流れを見る目を、厳密に言えば世界の流れを認識してそれに対する考えを持つ能力を失いました」「核心的盲目」と女は言った。「シンディー・リチャードよ」「核心的盲目」と僕はその言葉をしっかりと脳みそにしみこませるために繰り返した。「簡単に言えばそういうことですね」「そんなことよりあなた、今から一緒にディナーでもどう?」と女は言った。「いいですね、僕はあなたを愛していますから」と僕は言った。カラスが喚く。風が吹く。そして雨が降ってくる。「ねえ」と彼女は傘を開きながら言った。「あなたはまだ世界から見放されてなんかいないわ」
2007.09.01
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そろそろ眠らせてくれないかい?夏は終わる
2007.08.31
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「どうせあなたには分からないのよ」と彼女は言った。僕は認めざるを得ない。
2007.08.27
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僕の右隣に座るトカゲは言った。「オレはポーカーで負けたことがないぜ」僕の左隣に座るアユミは言った。「それはインチキをしているからでしょ?私わかるわよ。あなたがポーカーしてるときの顔って見たことないけど、きっと表情だけで見抜けると思うわ」トカゲは右手の人差し指を自分の顔の前に出して左右に振ると汗を存分にかいたジョッキに注がれたぬるくなったビールをごくりと一口飲み込み、得意そうに言った。「君、インチキだってひとつの戦法なんだぜ、それは正しくはないが間違ってもいない、結局は見る角度の問題なのさ」「でも正当ではないじゃない、ルール違反なんでしょ?」と言ってアユミは僕を見た。「うん、そうだね、ルール違反だ」「やっぱり。反則じゃないの、トカゲくん」アユミはニシシと笑った。彼女は特徴的な笑い方をする。「さっきも言ったようにさ、それはやっぱり見る角度の問題なんだよ」とトカゲは火をつけようと咥えた煙草を口から離して言った。それからもう一度煙草を咥え、カウンターのバーテンダーにマッチをもらって三回ほど擦り、やっと火がついたそれを煙草に移した。マッチの火をジョッキの表面に付着した水滴で消して、煙草を手に取り息を深く吐き出した。とても手慣れた、とても長い一連の動作だった。僕らはその間何も話さなかった。トカゲとの会話における彼の間の取り方というのは実に魅力的だった。「ルールというのはあくまで物事を束ねるための表面的なものなんだ。その束ねられた物事の表面は見えても中は見えない。そこが面白いんだな」彼は続けた。「今はなにもかもがつまらなくなりすぎている。学習できないんだ。風邪を引けば自分が悪い、金をとられても自分が悪い。そういうものの見方はやっぱり大事だぜ。もちろん盗むやつが悪いけど、それを個人の問題として見ればそこには自分しかいないんだな」「故に騙されるやつが悪い、と」と僕が言うとトカゲは煙を吐いた。「ああ、だがポーカーでの騙しはルール違反じゃないとオレは思うぜ。それは表面的にはルールに則してるんだ。ニュースでは報じられない。誰も気づかない。罪は気付かれてはじめて罪となるからな、それまではしっかりとした正当な行為とみなされるんだよ。理不尽かつやや理解しがたいけど、それもまたルールなんだ。そこのへんもやっぱり見方次第だろうな。几帳面な人間は正しくあることに美意識を持つ。とすればやっぱりオレみたいなやつもいるわけで」おー、とアユミがうなった。「トカゲくん、あなたやるわね」「どうもありがとう」「太宰治的だな、きっとトカゲは」と僕は言った。「『とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ』ってか?」「そのとおり」トカゲは得意げに笑みを浮かべた。トカゲは、今夜も賭けで手に入れた小銭をポケットにじゃらじゃらと鳴らしながら、さびれたバーを出て行く。
2007.08.23
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「私はね、最近自分が自分でない気がしてならないの」とアユミは少しうつむきながら言った。抑揚のない、晩夏の蝉のように悲しげな声だった。「どんなふうにだい?そこにはいろんなパターンがあるはずだ」と僕は言って、それから考えたけど、僕にはあまり多くのパターンを思い浮かべることができなかった。夏は暑いのだ。「それはややこしくて哲学的な自己の喪失感ではないわ、それは実感として私を悲しませるの」午後七時のアパートメントの部屋というのは実に趣がある。そして寂しい。彼女は煙草を吸う僕の前に置かれたカシュー・ナッツの入った袋から一粒だけ取り出し、口を小さく開いて器用にナッツを含んだ。音もなく噛まれ、音もなく沈んだ。それを眺めて、彼女の胃袋に入る運命を持ったカシュー・ナッツはまるで沈みゆく太陽のようだな、と僕は思った。「そういう感じね、それならなんとなくわかる」と僕は言った。「中学生のころよくそんなことを感じたよ。個性が自分の中に見当たらなくなっちゃって、まるで自分が型どおりに生産されたボーリングのピンになったような気分になる。とても不安だった。僕は一体どこにいってしまったんだろう、ってね」僕がそういうとアユミは顔をあげて目を丸くした。「私が言おうとしてたこと、なんで分かったの?」、僕は答えた。「そういった気分の時には決まってカシュー・ナッツと酒が欲しくなるんだよ。僕や君のようにごく一般の人間はね」、彼女はうっすらと笑顔を浮かべた。「そう言えば僕がビールを飲み始めたのは中3だったぜ。ある朝起きたら急に怖くなったんだ。『あれ、オレは一体どうしたんだ?』ってね。無意識のうちに僕の中に入り込んだ何かが少しずつ僕を奪っていったんだ。ものすごく恐ろしかったさ、あれはね」と僕は空いたビール缶の中に煙草を突っ込みながら言った。彼女は僕の手から落ちていく煙草の吸殻を一点に見つめながら十秒ほどボーっとしていた。それからそんな眼差しのまま僕の方を見て言った。「私はいまだにたくさんのお酒は飲めないわ」「酒を飲め。こう悲しみの多い人生は眠るか酔うかしてすごしたほうがよかろう、ってね」と僕は言って立ち上がった。「ビールを持ってくるよ、君も飲むかい?」「うん」アユミは笑顔で答えた。「ところで、それは誰の格言?」「ウマル・ハイヤーム、十世紀も前のペルシアの学者さ」と僕は冷蔵庫を開けながら返した。やっぱりアユミはかわいいな、と少しにやけながら、僕は缶ビールを二本持って言う。「さあ、今夜はゆっくりと飲もう」
2007.08.23
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部屋の窓から花火が見えた。川沿いで、大きな打ち上げ花火があがっている。僕はエアコンの冷えた空気を逃したくなかったけど窓を開けて、頬杖をつきながら花火の音を眺め、鮮やかで儚い光を聴いた。*ユリと花火を見に行ったのは三年前の八月だった。夕方、いつものセブンイレブンの駐車場で待ち合わせて、いつものようにキスミントを一枚手渡して、それから僕は自転車で、ユリは浴衣だったから自転車の後ろに横向きに座って、川沿いに向かった。蝉の声はずいぶん弱まっていて、生暖かい風も幾分涼しく感じた。中学生の会話だったのかな、僕たちは川沿いにつくまで太宰治の「斜陽」の話をして、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の話をして、それからカフカの「変身」の話をした。グレーゴル・ザムザの家族はどうして誰にも(たとえば警察とか)に、彼が変身してしまったことを話さなかったのだろうか、という話題で盛り上がっているときに、花火の音が響いた。東側に目をやると、薄暗くなった夏の夕暮れに火花がチリチリと音を立てて散っていた。「始まっちゃったみたいね」とユリが言った。「そうみたいだね」と僕は答えた。「ねえ」「なに?」「どうしてあたしのことが好きなの?」「どうしてオレのことが好きなの?」二発目が飛んだ。バチン、と時代が一気に十年ぐらい変わってしまいそうなくらい明るい花火が、暗闇に咲いた。そんな瞬間の衝撃のあとに、空がドーンという音を跳ね返す。跳ね返った音たちはチリチリと泣きながら川の水面に死んでゆく。僕らは目を合わせて笑った。早く行かなくちゃ、ほら、急いで!とユリは僕の左の耳たぶを引っ張った。川沿いについたころには、そこは人でごった返していた。橋を含むすべての道が遊歩道となっていて、そこらじゅうに馬鹿高いたこ焼き屋や生臭い金魚すくいの屋台が並んでいた、ちょうちんに照らされた僕らの色のない、薄い影は川沿いの細い砂利道で止まった。「川のそばまで下りようか」と僕が言うとユリは嬉しそうに「うん」と頷いた。僕たちはコンクリートで舗装された岸に座った。草の匂いとたこ焼きの匂いと煙の匂いと、ユリの匂いがした。花火を見ながら何気なく手を握ると、ユリは微笑んで僕の右手を握り返した。一時間ぐらい、僕たちは無言で花火に降られていた。「それじゃあ、ね」と、セブンイレブンの駐車場でユリが手を振った。僕は「ああ、またな」と言って自転車を漕いでユリを背後に走り出した。「あ、あのさあ」と声が聞こえた気がしたけれど、僕は振り向かなかった。これ以上会話をしていられそうになかった。僕の中には何か堪えきれずに爆発してしまいそうな何かが住んでいるような気がした。ユリのことは好きだったし、きっとユリだって僕のことを好きだった。