「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2021.04.24
XML
カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​アンリ・マティスは、モロッコから帰国してオリエンタルなイメージは消え明らかに画風が変わります手書きハート

​​ ​マティス芸術の新時代とは?​ ​​

Henri Matisse

​( 画家の妻の肖像) 1913年​

​『マティス夫人の肖像』​

油彩 カンヴァス 146.ocmx97.7cm

サンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。


1913年秋のサロン・ドートンヌに出品された


​『マティス夫人の肖像』 ​​ について


詩人・評論家:ギョーム・アポリネールは、


​「マティス芸術の新時代を画している」​ と称賛した。


1913年2月 (44歳 )​ モロッコ・タンジュールから戻る。

​​​​
1913年 ​​夏に 第一次世界大戦が勃発 ​​ すると、


故郷の北フランスは・・・


ドイツ軍に占領され、弟は民間人捕虜となった。


ドランやカモアンといった友人たちも出征したが、


すでに40歳を過ぎ、強壮でもなかったマティスは、


出征を望んでも叶わなかった


しかし、彼は民間人捕虜支援のための版画の制作や


戦争被害に関わる支援に進んで応じた。


ベルネーム=ジュヌ画廊でモロッコの絵の展覧会。

ロゾフが「モロッコ三部作」を購入。

アメリカのアーモリー・ショー出品。

パリ、サン=ミシェル河岸にアトリエを借りる。


また戦時中のパリの芸術活動を支えるべく、


サロンが休止している間も、


評価の定まった画家たちだけでなく、


キュビスムをはじめ、


より前衛的な傾向の若い画家たちとも一緒に、


様々な展覧会に積極的に関わり、交流した。


さらに大戦の勃発でドイツ人画商:カーンワイラーが、


フランスを去ったために窮状に陥っていた


画家:ファン・グリスと親しくなり、


キュビスムについての理解を深める事になる。


マティスは、キュヴィスムをそのまま受け入れることはしなかったが


その影響を咀嚼しつつ制作のあり方への意識を深めてゆく。

​​​​

Henri Matisse

The Blue Window 1913

油彩 カンヴァス




​​ 高村光太郎の手紙

高村光太郎(1883年3月13日〜1956年4月2日)は、

1909年に、マティスの「画家のノート」を


雑誌『スパル』に初めて翻訳した。


彼は、1912年、作品写真を入手するため


マティスに直接手紙を出している。


その中で、高村は・・・


「1908年のサロン・ドートンヌの

 展覧会におけるあなたの作品に、

 ヨーロッパの同時代芸術の

 いかなる流派にも

 見出すことができないような、

 何かととても貴重で、

 本質的なものを見出した時代以来、

 あなたの芸術を深く愛しはじめました」


と賛辞を送り、それに対してマティスは・・・


​「大変心を打たれた」​ 返信している。





「勇気ある賞賛」を贈ったことを告げているが、


これは、友人:マシュー・プリチャードの


ボストン美術館での同僚であった


岡倉天心(1863年2月14日〜1913年9月2日)だと

指摘されている。


Henri Matisse
​​『モロッコのカフェ』​ 1913年
(ムーア人のカフェ)

サンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。


(参考資料:東京美術もっと知りたいマティスより)





マティスにぽち にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.04.24 00:10:06
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: