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多くの人が幸せを求めています。
そして、人々は幸せでないのは、お金がないからだ、健康がないからだ、学歴がないからだ、恋人がいないからだ、有人がいないからだ、良い仕事についていないからだと言います。
ある人は、その人は何一つ不足はないのですが、「幸せではありません」と言う方がいます。
多くの人が、今持っているよりももっと多くのものを求め、それがないから自分は幸せでないと思っているようです。
あなたは今日、いかがですか。
聖書は人が幸せでないのは、実は罪を持っているからだと教えています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)
不幸の原因である罪が取り除かれるとき、幸せは川のように流れ込んでくるのです。
罪とはなんでしょうか。
私は教会に行き始めて間がない頃、「あなたは罪人ですよ」と言われて、実に嫌な気持ちになったのを覚えています。
罪、罪人、犯罪人、嫌な言葉ですよね。
しかし、それが人間の現実なのです。
どんなに目をふさいでも、罪は厳然として存在しています。
罪とは、
第一に、犯罪をあげることができます。
法律や人間の道徳に反することを行なうのは罪です。
罪は不法です。
しかし、方も又、絶対的な基準でないことも事実です。
時代とともに、道徳感は移っていきます。
従って、法もまた、それに従うわけです。
第二に、道徳的な罪をあげることができます。
嘘をついたり、ねたみや憎しみの心を持ったり、することです。
どんなに人を憎み、殺したいと思っても、法律ではそれをどうすることもできません。
法は表わされた罪、罪の結果を裁くだけです。
しかし、聖書は人の心の中、その動機を神が裁くと教えています。
汚れた思いや、憎しみ、ねたみ、嘘偽り、人は多くの罪の思いを持っています。
しかし、道徳的な基準もまた、時代とともに移り変わりますと、人間の心、良心は同じことを繰り返すことによってマヒしていくので、これもまた絶対的基準とは言えないのです。
第三に、人間はなぜ罪を持つのかということを考えなければなりません。
あの汚れのない、つぶらな瞳の赤ん坊が幼稚園に行き、小学、中学と進んでい行くうちに、嘘を平気で言い、上手に自分を弁護し、現在社会に見るような現象を作り出していく。
なぜ人は罪を犯し、心に汚れた思いを持つのか、不思議ですね。
実はそれが罪の三番目の意味なのです。
人間が神と断絶しているから罪があるのです。
神と結びついていないから、人は罪の思いに支配され、罪を犯します。
神に支配され、神の思いに満たされるべき人間が、罪に支配され、罪に満たされてしまったのは、神と断絶しているからなのです。
これが罪なのです。
自分中心でわがままな自我が、罪の根となっているのです。
神を認めない心、信じない自分中心の考えこそ罪なのです。
しかし、聖書のすばらしさは、原因を指摘するだけではなくて、それを取り除く方法を示していることです。
イエス・キリストが2000円前、私たちの神への罪、自分への罪、他人への罪を全部身代わりに引き受けて、十字架の上で死んでくださったのです。
だから、どんな罪を持っていても、汚れがあっても、イエス・キリストを信じるとき、赦されて、清められ、新しい人間になることができるのです。
今日、あなたも十字架の血潮のもとに立ち、すべての罪を赦されて、喜びの日々をともに歩もうではありませんか。すばらしい幸せの日々をお祈りします。
「幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪を覆われた人は」(詩篇32:1)