それでもそれとは関係のないはずの何かが裏でこっそりと繋がっていて、花火の大げさな叫びで、僕はその影を見てしまったのかもしれない。僕は家に帰ってから無表情で、声を立てずに泣いた。*「もう、疲れたんじゃない?」とユリは僕に言った。冬の川沿いのコンクリートはひどく冷たかった。僕は何も言えなかった。それとは関係ないはずの何かが僕を邪魔した。ユリは僕に「さようなら」と言って、歩きだした。雪も降ってないし、雨も降ってこない。僕には涙する環境が備わっていなかった。憐れんでもくれない無感動な冬の雲は霧を作り、やがてユリは霧の中に消えた。*花火は終わったのかな、と僕は部屋から考える。それから一連の過去の話を頭を振ってどこかにどける。僕は氷がとけて薄まったアイスコーヒーを飲みながら、あれとは関係のない何かがいまだに僕の体の大半を侵していることを確認して、眉間をおさえる。
2007.08.16
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アイスランドの旅行ガイドの表紙的な景色に、風は僕を運んだ。何もない、一面が芝生の土地だ。晩夏の風はどことなく寂しげに、何にも遮られずに僕の体を舐めていった。人はこうやって少しずつ削りとられていくんだな、と僕は思う。永遠を信じられる気がするほどの広大な平野には何もかもが消え、印や個性的な部位を認めることはできなかった。ひたすら黄緑が続く。風にうねり、光の加減で色の濃さを不規則に変え、そして匂いと風は僕を削り、いくつかの匂いの粒子は僕の鼻腔や皮膚を突き破り、どこかにある(僕にもどこにあるかはわからない)本物の心臓の色をガラリと変える。僕は侵入者であり、同時に侵入された人間だった。地球の呼吸は温かみを持ったものだった。しかしそれは優しく僕を蝕む。いつでも世界は人間の生命力を吸いながら発達していく。僕は抵抗しないことにした。削るなら削ってくれ。僕は息を思いっきり吸って肺の中で溜め、それから呼吸を止めた。目を瞑る。何もかもを受け入れると自然と楽な気分になった。随分と時間が過ぎた。僕は今もここの裏側でせっせと働いているひとたちのことを考えて、ゴミをあさっているカラスのことを考えて、今までそこにいた僕のことを考えた。でも今、僕はここにいる。それは実に不思議な気分だった。現実とかすかにずれた空間に漂っている。そして現実は僕のもとには戻らない。僕は現実のもとには戻れない。僕の体はさらさらと音を立て始めていた。指先が崩れるのと呼応して、僕の意識も崩れてゆく。何も僕の崩壊を妨げるものはないはずだった。僕は完全に孤立した世界にあるその一部なのだから。しかし僕は形を取り戻す必要があった。地響きを感じた。威圧感を含んだ低く細かい地響きが地面に跳ね返り、空に跳ね返る。僕は目を開けた。大樹が起き上がっている。僕の20mほど前に、おそらく直径10mはある幹と、その5倍ほどの幅の枝と葉で構成された樹木は、ゆっくりと立ち上がった。地面を割り、横たわっていた木は地中から姿を現した。割れた地面は木が起き上がるにつれて元のように繋がり、そしてまた次の地面が割れた。根を完全に地面に固定するまでに30分ほどかかった。しかしそこに時間という概念は存在しなかった。今、そこに大樹は起き上がり、そして僕を見下ろしていた。僕は自分が震えていることに気がついた。原因は恐怖でも寒さでもないはずだった。大樹は圧倒的な存在感で、ずれた空間を濃くした。空気は重くなり、僕は呼吸しているという実感を得た。大樹から、羊が落ちてきた。羊が下りてきた。ふわふわと浮きながら、さまざまな角の形をした様々な大きさの羊が、地面に舞い降りて歌を歌った。彼らの一部は木を見上げ、ほかの羊は僕を見ていた。僕は立ち上がり、木に向かって歩いた。手はその形を取り戻し、僕の本物の心臓も崩れてはいなかった。僕が羊の中に歩いて行くと、彼ら歌を歌いながらは僕のために道を作ってくれた。やがて大樹が目の前に迫ってきた。こんなにも大きかったのか、と僕は思った。偉大なる大樹はその幹をまっすぐ天に伸ばし、そして雨のように葉を揺らしていた。間からは微かに青空が見えた。僕は微笑んだ。そして、幹に触れた。そして僕は再び生まれた。テレビのスイッチを切ったような音と一緒に、僕はまた、風によって別のところに連れて行かれる。どんなスピードで、どんな方角へ向かっているのか、僕には分からない。ただひとつ言えるのは僕が今いるここは現実的な世界ではないということだった。何かが超越していて、僕はあるきっかけでこの世界に転がり落ちてしまったのだ。遠く下に見える現実の街並みを、窓越しに見下ろしながら、僕はまた、ありえない空間をさまよう。
2007.08.14
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