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明日(24日)は生駒聖書学院チャペルで午前10時より天国聖会。知多半島中央キリスト教会より向井芳太郎牧師を迎えて、慰めと希望の天国メッセージ。先生は昨年のイースターに愛する奥様を突然召されました。その痛みと悲しみを乗り越え、神の愛と祝福の中に恵まれた牧師としてご活躍中です。お昼は持ち寄りの天国祝宴もあります。
天の虫けら 第2回 星原中学時代
私は、先生が赴任した年に、星原中学に入学した。本来なら西之表市古田中学が通学区だったが、偏屈者の父が私の知らない間に中種町の星原中学へ入学手続きをしていたのだ。その理由が奮っていた。古田は炭焼きを教えるから、星原へ行けと言う。そのころの古田中学では、図書費やクラブ活動費を捻出するため、生徒たちが炭を焼いてお金を作っていたからだ。しかし何のことはない。後から分かったことだが、漁港をもつ浜津脇から炭を船積みするので、星原の生徒も炭俵を担いで、古田と同じように費用を捻出していたのである。
私には父の勧めを拒むことは出来なかったので、浜の中学まで片道八キロの山道を一人で通うようになった。人と話すのが苦手だから、孤独がうれしかった。山育ちの私が話をすれば、浜の子どもたちとアクセントが違うので笑われる。笑われても平気さと言うほど、勇気もなく、大胆でもなかった。そこで話す時は、できるだけ標準語を話すようにした。しかし、そうするとまた浮き上がってしまう。だから余計に人と話をしなくなった。ただ人生なにが幸いするかは、神様以外だれにも分からない。後に朝日放送でラジオ牧師をするようになった際、訛りが少なく感謝した。神の最善の御手を信頼したい。
当時の星原中学には給食はなく、昼食は弁当だった。浜の子どものおかずは豪快だ。取れ取れの伊勢海老やアワビがある。トッピーなどは常のことだ。昼食時は、お互いに弁当を見せ合い、自慢会のようになる。私はそんな教室を一人そっと抜け出す。「榮、弁当食わんのか」と時折声もかかるが、無視して外へ出る。弁当は裏門の山の中に隠してある。いただきますと食べるのは、決まってサツマイモだけ。喉が詰まるが、飲み物もない。それでも何食わぬ顔で午後の教室に戻る。だれも何を食べたか聞かなかった。貧しさを知る島の少年たちには、それなりの仁義と思いやりがあった。
今から考えると、ものすごくぜいたくな食生活だった。朝はみそ汁と野菜の煮つけにサツマイモ、昼もサツマイモ、夕食は時にはごはんもあるが、最高のごちそうが豆腐だ。白菜、人参、ごぼうにさや豆、ネギにニラにニンニクに、苦瓜、ヘチマにとうがん、ナスにキュウリ、カボチャにジャガイモに里芋、野菜は植えたらいくらでも実る。卵は産み立て、山羊の乳はしぼり立てだ。種子島だから新鮮な魚がいっぱいと思われるかもしれないが、貧しい家で買うことができない。肉も魚も中学生までは、ほとんど食べたことがなかった。
通学は九キロの山道のほとんどを裸足で歩いた。新しい靴を買うことができないので、精一杯の知恵ですり減らないように工夫していたのだ。家での生活は石油ランプのため、ホヤを磨き芯を切るのが、毎日の仕事だった。学校が遅くなれば、磨く暇がなく薄暗い上に、もっとほの暗くなる。「読書の秋」や「灯火親しむ侯」などのことばとは縁もなかった。暗くなると寝る。必然的に夜明けとともに起きるから、朝が早くなる。自然のままで健康的な生活をしていた。その習慣は今も続いている。今朝も4時に目覚めて散歩へ・・・・。
貧しかったが、不思議に豊かさのある家だった。父は頑固者で、サツマイモばかりでも、人に知らせる必要はない、飢えても人の世話にはならないと自負していた。私はただ恥ずかしかったから、裏門の藪の中で一人ひっそりと食べただけだが。
船乗りとして世界を見て来た父は、生活は貧しくても、豊かに生きていた。家の周りの土手には、四季折々の花が咲き、白百合の季節には純白に染まり、香りが満ちた。八キロの道のりを花束片手に、よく通ったものである。果物もミカン、キンカン、ボンタン(ざぼん)、柿に栗、桃や梨まであった。特にミカンはいつもたわわに実り、木に登れば食べ放題だった。
詩篇
主はわたしに言われた。
『あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。
2:8 わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
焼き物の器のように粉々にする。』」
2:10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。
地のさばきづかさたちよ、慎め。
2:11 恐れつつ【主】に仕えよ。
おののきつつ喜べ。
2:12 御子に口づけせよ。
主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。
怒りは、いまにも燃えようとしている。
幸いなことよ。
すべて主に身を避ける人は。